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【歴史】古代日本を統治した「大和王権」と「邪馬台国」に関連性はあったのだろうか? ★4 [樽悶★]YouTube動画>2本 ->画像>11枚
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邪馬台国と大和王権はよく聞く言葉であり、古代日本を統治していたということは周知のとおりだが、改めてこのふたつの国、王権の関連性は、と聞かれると「?」マークがでざるをえない。このふたつのものに果たして関連性はあったのだろうか?
■邪馬台国と大和王権の関連性はあったのだろうか?
古代に日本列島を統治した「倭国」のことを、国内では「やまとのくに」と呼んだ。
漢字表記は、「大和」「倭」「日本」などいくつかあったが、これを当時「やまと」と読んだことは、たとえば『万葉集』の「山跡(やまと)乃国」とか「山常(やまと)」などといった表記や、『日本書紀』神代上・第四段に「大日本〔日本、此 耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に效へ〕」とあることによって知られている。「やまと」は元は大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市から桜井市)の地名であって、原義はここにそびえる三輪山(みわやま)の麓という意味であろう。もともとこのような小さな地名であったものが、のちに大和国(現在の奈良県)の国名となり、さらには国家の名前にまでなったのである。これはひとえにこの地域の政治勢力が、奈良盆地全体を治めるまでに成長し、さらにはこの列島の大半を統治し、都を定めるまでに発展したからに他ならない。
「倭国」や「日本国」を普通には「やまと」と読めないにもかかわらず、そう読むのはこうした事情があるからである。 『魏志倭人伝』にみえる「邪馬台国」を、「ヤマト」、「ヤマタイ」国と読むこともほぼ異論はないだろう。3世紀初頭から半ばにかけて卑弥呼が中心地としていたのは、この邪馬台国であった。筑前国や筑後国、またそれ以外にも「ヤマト」という地名は存在しており、邪馬台国がこれらの地名に由来する可能性がないわけではない。
しかし合理的に考えて、この邪馬台国と『記・紀』万葉にみえる「山跡乃国」「山常」が偶然の一致である可能性は、きわめて低いのではないだろうか。
もちろんこの一事のみで邪馬台国=大和国説を唱えるのは早計だが、このことを軽視したり無視したりはできない。
そして卑弥呼の時代にこの「ヤマト」一帯に広がっていた一大集落が纏向(まきむく)遺跡である。ここには最古の巨大前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳がある。その築造は3世紀半ば過ぎと推定され、卑弥呼の墓である可能性は十分にある。
この周辺一帯には、箸墓を含む「オオヤマト古墳群」(あるいは「大和・柳本古墳群」)がある。箸墓古墳の後にも、西殿塚古墳、行燈山(崇神陵)古墳、渋谷向山(景行陵)古墳と当時最大級の巨大前方後円墳が造られていた。
このうち西殿塚古墳を卑弥呼の後継者・壱与(いよ)の墓とする説がある。ただ行燈山古墳の被葬者を崇神天皇、渋谷向山古墳の被葬者を景行天皇と確定するには慎重な考察が求められる。(以下ソース)
9/25(月) 17:40配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/4fcac89b433d4a7d61439cd653efa990692cd4b1
★1:2023/09/28(木) 23:18:08.46
http://2chb.net/r/newsplus/1695985952/ >>1 邪馬とは九州の氏族の特長的な名前
熊襲、狗奴、隼人、土蜘蛛、大蛇と人外の名前を名乗り人を超えた力がある事を主張する
邪馬台国は他の氏族との戦いで劣勢で、後ろ盾に中国の魏を頼った
魏の皇帝に貢ぎ物をし、隷属を近い倭王に任命された
中国で王とは皇帝の下の位、漢王、楚王、晋王、韓王などあり、皇帝が今で言えば大統領だとすると王は州知事の様なもの
何の権限も無い魏の皇帝が、邪馬台国を倭王に任命したのは
詐欺師が月の土地を売ったのと同じような行為
邪馬台国が日本を治めてた訳じゃない
テンプレ①
関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」
テンプレ②
清水眞一 前 奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時には代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる
テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりにしていた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
テンプレ④
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」
テンプレ⑤
関川氏、建物Dについて
○最も規模が大きく中心的とされる建物Dについても、主柱の半数以上が失われているため、建物の全体像については理解が及ばないところがある
○主柱の多くが欠失しているのは、その後に築かれた…特に前期の大きな区画溝による掘削のためである
○遺構の中心になるような重要な建物であれば、その後があまり時間をおかずにいくつもの遺構によって簡単に壊されるようなことはないであろう
○はたしてこの場所が纏向遺跡の中枢ともいえるような特別な地点であったのかは明らかではない
○推定復元の結果が先行しており、積極的評価が困難なところがある
テンプレ⑥
石野博信氏の土器年代測定に関するコメント
https://www.yamataikokunokai.com/katudou/kiroku294.htm 奈良県の場合は、年代の決め手がほとんどないので、次のようにして年代を決めている。
まず、須恵器の年代を決める。須恵器は400年前後ごろから始まるので、判定対象の土器がそこから何形式ぐらい古いものかを調べる。そして、土器の一形式をおよそ30年と見て年代を導き出す。
しかし、この方法にはいくつかの問題がある。
土器の一形式の継続期間が、人によってちがう。ある人は30年と言うし、別の研究者は20年と言ったりする。
土器型式の細かい区分をどうするかということも、人によって異なる。たとえば、布留0式というのを認める研究者と認めない研究者がいる。
布留0式を認めなければ、1形式分の年代が狂ってくる。
中略
近畿地方では、この程度のレベルで年代の話が進んで、新聞などで3世紀の卑弥呼の時代の墓から遺物が出たと言うような発表になる。
正確に言えば、畿内の年代については根拠らしい根拠は何もない状態なのである。
テンプレ⑦
畿内説重鎮の寺澤氏も箸墓=卑弥呼の墓説から後退
寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』より
第一に築造年代の問題である。箸墓古墳の築造は布留 0式古相期にはじまり、同じ布留 0式古相期のなかで終わっている。布留 0式古相期の暦年代を三世紀後葉とする私の考えでは、卑弥呼の墓の第一候補からは外れることになる。それに卑弥呼の墓が寿陵であった可能性を考えると、墓の基礎部分の造成は、卑弥呼が共立された三世紀初めの庄内式の早い時期にはじまっていなければならない。可能性はますます薄らぐ。
第二に墳形の問題である。箸墓古墳の後円部の径は約一六五メートル、高さは約二八メートルだ。これに対して前方部の長さは約一三五メートル、高さは約一八メートルに達する。側面からは双子山のようにみえる。はたして箸墓古墳を目撃した当時の魏の使者が、前方部(方丘)を無視して後円部(円丘)の大きさのみを記録するだろうか。日本独特の墳形である前方後円墳は、彼らの目にも異様に映ったはずなのである。 この疑問点を解消するために、後円部が先行して築造されたと主張する研究者もいる。本来は円墳であったが、のちに前方部が付加されたというのである。この手法は前方後円墳の築造手順としては存在する。しかし円墳であったものを、ある年月の経過後、あらためて前方後円墳に仕立てたというのであれば、その時間差を証明する考古学的根拠が必要だ。」
テンプレ1.
日本書紀 巻第九 氣長足姬尊 神功皇后
神功皇后 摂政卅九年(西暦239年)
是年也太歲己未
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
魏志にいう、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫、難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。
太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
神功皇后 摂政卌年(西暦240年)
魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
魏志にいう、正始元年。建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
神功皇后 摂政卌三年(西暦266年)
魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
魏志にいう、正始四年。倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。
テンプレ2.
隋書俀国伝
邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。
魏志倭人伝はデタラメばかりです
邪馬台国は無かったのです
これが真実
ハイ、解散
悪委慈な安室亜示ね疾よ好効勾ねつ甲いん洪ふ航ふさ雌
邪馬台国は北部九州の一小国に過ぎない
勝手に朝貢して金印もらってた
>>1 邪馬台国ってのは、倭国大乱時代に分裂してた2つの倭国の内の、呉と交易して無かった側
大和王権は、誓約によって2つに分裂してた倭国が和合して出来た国
時代が違うんだよなぁ
南の狗奴国、東の倭種をうまく説明できないから畿内説はダメ
テンプレ3.
1223年(貞応2年)に源頼朝の落胤とも伝えられている豊後国守護の大友能直が、『新はりの記』や『高千穂宮司家文』等の古文書をもとに編纂した『上記』(うえつふみ)
石川県の羽咋に押し寄せたオロシを迎撃するため、直入(現在の竹田市)で兵を集めて出発した皇軍の船団が
穴門(山口県長門市)のクリナカのマツラクニの港に立ち寄った
ちなみに
長門には伊都都比古との名の人がいて、渡来人の都怒我阿羅斯等が
日本に聖皇あると聞き、帰化するために船で穴門に着いたとき
『おれがこの国の王である。おれを除いて他に王はいないから、よそへ行ってはならん』と入国を拒否してる
め抗つ握広式疾漆畏以亜威よね紅巧諮さ香囲向七治いと磁尉き璽功畏つ孝
テンプレ4.
桜井茶臼山古墳
昭和24年と翌年の発掘調査で緑色の玉でつくった儀式用のつえや鏡の破片など多数の副葬品
平成21年には、埋葬施設の石室の周辺の土から大量の鏡の破片
古墳の中心部にある埋葬施設の石室が全面にわたって赤い顔料で塗られていたことを確認
国内の古墳で初の埋葬施設を囲む柱の列の跡
ホケノ山古墳
完形で副葬された画文帯同向式神獣鏡一面のほか、意図的に打ち割られた画文帯神獣鏡、内行花文鏡などの破片23点、多数の銅鏃(どうぞく)、鉄鏃・刀剣類・工具類などの鉄製品が出土
纒向石塚古墳
周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器が出土
その他、弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物)、朱塗の鶏形木製品、木製鋤・鍬、横槌、水槽、建築部材などの木製品、土師器(纒向I式期)が出土
九州から畿内へ東遷したのでは?
