日田市で出土した弥生時代後期の貴重な鉄製の鏡に関するシンポジウムが市内で開かれ、専門家から邪馬台国との関係を指摘する意見などが出されました。
この鏡は、日本で唯一金と銀を埋め込む「象眼」という装飾が施された貴重なもので、国の重要文化財にも指定されています。
シンポジウムでは、元産業能率大学教授の安本美典さんが「当時の中国の状況などを照らし合わせると、
この鏡が邪馬台国や卑弥呼と関連のある物だと言って差し支えないと思う」と指摘しました。
また、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の発掘に取り組んだ、
佐賀城本丸歴史館の七田忠昭館長は「この豪華な鉄鏡から、当時日田に高度な文化が根付いていたことがうかがえる」と述べました。
会場には、全国の考古学の愛好家などおよそ80人が訪れ、熱心に話に聞き入っていました。
この催しは、22日まで開かれ、日田市内の遺跡を巡るツアーや講演会などが行われます。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/oita/20181120/5070002480.html 関西の考古学者は関西だと言い九州の考古学者は九州だと言う
くだらない争い
地理的に有り得るのかな
中国と近いし暖かくて土人でも過ごしやすかっただろうし
もう九州派は勝手にやっとけよ
もう近畿だと決まっているのに今更場所を論争して何の生産性があるんだ?
ゴッドハンドのせいでこいつら全員嘘つきにしかみえん
< `∀´> これは安倍ぴょんの捏造ニダ!邪馬台国は畿内にあったニダ!
「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読む奴は馬鹿。
「邪馬台国」は中国の史書に出てきた単語。
だから中国語で読むのが当然。
中国語としてこれを「ヤマタイコク」と読む根拠は無い。
こんな基本事実をいつまで無視してたジャップのバカぶりは無限大w
ちなみに近い隋や唐の時代の音だと「ザマダイ」か「ジャマダイ」などとされる。
この程度のことはその辺の漢和辞典にもついてる。
言っとくがジャップが勝手に「漢音」w なんて呼んでるものは
何の根拠にもならんからな。
だから「邪馬台国」という名前を勝手にジャップ語で
「ヤマタイコク」と呼んで、
ヤマトに似てるから「邪馬台国」は畿内に違いない!
とか言ってる奴は白痴オブ白痴の大馬鹿野郎。
卑弥呼
永遠に馬鹿なジャップは例によって、
「卑弥呼」を勝手に「ひみこ」と読んで知らん顔。
しかし言うまでもなく「卑弥呼」は中国の史書に出てきた単語。
当然当時の中国語を基準とした読み方をすべき。
幾つかの可能性があるんだが、その中の一つは、
「ぴみは」 ないし 「ぴみか」
になる。
勝手に「ひみこ」を正当な読み方いみたいに
してんじゃねーぞ、糞ジャップ
日帝ジャップは馬鹿だから
「ジャップは太古の昔から天皇に統一的に支配されていた」
という妄想を維持したい。
しかし、中国の史書の卑弥呼の記述は、
明らかにそれを否定している。
だから、ジャップは「邪馬台国は近畿にあった」
という妄説を主張して、自分たちの信仰を守ろうと悪あがきをする。
その悪あがきを鑑賞して馬鹿にするのが、
5chの邪馬台国スレの楽しみかたw
ヤマタイが転じてオオイタになったのは県民の常識だからな
一種の利権ビジネスなのよね
学問的にはさすがに証拠が出そろった感あるからもう決着ついていてもおかしくないんだけど
どう考えても九州やろ
近畿説は歪んだ結論ありきのゴミ 馬鹿しか唱えてない
>>8
郷土愛で真実が曇るようなシロモノは学問じゃねーな >>23
お金もらえないからね
どこの誰がお金配ってんだろう 魏志倭人伝でも「邪馬台国に行きたいけどゆふいんの森の指定席が取れない「って愚痴ってたしな
大分だからなんだっていうんだよ
今はクソほど寂れたお荷物ゴミ県じゃん死ねよ
>>20
考古学ブームと予算のために決着つけないようにしてるだけだからな 邪馬台国かどうかは不明だけど当時の最高級素材を集めて作られてるし相当な国力だったのは確かだろう
根拠は私の感想
みたいな奴が何で学者面できてるのこの業界
邪魔大王国なら阿蘇の地下洞窟にあるぞ
鋼鉄ジーグが言ってた
「とっくの昔に関西説で結論は出てる」
「学者はみんな関西説」
定番の工作員のウソ
>>8
そう単純なもんでもないだろ
これ江戸時代からやってるし 昔に出土した鏡、それも本当に九州から出土したのかも相当怪しい鏡について、
得体のしれないガチFラン大(調べたら2学部しかなくどちらも入試偏差値40台の真性のゴミ)の教授やってたおっさんがなんか言ってるだけ
そりゃ大陸から渡ってきたんだからどうみたって一番近い九州大陸に決まってんだろ
完全素人で原文読んだけど地名からして九州じゃないの?
短い距離ごとに記載してるのにいきなりぶっ飛ぶなんてあり得るの >>33
本が売れたり、突拍子もないこというやつの話題性が出てきて発掘予算がおりやすくなる 卑弥呼が眠ると言われる高崎山古墳
>>25
二百年ぐらい論争してるし
ずっと決着つかない気がする 宮内庁が発掘許可出さないせいで永遠に決着しないんだよね
よほど都合が悪いようだな
義歯倭人伝にある行き方だと大分としか思えないんだよな
近畿派は邪馬台国=大和政権=天皇家にしておきたいだけのこじつけなんだよなぁ
>>48
ジャップの歴史が全部捏造ってバレるからか、惨めすぎるな 個人的には九州説支持だが九州在住の学者でも魏志倭人伝に見あう遺構が九州に無いことから近畿説を唱えていたりするんだよな
中国や中東、ヨーロッパが3000年以上も前の明確な記録が残っているのに
なんでジャップは残せなかったんだろうな
みすぼらしい会見場だな パンチカーペットぐらい敷けや
>>8
一部の大阪人って卑屈すぎだろ
当たり屋並の被害妄想じゃねーか
こいつらが出しゃばるとヘイトまみれになる 大陸の近くだから交流があって魏の記録に残ってるというシンプルな話だろ
奴国が金印の志賀島からしてきうしうだし熊襲の近さからして卑弥呼は祈雨し雨だよなあ
>>63
何言ってんだこのキチガイ 殺してやろうか またただの道中で落し物が根拠ですか
大規模都市郡の痕跡はどこに?
>>14
邪馬台国は中国古音だとヤマドゥなんだよ
ちなみに邪馬台国をやまたいこくと読んだのは森居宣長ていう江戸時代の学者が始まり アメリカのユタ州だろ
ヒントはケント・デリカットのメガネ
【悲報】宮崎さん、アイデンティティを大分に奪われる
>>73
天皇っていう概念自体は平安末期に成立したカルト
神道と神社自体は後漢時代の入植者が作った治水後の定礎みたいなもの
とっくに結論自体は昔からある とりあえず大仙陵古墳のは発掘調査するまで双方黙っとけ
邪馬台国ってやまとに漢字あてただけなんでしょ
大和国にあったんじゃないんか
>>73
14か15代目くらいの天皇かな
文字も無かったけど >>1
> 弥生時代後期
これさ、出土状態が確認できないんで
弥生時代中期というひともいれば後期という人もいるし
どうとでもたら得ることが可能
ただ大陸で発掘されているものや文献から
魏の時代に似たようなモノが認められるため
それが魏志倭人伝との関連で卑弥呼が連想できる程度のもの
とはいえ古墳文化の銅鏡以前の鏡としてよいので
これは大陸や半島との重要な文化交流の証拠となる
それが日田、つまりは福岡平野を南に抜けて筑後川から東にまがった先、
もしくは現在の宗像から南東に下り行橋あたりにクニがあったとしたら
そこからさらに西の山側に入った日田に、
弥生時代中期から後期にかけてなんらかのクニそれも
出土品から考えてかなり重要な地域があったと推測するのは十分にありとなる 現代でも大分に行くのは大変なのに、こんな時代に大分に国作る意味がわからん
>>77
夷狄が東北で薩摩が熊襲
征夷大将軍は坂上田村麻呂で清水寺とか知ってるかもだが何で熊襲は征討しないんだろうw 文字資料がないので憶測の域を出ない
せいぜい応神天皇あたりからだろ
九州な訳ないだろ。
大阪河内平野から奈良県付近で確定。
ハイハイ、この話はもうおしまい!
>>86
船の時代には大分は割と便利なとこだったんだろうと思う
別府温泉にしても工業にしても、船を前提にして発展したしな >>73
ウンコで日本列島作ってから
疲れて爆睡してた 邪馬台国はジャバタイコクと呼び、つまりジャワ島だと言う珍説もあったな
九州説が正しいと思うけどな
魏に使節遅れるのは楽浪郡ルートなら九州北部から出発したんだろうし
首都の位置で揉めてるくらいで九州自体は確定でしょ
大分が不便てのは東京とかへのアクセスが至上命題の現代の感覚でしょ
原始人からしたら瀬戸内海に面した住みよい場所だろう
>>48
聖遺物も科学的な分析がなされてるんだから天皇家についても調査してほしいな
明治天皇とか南北朝あたりの皇統の詳細も >>93
そいつチョンのウリナラファンタジーで発狂してるだけだぞ >>81
倭国も「ヤマトのクニ」と読む
古墳時代まではヤマト王権でも対外的には倭国を使っていた
漢委奴国王印つまり金印は
倭国にある奴国の印鑑
すなわち魏志倭人伝の邪馬台国も倭国の一つとするのが一般的
そもそもヤマト王権は卑弥呼の時代でもそのあとの倭の五王の時代でも
成立していたか疑わしく
古墳時代に入ってやっとこさヤマト王権できたかな?とするのが正しい チョンくんさあ
安倍見ててどう思う?
嘘はいかんな
この間発見された北九州の上半身だけが発達してる弥生人の骨とか
想像してた邪馬台国の海洋民族像に当てはまるもんな
, - ―‐ - 、
/ \
/ ∧ ∧ , ヽ
./ l\:/- ∨ -∨、! , ', さあみんな集まってー!
/ ハ.|/ ∨|,、ヘ 畿内vs九州のレスバトルがはじまるよー!!
|ヽ' ヽ ● ● ノ! l
. 〈「!ヽハ._ __ _.lノ |
く´ \.) ヽ. ノ (.ノ  ̄
\ `'ー-、 ___,_ - '´
` - 、 ||V V|| \
| || || l\
邪馬台国までの行程。
単位が里から途中で「水行」「陸行」になるんだどその意味が分からない勉強不足の奴は黙ってろ。
鉄鏡?
銅鏡でなくて?
サビて朽ちずにどこにあった?
ん~ いつの時代のもんや?
邪馬台国と書いてヤメテコと呼び、
ヤメテコ→メテコ→メンテコ→メンタイコと変わっていき、
これが現在の明太子の語源となりました。
本居宣長で面白いのは
福岡空港の南西にある「宇美」を
魏志倭人伝の不弥国としているトコかな
ちなみにこの宇美を「産む」と捕らえると
妊娠中なのに死んだ旦那に変わって三韓征伐を行った神功皇后が
帰ってきて子供を生んだ「宇美」となる
で、この神功皇后を卑弥呼の娘である台与とする説もある
>>104
そうなんや
じゃ現物の金印が見つかってる九州にあった倭国が邪馬台国だろうって事か 九州説に無理があるのは
その後の日本の中心が突然近畿地方になっちゃう点だよな
文字や馬を持たないクニが
どうやって遠方のクニを従えてたかが謎だわ
普通無理
当時の華南の読みだとヤマドだぞ
ザマとかジャマとかは全くのデタラメ
>>120
は?それどこぞの安倍が指示した教科書やないの? いつも思うんだが古代日本って文字なくてどういう風に統治してたんだよ
狭いからみんな顔見知りの知り合いだったんか?
