昔の音楽はあまりリズムを重視していなかった
でも音楽で一番重要なのはリズムってことに気づいて
専門職が必要になった
メトロノームでも置いとけばいいのに
警備のロボットでもよさそう
プライドが高く協調性が無い演奏者達を
指揮者という絶対的権力者を置くことでヘイトを集めさせ一致団結させるという発明をした人間は凄い
マジレスだけど近代のナショナリズムの拡がりと相即な関係
クラスレでこおゆうレスすると
なんでか分からないけど拒否反応をよく招く
あげく「聞き専」がどーとかね
知もないけど恥もない
18世紀までってそんなに大編成の楽曲ないやん
あとは劇場みたいなとこでやるようになったからとかじゃね
>>7だけどもうすこしちゃんとレスしようと
本を開いたりしたけど見つからなかった
できたらあとでおぼろげでもぶつくさ書いてみる
とりま指揮者のリハーサルのようつべを以下にいくつか貼ってみる
なに言ってるかわからなくてもなかなかおもしろいと思うよ
カラヤン/ベルリン・フィルのベートーヴェン第九
バーンスタイン/ウィーン・フィルのマーラー5
(タイトルは1とあるけど5が正しい)
さまざまな著名指揮者のリハのドキュメンタリーの紹介
>>2,3,5,9はそれぞれ正しい
俺のレスはそこに音楽の外部からも因果が見えてくるのだと 演奏中の管楽器をケツにブチ込まれたらどんな表情をするかってのを
延々とパフォーマンスしてるこの指揮者が好き。
戦争のありようが総力戦化し、社会に軍事構造が直接的に入り込んだことで
パレードの重みが増し、軍楽の重要性も向上したことの影響じゃないのか
>>14
軍事構造ではなく統治構造…そろそろレスしてみる
今回はかなりまとまりのなさげなレスの予定ですごめ まずいくつかの予備知識やうんちく
もちろん指揮者じたいは
19世紀後半以降のいま俺たちがイメージするのと同じようなのではなくても
それ以前からいた
それから…指揮者よりは知られてないことば
「コンサートマスター(コンマス)」について
ふつうは指揮者から見てすぐ左のいちばん手前
第1ヴァイオリンでもっともうまい人のことを指す
女性だとミストレスだけどそれでもふつうはコンマスと呼ばれる
19世紀前半までは
このコンマスが演奏しながら身振りや視線ともども指揮を振ることが多い
そしてこれは現代でも行われる
小規模のオケ(室内管弦楽団)から少人数の室内楽まで
マーチングバンドの指揮者なんてこの仕事この世に必要なのかよと
幼稚園児が指揮棒振り回しながら疑問に思うレベル。
そして作曲者みずから振る
これも昔も今も
例えばベートーヴェンは
5(運命)と6(田園)の同日初演で指揮してる
役割の変化としては
そもそも昔は「メトロノーム」であればよかった
コンマスもある意味ではメトロノーム的な存在
それがやがて音楽の特権から市民化
市民階級(ブルジョア)に伴って
コンサートとその多様化が拡がる
そのとき
古今のさまざまな音楽を「解釈」できる存在が必要となる
「解釈」においては作曲者は特権的だけど
古(いにしえ)の作曲家は没していて「解釈」を頼むに頼めない
そこで指揮が独立化、専門化しはじめる
その嚆矢のひとりは作曲家としてもよく知られるメンデルスゾーン
ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団で長く指揮を取った
そして19世紀末から20世紀初頭…「マーラー」「大編成」の時代
いよいよ専門的職業指揮者がオケを「支配」する
(ちなマーラーも指揮者としても有名)
「支配/者」…すなわち「統治」
>>21
俺っちいまでも聞くよ…それこそメンデルスゾーンにマーラーに
女にまつわるエピソードもいろいろやね そろそろ音楽内部ではなく外部の話に…そのまえにちと休憩
そのまえにメンデルスゾーンとマーラーを
クレンペラーから貼りましょうか
休憩のあとね
>>25
クレンペラーのブル5は最後まで超インテンポの猟奇演奏で脳梗塞になりそうw
なんつーかカフカの城を読んだ時のような(?)