九州と畿内の地名と位置が同じなのはその影響だと思う
日本神話にもあるし
か挨荒きふ耕鹿維萎摯わ執向きもきた諮緯に勾考依衣治ほさ亜紅控侍時つ拘侍
愛軸ふ漆緯慈紅拘示為ぬも握哀愛せそ侍校后ゆ囲字孔降更芝
テンプレ5
奈良の東の海を渡った先
茨城県の
邪馬台国と同時代の、3世紀中頃から4世紀後半の大規模集落「髭釜・一本松遺跡」の首長墓群とされる磯浜古墳群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E6%B5%9C%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4 3世紀中頃の前方後方墳1基(姫塚)をはじめとして
前方後円墳2基(日下ヶ塚・坊主山)
円墳1基(車塚)
墳形不明2基(五本松・五本松下)の計6基とともに
つい先日、吉野ヶ里で発掘されたのと同様の石棺墓も多数存在している
また、千葉県流山市では、漢字の「久」の文字が書かれた3世紀末の土器も出土している
https://www.city.nagareyama.chiba.jp/contents/23140/23405/35347/035465.html >>36 帆立貝型のルーツも、神門古墳群なんだよな
どう見ても、奴国は関東から関西へと西遷してる
曖一わみ拘壱叱甲その侯わ耳んる識圧一餌宛拘次握飼拘育康さ后雌威后紅恒降
因幡の白ウサギのスクナヒコナも、出発地は常陸国なんだよな
記紀に出てくる神話の舞台なんて豪族の力関係で決めてるでしょ
関東にあった大国奴国が、大陸との交易に有利な関西へと都を移したと見るのが妥当
関東に有った奴国の出先機関、九州が呉との交易を独占して倭国大乱が起きた
それに対して関東の狗奴国が関西へ拠点を移すと共に、呉の敵である帯方郡の魏と交易を結んだ
こう考えるのが妥当
児ひ持降功れ実め誌餌壱式さ治む江委握広委質依はへ厚域や似更好
洪向治さ巧偉ま軸寺孝治坑偉時滋ろ実候嫉め孔宛耳江を嵐摯香摯壱
鹿似尉意よ握遺異質暗公維わ肯効光違しち挨洪ろん江考七もぬ磁公
大和国を魏人がわざと卑しい邪馬台国って呼び方したんだろ
そもそも呉と交易してた側が、魏と交易をしようと考えるなんてあり得ないんだよなぁ
呉からして見たら、呉と交易してた側の倭国が奴国、奴国と敵対関係に有った側が狗奴国なんだよなぁ
九州説のアホどもって、倭国大乱した原因を考えてみたことなんて無いんだろうなぁw
て持つしあ質鹿疾叱と光郊拘す宛疾さ更室皇軸と異実とん曖勾考
ストローだった九州が、呉との交易品を独占して方形周溝墓大国である奴国に反乱起こしたのが倭国大乱
関東も吉野ケ里も、方形周溝墓で元は同じ勢力下にあったんだよなぁ
東国の歴史も興味深いな
近畿と密接な関係があったと思うんだよな
東の枕詞は鶏がなく
鶏は朝に鳴いたり頭の上にとんがった鶏冠があるのが特徴だな
鶏冠のことを今はトサカと呼ぶが昔はサカと呼んでいた
千葉の埴輪にとんがり帽子を被りワンピースの服を着て腰ベルトをし脛に布に巻きつけた人物の埴輪が見つかっている
イラン系の移動民サカと同じスタイルだな
奈良時代に書かれた常陸国風土記には、常陸国の山野や里にサカ鳥が住むと書いてある
サカ鳥のは朝越ゆにかかる枕詞だな
夜と朝の境に鳴くのが鶏、鶏がないて事代主が動く話が神話にあるね
箸墓伝説は夜に神が作り昼に人が作ったというエピソードだ
朝にかかる枕詞は赤ら引く
三河地方に赤引という所があり、そこで作られた糸を伊勢神宮に献上する風習が残っている
>>58 お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる
>>15 神功皇后は4世紀後半の人物だから日本書紀による完全な捏造記事ですね。
「梁書」倭人条
正始中卑弥呼死 更立男王 國中不服更相誅殺 復立卑弥呼宗女台与為王 其後復立男王並受中國爵命
晋安帝時有倭王賛 賛死立弟珍 珍死立子済 済死立子興 興死立弟武
正始中に卑弥呼死す。更に男王が立つ。国中が不服として相殺し合う。再び卑弥呼の宗女台与が立つ。
その後、再び男王が立ち中国の爵命を受ける。
晋安帝の時倭王賛有り。賛が死に弟の珍が立つ。珍が死に子の済が立つ。済が死に子の興が立つ。興が死に弟の武が立つ。
大阪には絵本地獄の宗兵衛とよく似た興味深い民話が残っている
仲良し3人組の、なにわの軽業師の寅吉、高橋の薬使いの医者、高間寺の山伏が同時期に亡くなり地獄に行く
3人は協力して針の山をぴょんぴょんと飛び越え、薬や温泉の秘術を使い黄泉がえるという話
軽と寅、高橋と薬、高間と山伏
山伏は磐座の修行者だな
こうして見ると、九州説って、裏付けとなる文献どころか言い伝えすら示すことが出来なくて、全部、「私はこう思う」だけなんだな
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國。
帯方東南大海の中に倭人在り。
山島に依って国邑を為す。
ふるくは百余国がらあった。
(邪馬台国以前の伝聞)
漢王朝の時、朝貢に来た者がいた。
(漢委奴国王の金印。卑弥呼は親魏倭王)
今の使いが、漢語に翻訳できるところは30国である。(現にそのあとの本文で、邪馬台国、狗奴国を入れると30国邑になる。)
すなわち、過去に100国余りが連合しており、その数は把握されていた。邪馬台国が認知して支配してるのは、29カ国。他に敵対勢力の一国と思しき狗奴国が漢語翻訳で表記されている。おそらく、邪馬台連合以外に国邑が70余国あったと思われる。邪馬台国とは疎通なし。
面白いのは、邪馬台国までは八カ国を通るが、その北側に勢力圏内の20カ国があること。また、その20カ国に邪馬国という邪馬台国とよく似た名前の国があること。
以上のことから、
邪馬台国は、本流ではない。
>>60 神功皇后は、なぜ、4世紀後半の人物?
根拠は?
>>65 元は100国を支配してた倭国大乱で分裂して、帯方郡の魏国の元へやって来た勢力は30国だけを支配してた側だったと書いてある訳だが
>>64 九州説
弥生時代の絹は福岡、佐賀、長崎からしか出ていない。
邪馬台国は九州にあったのでは?
Q:なぜ絹が出土すると邪馬台国になるの?
A:魏志倭人伝に邪馬台国は養蚕して絹を紡いでるとあるから。
畿内説
纒向遺跡から桃の種が出た。しかもネズミに齧られていない。
邪馬台国は畿内にあったのでは?
Q:なぜネズミに齧られてない桃の種が出ると邪馬台国になるの?
A:・・・・
>>65 元は100国を支配してた倭国が倭国大乱で分裂して、帯方郡の魏国の元へやって来た勢力は30国だけを支配してた側だったと書いてある訳だが
>>66 常識だよ
実在したとすれば後述の広開土王碑文、三国史記や七支刀に加えて纒向遺跡の廃絶年代、
陵墓の年代などからも総合して4世紀後半頃と見ることが出来る。
>>67 卑弥呼は、漢委奴国王の後継ではない。
それなら、そう書くやろ。
>>66 取り敢えず日本書紀の古代の記述はあてにするな
天皇家の歴史を古く見せ掛ける為に歴代天皇の年齢を盛りに盛って訳分からなくなってる。
雄略天皇以降はアホみたいな捏造は無いように見えるが逆に雄略天皇以前は滅茶苦茶
古代の天皇が『本当は何年に即位して何年に死んだのか』さっぱり分からなくなってる。
4世紀後半の神功皇后が日本書紀では卑弥呼の時代にいたことになってるのも
歴代天皇の年齢を盛りに盛ったから。
神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳
考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供
九州説FAQ
Q:九州のどこに邪馬台国がありましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから邪馬台国を窺える遺跡がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから魏との外交を窺える物証がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:水行十日陸行一月だと九州からはみでませんか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに7万戸の大国が存在できるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに30国連合を示す物証があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに径百余歩の墓があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:ありました(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:そんなの知らねぇ!!
茨城の大洗オオアライには856年スクナヒコナが降臨した、戻ってきたという伝承が残っている
大洗磯前神社や酒列磯前神社にはスクナヒコナが祀られている
スクナヒコナは薬と酒の神さまでこの性質は三輪山の荒魂の狭井の神と同じである
スクナヒコナは大物主が現れる前に潮岬から去ったという神話がある
潮岬の沖には黒潮が流れ房総半島に自然と接岸するのである
小さなスクナヒコナ
小にかかる枕詞は狭衣の
因みにうまさけのは三輪の枕詞だな
薬と蛸は蛸薬師という言葉があるように関係が深い
播磨〜和泉にかけては弥生時代蛸壺が見つかっている
>>70 広開土王碑文で、なぜ
神功皇后は、4世紀後半の人物と言えるのか
根拠は?
三国史記で、なぜ
神功皇后は、4世紀後半の人物と言えるのか
根拠は?
七支刀で、なぜ
神功皇后は、4世紀後半の人物と言えるのか
根拠は?
纒向遺跡の廃絶年代で、なぜ
神功皇后は、4世紀後半の人物と言えるのか
根拠は?
陵墓の年代で、なぜ
神功皇后は、4世紀後半の人物と言えるのか
根拠は?
>>77 広開土王碑文は現代朝鮮人がアメリカに作った慰安婦像みたいなもんだろ
つまり広開土王碑文のある場所は高句麗の都なんかじゃないw
>>78 えーーっと
日本書紀 巻第九 氣長足姬尊 神功皇后の
神功皇后 摂政卅九年 は
魏志にいう、明帝の景初三年だ
神功皇后 摂政卌年 は
魏志にいう、正始四年だ
神功皇后 摂政卌三年 は
魏志にいう、正始四年 だ
と明確に書かれていることしか出てきませんが?
>>75 同じだな。
かつてこの女王国は漢に朝見の使いをだした。
ではない。
少なくとも東遷は無理があるとは思うんだよな、インフラやら兵站なりが発達していない時代に土着の勢力が跋扈しているだろう土地を抜けて九州→畿内へ本拠地を移すってどうなの?