朝鮮から技術入れてて有馬焼きな磁器は佐賀にある
萩焼きは陶器で温度を感じさせない
>>119
いや
その倭国ってのが厄介で、
大陸視点だと文献では半島の南部から列島にかけて「倭」としたり「倭人」としたり
半島視点でも高句麗は半島南部から列島まで倭人が倭人がと倭扱いしているんで
弥生時代までの倭国の範囲とは朝鮮半島南部から日本列島までと
非常に幅広いし文献によっても変わってくる
だから邪馬台国を朝鮮半島の南に位置づけることも可能だし
九州北部や九州中部九州南部の宮崎
それに近畿までならなんかでたらどこでも「ウチが邪馬台国」といえるのが実際のところで
これはもちろん文字での資料があまりにも少なすぎるのと
発掘されるモノに文字が書かれていないことが殆どでなんの説明もされていないため
あ>>1には珍しく文字があるんだ
これは後の銅鏡には殆ど見られない特徴で
きわめて珍しいもの >>128
結縄という縄の結び目で計算や情報の伝達してたんだよ
ユーラシア大陸や中南米の古代文明はみんなこれを使ってた
中国は先に文字を発明して移行したけどね 畿内説の連中が出てきたら
狗奴国はどこよ?
と書き込めばいい。
誰一人まともに答えられないから。
畿内説では一応熊野ってことになってるらしいんだが、
熊野から奈良平野に攻め込むなんて現代の陸上部隊でも難しい。
大陸の人間か海を渡って日本にやってきて、いきなり近畿に行くか?九州あたりで普通に国作るよな
>>131
じゃ逆に何があればここが邪馬台国と言えるの?
何が出てもはっきりこことはならんのかな ヤマトと邪馬台国に接点が無さすぎる
何も引き継いでないのに語呂合わせ一本で後継とかバカじゃねーの近畿
もうさこれがあったあれがあったとか外堀の戦いしても終わんねえから
墓探したほうがはやくね
>>14
個人的にジャマトゥもしくはジマトゥ辺りだと思ってる
なお「日本」の語源(ジモト、ヒモト)で、ヤマトの語源だとも思っている
邪馬台とヤマトの音韻上の類似は無視できないよ
j音はy音と関連性が高く、h音にも変化しやすい(ジャパン(英)、ヤーパン(独)、ハポン(西))
同様にoとaもよく転換する(ジャパン、ジャポン) 江戸が西から侵略されて居座られて東京になったみたいに
奈良も西から侵略されて居座られて都になったのかもな
熊本も熊襲っぽいが凄く自然に恵まれた強い土地だと思う火の国
熊襲は鹿児島と思うが
俺の感想じゃ~邪馬台国は阿蘇w
2000~2500年前に新モンゴロイドの大和(天孫)系民族が中国南部または
朝鮮半島の西側百済を経て九州に移住してきた
彼らは出雲系より優れた稲作を行い優れた鉄器を持って来た
出雲族が丹波篠山に移り住んできた500~1000年後に大和系の物部氏が丹波の篠山に移り住んできて
出雲系民族との争いが続いた
現在でも篠山の西半分は出雲系の東半分は大和系の民族の子孫が住み互いに反目している
その北半分は出雲系の南半分は大和系の神々を祀っている
新井白石は邪馬台国を山門として
筑後国山門郡にあったとしてる
九州説ではこれが一番古くて
おもしろいのはこの山門にあたる瀬高町にあるへんな遺跡w
ここ堤の巨石古墳群っていって
田んぼの真ん中の集落に大きな石が点在している遺跡で
集落にはなんかを守ってきたような話が残っている
火山が噴火してドーン卑弥呼様の力じゃとか言いながら逆らうと噴火させるぞ?とか
壱与もやってやるです!とかw
最初に移り住んだのが九州
そこから物部氏が丹波の篠山に移り住んだが正解
>>135
対馬から先は博多より下関狙ったほうが上手く着けるからな >>131
実際、朝鮮と日本はひとつの国だったんじゃねーの
国って概念はなかっただろうけど同じ統治下の同じ文化圏だったと 任那やはくすきのえとかあるから
安倍やチョンくんの改竄で変わるかもなあ
いいや違った
元々別の一団だったんだよな
大和系は大和系だが後から丹波篠山に来たのが物部氏というわけだ
ここが卑弥呼の墓でしたーって墓誌でも出ない限り邪馬台国の場所はわからないしそんな墓誌が出る可能性はゼロだから
未来永劫邪馬台国の場所は分からず仕舞い
>>136
卑弥呼についての文献は魏志倭人伝と
半島の碑石の記述ぐらいなんで
考古学的には発掘したものをこれそうなんじゃねと仮説として乱発するだけ
もちろんもんのすごい遺跡、
たとえば本当は吉野ヶ里よりも規模がでかくて時期も三世紀後半で
卑弥呼の時代にマッチする纒向古墳群も
規模がすごいし発掘されるものもすごいからといっても
それを卑弥呼の邪馬台国とするのはやっぱり仮説の範囲でしかない
また、
魏志倭人伝ではその行程が書かれているけど
これを当時の大陸の尺度で計算しても
今の中国の尺度で計算しても
最後のあたりでどこを示しているのかワケがわからなくなる
魏志倭人伝の桃の記述をもってきて
ホラ桃の種がこんなに出たから邪馬台国といわれても
桃の種はしゃべらないからね
つまるところこれわかんないのさ
だからもっとその時代の文献が中国や半島の遺跡から発掘されたり
日本列島は文字がなかったといっても持ち込まれたものになんか書いてあればね で、送った人と貰った人の証言はとれたのか?
邪馬台国だとか卑弥呼だとかどっかの酔っ払いが適当に書き残したんじゃね
>>141
あー
コレは実際に古い地名なんだよなぁ >>146
なぜ篠山?
しかも既に出雲系がいたんだろ?
確かにその辺りは広大な丹波と摂津との旧国境だが、
わざわざ篠山じゃなくても海沿いの摂津や河内にいけばいいと思うけど
実際行ってるしさ物部氏 >>148
オレの想像では
弥生時代に日本列島に渡る移民と何らかの形で
接点を持ち続けたのが朝鮮半島南部だというのはもう間違いないので、
大陸から半島南部にたどり着いた戦争難民や流刑者たちを
列島を開拓する開拓者として送り込み続けた拠点が半島南部にあり
ここが弥生時代における列島と大陸との関係を維持する役割を続けていたと
考えている
で、列島に送られた移民を戦争の難民や流刑者主体とするのは
半島で文字が使用されるようになっても何百年も列島には文字文化が伝播しなかったため
これはやっぱり半島南部がずっと列島の「管理者」だったからだと考えている
それが何百年も繰り返されていくうちに
もちろん列島の縄文文化は完全に淘汰され
渡来人が列島を支配しクニを形成するにいたったと
そしたらもちろんこいつらは難民や流刑者なんだからもといた自分たちの
土地に帰りたがるのは当たり前
その結果として起きたのが三韓征伐ではなかったのかと
で、その時代の支配者の一人が卑弥呼だったのではと考えています 宇佐神宮を発掘調査しろよ
それで答えが出るはずだよ
>>163
あれ?
そうだっけ?
まあそのあたりは適当w
おれの脳内地図 >>159
舟に乗ってきたと思う
すでに日本にも住んでる人もいただろうけど
南洋諸島もそうやって行った人かもしれない
アメリカ人に支配されるけどw >>166
もちろん
使われたのは丸木舟
そのあたりの証拠は鳥取の遺跡やらからも出ているよ
丸木舟の模型だけどね
あと、対馬を中心に半島と列島は目視でずっと確認可能なのもあるし
半島からの海流は鳥取島根あたりに時速7キロのペースで漂着物を運んでしまう
この時代の海路とは予想以上に半島と列島を結び付けていたとしてよい まあ、普通に考えて九州だわな
畿内だったらもっと決定的な証拠だったり記録が残ってるはず
アメリカ大陸に住むうじ虫どもの額に米て焼印してぶち殺そう
w
何故大和系が一つだけだと思う?
その思い込みこそが罠だよ
まるで神武天皇が一人だと言っているようなものだ
それぞれの場所に大和系が築いた国があっただけだよ
だからどちらの言っていることも正しくて間違っている
>>142
熊本の地図見てたら山都町(やまとちょう)ってもろに大和臭わせる町名があって一瞬びびったけど
最近付けられた名前だった 卑弥呼ってのは女王なだけではなくシャーマンだったのだよ
力が強いシャーマンは永大に渡り何かしらが残ってる
女性の祭神しとるとこ皆がそうや
伊勢神宮・宇佐神宮
伊勢神宮が卑弥呼、宇佐神宮が卑弥呼の娘の台与
特に大分の宇佐神宮は、昔から皇族が御神託を求める場合に通ってきたシャーマンの神社
秦一族(ユダヤ系)を匿った応神天皇と合祀されてるのも面白い話でヤマト政権の力が及んでたのは間違いない
ヤマトは確かに畿内にあったんだろ?
でも力の強い台与の国 、つまり邪馬台国はヤマトの政を脱した大分県の北部にあった
>>48
モリカケとかと同じで目の前にあるのに調べないんだから偽物だって自分から言ってるようなもんだよな ただ、中国の文献にある邪馬台国がどちらかということなら
最初に来た一団である九州の方だろう
だからと言ってこちらが主流かと言うと違う
つまり現在の皇統と繋がっているのは後から来た一団の方だと思われるな
ゴッドハンドで邪馬台国この先2kmみたいな看板埋めちゃえよ卑弥呼のゆるキャラでもつけとけ
これで手を打とうじゃないか
どちらの顔も立てつつある意味では痛み分けとも言える
ついでに
半島からやってきた渡来人たちが身分の低いモノたちであったとする
証拠として箸の文化がある
これ半島では紀元前から貴族は箸と匙で飯を食っていた
それが列島で貴族が箸を使い始めたのは
飛鳥時代から
数百年ものタイムラグが発生している
そのかわり面白いのが
日本には箸が伝わったのは遅いけど
匙つまりはスプーンの文化だけが先行して弥生時代に伝播している
卑弥呼は魏志倭人伝では手づかみとなっているけど
スプーンは弥生時代後期の遺跡から出てきているんだ
これってさ、やっぱ匙はバカでも使えるけど
箸は教育されないと無理じゃんか?
つまり列島にやってきた渡来人の主体はアホとか身分の低いやつだけだったという証拠だろうと
まともな渡来人がやってき始めたのは列島が卑弥呼以降に
すこしはまともになってきてからじゃないのかと
白村江以前のヤマトと朝鮮諸王朝は相争ってる連合王国みたいなもんだから
現代の国家観で語る事自体が狂ってるよ
西欧が日本よりマシだと誰がいいだすのか
日本人殺して楽しむ国が
じゃあ飛鳥時代以降の九州てどんな感じやったん?
それなりに栄えてたん?