いつもの彼の流儀だろうけどあれは精神的にキツいわ 戻ったけどクレソつべのまえに…コンマスと「民主的」について
コンマスは楽団員と指揮者のあいだにあって
いわば「民主的」な「代表representative」の役割を果たす
指揮者が「代表」を超えて「支配者」となる過程は
寝落ちしなければこれからレスを試みるつもりだけど
ただし「民主的」に選ばれる指揮者ももちろんある
有名なのはベルリン・フィル…昨年だったかおととしだったか
楽団員による投票を経てキリル・ペトレンコが新たに首席指揮者に就いた
--
以下、ベルリン・フィルにまつわる余談
K.ペトレンコ←ラトル←アバド…ここまでは楽団員の投票制
アバド以前のカラヤン←フルトヴェングラーはたしか違うはず
アバドが選ばれたときはひと悶着あって
そもそもはマゼールという指揮者が選ばれると本人さえ公言していた
ところが選ばれなかったことで赤っ恥かかされたと感じたマゼール
しばらくベルリン・フィルとの共演を拒否した
「民主的」なエピソードやね
さて
メンデルスゾーンの劇付随音楽「真夏の夜の夢」(✕淫夢)op.61
(オットー・クレンペラーconductor/バイエルン放送交響楽団+合唱団/
エディット・マティスsoprano/ブリギッテ・ファスベンダーmezzo-soprano)
誰でも絶対に知ってる「結婚行進曲」38:47- マーラーの交響曲第9番
(オットー・クレンペラーcond/ニュー・フィルハーモニア・管弦楽団)
マーラーもクレンペラーもユダヤ系
(ちな>>10のバーンスタインも)
クレンペラーにとってもバーンスタインにとっても
マーラーは特別だった
どーでもいいけどちな俺はマラにがて…2時 ああ
これも昔も今もある指揮のかたち…「弾き振り」
つまり演奏者みずから指揮する
コンマス指揮もまあ弾き振りだけど
ふつうは今は弾き振りといえばソリストが指揮も兼ねてるばあい
俺の好きな弾き振りを貼っとく
ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調
(レナード・バーンスタインpiano&cond/フランス国立管弦楽団)
最終第3楽章プレスト(急速に)19:40-をまず聞こう
バンスタの超絶技巧ともども楽しげなようすに
聞く側もたまらず楽しくなれるなんとすばらしいライヴ
そして20:07からはなんと
「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ」じゃないか なかなか音楽の外へと行かなかったけど
以下なんとか外へのレスを試みる
よく考えてみると
音楽が「大編成」化「マーラー」化したからといって
それがすなわち専門独立指揮者を用意するとは限らない
というのも
これもクラシック界ではよく耳にするエピソードなのだけど
名門ウィーン・フィルなどでは時に楽団員が指揮者を試す
おまえになんでも付いていくとは思うなよと言わんばかりに
リズムやピッチ(音高)をわざとズラしにかかる
(ちなウィーン・フィルはそもそもピッチが他のオケよりやや高い)
つまり指揮者は信頼されてなければ
そもそも「支配」「統治」することがかなわない
俺ははじめの>>7レスにて「近代のナショナリズム」と書いた
近代のナショナリズムとは直訳すれば「国民国家主義」
ただの「国家主義」ではない…「国民=国家Nation=State」主義
ただの「国」「民」と違う
ネーションなステートとはなにか ( ゚Д゚)「自分は全く知りませんが、ファーストほげほげさんが居て、指示するんですよ」
(; ・`д・´)「でも、どんどん大編成になっていった」
( ゚Д゚)「大劇場ができてそこのピットとやらで弾くからだろ」
(; ・`д・´)「つまり音楽監督さんなんだろ」
さて
作曲者はもちろん「特権」だ
つまり王だ、ことによると神だ
またコンマスはわれらがボスだ
あんたが大将、おれたちゃあんたに付いていきますぜ
ところが専門的で独立した指揮者のばあい
はぁ?おまえ誰だよ
おまえがクリエイトしたわけでもなければ
おまえが俺らといっしょにプレイするわけでもない
なにさまなんだよ、あぁん?