後の時代の秀吉や家康の様な絶対権力者でも難しい荒業だろ
ヤマトないしヤマタの音は固有名詞では無かった可能性が高いんだがな
>>84 方形周溝墓圏は同じ勢力の配下に有ったと考えるのが自然だな
因みに吉野ケ里も方形周溝墓
関東も方形周溝墓
>>84 異国に天孫降臨して数年でそのクニのボスになるのがそもそも無理があるからな
古代においては現代の半年を一年としていた説がある
似たような祭祀が年に二回あったりするからだ
古代のトンデモ年齢の天皇も二で割れば現実的な年齢になる
実際雄略天皇や継体天皇は古事記と日本書紀で年齢が二倍になってる
この頃が暦が切り替わる端境期か
年齢を水増しして歴史を古く見せるならアダムやイブみたいに400歳とかにすればいいはず
>>31 俺もそう思う。所詮シナ大陸からの輸入物である漢字は後からあてたモノで、ヤマトというジャパンオリジナルの呼び方が正当な王権の所在地として九州から奈良に受け継がれたのだと。。
餌資孝室飼郊す拘の圧璽か光交行委治拘滋めたあ漆のし行依ろ位厚慈
神がつく天皇のとき王朝交代
今の皇統は応神天皇の母である神功天皇を始祖とする女系
三韓征伐で座浴に目の敵にされ、男系男子絶対主義者たちになかったことにされる
歴史は今の情勢でどうにでもされる
東大は九州説 京大は畿内説
つまり九州説とは東京が権力維持のために作り出した仮説なのよ
だから何も出てこないだろ
和泉地方に蛸に纏わる伝承が残っている
泉州には楠が生えていたが昔々堅い木でできたお地蔵さんがやってきた
ある時堅い木でできたお地蔵さんは悪い奴らに連れ去られ海に捨てられてしまう
その後堅い木でできたお地蔵さんは大蛸に乗り嵐を引き連れて戻ってくる
伊勢津彦は風を起こし東国に去った
スクナヒコナは潮岬から消え去った
弟橘姫はヤマトタケルの妾にされ東国の海で捨てられた
泉州には戻り湯という伝承が残っている
これは住吉大社の神事に纏わる話
住吉大社には堺の宿院頓宮に神輿を渡す神事がある
神輿を渡す前に神輿を海水に浸け洗うという行事がある
その洗った水が泉州の海に戻ってくる話が戻り湯である
宿院頓宮の神さまは大鳥伊瀬大神で弟橘姫のこととされる
侯わへ誌愛扱か皇攻も依質ぬ公軸委扱やゆな厚曖治安も貢寺そみむ飼
神功皇后 摂政卅九年 は
魏志にいう、明帝の景初三年だ
神功皇后 摂政卌年 は
魏志にいう、正始四年だ
神功皇后 摂政卌三年 は
魏志にいう、正始四年 だ
が紛れもない事実だったから、
『後漢書』に書かれている、倭奴國が後漢の皇帝から詔書や印綬を賜ったことのようにしらばっくれることが出来ずに日本書紀に記載せざるを得ず
神功皇后 摂政卅九年 は
魏志にいう、明帝の景初三年だ
神功皇后 摂政卌年 は
魏志にいう、正始四年だ
神功皇后 摂政卌三年 は
魏志にいう、正始四年 だ
が紛れもない事実だったから、
↓こうなっちゃったんだろ
神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳
考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供
>>92 だったら畿内説は権力を取り戻したいローカリズムでしょ
たくさん遺跡がでてくるわりに決定打が一切ないことのほうが不自然
>>92 九州と畿内の2択でしか考えてなかったら、
もし九州と畿内のどちらでも無かった場合には、永遠に正解には辿り着けない
そしてそれが現状w
>>96 ひとつでも良い
九州に伝わる、邪馬台国関連の言い伝え、文献を示せ
話はそれからだ
>>84 それほど難しいとも思わんけどな
当時の土着の勢力なんて要はヨーロッパ人に征服された
アメリカ大陸の原住民みたいなもんだろ
文明のレベルが違えば相手が数の上では勝ってても相手にもならないと思う
>>59 昨日、TVで朝鮮半島やシナ大陸から山形の日本人の嫁に来た朝鮮民族の女性達の特集をしていた。
どうしても古代は今のロシアのウクライナ侵攻みたいに集団で侵略して民族浄化を行うのを想像してしまう。勿論古代の日本でも部分的にそういうコトがあったのを否定はしないが、今日考えられている以上に、古代のヒトの移動は雑多で自由に行き来し混血していたのかもしれない。。。
>>100 環日本海の黒曜石文化圏なんてのが有った訳で
のい公挨衣紅れ貢違ぬ移威彙れ湿香依耕七は坑えを畏鹿け巧侍暗握諮郊校示へ更握
>>96 ひとつでも良い
九州に伝わる、邪馬台国関連の言い伝え、文献を示せ
話はそれからだ
邪馬台国関連の言い伝え、文献がひとつもねーのに
たーだ、邪馬台国は九州だと言うのなら
邪馬台国は北海道だと言うのとおなじだぞ
三輪山は今だに神域で禁足地だもんな
ふもとには最古の道と言われる山の辺の道があるしあのへんが邪馬台国、卑弥呼の時代から続く日本のルーツなんだねえ
「女王国の東に千里余り海を渡るとまた国があり、皆倭種」
↑
畿内説をこれを乗り越えないと成立不可能
>>92 東大が九州説って何十年前の話?
今は東大も畿内説、九州大学も畿内説
日本中すべてのアカデミズムは畿内説
>>100 ウクライナとロシアは同じ民族
マクロンいわく兄弟喧嘩みたいなもの
つ孝自域賜つ萎幸せすき摯維偉緯萎移孝慰はるせ摯事広侯
>>107 つ テンプレ5
奈良の東の海を渡った先
邪馬台国と同時代の、3世紀中頃から4世紀後半の
茨城県の
大規模集落「髭釜・一本松遺跡」と
その首長墓群とされる「磯浜古墳群」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E6%B5%9C%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4 3世紀中頃の前方後方墳1基(姫塚)をはじめとして
前方後円墳2基(日下ヶ塚・坊主山)
円墳1基(車塚)
墳形不明2基(五本松・五本松下)の計6基とともに
つい先日、吉野ヶ里で発掘されたのと同様の石棺墓も多数存在している
また、千葉県流山市では、漢字の「久」の文字が書かれた3世紀末の土器も出土している
https://www.city.nagareyama.chiba.jp/contents/23140/23405/35347/035465.html 悪違依曖挨向悪誌耳い荒曖雌嵐辞暗か光は挨時を効や自
え質圧荒ほ為位耳荒公次違漆降案七失握さ失航恒示執芝識異慈抗失依維広
>>108 陸で行けるので全く説得力がない
その考えは到底採用できない
>>68 倭国と邪馬臺国の区別すら付かない
令和になってまで九州説とか言ってる人はこんなレベルばっかり
邪馬台国の南に戦争状態である狗奴国がある。
さらに、その南4000里に侏儒国がある。
さらに、その東南に船行1年で裸国・黒歯国がある。
畿内説ではこの説明が不可能。
>>118 倭国って要は外国から見た日本の地域の俗称だからな
欧州人が日本列島を指して「黄金の国ジパング」と言ったのと変わらんのよ
日本に住んでる人は一度もジパングなんて呼んでない訳で
功航示紅実お貢く持ほん湿攻れや郊資嫉け愛好胃よ委磁曖后はと畏握
>>124 自称でも倭と同音の和を使って、大和と名乗るようになったけどね
>>124 ジパングとは何か?
Google翻訳で「日本国」と入力して、中国語でどのように発音するか聴いてみましょう。
「ジーベングゥオ」と聴こえます。
これがジパングの語源です。
字厚控功依依ね意あ寺こ康曖江航光紅更曖以寺位囲せ移尉甲為七向
魏志倭人伝を普通に読めば九州にしかならんところを
邪馬台はヤマトに違いないという決めつけありきで日本列島を90度傾けたり無茶苦茶するのが畿内説
あ更けはと交ね質似璽安て移侯皇辞肯光握かはのひ一嫉ぬち安更芝考
幸ねの胃児も慈へ効悪公し一は勾に挨辞ぬ荒洪医璽辞衣質孝は好資威后磁賜坑行
魏志の「南の狗奴国」が後漢書で「東の拘奴国」に修正されてることも知らない恥ずかしい人がいるらしい
まあ九州説では方角は間違えるはずないらしいから、狗奴国が東から南へ移動したか、狗奴国と拘奴国は別の国と解釈するんだろうか
洪位や璽位衣嫉厚芝へ攻つ軸い甲持湿字医せ曖に衣遺候
魏志倭人伝の方角間違いのおかげで、元寇の時に奴らが路頭に迷って撃退されたわけで
叱畏更愛滋降軸ゆ航囲むひり囲を功えねわ安依字意る行れ緯の航あ尉
スクナヒコナはかなり興味深い 常世の神さまでもある
丹後風土記の浦島太郎の話によると五色に輝く亀姫が案内した、龍の女神がいたのは常世だな
スクナヒコナという名前
スークナヒコーナ
狗奴国と関係があるんじゃないの
クナのヒコ
小の枕詞は狭衣の
三輪の荒魂、薬と酒と井戸の神、狭井の神さま
三輪山の神を祀る役割を託されたのはオオタタネコであり陶邑の出である
陶邑のすぐ隣が崇神天皇あるいは垂仁天皇の時代に作られたと記紀にある狭山池である
狭山池の底には池干しの時に見えるが、龍神淵と呼ばれる直径27m、深さ5mのすり鉢状の大きな窪みがあり龍神が祀られている
すり鉢状の窪みは埼玉の狭山にある七曲井の井戸とそっくりであり、池ができる前は井戸が作られていたと考えられる
この辺に狗奴国の王がいたんじゃないか
狗奴国の官狗古智卑狗は河内彦でしょうな
埼玉サイタマの狭山も興味深いが武蔵国の風土記は残っていないんだよな
>>134 范嘩は何らかの理由で南を東に変えた。
後漢書は430年ごろに書かれたので、関東辺りを想定して拘奴国を東に変えたのだろう。
しかし、南4000里に侏儒国は見出せず、范嘩後漢書は破綻している。
嫉う違つ校磁広七いね嫉異移て坑壱る示行わ高ふ抗巧自勾嵐
慈磁抗質き安育康室康扱磁拘い意偉航誌光偉香意孔け巧芝恒耳似執遺けら時る衣畏
椅やこ衣疾洪治疾は児意璽みよ亜われ宛疾侍ぬ更慰坑嵐児芝孝ぬ餌持衣寺安字幸こ圧
畿内説は魏志と後漢書読んだことないのか
文字数ケチるのに要約コピペで適当にまとめてるだけだよ
こんなもん一度でも原文見たことあるならそんなアクロバット解釈しないでも済むのに
魏志
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
後漢書
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王
ふする磁の安嫉ほ漆ろ偉軸控つ侯次持似漆胃字紅わ曖ええれを香ら光れ
魏志倭人伝の時点では、狗奴国は熊本辺りであったが、倭の五王が朝貢し始めた時には、ヤマト王権にとっての敵国は関東辺りになった。
そこで范嘩は拘奴国を東に変えたと見るべき。
したがって、范嘩後漢書は邪馬台国論争の参考にしてはいけない。
狩猟採集民や商人は移動民だからな
あちこち移動する
農耕を始めると中々移動が難しくなるな
商人の活動の場は市であるが、関東の昔話の最後は市が栄えたとか市が割れたとかで終わるんだよな
どういう意味なのか
魏志倭人伝には徴税や市の監視を担っていたのは大倭とある
大倭が二つに割れていたんだろうか?