アメリカ人殺すしか仕方なかったと笑いながらアメリカ人殺したい
だいたいまとめるとこんな感じ
邪馬台国は地名モロだと
福岡県の旧山門群
現在の瀬高町あたり
魏志倭人伝の経路を参考にすると
古代の尺度でいく場合は九州のどこかが該当しやすく
現代の中国の尺度だと近畿が該当しやすい
銅鏡の出土量や前方後円墳の発生やその規模からいくと
近畿が断トツでありえる
とはいえそれも銅鏡などに意味を持たせた場合で
邪馬台国が小規模なシャーマン主体のヒメヒコ宗教国家のようなものとして
一時的に列島を収めていただけなら
九州でもまったく問題なく存在しえるとなる
もちろん答えなんて資料不足にもほどがあるので出ない
日本の考古学なんてマウントの取り合いだけだからな
自分の主張に持ってくためにいかに嘘をつくかの合戦になってる
科学と違って市場に結びつかないから結果は声がでかい方が勝つ
ゴッドハンドでもしとけや
>>54
今の天皇家に繋がるヤマト政権が近畿を本拠地にしてるのは間違いないが、
魏志倭人伝にいう「女王国」「邪馬台国」かってーと違うだろうよな。
「倭国大乱ってどの出来事にあたるの?」
「卑弥呼って誰にあたるの?」
「卑弥呼死んだ後に立った男王って誰?」
「その後に乱れた国をまとめた壱与って誰?」
これに答えられないんだものな、日本書紀も古事記も。
親魏倭王の女王国を、ヤマト政権の元祖になる勢力が滅ぼして、
魏に報復されるのを恐れて如何にも自分達が
「親魏倭王に封ぜられた、邪馬台国・女王国の末裔、政権交代もあくまで身内の争いですよ」
と取り繕うための日本書紀であり、高天ヶ原伝説であり、巻向遺跡や箸箱古墳のでっち上げやったんだろ、
国家の存亡と威信をかけた捏造。 かんのなのこくおうの金印の小さきこと
金なんぱーせんとなのか
あらいはくせきの金の価値を下げる意味とか
安倍はひとつもしらない
>>183
梅が飛んでたらしいよ
それもすっごい飛ぶやつ >>185
2世紀の頃は連合政体の軍事・政治・経済・祭事の中枢が九州と畿内で別れていたとして
政治(外交的政治)の中心地の九州は半島と日本を結ぶ軍事的要衝を兼ねており
大陸から持ち込まれた鉄製品が優先的に流通していた
しかし畿内の方がはるかに豊かで大規模な古墳を作る経済力があり
祭事(内政的政治)のために使う大陸の交易品も九州ではなく畿内に持ち込まれていた
3世紀くらいに不便な九州から豊かな畿内に一極集中してヤマト王権が成立した
みたいな解釈は無理かな? >>188
それ可能性として十分にあるよな
記紀に国を治めやすくするためのでっち上げがないとするほうが不自然だし おおやっとこの話題が出たか
邪馬台国スレが立つたびにレスしてたのに誰も反応してくれなかった
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡がなんで卑弥呼の鏡と言われているかというと
この鏡が鉄製であれども他の鉄製の鏡と違って鍛造であることが一つ
つまり型に鉄を流し込んで作る鋳造ではなく、鉄の塊から鍛えて作る鍛造は当時の日本の技術では不可能であった
そしてこの装飾は中国では皇帝クラスの者でしか所有できないとされていることが一つ
同じものがもう一つ、中国で出土していて、それは魏の曹操の持っていたものであった
魏志倭人伝では初めて卑弥呼が魏に朝貢した時の見返りに銅鏡百枚を授けたとあるが、次に朝貢した時の見返りは鏡としか表現していない
この2回目の鏡が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡であると言われている
突然近畿が栄えるのがありえない
邪馬台国がベースにあっての繁栄としか思えない
逆に九州が邪馬台国だとして朝鮮と近いという絶好の地の利もあるのにその後平凡な発展にとどまってるのはおかしい
陸地が繋がってたらな
川でもコスに越せない大井川とかあるし
担いでもらって通るとか
九州説って怪しいの? >>120
神武天皇が宮崎あたりで生まれたことになってるのが不思議だね
なんで、そんな辺境の地で生まれてんの? >>194
というか、
・倭国大乱
・女王が即位し争いが収まる
・女王が死んでまた国が乱れる
・女王の姪の少女が即位してようやく収まる
この歴史を封印する理由がないんだよね。
本当に魏志倭人伝にいう親魏倭王に封ぜられた、って事実はみっともない黒歴史だから書かないまでは良いとして、
永らく大いに乱れた国をまとめた王(この際男女を問わないとしても)の存在、歴史、功績、
そういうのを言い伝えですら残ってもなく国の歴史から消す必要がない。
近畿説にいうと、箸箱古墳が卑弥呼の墓で、他の古墳よりも位が高い構造をしてる、まあそれはいいとして、
じゃあそこに誰がうまってんの?って「まんこに箸が刺さって死んだ女」
「実在も怪しい欠史8代の一人、孝霊天皇の姪」
「歴史にすら生年も死去年も載ってない」
ってなんだそのクソ怪しい女はってな。
そんな女を埋めるのに、他の古墳よりも位が高く規模も大きい作りにすんの?っていう。
邪馬台国の正統な後継政権(侵略ではなく内乱やお国騒動のレベル)ですよとアピールするために
街ごとでっち上げであつめて作って、当時埋めるのにあと腐れなく丁度いい女を埋めた、
って落ちなんじゃねえの?って感じ。 薄々感じてるけど
古代史の専門家達は邪馬台国がどこでその住民たちは大陸のどこから来たか
要するに日本人や日本語のルーツがどこかもう目星がついてるよね
結論を明言すると幻想が終わるから言わないだけ
>>8
近現代の九州説は東大の白鳥庫吉の流れなんだけど >>192
極めて自然かな
弥生時代の北部九州はとくに後期には遺跡でも戦乱のあとが生々しく
倭国大乱の状態を示しているとしてよい
瀬戸内海でも多分コレは攻めてくる敵を監視する役割だったんだろうとする遺跡が
高台に多く散見される
で、そりゃ戦乱が続けばクニは疲弊するのは当たり前で
北部九州は間違いなく疲弊しただろうと
ついでに半島にまで兵を送った可能性まで高い
※ただしこれは半島内で完結していた可能性も高い
そうなると戦乱から遠い近畿は栄え豊になる
で、これは古事記の神武東征の話と重なる
ただ記紀の記述の時間経過やらなんやらいろいろとおかしくなるけど
この辺を都合のいい創作として受け止めると整合性も取れる 魏志倭人伝少し読んだけど統失かってくらい意味わからんわ
やたらヒドボリって名前のやつたくさん出てくるし
天皇教カルトというものはとにかく歴史でも民族でも何でも一つに繋げたがるし
そうすれば歴史がより長くなるから当たり前と言えば当たり前だが
当時の社会がそんなに高度に一つに纏まっていたわけがないんだよね
分散・集合を繰り返してようやく今の形があるが
現代だって沖縄絡みであれだけ揉めてるんだから
黎明期なんて群雄割拠なんだよね
卑弥呼の魏志倭人伝は三國志の後の後漢の前になるし
聖徳太子や推古天皇は大兄宮の天智天皇より前なんだが
はくすきのえと大化の改新は何年だろうか
邪馬台国は99.9%福岡県にあった
「邪馬台国」はなかった
邪馬台国は二ヵ所あった
そんなものは当たり前に考えればわかるんだよな
そもそも渡来人というものは元居た大陸やら半島から飛び出して
新天地を求めて列島に来てるんだから
みんな自由にやるよそんなものはね
>>211
> そうなると戦乱から遠い近畿は栄え豊になる
あんな山だらけところでどんな産業で栄える感じなんだろう。
現代のシンガポールのように「生産産業はないが、ヒトや金の交流が主な産業です」
って訳にも行かないよね、ネットももちろん、移動だって困難な時代なわけで。
海産物集めまくったのかな? >>213
記紀は話1/100として捕らえ、
その上でもっと信頼できる他国の文献や遺跡の発掘状況と照らし合わせて
これはこれのことをいっているのかもとする程度での取り扱いなら問題ないよ
なにせこの弥生後期は、列島では文字が使用されている形跡がほぼなく
硯くらいしか出土しない
基本的には海外の文献しか言葉で語ってくれないからね
だから本来、この時代で重要なのは語らない遺跡の発掘物の範囲内
もしくは核ゲノム解析などの解析結果など
確実な証拠からわかることだけを最重要視し積み上げていくこと
この重要度を100とすると記紀は1ぐらいでしかなく
魏志倭人伝や半島の碑石でも50くらいでしかないと考えます >>217
知らんけど面白そう
酒が抜けたら読むはw >>196
なんで誰も相手しないと思う?
曹操云々の元ネタ『曹操集訳注』いつの成立だと思う?
『曹操集』じゃなくて『―訳註』のほうな >>217
面白かった
倭と倭人と倭国のニュアンスの細かい違いとか
あと
> 台地の上に位置した国であることを示している
> おそらく西側には海があって東側になるほど地形
> が高くなる地と推測され得る
この辺に至る説明と
以下に至る説明
> 北九州の伊都に接していた
これすっごい この中国人が読み解いた>>217やつだと
邪馬台国は福岡県の筑後川下流域の筑後平野と佐賀平野
筑紫平野となるね
新井白石の山門群説とほぼ一致する
もうこれでいんじゃねぇのw アレレ、邪馬台国は関西にあったのならなぜ大分なんかから出土するのかな?w
筑後川はでっかい川なんで
この下流域に邪馬台国があったとしたら
川を昇ったトコにある日田>>1からこんな珍しいものが出土してもなんもおかしくはない
大体この筑後川流域は今でも田んぼばっかなんで
発掘も目だった古墳以外はこれからだったりするだろうし
そのうちすっごいのが出るんじゃないかな >>225
話しぶりからすると自分から断言できないけど都合が悪いから否定する方向に持っていこうと必死なのは分かる
自信あるなら自分の言葉ではっきり言おう
何もビビる必要はないよ
ここは知の集合嫌儲板だ
怖いならコピペ連張りして会話しなくても許容されるよ 淡路島に弥生時代の大規模な製鉄遺跡が見つかっただろ
そのころ既に九州から瀬戸内、畿内へと文化が伝わっていってたんだから、
邪馬台国なるものがあったとするなら畿内だと思うがなぁ
>>230
出土したこれは邪馬台国と関係あるに決まってるだろ!と勝手に言ってるだけだぞw 何で日本に何も残ってないの?w
あの時代の日本人は残そうと思わなかったの?
>>37
たかじんの委員会でそれやって以降どっと増えた >>230
九州は上陸拠点だから
大規模集落はない >>217
近畿の方が後発で乗っ取って正当性主張は面白いな 【歴史の古さ】
旧約聖書 紀元前 ← 欧米人が日曜日に読んでるヤツ
邪馬台国 西暦220年頃 ← はぁ? 国家の場所さえ特定できないの? 浅っ!!
三国史記 西暦1145年 ← さすが韓国、「兄の国」と呼ばれる
【確認できる歴史記録の古さ】
ヘロドトス 紀元前 5世紀 ← さすが西洋、「歴史の父」と呼ばれる
旧約聖書 紀元前 ← 欧米人が日曜日に読んでるヤツ
古事記 西暦 712年 ← はぁ? こんな新しいのが最古の日本の歴史書なの?