つまり言いたいのは
「支配」「統治」するにも「技術」がいる
需要や必要がそのまま技術を生み出すわけではない
ところで
現代ジャップの困難について
ここ嫌儲のモメンの多数派が取りこぼしていることがある
安倍も菅も
こいつらが神でもなければ大将でもないことぐらい
どんなネトウヨでも日本会議支持者でも知っている
更にはナルヒトでさえ
しかしそれでも現実としては
奴らが「支配」し「統治」している
ちょっとでも知性のある人間ならば
それが無意味であることは誰でも知っているが
しかし現実にはそれは意味をなしている
貨幣のように(マルクス)
これを「冷笑系」などといって
その無意味さをエモーショナルに訴えてもことは変わらない
つまり批判とならない
マルクスの表現が思い出せない…「知っている、でもやる」的なやつ
つまりよく分からないあいてが
それでも私たちを治めるに値する存在であること
治めるに正当性のある存在であることを
たとえ被統治者の側でもさらには統治者の側でも
自覚的には意識されていなくても
それが当然であることのように思わせる「技術」が要るわけだ
こうなってくると
音楽業界の内部で完結する話ではなくなってくる
くぼう(公方)さまを見ると目が潰れる
てんし(天子)さまは目に見えない
公方とは将軍のことで天子とは天皇のこと
勘違いしてはいけないのは
天皇に文句なしの「支配」「統治」の力があったわけではないこと
よく考えてみろ
なんで伊藤健太郎や竹内結子や三浦春馬や岡村隆史や嵐やSMAPや
そういった「芸能人」の言動や行動が
かれらを語る者たちに
自分にも相手にも有意味であると思わせしめているのか
同じことが天皇や皇族にもあてはまり
そして更には「代表」として選挙された政治家たちについてさえあてはまる
だって
選挙されてはいるが誰もが奴らが
「代表」などしていないことを知っているのだから
なんの権利があって解釈し俺たちに支持するのだ
こういったことがしかし現代では
あまりにもあたりまえになっていて
疑問を呈することさえ知的な労力が要る
そのときナショナリズムの分析が役に立つ
カントやフロイトとともに
指揮者のいないオーケストラ
この方が素朴で良いと思うのは俺だけか
>>54
これも決して「素朴」ではない
おっぱいの谷間見せてるvnかチェンバロかが指揮を取ってる 指揮を取ってるは言い過ぎだとしても
事実上指揮の役割を果たしてる
カント、マルクス、フロイト…そして指揮者
これら19世紀的な存在にはもちろん
たとえ無理矢理と言われようと共通点がある
18世紀あたりまでは新曲が出てたので作曲者が一番偉かった
そのあとは、あまり新作が出なくなってきたのと、指揮者によるアレンジによって新鮮さを出したり
それを聞き分けたりすることに価値が置かれるようになった
要するに同じ曲を繰り返すわけだから、その違いを生み出せるのが指揮者しかいなくなったってことじゃないのかな
んじゃないか
またフーコーも必要されるはずだが
しかしこうして書いているあいだに
ワインをボトル1本空けたのだ
つまり問題は楽団員の主観的な信頼などではない
「支配者」たる指揮者を必要とせしめるのは
音楽の外部からの「支配」「統治」すなわち「政治」の「技術」
この点の19世紀に特異な変容から(も)語らなければならぬ
予備知識あるものと前提する
カントの「物自体」
マルクスの「一般的等価物」としての「貨幣」
フロイトの「超自我(スーパーエゴ)」
そしてベートーヴェン(シラー)の「歓びの歌」
これらに共通するのは
人間は「統整的」(カント)な理念を必要とすること
そしてしかしそれは具体的実体的にそれとは指し示しえないこと
仮に指し示してしまったとしたらそれは例外なく虚偽であること
忘れてた
フーコーの「パノプティコン」
詳細はググってほしい
つまり
見えるはずのないものが
それでも見えているかのように扱われ
その見えているかのように扱われる存在によって
見ている側がやがて支配/統治され
またその支配/統治を是、正当とする
このとき
マルクスの「貨幣」やフーコーの「パノプティコン」は端的に虚偽だ
カントやベートーヴェンが素晴らしいのは
かれらは〈それ〉は必要だが決して実体化できないことを知っていたから
〈それ〉を実体化してしまったのが
哲学ならフィヒテやヘーゲル
音楽ならシューマンやワーグナー
ドイップほんとタチ悪いやね…もうお気付きのことと思うが
その虚偽の実体が
ジャップにおいては「天皇」なわけだ
>>1
18世紀までは棒振れれば誰でも良かった