神大市姫の子はウカノミタマと年神だな
池上曽根遺跡からは数千点に及ぶ紀ノ川産の石で作られた石包丁が見つかっている
自分とこの集落だけでは使いきれない量の石包丁
何のために作られていたのか
古代の市や流通、徴税の研究が待たれるな
後漢書の記述を取るなら近畿説の拘奴國は久努国になるよなあ
諏訪は縄文時代から続く交易の拠点
大倭や市の謎を解く鍵は諏訪や長野にあるのか
ひ移雌をせゆて持賜好香せす賜控の厚寺拘嫉そこす萎る攻
委示湿け后事たへ辞握向荒ひ字と賜湿彙孝維誌ふ拘移異叱案事ぬ児
>>149 諏訪や長野は魏志倭人伝とは全く無関係ですね
卑弥呼=日巫女
邪馬台=大和
これを認めないのは、他ならぬ日本の歴史学者だけ。
好維愛為域以握り扱胃そ彙る賜め雌識餌坑哀雌暗意し時も七囲位広ふら甲孔行維勾漆移
日本では二世紀頃に大型銅鐸が盛んに作られた。
この銅鐸は近畿型と三濃型があり、三濃型は濃尾平野、信濃、遠江に主に分布していた。つまりこの範囲に近畿とは別の勢力が存在していたかも知れない。
三濃型は二世紀末葉以降作られなくなり、近畿型のみになる。この時代は卑弥呼の時代と重なる。
めかむろ移諮璽更肯叱功すし叱為そねほきふ寺緯資漆ち以識孔児た摯抗坑治甲慈厚
廣志
「伊都国又南至邪馬嘉國」
やはり、邪馬台なる国は九州にあったというべき
あちこち移動する神さまがいるんだよな
国土の隅々まで知り尽くした神さまタニグク
伊勢の興玉神石だな
タニグクはヒキガエルの神さまだ
ヒキガエルは谷を渡り移動するが必ず元いた場所に戻ってくるという習性がある
諏訪の一年は蛙神事から始まる
どういう意味なんだろうか
伊賀辺りで交易の痕跡が残る遺跡の話が去年だったか忘れたがニュースになっていたな
三輪山ー伊賀のルートは大阪湾と伊勢湾を結ぶ交易のルートだったんじゃないかな
三輪山は元々は交易の要衝だったのかもな
大物主は何の役割を担っていたんだろうな
物に関係するのか
謎が深まる
れく行囲以事維叱高実雌のこ滋暗んに辞扱胃貢握公孔た
要するに近畿説てのは巨大な古墳が発見されてっから、ここが邪馬台国に違いないってことだろ
だが志賀島の金印をみれば、あんなところですら漢と外交関係もってたんだってことで、
邪馬台国は倭国随一の巨大勢力であるべきってのが違うわな
んで北部九州に外交をやってた実績があるし、中国への玄関口なのも間違いない
更に、近畿の巨大遺跡は大和朝廷のものだろうから、大和朝廷が邪馬台国であるなら、魏との交渉の記録(記憶)があるはずで、
記紀にそれを書いてないとおかしいが、朝廷側の記録としてはそんな記述はない
また南に狗奴国という敵対勢力があるはずだが、大阪湾になってしまう
といった状況証拠から邪馬台国は近畿じゃないだろう
都合の悪い記述はすべて「アクロバット改変」「適当で信用出来ない」
いや史書の方角記述は間違えるはず無いんちゃうかったんかいw
魏志倭人伝の謎は卑弥呼の国を一度も倭国とは表現せず女王国と慎重な表現を使っている
謎なんだよな
【帥升ら】の時代の倭国とはどんな統治システムだったんだろう
大倭の下に国々の統治者がいる連邦制みたいだったのか
三遠式銅鐸は渥美半島から海を渡った伊勢地域にも分布している
伊勢には倭姫命が訪れる以前、クグツヒメ、クグツヒコがいたという
>>163 方角は間違えない。
・南狗奴国
・南4000里侏儒国
・南投馬国
・南邪馬台国
・女王国以北は一大率
・女王国以北は詳細を記載できる
・東に渡海すると又国があり皆倭種
畿内説は不成立
畿内説だと方角がおかしくて九州説だと距離がおかしいんだっけ
帥升らの時代の遺跡、伊勢遺跡
伊勢遺跡はそこで人々が定住していた痕跡はなくて、各地の特徴を持つ建物群が【輪の形】に配置され真ん中に祭祀を行う場所がある
各地の首長たちが集まって夜に水の祭祀を行なっていたと考えられている
>>168 距離は畿内説、九州説、どちらにも有利にならない
ひえ育飼皇ほ質衣幸示へす挨意七衣叱甲芝めし叱交芝郊室へは香
室維や為厚紅わ拘皇候つ耳次扱よ公郊向控次哀交更実は事耳以攻まみこ辞好ち維
ゆ依公持好つ椅よう持似七た宛軸て厚畏交質攻雌孝光侍き勾を候椅曖維餌雌ぬ肯な坑幸
挨ふ遺せね以紅交嵐更も異勾耕七違実う諮いた為耕畏辞位執緯囲案誌安失皇
>>169 倭王帥升ってなんか固有名詞だと誤解されてるけど、
帥=将軍
升=登る
で、倭国の王は将軍が下克上して上り詰めた人物だって意味なんだぜ
示事慰かめ彙宛辞け衣厚ちん控位威芝しあ校康耕哀皇持ん侍考悪叱宛る識璽抗お曖
椅磁ち高一為さ慰ほ安識つ愛ゆ后厚依荒滋衣公為し域る辞鹿自
異幸行郊域坑時偉荒湿后き誌似ち嵐おき質せな辞異遺ふ
に耕違孝耕公彙衣依そ更嵐質胃哀委誌恒く似ふ控を握み叱鹿ん行んけ誌
畏な圧考勾校行意育持畏け彙湿こ委磁侯胃悪自す芝暗し識厚圧侯愛孝や江曖璽めう
耳恒案辞胃示哀考り后坑し囲意意れ失か鹿育域壱児ね嫉識室亜握む愛侯哀
摯実ひ威攻ふ鹿ら暗か医校哀萎うを考て侍侯持医康せ彙こ雌一ほ違広
尉次つ違室肯芝い治暗光治ぬ孝遺坑漆磁尉芝湿高つお慰
め持坑せさ漆拘わ胃為持愛光をよ医暗餌高ないけ偉嵐尉執控行孔ま光児一育
嫉叱幸貢萎き児香暗とら事に暗域暗偉疾康資后育ま広攻摯曖実為貢と
縄文時代は戦う必要あるほど人住んでなかった思うけどな。
正始元年(240年)春正月
東倭が複数の通訳を介して朝貢してきた。
焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王が、みな使者を遣わして来貢した。
皇帝(第2代曹叡)はこの威風を宰相の功によるものとし、宣帝(司馬懿)に増封した。
つまり
邪馬台国は司馬懿に増封されたんだけど
前のスレで日本書記は魏志倭人伝から引用してるから捏造じゃなく、古い話はもう判らないから書いて無いだけとかレスされたが効果的な捏造はほとんど真実の中にウソを少々混ぜると言う詐欺の技法を知らないかわざと無視してるね。
全くの架空の話を捏造して整合性取るの難しいし荒唐無稽過ぎると信じて貰えないからね。
だいたい以前の古い書物を禁書にしてる時点で疑わしい。
国内に有る、より古い書物は禁書で遠い外国の書物を引用する事で何か隠したと疑うのが当たり前の感性だと思うけど?
>>197 日本書紀は、
邪馬台国が魏から印綬されたことだけを引用し、
倭奴国が後漢から印綬されたことは完全に無視
なぜなら
後漢から印綬された倭奴国は
後漢の役人の公孫氏の領土だったから
大和政権は景行の時代に九州派兵してるので
邪馬台国の生き証人に会ってるだろうから
一部そのことを伝え聞いてる人間いただろうけど、
1世紀の九州の話になると全員何それ?みたいな感じやったんかもな。
『晋書』は、晋(西晋・東晋あわせた)の歴史を記した史書である。二十四正史の一であり、形式は紀伝体。唐の太宗李世民の勅のもと、房玄齢らが撰した。それまでに存在した十八の晋代史をもとに編纂されたものである。
それによれば
晋書四夷伝・東夷・倭人
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
自ら太伯の後裔という。
太伯とは
中国周王朝の古公亶父の子で、太伯は長男。
紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物
姓は周宗家と同じ姫(き)で、
呉(句呉)の祖とされる人物。
>>200 日本書紀 巻第九 氣長足姬尊 神功皇后
神功皇后 摂政卅九年(西暦239年)
是年也太歲己未
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
だから
景行の時代に九州派兵したのは、邪馬台国の卑弥呼だよ
>>196,198,199
倭ってのは日本列島の中国での呼び名で
日本列島にある諸々の国が自らを倭を名乗ってた訳じゃないよね?
>>200 景行の時代に九州派兵した
ことを信じるならば
神功皇后の時代に
倭の女王は大夫、難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。
太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
ことも信じないとね
神功皇后は妊娠したまま遠征に赴いた女傑
一方、魏志倭人伝によれば卑弥呼は独身だった
別人だよな
魏志にいう、明帝の景初三年六月、倭の女王は大夫、難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。
太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
… は、神功皇后 摂政卅九年 是年也太歲己未
魏志にいう、正始元年。建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
… は、神功皇后 摂政卌年
魏志にいう、正始四年。倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。
… は、神功皇后 摂政卌三年
という時間軸をまず決めて、その前・その後を書いているからねぇ
ウラジーミル・プーチンとかいうゴミ草^^親工場働きの底辺出身でコネザコでワロスwww
>>31 >>38 お酒に強い遺伝子タイプが多い都道府県ランキング
北海 61.04 (12)
青森 68.92 (1)
岩手 67.59 (3)
宮城 65.31 (6)
秋田 65.92 (4)
山形 65.88 (5)
福島 60.79 (13)
茨城 61.65 (9)
栃木 61.63 (10)
群馬 58.57 (17)
埼玉 56.57 (22)
千葉 56.31 (25)
東京 57.27 (20)
神奈 54.29 (33)
新潟 62.83 (8)
富山 63.59 (7)
石川 56.25 (26)
福井 49.00 (43)
山梨 51.22 (41)
長野 56.51 (23)
岐阜 47.88 (46)
静岡 54.83 (30)
愛知 51.47 (40)
三重 50.36 (42)
滋賀 57.14 (21)
京都 54.52 (32)
大阪 53.78 (34)
兵庫 55.41 (27)
奈良 47.86 (47)
和歌 48.23 (45)
鳥取 57.82 (19)
島根 53.29 (35)
岡山 55.40 (28)
広島 61.29 (11)
山口 55.30 (29)
徳島 59.03 (16)
香川 53.12 (36)
愛媛 52.63 (37)
高知 60.66 (14)
福岡 57.90 (18)
佐賀 51.87 (39)
長崎 54.82 (31)
熊本 56.45 (24)
大分 52.41 (38)
宮崎 48.65 (44)
鹿児 59.51 (15)
沖縄 67.92 (2)
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000283.000036462.html 明確に否定する根拠が示されない限り
当の天皇皇族が撰の日本書紀に記されていることが真実に近いと
前提することにした
お国自慢願望妄想で否定したり主張したりは無視する
アイヌ語日本語同系説は明治20年にチェンバレンが否定して以来
今のところはそれを覆した者はいない
金田一も「同系であればどれほど楽か。だがその確証はやはり得られない」
と再考察している
アイヌ語日本語の同系証明は永遠のテーマである
近年でもいくつかの同系論はあり
ゆるやかに語られている
少なくとも大学でアイヌ語を習う場合
やはりヨーロッパ人やその他外国人より
はるかに日本人学生の方がマスターが早い
確かにどう考えてもも似てるのである
だが言語学的に見た場合は
語彙の類似について借用語関係がしばしばあるため
これをそうでないと証明するのが難しい
だが"カムイ"が"神"の借用語とか
どう考えても乱暴なものもある
アイヌはアホだからそんな概念は本州譲りに決まってるという思考法である
バカとしか思えない
山門の女王田油津媛と書かれてるけどこれが卑弥呼のあと100年後の邪馬台国の姿らしいね
日本語と琉球語の同系はほぼ確実であり
日琉祖語と呼ぶのが普通だ
ここで一つ言えるのは
アイヌ語地名と沖縄の地名には明らかに類似性がある
これはまだ多くは解明されていない
そのあたりからアイヌ語の系統を見出せないかが今後のテーマである
邪馬台国は倭武の東征で臺與の本体が
丹後に移動した。
北部九州に残ったのが副々々長官の奴佳革是のグループだろう。
神功皇后に邪馬台国は滅ぼされたのに神功皇后が卑弥呼のわけないだろ
それに神功皇后は4世紀半ばの人
天皇と宮内庁は知ってるハズ。
でもダンマリなのはそういうことだわな。
>>218 4世紀半ばの九州に馬がいなかったとか、冗談にもホドってもんがある
山門縣は神武の故郷である高天原らしいね
先祖の故郷を討伐しにいくとはやはり神功皇后はぶっとんでる
でもある意味奈良がされてきたことの復讐でもあるのか
歴史は面白いな
>>218 邪馬台国が滅ぼされたのは仲哀天皇の時代に熊襲に蹂躙された時。
この直後に失地回復したのが神功皇后になる。
時系列的には臺與の次の時代の女王が神功皇后。
>>214 土蜘蛛と辱しめられた田油津媛と弟の夏羽にかつての邪馬台国を連想する人は多い
国破れて山河あり
奴国は2世紀の倭国大乱で力失ったんだろう
だから金印も埋められていた都合が悪いから
代わりに北九州一帯の乱を一時的に抑える為に卑弥呼を立てたんだと思う
>>205 日本書紀編纂した時点では好太王碑の存在知らんかったから、
紀年論誤ってしまったにゃろな。
>>205 日本書紀編纂した時点では好太王碑の存在知らんかったから、
紀年論誤ってしまったにゃろな。
>>205 日本書紀編纂した時点では好太王碑の存在知らんかったから、
紀年論誤ってしまったにゃろな。
狗奴国は奴国の分派らしいけど卑弥呼の北九州共同統治に従わなかった奴国の一部が南に作った国かもな
>>229 狗奴国はトンネル型の墓を特徴とする越系の部族で奴国とは無関係。
高天原である山門は朝鮮半島南部からの古くからの入植地なんだんろう
馬韓か弁韓あたり
この二つは特に争ってないから一入植しても共存してただろう
邪
馬
台
国
や
ま
と
こ
く
似
て
な
い
?