三国史記 西暦1145年 ← さすが韓国、「兄の国」と呼ばれる
発掘品一つあるごとに邪馬台国の証とか大騒ぎして大変だな
奈良は悠然と構えてるな
>>81
幾内説が真実として
東方遠征をどうするかだな
卑弥呼の邪馬台国を東方遠征で潰して乗っ取ったって形になるが >>234
その遺跡で「製鉄」という言葉を使うのは間違い
アホの産経が「製鉄」で記事を書いているけど
アレはデマというか無知そのものだよ そもそも邪馬台国なんてあったの?
当時の中国の役人が母国に都合よく捏造しただけじゃないの?
昔、邪馬台国 大分説 を主張する本読んだな。国東半島から出発した大艦隊が瀬戸内海を渡って畿内に大和朝廷を打ち立てやんや!で締められてた。
>>8
東大閥、京大閥の争いじゃなかったか?
オレ的には「魏志倭人伝に書かれてる」邪馬台国と卑弥呼は北九州だと思ってる 福岡じゃなかったのかよ
日田は観光業下手くそだからやめろ
畿内派さんたちは、邪馬台国が機内にないとなんか困ることでもあんの?w
邪馬台=ヤマト=大和=奈良
こんなもん機内説でFAだろ
>>246
桃の種やら鏡ではしゃいでいた巻向はどうなったの? >>39
勤めている大学の偏差値で教員の能力を測る人ってあ…(察し) >>23
そりゃ京大の連中が幅聞かせているからそうなる
京大は自分たちのところが邪馬台国でないと威張れないからな >>267
ヤマト王権が奈良ではなく神奈川にあったと主張するのか
九州説並みの珍説だな いや、それどうせ渡来品だろ 邪馬台国に高度な技術あったなんて話あんま聞かねぇし
ただあったってだけなら別に邪馬台国じゃなくても不思議じゃねぇだろ
◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を
九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。
その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと論理を進める安本美典・産業能率大元教授(84)。
「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。
-邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは?
古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。
「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。
これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。
「全体をうまく説明できるのか」が大事です。
つづく
>>272 つづき
-具体的には?
考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。
「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。
弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。
「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。
全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。
最近はビッグデータ処理の技術が、進歩してきています。
私は便利な確率計算法であるベイズ統計学によって確率計算をしました。その結果、邪馬台国が福岡県にあった確率は、99・9%以上となり、
奈良県である確率は、ほとんど完全にゼロです。畿内説の方に議論の出発点として検討していただきたいものです。
-纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかと言う人もいますが。
纏向の大きな建物の近くからモモの種が出土して放射性炭素(C14)年代測定で分析すると、卑弥呼の時代を含む西暦一三五~二三〇年代という結果が出たと報道されたことがあります。
しかし、この方法による場合、箸墓古墳から出土したモモの種で測定すると、四世紀を中心とする年代が出てきます。箸墓古墳では年代の古く出がちな土器付着物で測ると、三世紀という年代が出てくるのです。
C14年代測定法というと科学的な印象を与えますが、何を測定するかで年代がかなり変わってくるし、年代推定の誤差の幅も広いのです。
畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。
またモモの種や大型建物のことは倭人伝に記載がありません。古事記・日本書紀(記紀)の記述と倭人伝の記述の擦り合わせも必要です。
つづく >>273 つづき
-卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はどうみるべきでしょう?
これは古墳時代になってからしか出土していませんし、わが国からは五百面以上出ているのに中国からは一面も出ていません。
日本国内でつくられたとみるのが妥当です。三世紀後半から四世紀はじめごろの、いわゆる「西晋鏡」でさえ、おもに福岡県を中心に分布しています。
「庄内様式」といわれる弥生時代の土器の時期が卑弥呼の時代と重なるといわれていて、この時期の鏡は奈良県からの出土は三面のみなのに対し、福岡県からは三十面も出ています。
もうひとつ、倭人伝に「棺(ひつぎ)あって槨(かく)なし」と墓制が記されています。
おもに三世紀ごろ福岡県を中心に分布する箱式石棺は、これにあてはまります。奈良県のホケノ山古墳からは、木槨が出土していて、倭人伝の記述に合いません。
-里程の問題からは?
帯方郡(現在のソウル周辺)から一万二千余里のところに邪馬台国があると倭人伝に記されています。一里が現在の尺度で何メートルになるかは議論がありますが、
同じ三国志韓伝には現在の韓国あたりを四千里四方としており、これから一里の距離が割り出せます。
記述では帯方郡から一万里で九州に着きます。残りは二千里ですから、これまでの行程からすぐ想像はつきますよね。
とても畿内まで行ける距離ではありません。九州しか有り得ません。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018072002000264.html >>6
邪馬台国、大倭国を滅ぼして僭称したのが大和の天皇部族連中 日帝ジャップは馬鹿だから
「ジャップは太古の昔から天皇に統一的に支配されていた」
という妄想を維持したい。
しかし、中国の史書の卑弥呼の記述は、
明らかにそれを否定している。
だから、ジャップは「邪馬台国は近畿にあった」
という妄説を主張して、自分たちの信仰を守ろうと悪あがきをする。
その悪あがきを鑑賞して馬鹿にするのが、
5chの邪馬台国スレの楽しみかたw
「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読む奴は馬鹿。
「邪馬台国」は中国の史書に出てきた単語。
だから中国語で読むのが当然。
中国語としてこれを「ヤマタイコク」と読む根拠は無い。
こんな基本事実をいつまで無視してたジャップのバカぶりは無限大w
ちなみに近い隋や唐の時代の音だと「ザマダイ」か「ジャマダイ」などとされる。
この程度のことはその辺の漢和辞典にもついてる。
言っとくがジャップが勝手に「漢音」w なんて呼んでるものは
何の根拠にもならんからな。
だから「邪馬台国」という名前を勝手にジャップ語で
「ヤマタイコク」と呼んで、
ヤマトに似てるから「邪馬台国」は畿内に違いない!
とか言ってる奴は白痴オブ白痴の大馬鹿野郎。
卑弥呼
永遠に馬鹿なジャップは例によって、
「卑弥呼」を勝手に「ひみこ」と読んで知らん顔。
しかし言うまでもなく「卑弥呼」は中国の史書に出てきた単語。
当然当時の中国語を基準とした読み方をすべき。
幾つかの可能性があるんだが、その中の一つは、
「ぴみは」 ないし 「ぴみか」
になる。
勝手に「ひみこ」を正当な読み方いみたいに
してんじゃねーぞ、糞ジャップ
古代における南北朝時代だったんじゃないの
九州の政権と畿内の政権がどちらが正当なヤマトか争っていた
>>177
これ想像図だぞ
倭の使者ってこんな感じかなって想像で描いた絵
だから謎な格好してる 九州にも近畿にも似たようなものらあったんじゃないの?
どっちも凄く歴史が古い地域な訳だし
物品なんて贈答品の可能性があるし
証拠にはならない
いろいろ発掘してるけど何が見つかったら結論が出るんだよ
大きな遺跡が見つかっても「今後もっと大きな遺跡が見つかるかもしれない」とか
「邪馬台国が大国だったとは限らない」とかいうし
発掘物なんて「ここで見つかったからと言ってここに邪馬台国があったとは限らない」と言えばそれまでだし
>>143
チョンモメン乙
まず2500年前に百済とかいう国は無いから >>88
神話的でいいんなら熊襲は景行とヤマトタケルの征討記事あるし、
隼人なら720年の反乱が大伴旅人によって鎮圧されてますけど? 「邪馬臺国」・「卑弥呼」は三国志正史の主人公司馬仲達がこさえたフィクションなんだよ
あとこのフィクションの国の名前は「邪馬」で「邪馬臺」じゃない
「臺」というのは魏王朝の寝所
つまり側近を示す一種の肩書きだ
頭2つに「邪」「馬」のような卑字をあてておいて
3文字目だけんな畏れ多い字を辺境の蛮族の名前に使うわけがないだろ
わかる
国東半島~北九州の沿岸部は顔が皇室くさい
カピバラ系
>>119
畿内説だろうが九州説だろうが奴国が博多付近だろうってのは争いがないぞ >>15
新羅人はトランプとか武器にして戦いそうな顔してる >>281
卑弥呼の読みは ピメヲで意味は姫王
スサノヲの『ヲ』も中国語の王 (huang)の借用
オシホミミ ホアカリ ホノニニギの『ホ』も中国語の王 (huang)の借用
ちなみに卑弥弓呼はピメコヲで日御子王 >>15
倭の偉い人達
「あの国に誰行かせる?」
「あの海渡るのふつうに危ないしょ。台風きたら余裕で沈むし」
「もし仕事できる若い奴に行かせて死んだら勿体ないよね」
「適当に死んでもいいおっさんとかに行ってもらうってもんだな。」 >>242
百済三書とか知らんのやろうなあ
武寧王の死亡日時は三国史記にしか出てなかったけど墓誌銘発掘で正しさ証明されたし >>246
>発掘品一つあるごとに
ってこれいつの出土だか知ってる? >>280
「ザマダイ」「座間台」
邪馬台国は神奈川だな >>285
神宝検校によって奪われたなんて記事があるしな
もちろんこの鏡のことをストレートに記述したわけじゃないが 連合国だったんならそれぞれの国にそういうのが配られてたりしそう
邪馬台国は九州で確定だろう
バ関西人はいい加減諦めろw
>>309
元々の出発はそれだったか
心理学関係の著書知らんから出発は統計学だと思ってた 卑弥呼が死んだのは魏志倭人伝によると3世紀中頃(247-248年ごろ)
考古学会「箸墓古墳が作られたのは4世紀っぽい」
↓
文献方面の研究から邪馬台国九州派が優勢になってくる
↓
畿内派「測り方変えたら3世紀中頃に作られたっぽかったわ。だからこれ卑弥呼の墓ね」
↓
マスコミを使ってプロパガンダをくり返し畿内派優勢に
↓
箸墓古墳から馬に乗るための鐙が見つかる。(魏志倭人伝に倭国には馬がいないと書いてある)
↓
畿内派「魏からもらったんじゃない?使い方わからないけど宝物にしてたんでしょ」
↓
鐙が発明されたのは290年頃。現存する最古の鐙は中国で見つかった302年のもの。
↓
畿内派1「鐙はきっともっと昔から存在してたんだ!日本にたまたま世界最古のものが残ってたの!」
畿内派2「その鐙は卑弥呼より後の時代の人がたまたま古墳に捨てただけ!」
まあこれなら宇佐神宮の権威の高さの説明はつくよね
宮司を女性がつとめてることも
神代三代も九州だからなあ
いつ拠点が九州から近畿に移ったかだよな
ちゃんと神話で神様が九州から機内に移ったって書いてあるしね
重要なことは、日本の初期王権は間違いなく畿内で出現し徐々に拡大していったということ
北部九州にも革新的な集団がいたことは間違いないが、それらは地域社会を越えて統合した政体を形作ることがなかった
たまたま魏に朝貢した邪馬台国がどこにあったかなんて本当にどうでもいい小さな問題
狗奴国が邪馬台国を滅ぼして倭国連合の盟主になる
後に近畿に進出し地元豪族を制して大和王権を起こす
大和は天皇でなく物部氏から始まった
に違いない
太古の公文書改変のツケだよ
こうやって構成の人間が困る事になる
>>320
ヤマトとクマソの戦争があった一方、ヤマトタケルは名前貰うとか、
イズモとも同じなんだよな
戦争したあとの和解を神話でゴマかすのは 邪馬台国=日本全土が結論なのにいつまで無駄な議論してんの?