現代では指揮法などの小難しい技術と知識と優れた耳が必要に成って来た ちょっと余談
>>7に対して>>8がレスされたけど
この「聞き専」ということば
知らない人のために説明すると
弾けもしない、演奏できもしないクセに
音楽を語るんじゃないという揶揄のこもった表現 いちおここで自分語りをすると
俺はピアノ習ってたし楽譜も基本レベルで読める
しかし俺はクラスレで
決して自分からはそおいったことを語ることはない
>>72
むしろカラオケだいきらい
ちなカラオケは「空のオーケストラ」の略よん >>74
何故カラオケ、、、
イタリア歌曲とかは? 中公新書の岡田暁生「西洋音楽史」の末尾に書いてあること
音楽は誰もが自由に語ってよい
弾ける弾けないにかかわらず自由に
むしろそこからしか音楽は始まらない
「弾き専」なんておぞましい表現
ジャップからしか生まれ得ない
話を戻そう
つまり指揮者を正当な解釈者とみなす根拠は
実のところは極めて脆弱なの
しかし脆弱なはずなのに成立できているとするなら
そこには前近代のマキャヴェリが見つめていたのと同じ意味での
「支配」「統治」の「技術」が関わっている
なんで関東民の俺が
九州の豪雨や東北の災害を心配するのが
あたりまえのように思われてるの
そもそもジャップ、日本ってなによ
ナルヒト、てめえは俺のなんなのさ
港のヨーコ、ヨーコハマ、ヨコスカー♪
>>82
そこに哲学の出てこないのがもうジャップやね 伊藤健太郎でもフクイチでも
なんでそれらが自分に関わってるのか
意外と自明ではないのよ…指揮者の存在のように
誰でもやれんじゃねーの?って思うけど
それまでの準備が大変なんだろうという納得のさせ方
でも本番は素人以外誰でも良さそう
高尚な理由で伸びてるのかな?と思って覗いたらただのキチガイスレだった
>>87
俺のレス読んだ?けっこう高尚だよ?
しっかし
なんでどいつもこいつも「キチガイ」呼ばわりで溜飲下げちゃうんだろ >>88
うん、だから準備大変なんだろ
そこがなきゃ成り立たない 「キチガイ」呼ばわりする奴と同じ程度に存在するのが
楽譜をそのまま弾いてりゃいいぢゃん派
かれらは楽譜の成り立ちがそも分かってない
アレグロをアレグロで弾かなきゃいけないわけじゃない
独裁者カラヤンも結局ベルリン市公務員ベルリンフィルから切られたってオチ
カラヤンは馬鹿じゃないから分かった上でWINWINの関係を築いてきたんだろうけど最後は増長し過ぎたな
>>90
そやね…かなーり酔ってるので読み間違いはご容赦を レス番100までが限界だ
作曲者でさえ楽譜にすべてを書き込むことは出来ないのだ
でも民主派(?)アバドの仕事も嫌いじゃ無い
彼の人格素のままの音楽だと思うし楽天的で何が悪いの?
確かにロンドン響のほうが相性は良かったけど(ラトルも)
ショパンの「舟歌Barcarolle」嬰ヘ長調op.60
(クリスティアン・ツィメルマンp)
ショパンにおいては「ルバート」…つまり
テンポを奏者の責任において揺らすことがなにより欠かせない
ショパンを楽譜の指示どおりに弾いたとしたら
それこそ無残な結果に陥る まとめよう
指揮者も楽譜も自明じゃない
音楽は「統整的理念」として演じられなければならない
ベートーヴェンはそのことを分かり切っていた
しかしナショナリズムと指揮者との関係の詳細を
細かく語ることはできなかった
許してくれ…飲んだしもうそろそろだめ
>>96
同意感謝
ところでツィメルマンの協奏曲弾き振り盤はどうなんだろう?
鍵盤の貴公子と呼ばれた彼が指揮ともどもやりたい放題やり尽くした演奏で
意気込みは賞賛したいけど普段聴きたいのかというと・・・
やっぱオケンモメンは頼りになるわ
だいたいわかった ガイジが居着いてしまったからしばらくクラスレやめよう
一人で演説するのが居つくとシラケるよな・・何十連投も
なぜ奴らはツイッターやブログでやれることを5ちゃんでやってしまうのか
プロコフィエフとバルトークが好きなワイ
すでにスレが死んでいるみたいだから傍観するわ
いちいち読む気にもならないが
音楽を嗜むこととはなんら関係ない蘊蓄を垂れ流しているだけだな
恐らく音楽史でも専攻していたんだろうけど
そんな知識は学会で話せばいい
一般人からしたらノイズに過ぎない
更に言うなら
権威主義の権化とも言うか
歪んだ選民思想が見える
ID:3cgMU+l20HLWN
は否定するだろうが、周りにはそう見える
だからクラシック音楽は忌み嫌われるのだよ
分かるかね?
>>107
ワイ音大出身だから分かるけど、明らかに素人だぞこいつ
wikiで調べただけなんだろうなって感じで知識の穴が多すぎ