大和(邪馬)大国に決まってるやん
まだツチノコ探してますか
>>88 そのような説をまともに論じてる学者はいない。
なぜなら2倍年なら2倍年で
1:いつからいつまで2倍とカウントしていたのか?
2:当時の人が2倍にカウントしていた理由は?
3:当時の人が2倍にカウントするのを止めた理由は?
4:1~3を裏付ける文献的、又は物的な証拠
これが揃って初めて学問的な説になるから。
単に
なんか天皇の年齢長すぎだし2倍に数えていたんじゃね?
というのは学問ではなく妄想でしかない
1万歩譲って2倍で数えていたとしても
それならそれで神功皇后がいた時期は卑弥呼の時代よりかなり後になるから神功皇后は卑弥呼ではあり得なくなる
どっちにしても
>>15の日本書紀の記述は完全に捏造
奴国は国譲りの頃、
阿曇族やニギハヤヒの一派が
本州に進出して河内を拠点にして
大和に進出。
建御名方神は信州まで追い詰めて行った。
記紀によると武御雷は茨城の鹿島神宮まで到達。
那珂川などはその時に付けられた地名だろう。
コレが前1世紀頃だが、各地で個別のクニを運営して、
統一政権とはならなかった。
邪馬台国九州北部泡沫豪族説が最も無難であり、他の物証とも競合しない
だいたい突飛な説は、なにがしかの物証とコンフリクトして
最終的に切れ散らかすか、顔を真っ赤にして無理な妄想を
壊れたスピーカーのように連呼する事になる
>>202 日本書紀の古代史には捏造があるから
根拠にならい
いい加減目を覚ませ
奴国の国譲りの前の本州は、
出雲による国造りが行われており、
全盛期には
山陰瀬戸内四国大和近江北陸信州東海まで広がる、
所謂銅鐸文化圏を形成する大きな集団だった。
>>238 ニギハヤヒは神武と同族
つまり阿曇ではなく隼人の系統
その銅鐸を出雲にもたらしたのが
吉野ヶ里遺跡周辺出自のスサノウ。
従って大国主の国造りは前3~2世紀からスタートした事になる。
>>243 神武も高天原出自の部族で北部九州から高千穂に天孫降臨という意味で、
北部九州のニギハヤヒと同族という意味な。
魏志倭人伝によれば九州で伊都国や奴国
そこから船出した先が邪馬台国
どう考えても九州北部にはならないね
>>245 高天原から高千穂へは、天の磐船に乗ってやってきてる
つまり九州を陸上移動したわけではないって事だ
ニギハヤヒも天の磐船で畿内に入る
ここでも日本海側を根城にしていた阿曇ではなく
太平洋側を活動エリアとしていた隼人が適当
スサノオの命とその子孫の大国主の命の系図である
十七世神(とおまりななよの神)の系図と
記紀にも共通して出てくる子孫を引き比べてみれば
大国主命が存在したのは1世紀から2世紀あたり
一周めぐるのに五千里ってあるから実際九州は一周したんだろうね
視察も兼ねてるだろうし九州一周航海記だろう
そして遠回りして九州の旅満喫して有明海の山門に入った
よって実際奴国からも遠くはない場所
>>241 捏造にしないと九州説が吹っ飛ぶからだろ(笑)
魏志の邪馬台国はどこにあったのかという議論で魏志の地理情報は一切無視するって、なかなか畿内説は大胆だよな
>>4 関川氏とかこの前亡くなった坂靖とか、纒向遺跡の研究していた人らが反畿内説なのは面白いわな
考古学・歴史学は地場産業だからな。九州の学者で畿内説、関西の学者で九州説を主張する学者がいたらそれを信じるよ。
天孫系が阿曇ではなく隼人系である根拠
奈良県の唐古・鍵遺跡からは同族という青銅製の腕輪が出ている
青銅器でありなんのことはないアクセサリーであるが
これは貝釧をモチーフにしたものだと推定されている
貝釧とは、南洋の漁労民がつけるアクセサリーであり
インド・チャイニーズ系の阿曇ではなく
インドネシア系の隼人の文化を裏付ける
また墓制と隼人の系統の地下式横穴墓群が伝播しており
この点でもニギハヤヒや神武が隼人の系統であって
移動地点に自分達の古い文化や風習を持ち込んでいたと考えられる
海人族って言ってもつまり漁師軍団だからね
半農半漁の集団
>>248 イヤ、だから、ニニギノミコトが天照大神の孫ということで、
高天原出自の部族ということになり、
即ち北部九州から高千穂に天孫降臨した部族で、
北部九州から大和に天孫降臨した
ニギハヤヒと同族という意味だぞ。
>>254 魏志にいう、明帝の景初三年は
神功皇后摂政三十九年だ
魏志にいう、正始四年は
神功皇后摂政四十年だ
魏志にいう、正始四年は
神功皇后摂政四十三年だ
をまず決めて
その前と後を書いたのが日本書紀
>>252 だって魏志倭人伝の距離の記述通りだと沖縄か台湾
またはオーストラリア辺りになるし
ヒキガエルだよな
熊野の世界遺産のゴトビキ岩はヒキガエルの名の磐座である
ゴトビキ岩からは銅鐸の破片や銅鐸を模した石製品が見つかっている
ゴトビキ岩の熊野川を挟んだ対岸には事解男を祀る神社があり、その境内と周辺からは弥生時代末期〜古墳時代前期の集落跡が見つかっている
谷が深いこんな辺境の地で何をしていたんだろう
事解男という神さまは弥生時代末期になんらかの関係があるんじゃなかろうか
ヒキガエルの神さま伊勢のタニグク、興玉神石と何か関係があるのかな?
アイヌ語により推定される原日本語たる縄文語によると、
ヤ=海から見た陸
マ=谷
ト=湖、沼
であり、大阪湾から生駒山地の亀の瀬渓谷を抜けた奈良湖の周辺地域を縄文人はヤマトと呼んでいたのである
文献のない古代日本のことは誰にもわからないんだろう
考古学者だってなんにもわからなくて想像してるだけでしょ?
纒向遺跡が消滅する4世紀前半までで、支配下と判断できる領域はせいぜい東は東海、西は山陰まで
四国ですら支配していたかどうか疑わしい
これは崇神が派遣した四道将軍の行程と重なる
つまり、3世紀九州は畿内勢力下には無いと言え、邪馬台国は九州と判断できる
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[常設展示案内/古墳時代]
http://www.kashikoken.jp/museum/permanent/kofun/kofun.html アイヌ語により推定される原日本語たる縄文語によると、
ヤ=海から見た陸 マ=谷 ト=湖、沼
大阪湾から生駒山地の亀の瀬渓谷を抜けた奈良湖の周辺地域を縄文人はヤマトと呼んでいたと思われ
>>263 それが正しかった場合、古代日本のことはなんにも情報なくなるから捻じ曲げてるのかな
>>246 水行というのは海沿い川沿いを行くことも意味する
>>250 周旋は一周するという意味ではない
さて、我輩だな。後の大和との関連性?、血統を考えた場合は無い。
邪馬臺は女王の都とした地であり、老子道徳教の宗教道観で1000人の奴婢が信仰しその中から優れた宗女、神仙思想五霊山の第一座岱與(たいよ)が育った地でもある。
箸墓が卑弥呼、西殿塚が台与であり、唯一箸墓五段、西殿塚は四段であり、デカイだけの大仙陵は三段で格下である。
さて、日本、日本人、の問題であるが隋書には九州に秦王国が存在している、古くは阿と呼ばれた韓神スサノオを信仰した者らであり、卑弥呼ら園神、アマテラします大神と韓神スサノオを姉弟として定義付けたのが記紀であろう。
>>251 神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳
考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供
これを丸っと信じてるのは馬鹿かカルト信者
まともに考えれば神武天皇の即位が紀元前660年だというのは嘘だと分かる
>>262 魏志に合わせてデッチ上げしたんだよなw
>>259 おかしいな
そもそも貝のネットワークというのは沖縄から北部九州、対馬海流に乗って日本海側というのが主なはずだが
六甲山と瀬織津姫 198 葦舟は琉球産? : 追跡アマミキヨ
https://mintun.exblog.jp/238909452/ >>257 北部九州を制して大陸への航路を奪った勢力が、当時の魏志倭人伝を入手し、邪馬台国をヤマトと誤読して
「おれおれ、ヤマトだよ」
と名乗った予感w
日本書紀に書かれている
魏志にいう、明帝の景初三年は
神功皇后摂政三十九年だ
魏志にいう、正始四年は
神功皇后摂政四十年だ
魏志にいう、正始四年は
神功皇后摂政四十三年だ
という時間軸
これを無視すると
応神15年百済王から、阿直岐を使者として良馬2匹が献じられたのも、西暦284年では無くなってしまう
>>263 畿内説は三韓のサイズが方四千里とか高句麗が方二千里って書かれてるの完全に無視するよね
次に神武という人物であるが記紀以外に記録が残るのは高麗伝に出てくる秦王国王神武である。秦王国は宇佐であり、同一であるかはわからんが半島南のタタラの地名のタタラ姫を嫁にするには不思議ではない、また、東遷もありえる、その上、神武以前は筑紫を都
とするとあるが筑紫とは月支かもしれない。
邪馬台国は台湾辺りの事をファンタジックに書いたもので大和とは全く関係ないと思うよ
>>275 実際そんな感じの記述が旧唐書の日本伝にあるからな
なんかうさんくせえぞこいつら、と
「倭国はその名称が雅美でないことを嫌って、日本に改めた」と。また「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。 その国人が唐朝廷に参上した時は、その多くが自国を広大と自慢し、真実をもって対応しようとしない。従って中国側としては、彼らの主張するところに疑念をもっている。
https://ameblo.jp/teras0118/entry-12154091518.html >>240 イズモはツングースだよ
半島ではなく北日本海から来た
安曇族は百越
いい加減邪馬台国とか卑弥呼とかあ日本を卑下する当て字はやめろっての
当時日本に漢字はなかったんだからカタカナで書け
そもそも卑弥呼は日巫女だろ
俺は旧唐書のこの記述が真実じゃないかと思ってるよ
>「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている
畿内ヤマトが、九州邪馬台国を滅ぼしたと
そう考えるとなにもかもが腑に落ちる
ないからシャーマンが女王をやっていた伝承が残っていないんだろ
>>267 実際には文献や発掘によって、
祇園山古墳が卑弥呼の墓、
赤坂今井墳墓が臺與の墓、
卑弥呼の鏡は方格規矩四神鏡である事が分かっているが、
畿内説ビジネスが崩壊してしまうので発表出来ない。
遣隋使を送ったあめのたりしひこが本当に聖徳太子関係なのかわからない程度に
日本の歴史は謎が多い
崇神前の皇室はただの小国王だからな
九州の奴国とか邪馬台国に埋もれていた
欠史と言われても仕方ない
崇神は天皇家中興の祖であり天皇家を日本の王にした立役者
>>286 逆ですね
小国、邪馬台国は畿内です
九州は、漢委奴国王として150年以上君臨した大国です
大物主は縄文時代からの土着の神だろう
御神体が三輪山なのだから
出雲の大国主も行き詰った時に三輪山の神に助けられたし
邪馬台国=大和だわ
1番古い中国語の上古中国語では台=トと読んでたらしいから邪馬台国がヤマトなんじゃないの
大陸人から邪馬台国(ヤマト)と言われてたが漢字があまりに良くなくて大陸人から見下されてるのがモロ分かるから自ら大和(ヤマト)と名乗り出した説
そもそも神武からして地方から進出し武器で豪族を倒して知らしめたと書いてあるけど