>>324
他の国の名前出てるからなあ
マツロとか 東遷説を九州の邪馬台国か東諸国を征服しつつ畿内に入ったことと定義するなら、そんなことはなかったとしか言いようがない
どちらかといえば、大陸半島が不安定な時代だからそちらから逃げるという意味で畿内に避難したという方だろうなただし畿内勢力の主体が元九州勢なと言えばそんなことはない。
主力は吉備阿讃だろ土器を見ても。
>>120
古事記とか日本書紀とか信じるなら九州説しかない 記紀の信憑性は微妙だからな
古事記に至っては稗田阿礼の口伝集だし
邪馬台とヤマトは発音からして同じものだよな
そう考えるとヤマト王権があった畿内に邪馬台国もあったと考えるのが妥当だと思うけど東征してきた可能性も無きにしも非ず
でも東征があったとすれば卑弥呼の時代よりもっと古い時代だろうな。崇神天皇を軸に考えれば
>>331
発音同じとかいうと、呉の音ではどうだとか、魏ではとうとか言いはじめるやつが出てくるんだよ
でもアメリカとAmericaと米国は全部発音違うんだけどな >>332
些細な差異だよな
言葉の骨格はほぼ同じだし同じ言葉と見ていいんじゃないの
例えばこれが吐蕃や突厥やトルファンやらまったく骨格の違う言葉であればヤマトを連想することは難しいけど邪馬台とヤマトなんてほぼ同じ言葉だよ まだ畿内説(笑)を信じているアホってアポロ11号は月に行ってないニダ!ってネタをマジで信じ込んでそう
絶対結論出ねえわ
200年も議論してるし
どっちが優勢なんてのも東大と京大の力関係でコロコロ変わるしな
>>161
今ある宇佐神宮って
明治政府が切っちゃいけない木を切って
掘っちゃいけない山を掘って建てたから
遺跡はもう跡形もないんじゃないの (´・ω・`)「じゃどうして九州に文明は生まれなかったの?」
邪馬台=ヤマトとして、じゃあなぜ卑弥呼やトヨは記紀に女王として書かれてないんだ?
>>338
王朝変更が何度も行われてるから
典型的なのが乙巳の変でなぜか歴史書が全部焼かれてる 記録にも記憶にも残っておりませんので、そういうことは無かったというのが基本的な立場でございます。
ってやつだよ。伝統芸。
>>338
神功皇后だろ
三韓征伐やった人
朝鮮人が3世紀から日本に支配されていた事になるから間違ってるニダ、実在しないニダと言って
それがまかり通ってきただけだろうな >元産業能率大学教授の安本美典
⇒心理学者です、古代史は趣味でやってるだけで基本的には門外漢の素人電波さんです
>佐賀城本丸歴史館の七田忠昭館長
⇒まともな学者は誰も支持していない九州説の中でも、更にトンデモな吉野ケ里説の唯一の主張者です
ってか吉野ケ里遺跡に利権があって、観光客を呼び込みたいだけの人です
>金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
⇒日田市で出土した弥生時代後期と主張されているけど、実はどこでいつ発掘されたのかも不明な代物で
年代測定的に邪馬台国とは無関係なことだけは分かっている、ってか贋作じゃねーの的な代物
>>331
東征なんてあったとしてもせいぜい岡山・兵庫とか京都北部とか、場合によっては難波あたりから奈良に移動しました程度の
可能性のほうが他の記事との関連性的にも圧倒的に大きいわけで >>39
Fラン大でも東大出身の教授が教鞭とってたりするのが普通だから大学のレベルと教授のレベルは同一ではないよ >>316
九州の京(みやこ)については風土記に
景行天皇がクマソ平定のために居したところだからと書かれている
問題は京という名と景行の話の因果の順番かと
(景行がいたとして、九州まで行ったとかありえんと思うが)
九州説的には九州時代の大王の居所→京という名→景行の伝説発生
ってのもありかもしれん >>120
>その後の日本の中心が突然近畿地方になっちゃう
弥生期の鉄器の偏りとそのあとの古墳からすると
勢力自体か、権力が移行したのはありそうだと思ってしまふ >>343
卑弥呼が神功皇后だとしたら色々矛盾があるよな
卑弥呼が兵を率いて朝鮮征伐したのか?呪術師で人前に姿を現さないのに 神功皇后までしばらく女帝だらけだったんだろうさ
ついでに政変で色々あったんだろうね
大物主の妻のモモソヒメも卑弥呼の可能性が示唆されてる
そのへんの勢力が互いに婚姻関係を結んでそのどれかから卑弥呼が即位したのだろうさ
いくつかの勢力の系統を一つに無理やりまとめたから15代目くらいの天皇が整合性つかなくなってんだろう
>>345
>難波あたりから奈良に移動しました程度の可能性
5世紀後半に百舌鳥、古市から古墳造営が奈良盆地に移ったのは確かだし
近つ飛鳥とかいう難波視座のの地名もある(これは記紀にそれっぽい理由付けがあるが)し、
国外への玄関で後に宮もおかれたし、難波が重要なのは間違いないけれど、
天孫降臨の地に九州が選ばれた理由がないとなぁ 神功皇后は斉明天皇をモデルにして作った架空説が強いんだろ
名前にタラシを付けるのは7世紀頃になってからの習慣だし
>>189
ごく単純に
山で閉ざされてる、山に囲まれてるって意味だと思うけど >>352
純粋に文字史料をよく分析すると系譜や三韓征伐もおかしいところはない
という説もあるにはあるが
あの辺はヤマトタケル、その息子仲哀、その嫁神功皇后、その子応神天皇
と説話だらけで怪しすぎるからな >>354
応神まわりの神話的脚色過多は
そこからつながる継体、それ以降の皇統の権威を強める狙いもあるんじゃね? >>331
地名に限らず名前ってのは「そこにある」ものではなく「そこにあるものに、人が意図をもって与える」ものだから、
「ここをヤマトとする!」ってやればどこだってヤマトになる。 >>14
ただの当て字
亜米利加とかと同じさ
くだらねぇーや! >>1
いい加減「邪」を「ヤ」に謎読みするのやめろ
中国人が漢字当てたんだから「邪」は「ジャ」としか読まん
あと「壱」を勝手に「台」に置き換えるな
邪馬壱国はジャマイ国だ >>351
> 天孫降臨の地に九州が選ばれた理由がないとなぁ
九州の親魏倭王国を近畿の国が滅ぼしたから、
「自分達は元々宮崎から発生して東に移った国ですよ」
って事にしたかったんだろ。
じゃないと、魏に報復されて今度は自分達が滅ぼされる。
だから魏に報復されないよう、「私たちこそが親魏倭王国の正統ですよ」
ということを「匂わせる」ための神話。 >>356
だとしても事実としてヤマト王権は畿内にあったわけで邪馬台がヤマトと同一のものとするなら邪馬台国も畿内にあった蓋然性が高いよな
卑弥呼死後以降に九州のヤマト(邪馬台)が畿内に東征し「ここをヤマトとする!」とした事実があるなら別だがそんな歴史的痕跡はあるのか?
それが無いのなら卑弥呼当時にはすでに畿内にあったと考えるのが妥当だろ ヤマトなんて地名日本中にあるのに機内だけだと考えるから近視だって言われるんだ
>>361
神奈川の大和とかな
ただ列島を統治する政治的権力を伴ったヤマトではなく単なる地名だけどな >>360
> 卑弥呼死後以降に九州のヤマト(邪馬台)が畿内に東征し「ここをヤマトとする!」とした事実があるなら別だがそんな歴史的痕跡はあるのか?
> それが無いのなら卑弥呼当時にはすでに畿内にあったと考えるのが妥当だろ
畿内にあった勢力が九州の勢力滅ぼしておいて
「俺達こそがヤマトだ」やらかした可能性。
地名なんて「あるもの」ではなく「付けるもの」なんだから
そんなもの後からどうにでもなる。
北海道にも北広島って地名があり、そこは実際に中国地方の広島から地名を取ってるわけだが、
もしなんらかの天変地異で中国地方が壊滅したときに
北海道が広島の元々の地名ってことにはならないだろ。 >>364
> 畿内にあった勢力が九州の勢力滅ぼしておいて「俺達こそがヤマトだ」やらかした可能性。
そんな痕跡があるのかないのか結局想像の域を出ないわけで。まあ無いんだろうけど もともとくっついたり喧嘩したり
血縁関係強烈だったりしてgdgdだったんだよ
九州か近畿かなんかハッキリするわけない
今の財閥系や5大商社が、みんな東京に本社あるけど関西企業みたいなもん
鎌倉時代ですら東国と京とで2極中心制度だったのに、弥生時代にそんな中央集権になってるわけないじゃん
>>343
>>349
そもそも神功皇后は魏志倭人伝を読んでジャップが創作した後づけの人物設定
同定もクソもない >>361
>>363
そもそも日本中が山で溢れてんのに
「ヤマ」が共通してるぞなんて理由で同一視とか池沼の所行
ヤマダイは山裾の台地の地名、ヤマトは山に挟まれた土地の地名だっただけだ 吉野ヶ里遺跡の広場で一時期フェスやってたけど楽しかったな
ブルーハーブとか佐賀出身の向井秀徳が出たり
こんなことやってるのに実は邪馬台国は関西でしたってオチならずっこーだよ
>>371
第36代の卑弥呼(複数)が朝倉にいるのに
トは門、戸、津が当てられて、全部いわゆる「入り口」の意味。
水戸は海への入り口だし、登戸とかヤマトは山への入り口。
松戸は江戸川の船着場だ
だからヤマトは日本中どこにでもある地名ではある。
>>370
ほぼ同時代に存在したであろう日本列島を代表する権力が両方ともヤマ(ト)を自称してるってことはそれらは同じものであると考えることは至極妥当だろ
これを偶然だヤマなんて字はありふれてるってことだけではまったく説得力に欠けるね 隋書倭国伝→人々は阿蘇山を怖れてる
これで九州一択なんじゃないのかな
その後火山活動が活溌化して近畿に逃げてきて、地元の蘇我氏に匿われてたけど、蘇我氏の大家面が段々苛ついて来て終いにはぶっ潰して朝廷をおっ立てたみたいな感じ?
あ、そうそう
飯豊女帝、飯豊天皇も歴史から抹殺さらてるよな
畿内説って邪馬台国をヤマト王権と繋げたいだけなんだよな
山一證券・・・邪馬壱国
大和證券・・・邪馬壹国
別の国かもな
畿内説(笑)は色々とツッコミどころ有りすぎてなあ、強力な南の敵対勢力ってどこだよ
>>1
会場の質を見れば語られる内容の真偽が想像できる…
こんなショボいシンポジウムの会場見たことねえよ。 >>384
北九州説なら敵対勢力は間違いなく隼人だよな
こいつらはヤマト王権を目茶苦茶手こずらせるほど強かったし >>375
> ほぼ同時代に存在したであろう日本列島を代表する権力
これがそもそも成り立つのかって話だけどな。
片方がもう片方を滅ぼして屋号乗っ取るとかいくらでも合理的な流れはあるわな。 >>376
畿内どころか西日本って火山ないもんな。 >>387
>これがそもそも成り立つのかって話だけどな。
>片方がもう片方を滅ぼして屋号乗っ取るとかいくらでも合理的な流れはあるわな。
大陸中華は、放伐・易姓革命の思想が根本にあるから、片方を滅ぼしたら屋号を乗っ取るよりも、
新しい屋号で「古いやつらは徳を失った、我々が有徳の一族だ」とぶち上げたほうが受けがよい
この辺から、東遷説や倭が九州倭国を乗っ取ったとかいうのは戯言以前だと判断できる
九州説の人は「基礎の基礎」の基本事項の認識が足りない >>387
もちろん成り立つとは思っていない。そんな偶然はほとんどありえない
想像でなら何とでも言えるがそのための根拠が必要になるわな まあ普通に九州政権と近畿政権と出雲政権があったんだろうな
縄文が終わったら関東・東北は人口空白地帯になってしまったようだからそこらへんは北斗の拳状態だったかもしれんが
>>283
情報ゼロで想像したわけ?