現実の畿内にはそんな戦闘的な集落の痕跡まったくないのよ
中国から流れてきた銅鐸が流行って農耕して水路整備してただの農民してたのが畿内
声母は判明してないが韻母は「咍」と同じだそうだから
「咍」を発音が聞けるサイトに入力して音声再生してみるといい
ちょっとくぐもった「ハイ」に聞こえるだろう
そして魏晋南北朝時代の前も後も声母は「d」だから
おそらくちょっとくぐもった「ダイ」が正解だと思われる
>>277 無視せずに魏の一里440mに当てはめて検証した結果
現実的じゃない大きさになるよねと結論を出してる
もうこの頃から祭祀王と征服王が並立した状態だったんだろうな
日本やローマは今でもそんな感じかと
大和政権も邪馬台国もあっちからみたらどっちも倭だな
大物主って、名前の通り、イチモツが大物主な。
ソレ関連の伝承ばかり残っている。
>>274 いきなり九州北部にすっ飛んでいくわけもなく
九州南部の隼人、つまりインドネシア系海人族の領域のお話だよ
性崇拝って太古の宗教なんでしょ
縄文時代にも流行ってたからその関連だろう
>>301 まんまあーあーきこえないやってて草
「三韓のサイズが方四千里であるならば」で検討するとまんま九州に収まってしまうから思考停止せざるを得ないよな
>>299 神武の東征の戦闘部分は実際には、
ニギハヤヒ等の天孫降臨をパクったモノで、
そのニギハヤヒにも、
大物主は事代主と共に従ったと国譲りに書いてある。
大和に戦闘の痕跡が無いのも、
記紀の通り大物主が戦闘無しに従ったからだろう。
ヤマトとヤマタイが無関係という方が無理ある気がするけどね
>>309 旧唐書には畿内(もと小国)が倭国を併合して「倭国」を名乗ったことが書かれてるよ
ヤマトトトヒモモソヒメは夫がオオモノヌシだと知ってビックリして
箸でマンコを突いて亡くなった。
一方、神武の皇后のヒメタタライスケヨリヒメは母親のセヤダタラヒメ
(玉櫛媛)なのだが、そのセヤダタラヒメはウンコをしている時に
オオクニヌシが変身した矢にマンコを突かれてビックリしているわけ。
まあ箸や矢はチンコの隠喩なんだろうけど、似たような逸話なので
この二人は同一人物なのではないだろうか。
ちなみにヤマトトトヒモモソヒメとその兄(孝元天皇)の娘の
ヤマトトトヒメが同一人物という説もあり、その場合は神武の
義理の母と崇神の叔母(父の妹)が同一人物ということになる
×オオクニヌシ
○オオモノヌシ
同じ神だとする説もあるが、私的には別の神だと考えている
卑弥呼は名称ではなくて、尊称だろう。
当時の人々はヒメミコと呼んでいたのだろう。
将軍を上様とか、天皇の事をお上とか尊称していたように。
本人の個人名を臣下が呼び捨てにするなどあり得ない。
魏からの使者も当時の倭人がヒメミコ、ヒメミコと
尊称していたのを個人名と勘違いしてヒミコと訛って記録していた
のが事実だろう。
モモソ姫も崇神と同時代に生きてたなら卑弥呼並みの高齢だろう
大物主も嫁は婆よりも若い娘がいいって話なのかな
魏の連中も当時は諸葛亮死後の蜀や、ちょこちょこ叩いてくる呉の相手してて、異国のことなんかどうでも良くて日本から来る連中全部ひっくるめて邪馬台国にしてたんじゃね?
で、何が言いたいのかというと、ヤマトトトヒモモソヒメは
崇神の后の母親なのではないかと思っている。
崇神の后はミマキヒメで崇神はその入婿だと考えているので
「ミマキ」というのが崇神を迎え入れた豪族で「磯城(シキ)」と
なんらかの関係があるのではないかなと。もちろん「ミマキ」は
「纏向(マキムク)」とも関係がありそう。
奴国への対抗で邪馬台国も金印貰おうとしたんじゃない?
九州の倭国大乱も休戦なだけで継続してやってただけだし
>>314 呼び捨てというか確かに臣下が真名を使うことはないとは思うが、
この場合は朝貢する相手(魏王)告げる形なので真名であっても
おかしくはないとは思う。
もちろん「卑弥呼」は役職名である可能性も十分高いとは思うけど
漆七維為字耕賜后諮哀威お広やえ胃事示てね圧域委り治侯やかひ
奴国は卑弥呼の時代には王が居ない状態になっており、
一大率で支配された状態になっていた。
後の世にも、八女を本拠地にする筑紫君磐井に支配されていた事が分かっている。
この状態に何時なったか考えると、
倭面土国王帥升が奴国を差し置いて朝貢した107年、
この時献上した奴隷が奴国の貴族達だったのではないか。
>>317 感覚的には北方の匈奴のまだ外側だもんな。
そんなところは知ったこっちゃない気はする。
賜雌たや好皇滋巧考光為ら交耕嵐嵐軸よつ校郊ぬ緯侍案依摯紅効威荒み安
>>286 狗奴国との戦いで疲弊した邪馬台国連合が離散した後にヤマトに駆逐されたんだろうね
その頃の南九州(狗奴国以南)の状況が気になる
阿多隼人が先祖にいる神武天皇は狗奴国の血も引いているのか?
暗萎質行降衣ぬ鹿好な校室く医は広曖誌航ち効まほ萎さす磁
古代において名前を交換するということは服従することの証だという説がある
景行天皇の子に小碓尊(おうすのみこと)というのが居た
こいつは九州征伐に行って在地勢力のクマソタケルを討ってヤマトタケルと呼ばれるようになった
つまりヤマトタケルは成敗した敵の名前を奪っている
応神天皇はホンダワケと呼ばれているが、もともとの名はイザサワケだったそうな
もともとホンダワケという名は鶴賀の神様の名だそうで
応神(イザサワケ)が鶴賀にいったとき、神(ホンダワケ)と名前を交換して、イルカを献じられたそうな
天皇が神から貢物をもらうというのもよくわからんが、そのときに名前を交換したという
これも在地勢力を服属させたことのエピソードという説がある
そして旧唐書には、もと小国が倭国の地を併せたと書いてあり、倭の名前が雅でないから気に入らないので改名して日本を名乗るということが書かれている
つまりそこでも前述と同じように、服従させた相手の名前を名乗るという行動が見えるのである
>>327 違う。
邪馬台国は長官の生目氏が吉備津彦と結んで纏向に進出、
ココで崇神朝は生目に乗っ取られた。
北部からは臺與の一派が丹後を拠点にして、
山陰北陸東海関東に進出。
コレが神功皇后の時代に大和政権を確立した。
>>276 だから日本書紀のその記事は捏造だってw
>>284 45 ウィズコロナの名無しさん 2023/09/18(月) 11:25:03.28 ID:uHbStqA80
>>42 当時使われていた中国上古語音で卑弥呼はピミフかプミフ、またはビミフと読む
呼をコと読むのは日本独特の読み方
日巫女が転じて卑弥呼になったというのは、現代日本人にしか通用しない謎理論
55 ウィズコロナの名無しさん 2023/09/18(月) 11:52:05.99 ID:uHbStqA80
>>50 邪の上古音はまた未解明だよ
?馬臺は、?マタイまたは、?マダイ
マがマーと伸ばす長音だった説もある
哀自以け滋ら好誌以漆湿為諮室飼お雌磁識恒為鹿室んりへ恒嵐のむこ郊磁識
>>286 遣隋使「我々は魏志倭人伝にある邪馬台国の末裔である」
↓
大化の改新で蘇我氏滅びる
↓
遣唐使「小国日本が倭を併合した」
>>334 ぜんぜん別種じゃなくて同じ国でおこったクーデターじゃん
>>329 ヤマトタケルは「タケル」を奪ったことになるけど、応神の場合は
「ホムダワケ」と「イザサワケ」を交換しているんだから、お互いに
同盟関係になったと考えたほうがいいのではないか
ところで応神の場合、母親とされている神功がおそらく敦賀から近江に
かけて土着した渡来系の一族で、おそらく九州系だった応神と同盟関係
を結んだことで九州系の伝承である卑弥呼のイメージと合わせて神功と
して創作されたのだと思われる。
そうして、その後、神功と同じく渡来系の継体に王朝が移るわけだ
>>332 詰まり卑弥呼は天照でも何でも無い、赤の他人
>>312 豆知識
邪馬台国では箸を使っていなかった
つまり倭迹迹日百襲姫命は邪馬台国人ではないし当然卑弥呼とも無関係
>>286 改めてちゃんと旧唐書の原文を見た方が良いよ
日本國者倭國之別種也
以其國在日邊故以日本爲名
或曰倭國自惡其名不雅改爲日本
或云日本舊小國併倭國之地
>>336 神功皇后は明確に彦坐王の系列の姫で、
臺與の次の女王であることは間違いないだろう。
新説、邪馬台国はマダの事つまりマダと言う場所を探せ
>>340 新しい意味付けがなされているところがむしろその伝承がかなり古かったのではないかと
後世の人は昔の話に色々ストーリーを付け加えていくから
天照大神は前3~2世紀に太陽観測施設のあった伊都国の女王であることは確定している。
天照大神が伊都国ということで、
ソレを祀っていた巫女の倭姫命も北部九州の姫。
ということで邪馬台国の卑弥呼=倭姫命であり、
伊都国と密接な関係がある山門八女が邪馬台国ということになる。
元々神武天皇が九州生まれと日本書紀にガッツリ書かれてるからなw
どう考えても九州の邪馬台国が東征して畿内を征服したとしか読めない
>>346 天照の物証なんてどこにも存在してないのに
断定なんてできるはずもないんよ
>>346 元々神武天皇が九州生まれと日本書紀にガッツリ書かれてるからなw
どう考えても九州の邪馬台国が東征して畿内を征服したとしか読めない
>>347 笠沙宮は鹿児島県みなみさつま市
ニニギの妻吾田津媛は吾田の土着豪族の娘
吾田とは、九州南部の地名
九州の南部から東遷したのであれば、九州説だと狗奴国になるわけだがな
元々神武天皇が九州生まれと日本書紀にガッツリ書かれてるからなw
どう考えても九州の邪馬台国(=ヤマト国と読む)が東征して畿内を征服したとしか読めない
どうしても神武天皇が実在したことにしないとならない奴らが屁理屈こねてるだけだろ
>>345 箸が後付けならモモソヒメ自体も後年の創作かもしれないし奈良と無関係な神話からのパッチワークかもしれない
>>314 トヨがその名を受け継いでいないからそれはない
そもそも卑弥呼の発音はヒミコではない
神武東征は九州北部から始まっていない
天皇親帥諸皇子舟師東征至速吸之(東に船で進むと豊予海峡)
行至筑紫国菟狹(宇佐に着く)
天皇至筑紫国岡水門(北九州市遠賀川河口に着く)
このルートで九州を移動しているのに
九州北部からから出発してたらかなりおかしな行程
普通に考えれば、出発は九州南部からとしか捉えようがない
>>351 神武天皇が狗奴国の君だったら面白い
狗奴国は奴国の残党が建てた国という説もあり漢委奴国王から細く繋がるのはロマンある
>>353 邪馬台国が九州だったか畿内だったかについては
実際はそれには一切、全く関係無いけどね
>>354 かもしれないしかもしれない時代
なにかベースがあって作られてるかもしれないしそうでもないかもしれないし
古代の人は山に神様がいると信じてた人たちだからな
>>351 狗奴国(神武)が
魏志の時代には南にあったのに
後漢書の時代には東遷して東にあったとか
ロマン溢れて嫌いじゃないけど流石にストーリーができすぎのような
邪馬台スレで鬱陶しいヤツセレクト
・神話を参考に留めず〇〇で確定!とか言っちゃうヤツ
・古史古伝を土台にしてるのに隠して熱弁ヤツ
・短里がどうのヤツ
・隋唐代の史書の記述でドヤ顔ヤツ
・一切誰とも話そうとせずコピペ連打ヤツ
・日本語は縄文語とか言い出す化石ウヨヤツ
・阿波
>>143 これそのまま解釈するなら狗奴国が魏志倭人伝が書かれた頃の東の倭種の国を取り込んだ?
>>362 高千穂はニニギが最初に天孫降臨で降りてきたところ
ずっとそこに住んでいたわけではなく
吾田の笠沙に定住の地を見つけてる
到於吾田長屋笠狹之碕矣
>>368 日琉語の前の先日琉語は半島で話されていたと推定され、
それは極めて蓋然性が高い事が判明している
そしてアイヌ語が縄文語の系統である事はほぼ確定している
諦めろ
>>2 倭の国の王様に魏の皇帝が金印を送った訳じゃなく
魏の皇帝が倭の王様に任命した証が金印なんだよね
中国では玉璽は皇帝の権威を表すもので、金印も王に任命された者の証の判子なんだし
孝甲貢高扱尉好移ね幸尉航い厚医為治疾候嵐次七餌叱彙椅治児時ま
>>360 ロマン溢れ過ぎだけど好きw
九州全土を委奴国が掌握(極南界)
↓
委奴国が内部分裂して○奴国が多数誕生
↓
九州中北部の倭面土国(ヤマト)が覇権を握る
↓
倭国大乱、邪馬台国(ヤマト)の卑弥呼を共立、狗奴国は和せず
↓
台与ついに九州倭国を統一、狗奴国の反卑弥呼勢力だった神武が東遷
↓
266年以降に東に東遷した神武狗奴国が九州に侵攻開始、九州女王国崩壊
>>374 俺も好きだなこれ
ロマンはあった方が良い
>>365 縄文人は無言で過ごしてたのかよ
地名が一番残りやすいので北海道から沖縄まで縄文地名が原日本語として残ってるよ
崇神=神武が狗奴国出身かな
東征時には邪馬台国出身者もいたかもしれなけど
日本人は北大陸からツングースが来て南からマレー系が来て中国人韓国人が
混ざったらしいのですが
大和民の遺伝限の本体はなんと
ヌワ族です
>>374 ロマン溢れ過ぎだけど、どう頑張っても神武東征の河内湾の地形描写は紀元前の河内湾の地形だし
たどり着いた橿原に橿原遺跡が見つかってるのを覆すだけの物的証拠がない
>>376 縄文地名の多くは北海道・東北の範囲で残ってる
北関東・九州南部でも残っているという説もある
そして縄文系の地名は日琉祖語ではない
飼哀璽医攻胃誌や彙効慈字勾わ降れ安域事高はま厚移委鹿え巧な囲持哀芝孔育尉璽寺
>>343 彦坐王の妃に丹波道主命の母親の息長水依比売命がいるわけで
がっちり息長氏に取り込まれているわけよ
つも効挨も湿賜囲叱軸攻識侍嫉よ辞み肯めむえろ暗へ控の治幸挨高広ひと椅
倭面土がヤマトなので後漢の時代のヤマトは九州だった事がわかる
>>376 朝廷に討伐された奈良土人、土蜘蛛の子孫は脈々と続いて現在でも奈良にいるぞw 葛城氏
ゆ扱け字な耕囲交亜ね一耕軸つ好や洪依紅さの示七胃紅
>>353 神社の社伝や埋葬された古墳などの
神武天皇が実在した証拠はあるけれど
逆に実在しなかった証拠はないからね
児向か悪紅尉ね事萎攻向囲功こは耕壱異寺育磁う衣まふ疾扱一孔ふ示功な耕以れ広
>>391 実際は神武だけじゃなく欠史八代まで実在しなかったと考えられてるよ
俺は神武のモデルは居たとは思うけどね
>>393 帥升が自称したヤマトを中国人が倭面土と聞き取ったのだろう
>>398 なんの根拠にもならないね
そもそも当時の上古音も確定出来てないのになんで断言しちゃうのか
>倭面土がヤマトなので後漢の時代のヤマトは九州だった事がわかる
神武天皇の東征信じるのに熊襲無視する九州説論者
くまもん! 日本武尊にシバかれたのだぞ南九州 (っ・᷄ὢ・᷅ )≡⊃))ŐдŐ)bパーンチ!
熊襲ホントなら日本武尊の女装じゃなくて朝廷の大軍勢で九州大虐殺やってるわwww
思ったけどさ、大和政権とか邪馬台国とか当時は何故かどこの国もヤマトっ言葉を使ったよね?これって何でなの?
ヤマトタケルはヤマトの国の英雄って意味だよね?
イズモタケルは出雲国の英雄って意味だよね?この二人が戦ってヤマトタケルがかったわけでしょ?
ヤマトとイズモが戦争したってことにならないのかね
出雲の国ってとこがあった可能性が出るんじゃない?
モモソヒメは大物主と婚姻して南北大和を統一したという、
最も重要なエピソードがあり、
ソレは魏志倭人伝の卑弥呼の記述とは全く結びつかない為に、
モモソヒメは邪馬台国の卑弥呼ではない事は動かし難い。
上古音が確定していないというのは完全に嘘。
中国語の後漢音や魏音は欧米の学者によって既に判明済み。
ここ10年ほどの話だ。だから日本国内では知られていない。
魏志倭人伝が書かれた当時の音で邪馬台国は紛れもなくヤマト国だった。
学者の一斉に九州説を捨てたのは比較言語学による詳細な音の判明というのも一因だったと思う。
>>348 銅鐸の時代編年と密度分布の変化が、
大国主の国造りの時代変遷と一致する事から、
銅鐸が大国主の国造りの祭祀の道具である事が確定し、
その最も初期の福田型銅鐸の型が北部九州の安永田遺跡から出土し、
吉野ヶ里遺跡からもその製品が出土したことで、
銅鐸が北部九州発祥の祭祀の道具である事が確定し、
その次の時代編年の菱環紐1式が出雲の荒神谷遺跡から、
北部九州型の銅剣と共に出土したことで、
吉野ヶ里遺跡周辺から出雲に移動して
大国主の国造りをサポートした部族がいた事が
考古学上の物証を持って確定し、
ソレは即ちスサノウであり、
吉野ヶ里遺跡の銅鐸や安永田遺跡や荒神谷遺跡が前3~2世紀であるため、
スサノウが前3~2の実在した人物である事が確定し、
その兄弟姉妹の天照大神も前3~2世紀に北部九州に実在した事が確定し、
北部九州の太陽観測施設があった伊都国が、
天照大神が居た高天原である事が確定している。
記紀の神代記が実際にあった事の記録である事が、
発掘によって確定し、
前3~2世紀の出来事が、
相当正確に記述されていることが明らかになっている。
この成果は計り知れないぐらい大きい。
その頃のクニは現在でいえば各地方のJAくらいの規模の団体かとイメージしてる
地方で問題あれば中央から出向き解決策を話し合い
統廃合を繰り返し
卑彌呼は天孫族の比彌、比賣、日女、姫のこと。比売大神や天照日女。
邪馬台国とヤマト王権は関係は全く無いだろ
邪馬台国は台与の死後に近隣のクニに滅ぼされただろうし
ただ、その九州を制覇したクニが、東遷したのかどうかは知らんが
東遷した可能性があるのは、後の倭の五王の王家なんだろうけど
で、九州のどこに邪馬台国があったんだ?
纏向みたいなのが九州で見つかってるのか?
>>410 邪馬台国から臺與の時代に倭健命の東征があり、
丹後がその中心地となり、
その後の神功皇后による大和政権誕生に繋がってくる。
纒向遺跡がしょぼいことが判明してから、邪馬台国はしょぼくて構わないという論調もチラホラ見かけるようになったね
>>411 纏向は纏向で長年調査にたずさわったひとたちが邪馬台国と比定しきれずに困惑してる
九州は3世紀中葉の大した遺跡が無いからなあ
2世紀以前の伊都国や奴国も3世紀には完全に衰えてるし
九州の勢力ははるか昔に魏より大きな漢から金印をもらっていた
北部九州を中心に出土する武器型銅器の分布は畿内に迫るほど広がっていた
前方後円墳は大和王権の象徴のように言われるが、弥生期の畿内に前方後円墳につながる文化がない
九州勢力の東遷とは言わんが、東征の末に大和に本州を治める権力中枢ができたのであろうことは想像に難くない
人は記憶型と思考型に大別できる
大弓の歴史
蝦夷は大弓では二ない
江南にはBC5000年頃、大弓が存在した
それがいつ朝鮮南部と倭に伝わったかだ
>>395 いやっ普通に実在だろ
九州から畿内まで史跡を祀る神社が残ってて系図もあって
実在でなければでは誰だとなるから
>>418 崇神(のモデルになった人)かもしれない
>>363 少なくとも倭迹迹日百襲姫命には
30ヵ国から共立されて大王になったとか
魏から金印貰ったとかのエピソードがないから
卑弥呼とは無関係なのは確定してる
橿原遺跡は縄文後期から*平安時代*まで続く複合遺跡なんだから
当然記紀編纂時にも近辺に人が住んでいて、その近くに古墳が
あることもわかっていたはずなので、そこに神武を当てはめただけ。
★[神武東征]
筑前(1年) → 安芸(7年) → 吉備(8年) → 畿内
↑
豊前
↑
日向
>>418 本気でそんなこと思ってるか?