背が低いとか色が黒いとか髭が濃いとかの断片的な情報を総合した想像図でしょ?
裸足なのもそうだよね いろんな国があったんだろうけどいくらなんでも内陸すぎないか?
>>394
これ十分ありうるよ
特殊器台だの円墳の撥が開きはじめるのだのが吉備が元だし >>14
このコピペ毎回貼られるけどちゃんと読んでみたら当時の中国の読み方に親和性があってワロタ
じゃあいいんじゃんw >>389
九州に邪馬壹国があって近畿に邪靡堆国があったってだけでないの? 漢字一文字に音はひとつルールみたいなのがあって
邪馬台国をヤマタイと読むのは不自然だって聞いたが
>>391
>まあ普通に九州政権と近畿政権と出雲政権があったんだろうな
そうだよ
魏志倭人伝に書かれているとおり
九州政権 奴国 二万戸 福岡平野の国(那珂川周辺)
出雲政権 投馬国 五万戸 四隅突出墓の国(中国地方)
近畿政権 邪馬台国 七万戸 畿内第V様式土器の範囲の国(近畿中心)
これらの協調がなったところで、卑弥呼が共立されたということだ だから「台」は国の名前の一部じゃないっての
国の名前は「邪馬」
>>398
>邪馬台国
上古音では邪馬臺は(台は臺の代替:常用漢字にないから)
(g)ia[v]g-mar-d(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-t`(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-di(e)g
雑にカタカナにすると
イァ・マー・ドゥ イァ・マー・トゥ イァ・マー・ディゥ
イァは拗母音の表現だから、ヤでよい
語尾の「ゥ」は英語で言うところの曖昧母音
外国語の聞き書きの当て字なら、ヤマトの当て字として無理のない範囲 >>400
>だから「台」は国の名前の一部じゃないっての
それは、トンデモだよ
邪馬國も別にあるし 中国役人「ここはどこ?」
邪馬台国人「山タイ(九州弁」
>>402
どこがトンデモだ?
漢文が読めないアホ共がとんちんかんなウワゴトを垂れてるだけだぞ >>401
誤読だらけの邪馬台国の中国人の著者は
ジャムァデァイって言ってたよ >>376
その頃に避難しなきゃいけない噴火あったら地質調査でわかるだろ
そんな兆候はないぞ >>379
それもそうだしもっとわかりやすいのが大友皇子(弘文天皇)の即位
記紀じゃ抹殺されてるけど即位してないはずねーっての 何か価値のあるものが出る度にそこが邪馬台国だとか言うのやめなよ
まぁ天武天皇が日本の歴史を抹消して捏造しまくったから仕方ないね
古代の歴史が失われた国なんだよ
>>410
大友皇子が即位してたら天皇に対する反乱になっちゃうんで、
即位してないことに捏造したわけだよなあ 抹消とか捏造とか言ってるやつは日本書紀執筆当時の人間を買いかぶりすぎなんだよ
日本書紀執筆当時曲がりなりにも伝承が存在したのは雄略以降
それ以前はまったくわからない
いったいいつの時代のことなのかもわからない
日本列島外の話なのかもしれない
各豪族の逸話の断片を中国書の大量のコピペと創作の糊で
ストーリーっぽく仕立てたのが日本書紀前半部
だから当時の大王・豪族は前半部を歴史だなんて誰も考えていないんだよ
んな「歴史」誰一人聞いたことないんだから
当然ながら劉備やら孔明やら曹操やら仲達やらが活躍していた三国志魏志の時代に
日本列島内がいったいどうなっていたかなどまったくわからない
>>389
> 九州説の人は「基礎の基礎」の基本事項の認識が足りない
とか言ってるのが、冊封体制を全くスルーしてるか知らないのかってのが凄いな。
女王国は「親魏倭王に封じられ、金印までもらった国」だってことを忘れてるのか。
「そんな国滅ぼしても、”俺らの方に徳があった”と言えばオッケー」とかなんの冗談だね。 大本営発表の日本書紀でも天武の生年不明ままなのが笑えるがな
>>414
その親魏倭王の詔勅を出した魏を圧迫して王朝を簒奪した晋を追い出した北朝から出た北魏を
滅ぼした隋に朝貢するのに、魏から冊封された王朝を名乗る意味があると信じてるのか? 神功皇后が魏志倭人伝を元ネタにして創作された存在だった、
つまり邪馬台国とヤマト王権に繋がりは全くなかった、という時点で
邪馬台国が土地としてどこにあったかなんてことさら拘ることでもないと思うのだが
必死でヤマトという土地と邪馬台国を結びつけようとしてる奴って
まあお察しって感じだよね
ジャップが歴史を捏造するときの典型的な作法
日帝ジャップは馬鹿だから
「ジャップは太古の昔から天皇に統一的に支配されていた」
という妄想を維持したい。
しかし、中国の史書の卑弥呼の記述は、
明らかにそれを否定している。
だから、ジャップは「邪馬台国は近畿にあった」
という妄説を主張して、自分たちの信仰を守ろうと悪あがきをする。
その悪あがきを鑑賞して馬鹿にするのが、
5chの邪馬台国スレの楽しみかたw
「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読む奴は馬鹿。
「邪馬台国」は中国の史書に出てきた単語。
だから中国語で読むのが当然。
中国語としてこれを「ヤマタイコク」と読む根拠は無い。
こんな基本事実をいつまで無視してたジャップのバカぶりは無限大w
ちなみに近い隋や唐の時代の音だと「ザマダイ」か「ジャマダイ」などとされる。
この程度のことはその辺の漢和辞典にもついてる。
言っとくがジャップが勝手に「漢音」w なんて呼んでるものは
何の根拠にもならんからな。
だから「邪馬台国」という名前を勝手にジャップ語で
「ヤマタイコク」と呼んで、
ヤマトに似てるから「邪馬台国」は畿内に違いない!
とか言ってる奴は白痴オブ白痴の大馬鹿野郎。
卑弥呼
永遠に馬鹿なジャップは例によって、
「卑弥呼」を勝手に「ひみこ」と読んで知らん顔。
しかし言うまでもなく「卑弥呼」は中国の史書に出てきた単語。
当然当時の中国語を基準とした読み方をすべき。
幾つかの可能性があるんだが、その中の一つは、
「ぴみは」 ないし 「ぴみか」
になる。
勝手に「ひみこ」を正当な読み方いみたいに
してんじゃねーぞ、糞ジャップ
纏向が邪馬台国って根拠全然ないのにもう決定みたいになってるよな
以前偉い先生に聞いたことあるけど、日本書紀古事記成立前は、木簡に断片的に昔話が書かれていて、それがドサっと保管されていたはず。
だから前後の脈絡が無かったりするから、歴史の編纂者が頭をひねってつなぎ合わせるしかなくて、矛盾が出てくるのはある意味当たり前と。
畿内説学者が今の考古学トップなんだろ?
ハミゴにされたくないからトップに媚びないといけない考古学会はクソだな
248年 台与共立
421年 倭王讃朝貢
まあ覇権国の入れ替わりは十分に起き得る期間ではある。七支刀の年号が太和四年369年だとだいぶ詰まるけど、これが明確になることはもうないだろうなあ。
あとは巻向がどこまで遡れるか。今のところ無理やり年代を遡って感もあるし。
紀記編集時にいろいろと改変脚色されているからな、蘇我氏滅亡の時に消失しているし
今の古代史は天武の没年が65歳と記載されているのは56歳の誤植ニダ!と言ってるレベルのいい加減さ
>>424
>畿内説学者が今の考古学トップなんだろ?
それは間違いだな
トップだけじゃなく全員畿内説だ
今どき専門的知識があって九州説を支持する研究者なんて一人もいないよ >>428
畿内説押しがトップで、そこからしばらく経つから全員畿内説になってるだけともとれなくない 互いの出身地方に存在したのを前提で学説立てまくってるよな
考古学者て馬鹿だわw
球磨郡 球磨郡 くましゅう 熊襲
われら 倭人の 故郷は きっと ここです 海面が たかかったころ
大津波が来た頃も 球磨郡のの 標高なら 生き抜けた
かつ 水が 盆地でながれこみ 稲作もかのうな へいやがひろい
いまとなっては 交通の便も 平野よりわるいが 女王の国 たりえたのは 一番古かったからだよ
学者全員畿内説!
↓
他の学説持った連中を排除した結果
こうだろ
>>429
もうかれこれ2,30年は九州説の新しい人は現れていないから、
誰がなっても畿内説なんだよ
畿内説かどうか、なんてのは既に議論にもならない >>432
いや、情弱素人以外は全員畿内説だから排除するもしないもなく、
最初から九州説とかいないんだよ >>133
>畿内説の連中が出てきたら
>狗奴国はどこよ?
>と書き込めばいい。
普通に東海から関東にかけての古墳時代初期に前方後方墳を作っていた地域でいいよ
毛野国あるいは
久努國造.筑紫香椎朝代,以物部連祖-伊香色男命孫-印播足尼,定賜國造.「今遠江國山名郡久努鄉.」 「近畿にあったはずだ」という無理筋な結論から入って
書いてある文章を完全に無視して内容を改竄してこじつけて
それが「定説」扱いになってしまうとか怖い世界なんだな
>>437
>「近畿にあったはずだ」という無理筋な結論から入って
この「無理筋の結論」というのが個人の感想
古墳時代には列島の中心が畿内というのは昔からの常識
そして古墳時代の始期が3世紀前半だとなったら、
卑弥呼の遣使の時の列島の中心は畿内という結論にしかならない 畿内説は国会の答弁みたいにひどく不自然
当人たちにとってはそれで当たり前なのかもしれないけど客観的に見て根拠が間接的で薄い
ごく少数の人が繰り返し同じことを叫んでいたり思考が停滞してる
>>437
せやな
ほんとこれよ
それに逆らえない連中で溢れてるのが現在の考古学
ほんと腐ってるよな いや、古墳時代には日本の中心は畿内ってのは常識で、その古墳時代が3世紀からと分かったなら、
その時点で倭王の都は畿内ということにしかならないだろ
九州説の根拠は根拠になってないし、問題外
短里なんてないし、水行陸行を無視してるし、鉄も絹も漢鏡も古いものしかない
>>442
>それに逆らえない連中で溢れてるのが現在の考古学
それは最近の研究成果を認められないんだーって言ってる素人の戯れ言
ちゃんと学んでないからそういう陰謀論的な寝言を言う羽目になるんだよ >>444
ちゃんと学べないからだろ?
何を事実曲げて言ってんの?
ちゃんと公平に教えてるなら不満は誰もないけど
今の教科書は畿内説主体になってるだろ
無茶苦茶な理由で こいつ畿内説主導の関係者やな
ID:VKNW3vWb0
フェアな目で見て理詰めで説明するスタンスが出来てない
老害
>>445
>ちゃんと学べないからだろ?
いくらでも学べるだろ?
>何を事実曲げて言ってんの?
何も曲げてないんだけど?
短里なんてないし、九州の栄えていた時代は甕棺墓が廃れる頃には終わっている
自分が曲がっているとまっすぐなものが曲がって見えるんだよ! >>446
>フェアな目で見て理詰めで説明するスタンスが出来てない
どこがフェアじゃなくて、どこが理詰めじゃないのか、「具体的に指摘」してくれるかな?
理詰めで説明して上げるからさ >>448
なんでもいいからお前は畿内説の説明してくれ
九州説の中傷しかしてない自称畿内信者民 >>448
お前みたいな否定しかできない奴がいるから社会はダメになるんやで そろそろこのスレも終わりか
やはり九州北部までそこそこ詳しく記載されているのに
途中の山陰山陽すっとばしていきなり畿内なのは無理が有りすぎだわな
邪馬台国は卑弥呼やイヨのカリスマ性で持ってた国で
男王にした途端、また戦争が始まっちゃうんだから武力的には抜けた国力を持った国でもなく
邪馬台国が天皇家の先祖だとすると天皇?大王?の権威はまだ確立されてなかったんだろうな
もう面倒だから適当な山に邪馬台国って木の看板建てとけよ
>>456
じゃ、八面山信仰の祖
御許山にしとくね 邪馬台国が九州にないのは確定的
大陸や半島からみれば九州地方の情報は当時既に結構な量を持っていたから邪馬台国が九州にあればもっとはっきりと場所が記されているはず
>>459
そんなこと言うと全部が同じ事よ
根拠がペラい 魏志倭人伝で方向が正しかったら邪馬台国は九州
距離が正しかったら畿内
方向間違えるなんてありえないと思う
で、九州のどこに邪馬台国があってどこに卑弥呼の都があったわけ?
いつもはっきり言わないよね
「俺の説」みたいなのはよく聞くけど
九州派全体の統一見解がない
>>461
倭人伝には東治の東に倭国があるってはっきり書いてある。
つまり倭人伝の著者は沖縄県あたりに倭国があると認識していた。 これだけ災害の多い島国なのに、墓を作る暇もなく滅亡したとは誰も考えないし、考えたくないってのが問題。争いに負けて滅亡或いは墓自体を破壊されたかもしれないし、未だハッキリとした答えが出ないならそう考えたほうが自然なのに。
ちなみに邪馬台国ってジャバザハットっぽい
>>461
反対かな
魏志倭人伝の記述のつじつまを合わせると距離は九州で方位は畿内だよ
ちなみに記述どおりに場所を割り出すと邪馬台国は九州よりさらに南方の海の中になる 多き田に恵まれた土地で大分だしな
でも邪馬台国はねえわ
ネトウヨ 「日本の歴史は、皇紀2678年もの長きの間・・・」
おれ 「とりあえず1800年前の邪馬台国の文字や記録が、なんで中国側にしか無いの?」
ネトウヨ 「お前がチョンなのがわかった」
おれ 「ええっ?」
ネトウヨ 「2678年前の神武天皇の日本建国によって日本の歴史は・・・」
おれ 「1800年前の邪馬台国の卑弥呼って、どんな人だったのかな?」
ネトウヨ 「お前がチョンなのがわかった」
おれ 「」
ネトウヨ 「邪馬台国とは、当時の中国語でヤマトと発音するまさに近畿説を・・・」
おれ 「江戸時代の新井白石が無理やりヤマトと発音する事にして、本当は邪馬壹國と書くの・・・」
ネトウヨ 「お前がチョンなのがわかった」
おれ 「」
ネトウヨ 「まさに皇紀2679年にあたる新年1月1日をむかえて、日本の歴史は・・・」
おれ 「今の1月1日は明治時代にグレゴリオ暦(キリスト紀元 西暦)を輸入した物で、本来は旧暦(2月)…」
ネトウヨ 「お前がチョンなのがわかった」
おれ 「」
関西だろうが九州だろうがどっちでもいいが、その頃の日本には文字はなかったのか?
球磨郡です これが真実です が
5ちゃんねるの おこちゃま 論争を 楽しんで つずけてください
邪馬台国がどこにあったか など 中国 あめりか 日本 など とうの昔にわかっててあえてゆわない
どうでもいいからです しかも あまりにも簡単だった 魏志倭人伝に書いてる から
それを あーだこーだ ゆうてるのは 素人学者 たちがぎろんしてるだけですね
大分って箸墓ミニチュアタイプの古墳あるとこだよ
つまり畿内ヤマト王権の威光を誇示してたってことな
>>461
両方間違ってる可能性は?
現時点で確証もあやふやな物信じるより別の証拠探した方が合理的では >>463
メルカトル図法じゃなくて正距方位図法の地図で見ようぜ
当時は東は東南東から東北東までの45°だったことも考えれば
逆にかなり正確に位置を把握していたことに驚く >>465
一旦船で南下して有明海に入って筑後川から上陸説 「水行十日陸行一月」は投馬國からの距離じゃなくて、
帯方郡からの総里程だと読めば九州説で距離がぴったりあう
よくわかんねえけど
大分が邪馬台国だったのか、関東人のおれはそれでいいや
対馬がカンニングの後出しだといい加減気づけ。
あそこまでは疑問を感じず、そこから先が謎解きだと思ってるやつは
チョン皇家にいいように騙されてるぞ。
>>449
>>450
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ 魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民;
そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。
魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「?齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる
こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな
地の果てまでが萬二千里というのは、>>484で淮南子の数字を出しているが、
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている 比定地のはっきりしているところで距離を確認すると
海上距離
狗邪韓国ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
陸上距離
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
海上距離で2倍、陸上距離で4倍に差が出る
区間ごとにこんなに伸縮する短里などない
実測値ではなく机上で当てはめて作った数字
短里を使う人、使う理由のある人はいない
公孫氏はもともと漢人であり、漢の度量衡の元で生まれ育っているし、
最後に叛旗を上げたが、直前まで漢の左将軍という官職にあった
漢尺の体系以外の単位を使う理由がない
建忠校尉梯儁も塞曹掾史張政も魏の役人であり、魏の公定尺の度量衡に従う
度量衡の公定は皇帝の権限なので、役人がそれに逆らうことはありえない
倭人は里を知らないとあるから当然短里も知らない
短里が存在しない世界で、短里で計ったとするのがそもそもありえない
倭国まで萬二千里とされたのは、晋の高祖、司馬懿の公孫氏討伐により東夷が朝貢に来たことを
過大に持ち上げて顕彰するため
曹真が西域の大月氏を朝貢させているので、それに見合う東の最遠国とする必要があった
漢書西域伝で「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」なので、それに見合う萬二千里が
最初から決まってるんだよ
倭国の本土までが同様に「萬里の修交」をうたうために最初から一万里とされ、
渡海距離は計れないから遠い距離を表す「千里」で、一律で決め打ちで書かれていて
渡海3回で三千里
残り七千里に合うように、帯方郡からの韓地が南北で四千里、
東に曲がる南西角から東の端まではいかないから東西は三千里で七千里になるように
漢地方四千里が逆算で計算されてる
ここでは書かないけれど、周髀算経の一寸千里も実測値ではなく、
蓋天説という間違ったモデルから計算上出てくるだけの数字というのも既に論証済み
短里なんてないんだよ
そして、短里がなければ、短里で北部九州でちょうどだからというのが根拠なしになり
水行20日+10日、陸行1月を無視する理由がなくなって、北部九州に邪馬台国を求める説は
不可能になる
魏志倭人伝の記述をそのまま辿れば邪馬台国の位置は沖縄ぐらいになるんだよな
もうこれは何の解決にもならないものとして切り捨てた方がいいよな
江戸時代から学者を含め色んな人が辻褄を合わせようとして苦慮してきたのに何の結論も出てないんだから
今どきこんなものに夢中になってるのは素人だけだろうな。学者はもうすでに相手にしてないでしょ
そこには邪馬台国の謎を解く鍵は含まれてないと思ったほうがいい
ID:jTewOlt80
これってよく沸く基地外チョンモメンちゃんかな、相変わらずアホ丸出しな書き込みだな
>>492
邪馬台国沖縄説の人かな?それなら書かれてることに間違いは無いな >>11
だから。他スレにも数多あるが、特に鹿児島がひどい。火山噴火で全く人など住んでいないところに上野原遺跡
をねつ造で作り上げたりしている。 七千餘里+始度一海千餘里+又南渡一海千餘里+又渡一海千餘里+東南陸行五百里
=10500里
自郡至女王國 萬二千餘里なんだから残り1500里でどうやって沖縄や近畿に行けというのか
「架空の数だ」「女王國は邪馬壹國以外の国を指す」とか訳のわからないこじつけを
前提にされても困るんだ
九州王朝 = ヰ国 = 倭(委)国 = 邪馬壹國 と(※倭も委も壹も発音はヰ)
近畿王朝 = やまと国 = 日本
は別物だというだけなのにな
畿内説だとヤマト王権が魏志倭人伝で書かれてる様な風俗の国ってことでいいん?
鬼道の巫女に支配されて全身入墨で素潜り漁とかしてるんだけど
>>491
年中野菜が取れるって倭国の気候に触れたところだけをみると熱帯の沖縄なんだよな。
けど邪馬台国ではなくて九州確定の国を含む倭国全体のことをさしてそう書かれてる 奄美の伝承にある女神「阿摩弥姑 アマミコ」と「志仁礼久シニレク」
なんかは興味深いと思うけどね。 位置的にも。
邪馬台国が沖縄だとしたら島伝いに航海する関係上、
途中の奄美や屋久島と言った南西諸島の島々に触れてないと信頼性ないよな。
>>501
それはある。まああの辺の風俗、トカラの「ホゼ」とか
一斉休日の「ヒチゲー」とか、なんか独特なものがあって
人類学的には面白い。 >>493
だから「具体的な指摘」をしなさいって
そもそも九州説の方が、日本の歴史を貶めるパヨク、半島系の策動だぞw
だいたい大勢が畿内説なのに反対してるのはパヨクが体制側だと思い込んでるからだし、
皇国史観だからどうとか皇統は朝鮮からきたとか言ってる九州説が半島ホロン部だww
まあ、>>493もそのお仲間なんだろうけどw >>496
>七千餘里+始度一海千餘里+又南渡一海千餘里+又渡一海千餘里
これがそもそも倭国本土上陸まで一万里っていう「設定」に合わせて
「机上で作った数字」なんだから、実測値ではないし実際の地理と妄想している関係ない
そんな数字に頼るしかないのが九州説の苦悩だよなww
>東南陸行五百里
これは実際の現代の地名でいうとどこからどこへ行く旅程なんだい?
末盧国はどこ?
伊都国はどこ?
この東南陸行五百里はどうやっても現実の地理には合わないんだよ
これを正しいと言いはる九州説って大変だよな >>497
これなし
後漢書見落としとか酷いことをしてるわ >>501
つまり北九州からいきなり奈良県まで飛ぶ畿内説()は穴だらけと言いたいのだな >>507
少なくとも吉備または出雲に触れていないのは変 >>507
畿内説にもそう言えるさ。
畿内にあったなら通過する瀬戸内海沿岸の国々についての記述があってしかるべき。 >>24
皇族に気を使ってまともに古墳調査もできない国があるらしい >>505
少なくとも伊都国=糸島はあり得ないよな
頭おかしいことに九州説も近畿説も受け入れてしまっているけど
https://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/52dd43e7249aa8b9b4926229898ec2c4
①『倭人伝』の方角と距離は調査記録か歴史書編纂者が誤ったとして、
②大国の威厳と誇りを満載しただろう自慢の船を唐津で乗り捨てる。
③そうして、東南とあるところを東へ歩き、
④荷役従者と随員をひき連れて500里とあるのを100里ほど、ありもしなかった陸路を歩き、
⑤「港から港へ陸行」という不可解な行程をたどり、
⑥伊都は「いつ」と読む根拠ばかりなのに「いと」と読み、かつて怡土と呼ばれた糸島半島基部に向かう。
⑦地理的・軍事的には博多湾の一部と思われる糸島半島の前原を伊都国とし、
⑧博多湾勢力の遺跡の一つと思われる遺跡を理由づけに前原を伊都国とする。 >>507、>>509
>少なくとも吉備または出雲に触れていないのは変
出雲が投馬国五萬餘戸なんだよ
投馬国の上古音はdug-mag国
雑にカタカナ書きすれば、ヅマ国だ
イヅモの最初のイが弱声化して聞き取られなければ、(ィ)ヅモ国だし
聞き慣れない外国語の音訳当て字としては十分に一致している
出雲も各地に土器が出る交流の結節点であることは考古学的に確実だし、
倭国第二の大国、投馬国・出雲を経由して日本海経路で大和に向かったとすれば、
北部九州から日本海沿岸を水行20日で出雲、そこからさらに日本海側を
水行10日で丹波に着いて、そこから福知山、亀岡経由で、京都盆地を抜けて平城山越えで
奈良盆地に入れば、南陸行一月で大和・邪馬台国に至るという魏志倭人伝の旅程とよく合う 仮に出雲=投馬なら松浦から海行だけで行くよ
陸行も水行も不要
九州説はまず邪馬台国の候補地がどこなのか決まってから説名乗れよ
それらしい遺跡はまったくないけど九州のどこかですってアホかよ
邪馬台国は九州にあった地方豪族。
邪馬台国と大和朝廷は別物。
大和朝廷は近畿にある王朝。
だから邪馬台国と天皇家とは関係なし。
こういうことじゃないの?
>>514
>仮に出雲=投馬なら松浦から海行だけで行くよ
海行って言葉は使われてないだろ
水行が海路の沿岸航行であり、弥生時代の主要交通網
>陸行も水行も不要
九州内に陸行は、旅程記事というより倭国の分かっている国の地理の紹介だろう
卑弥呼の時代には玄界灘沿いに西新町遺跡や博多遺跡という港湾遺跡があるから、
末盧国には寄らずに舟でそのまま伊都国・奴国に向かったと考える方が妥当
水行は言葉の使い方に誤解があるのだと思う >>516
>邪馬台国は九州にあった地方豪族。
そういうことがないように、除正使の建忠校尉梯儁が派遣されて倭国の代表であることを確認してる
北部九州まで、より大国の吉備や出雲や丹波や大和の人が来てるから、騙せないよ >>515
あれだろ、隼人の反乱で姫木城に篭った桂姫みたいな
女族長がいたりするから、その辺と混同するんだろうね。 >>518
プロと言ってはおかしいかもしれんが専門の方? >>517説だと無理があるところ
1.山島に依り(当時近畿は島だと認識されていない)
2.使訳通ずる所は三十国(当時の国のサイズだと30国では足りない)
3.七千余里ほか(里程を明記してあるところをすべて無視という暴挙が必要)
4.東南陸行。五百里。伊都国に到る(なんのために港から港まで歩くのか)
5.南、投馬国に至る。水行二十日。(南を東と読みかえる。これまで海は「渡一海」としていたのを無視)
6.水行十日、陸行一月(出雲から大和まで何をどうすればこんなに時間がかかるのか)
7.その南、狗奴国有り(また南を東の誤りとか苦しい無茶を繰り返す)
8.緝績して細紵、?、緜を出す&竹箭は或いは鉄鏃(九州北部には良く出るのですが近畿には)
9.倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す(奈良は明らかに無理ですね)
10.その木には?、杼、橡、樟(当時の九州の植生のまま)
11.女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて(近畿だとどこだと)
面倒になったので取りこぼしあるが 今年に入ってから福岡の赤村って所ででかい古墳が発見されたな
>>523
> 9.倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す(奈良は明らかに無理ですね)
> 10.その木には?、杼、橡、樟(当時の九州の植生のまま)
> 11.女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて(近畿だとどこだと)
これほんとむちゃくちゃだよな。 だから「邪馬台国」「卑弥呼」は司馬仲達がこさえたフィクションだっての
>>526
九州だと太平洋側、西都、大崎、東串良の辺りに古墳が集中しているから、
なんか繋がりがあっだんだろう。 >>217
ほーん、天皇の祖先が鰐(ワニ)ってのは倭奴(ワヌ)ってことか >>522
高等教育は受けているけれど、古代史は専門じゃなくて趣味だよ
趣味家でも、十分な情報はその気になれば手に入るのに、それをせずに30年も前の
安本東遷説や古田九州王朝説の亜流を続けているのが、今もネットで
暴れている九州説の残党なんだよなぁ >>523
一つ一つ行くよ
>1.山島に依り(当時近畿は島だと認識されていない)
參問倭地、絶在海中洲島之上、「或絶或連」、周旋可五千餘里
或いは絶え或いは連なり、とあるから「連なったかなり大きな島」は認識されている
大陸からすれば、海を渡った先にあるのは全部島だ >>523
>2.使訳通ずる所は三十国(当時の国のサイズだと30国では足りない)
九州は中心となる王権の伸長が進まなかったが、出雲は四隅突出墓の範囲の
広域を一つの勢力としているし、畿内は弥生時代後期に入る頃に
「大和+河内~環大阪湾」の範囲が畿内第V様式土器を共通に使う共同体を作っている
この「四隅突出墓の出雲」が投馬国五萬餘戸の範囲で
「大和+河内~環大阪湾」が邪馬台国七萬餘戸の範囲
このスケールなら、30余国でちょうどだろう >>523
>3.七千余里ほか(里程を明記してあるところをすべて無視という暴挙が必要)
そもそも倭国までの距離は、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐により東夷が朝貢に来たことを、
曹真の大月氏朝貢に匹敵する功業とするために、過大な距離に誇張されている
大月氏が漢書西域伝に、大月氏國治監氏城去長安「萬一千六百里」とあるので、
それを超える淮南子の東方之極までの萬二千里に「設定されている」
そして、後漢への朝貢時に既に萬里の修交とするために、おそらく倭地にたどり着くまでが
一万里とされており、渡海は計れないからすべて一律で「遠い距離という意味の千里」とする
すると半島沿いの水行は自動的に七千里になるし、半島の西側を南に四千里、
南西角で東に転進して東の端まで行けば四千里、その手前から渡海するので東向きは三千里
これに合わせると韓地方四千里も出てくる
女王国まで萬二千里
倭国本土まで一万里と最初に決めてから、机上の計算で当てはめているだけ >>523
>4.東南陸行。五百里。伊都国に到る(なんのために港から港まで歩くのか)
その前の末盧国に着く部分も含め、卑弥呼の時代の魏使の経路ではないだろう
倭面土國王帥升の朝貢の頃には、半島から末盧国に上陸してそこから松浦川に沿って
東南陸行して佐賀平野に抜けて米多郷に向かったのだろう
この記録があったために、倭国の地理紹介として末盧国の記事が入っている
しかしおそらく末盧国には魏使は寄らずに直接伊都国に舟で向かい
その後も舟でそのまま移動したと考える方が合理的
末盧国からの東南陸行五百里は佐賀平野へ抜ける経路としてこそ意味があり
伊都国への経路としてはどう考えても合わない
伊都国の「郡使往來常所駐」の記述は逆に末盧国には寄らないことを示している >>523
>5.南、投馬国に至る。水行二十日。(南を東と読みかえる。これまで海は「渡一海」としていたのを無視)
渡海と水行は区別されている
渡海は外洋に漕ぎ出す航海で、何かあったら死に直結する持衰頼みが必要な危険な航海
水行は沿岸航行で、何かあったら陸に寄せれば済む比較的安全な航海
水行と書いてある以上、日本海岸の航海となるのが必然
南を東と読み替えるのは、陳寿の認識で日本列島が会稽東治の東まで
南に長く伸びる洲島だと考えられているため
国の配置も帯方郡に近い北からより遠い南へと順に書かれている >>534
こういう無茶苦茶な欺瞞を繰り返さないと成立しない
近畿説がなぜ成り立つと思えるのか不思議でたまらない >>523
>6.水行十日、陸行一月(出雲から大和まで何をどうすればこんなに時間がかかるのか)
出雲から丹波まで水行10日、丹波から大和まで陸行1月でそれほど不自然はないと思うが?
出雲から丹波まで150キロくらい、丹波から大和まで陸路で170キロくらいになる
水行部分は一日20キロ弱進むとすれば8日くらいで10日単位に丸めればちょうど10日で合うし、
陸路170キロも途中で歓待を受けながら天気のよい日に進むと考えれば頃合いだろう >>523
>7.その南、狗奴国有り(また南を東の誤りとか苦しい無茶を繰り返す)
>>536でも書いたように、陳寿の認識で「帯方郡から遠い方向が南」になっているだけ
また後漢書では自女王國「東度海千餘里至拘奴國」と
東とされている >>523
>8.緝績して細紵、?、緜を出す&竹箭は或いは鉄鏃(九州北部には良く出るのですが近畿には)
古墳時代の古墳からはたくさん出てるよ
その直前の纒向古墳群が墳丘が失われていて埋葬主体が発掘できないため
早い時期のものが出ていないだけ
ホケノ山と椿井大塚山古墳だけで、弥生時代の全九州の出土量くらいの鉄が出ている
絹についても九州で出るのは古い時代が多く卑弥呼の時代には逆にほとんど出なくなっている >>523
>9.倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す(奈良は明らかに無理ですね)
北部九州でも無理だよ
陳寿は倭国を與儋耳朱崖同と書いているように、海南島と同じくらい南方だと思っている
畿内と北部九州ではそんなに気温も違わない
北部九州は日本海側だから、畿内より雪は多く降るくらい >>523
>10.その木には?、杼、橡、樟(当時の九州の植生のまま)
北部九州も倭国だから北部九州の木が書かれていることにはなんの不審もない
邪馬台国にしかこれらの木がないと書かれている訳でもないし、
倭国内の邪馬台国の比定地探しには意味がない >>523
>11.女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて(近畿だとどこだと)
伊勢湾を渡ってもいいし、伊豆諸島と考えてもいい
だが、魏略では倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種と
冒頭にあり、また「東」とも書いていない
渡海千里は一日で漕ぎ渡れる距離を示す一律の距離だから、本来は
隠岐の島や佐渡、伊豆諸島のような日本列島周辺の島もみな倭種であることを示しているだけだろう >>537
>こういう無茶苦茶な欺瞞を
どこがむちゃくちゃな欺瞞なのか、「具体的に指摘」してくれるかな?
九州説の人は捨て台詞のように言いっ放しで逃げる人ばかりだから、議論が深まらない
まあ、具体論に入るとことごとく論破されるだけだから、具体的なことを書かずに
反論したつもりになって満足しているのだろうけれど >>545
キタムラの頭のなかってこんな感じかな
って気はしたな