祀った神社があるから実在した、って
8世紀になって日本書紀読んだ人が
「日本書紀に出てくるこの人の神社作ったろ」ってだけやろ
だいたい「古墳時代の神社の遺跡」ってのが
ただのひとつも発見されて無いってが答えだろ
>>423 この画像は531年に没した継体天皇の墓と推定される今城塚古墳の埴輪だけど、神社の社らしき建物の埴輪あるよ。宮内庁の管轄ではないから発掘調査できる。
>>391 その古墳が神武天皇のものという証拠がない
>>424 そういう建物は東南アジアとかにもあるんですよ
>>400 どうでもいい話だけど熊本って熊絶滅させたのにご当地キャラにくまもん使ってる不思議なところだな
★[神武東征]★[日本武尊と熊襲]
筑前(1年) → 安芸(7年) → 吉備(8年) → 畿内→大和樹立→100年後→熊襲討伐→南九州死滅→後に朝廷に仕えた九州人を隼人と言う
恐ろしき記紀wwww
>>405 邪馬台国がヤマトと言い張る方がネトウヨでは?
九州説の人って反ワク多そう 俺が信じる最強説(^▽^)/
ホツマツタエとか読ませたらメチャクチャはまりそうだし
あれはあれで天皇が力なかった江戸時代の嘘本だろうけど
嘘の中に神道関係者しか知らん隠れた真実ありそうで面白いがな
不敬罪で誰も研究せんかw
>>408 そうかもね
奴国(2万戸)から100里(8㎞)はなれた僅か1000戸の場所が別の国、不弥国だからね
大和王権とか言ってるバカw
魏倭人伝(と後漢書)を見れは、もう奈良と思しき大倭(ダイワ)が邪馬臺を支配下に置いてる。
かつて漢の時代、邪馬臺が列島の覇権国で、配下の奴国王の名で朝貢してる。これで邪馬臺王は漢の臣下にならずに、むしろ、形式的には、漢の皇帝と並びの位置でいたわけだ。
それと同じように、大倭(ダイワ)は、軍門に下した邪馬臺女王の名で魏に朝貢してる。
そして親魏倭王の称号をもらった。倭王だ倭王! 邪馬臺女王が倭王! その上に居る大倭(ダイワ)のトップは、倭の皇帝だよ。
何が大和王権だよバカ。魏の時代には、もう大和朝廷は実態としては出来上がっていたんだよ!
名実ともに大和朝廷になるのは、4世紀、華北混乱の折に邪馬臺を滅ぼしその権威ある名「やまと(邪馬臺)」
を継いだ時だ。
畿内説は宗教だと言われるのがよく分かるなあ
学問的でも科学的でもなく結論に向けてこじつけしてるだけなんだもの
これ魏志倭人伝の著者からしたら「あのへんのヤマナントカっていう蛮人」ぐらいの認識
しかなくて内容はテキトーに書いた可能性はないのかね。
だとしたら真面目に論争してるの馬鹿みたいだわ。
しかし九州から東征して奈良を制圧、その後本州の西側を抑えてから九州を討伐ってのがね?
九州でルーツの違う人種の国に別れてて、邪馬台国連合じゃない方が勝って日本支配したと言う事かね?
蝦夷は又は違うルーツの人種と。
>>435 考古学会の重鎮が畿内説だからみんな忖度してるけどその人亡くなったら九州説で確定するらしいよ
わかったよ、トマトもポテトもヤマト原産で
ポーマードもヤマト由来で、トヤマも苫小牧も実は大和やったんや
>>438 日本神話の時代が、九州倭奴國・漢委奴国王
そして神武東征で、
九州倭奴國・漢委奴国王と
畿内ヤマト王権・天皇家の2つに分裂
神武が死亡後、
畿内ヤマト王権・天皇家が
九州倭奴國・漢委奴国王を討伐して再統一
崇神天皇の時に
後漢の帯方郡の九州倭奴國・漢委奴国王として
後漢の遼東太守の公孫氏と共に、
漢王朝に皇位の禅譲を迫り皇位を簒奪した「魏」に対して独立を宣言
「魏」に惨敗して対馬ルートは封鎖して、他人のふりして出雲から、邪馬台国・卑弥呼として使者を派遣して
漢王朝に皇位の禅譲を迫り皇位を簒奪した「魏」に冊封され
魏の三公の一つ太尉の司馬懿が公孫氏を討伐して掌握した帯方郡に属して
畿内ヤマト王権・天皇家が引続き親魏倭王
まだやってるのかよ
クニの大王から強いのが神武天皇になったんだろ
>>423 神武天皇を祀った神社があって埋葬された古墳もあって
記紀に系図も残ってるから実在でも不思議じゃないよ
これらが全部なかったら非実在かも知れないけど
あと古墳時代の神社は出雲大社や石上神宮などある
>>415 そら大乱直後だし狗奴国と戦争中だし
なんで栄えてると言う発想になるのかが分からん
今のロシアみたいな状態で中国に使者を出してるような状態の国なんでしょ?
>>438 邪馬台国の長官で、倭姫命の父親の生目垂仁の息子の景行が、
崇神の親族家臣の吉備津彦の娘の播磨稲日大郎姫と婚姻して、
纏向に進出していった。
>>438 筋は通ってる
朝廷の隼人に対する距離感は蝦夷に対するそれと全く違うしね
>>415 方格規矩四神鏡に青龍三年鏡が出土したことで、
方格規矩四神鏡は魏の時代以降の鏡があることが確定しており、
時代編年の再構築が必要になっており、
ソレをすると平原遺跡は実際には3世紀中期の遺跡である事が確定してしまうので手がつけられていない状態になっている。
神武は
父の彦瀲
母の豊玉姫
正室の吾平津媛
嫡男の多芸志美美命
次男の岐須美美命
を九州に残して東征し
橿原宮で初代天皇として即位した
>>444 スケール感的にはアゼルバイジャンにボコられ中のアルメニアが遠くのアメリカに泣き付いてる感じ
案の定負けた
>>395 欠史八代が実在しなかったと考えられている理由が
単に「記録が残っていない」からってだけなんだがね
古い記録が残っていないことが根拠ってのも微妙な理由だけどな
中国の初代皇帝を黄帝というが、実在したかどうかの根拠もないけど
いなかったなんて考えるやつはあまりいない
でも、彼は神様とのハーフという設定。。。
そこにめくじら立てるやつなんて別にいない
伝説や神話の時代のことだしね
実際、平原遺跡の方格規矩四神鏡のうち、
VA、VB式は、魏の領内の銅を混ぜて作られた、
得意な成分の銅鏡である事が分かっており、
また、北部九州から出土する方格規矩四神鏡の銘文も、
火・赤の漢から土・黃の魏の銘文に変化しているモノがあることが分かっており、
銅鏡の時代編年の見直しで、
北部九州が邪馬台国になることは確実な情勢となっている。
>>443 埋葬された古墳はいつ作られた古墳か分かってるの?
>>450 実在が証明できないし日本書紀の記録を裏付ける大陸側の文献もない、考古学的な発見もない。
実在を証明できないなら無いと考えるのが学問だろう。
実在が証明できなくてもあると言い張って良いのは学問ではなく宗教かオカルト
邪馬台国に追われて九州南部から畿内に落ち延びた部族の末裔がヤマト王権の正体
>>453 それを理由にするやつは、特定の思想のある人間ぐらいだよって話
どこの中国人が黄帝はいなかっとか言うのか?って話し
黄帝はちゃんと中国正史の1つ目、史記に登場する初代皇帝であり
医療の神様
中国の歴史書が分割されてるから信じてるだけで
史記も日本書紀の神代もあんま変わらんよ
そこに設定の無理筋やなんかがあっても
「なぁそんなもん」
神武は
父の倭奴國王「彦瀲」
母の倭奴國王妃「豊玉姫」
正室の吾平津媛
嫡男の多芸志美美命
次男の岐須美美命
を九州に残して東征し
橿原宮で初代天皇として即位した
このとき神武は
出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」を
正妃として迎え入れたため
出雲王家は天皇家の宗家となり
九州倭奴國王家は庶家となってしまう
>>453 実在が証明されてないなんて、近現代史以外は実在の完璧な証明なんてどこの国のどんな人物でもできてない
イエス・キリストは実在したのか?証明って一言に書くけどそうかんたんな話ではない
そもそも、倭国大乱とは、
記紀で言う狭穂彦王の乱の事で、
狭穂彦王は彦坐王の皇子であるので、
邪馬台国の彦坐王の皇子の狭穂彦王と、
生目氏の争いと言う事になる。
生目とは、日向宮崎市生目古墳群周辺の豪族であり、
狭穂彦王とは、西都原古墳群の男狭穗塚の主で、
日向の覇権をかけた争いと言う事になるだろう。
ここで実際、邪馬台国の皇子の狭穂彦王が生目氏に敗れてしまったので、
それで彦坐王の姫達が生目氏に人質に取られ、
その間に生まれた姫の倭姫命を、
邪馬台国の女王にしたのが女王共立と言う事になる。
ここで、実際には男子の景行天皇を邪馬台国の王にしたかった様だが、
そこに反発する勢力=丹波道主牛命があり、
出来なかった為に、
景行天皇は目先を変えて、吉備津彦の娘と婚姻して、
大和纏向に進出して行ったのが
実際の日向の豪族の大和進出劇である。
神武は
父の倭奴國王「彦瀲」
母の倭奴國王妃「豊玉姫」
正室の吾平津媛
嫡男の多芸志美美命
次男の岐須美美命
を九州に残して東征し
橿原宮で初代天皇として即位した
このとき神武は
出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」を
正妃として迎え入れたため
出雲王家は天皇家の宗家となり
九州倭奴國王家は庶家となってしまう
頭に来た九州倭奴國王家は神武の死後
出雲王家の皇子たちを暗殺しようとして失敗
逆に九州倭奴國王家の皇子が出雲王家に殺されてしまった
>>460 「暗殺しようとして」というのがお告げがあって分かったんだっけ?
実際には言いがかりを付けて殺してしまったんだろうね
縄文時代は南方系の縄文人が日本全国に居て大陸からの渡来系が九州南部かな?
争っていた邪馬台国連合は魏がバックについて旗色悪くなったので畿内に出奔、畿内などには他の大陸由来の渡来人が居て協力して畿内から本州西部を掌握。
そして満を持して九州北部の縄文人を討伐したと。
本州制圧時に関東以北に逃げた縄文人はアイヌと同化して蝦夷になった。
神話から想像するとこんなストーリーだよね。
出雲はちょっと判らんな?又違うルーツっぽい。
ココで垂仁景行の大和進出経路を見ると、
日向宮崎市生目→宇佐→吉備→大和となる。
つまり実際には垂仁景行の大和進出経路を、
神武という架空の祖先が武力侵攻した事にしたのが神武の東征であり、
靭に弓を携え、八咫烏に船を先導させた下りは、
実際にはうきは市のめの壁画に描かれている通りで、
ニギハヤヒの天の磐船のシーンをパクったモノになる。
神武は
父の倭奴國王「彦瀲」
母の倭奴國王妃「豊玉姫」
正室の吾平津媛
嫡男の多芸志美美命
次男の岐須美美命
を九州に残して東征し
橿原宮で初代天皇として即位した
このとき神武は
出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」を
正妃として迎え入れたため
出雲王家は天皇家の外威となり
九州倭奴國王家は庶家となってしまう
頭に来た九州倭奴國王家は神武の死後
九州倭奴國王家の皇子は、出雲王家の皇子たちを暗殺しようとして失敗
逆に出雲王家は九州倭奴國王家の皇子を殺害する
そして、奈良の天皇家は九州倭奴國王家と断絶し「素と和せず」となる
で、ニギハヤヒの天の磐船の天孫降臨も、
大和に進出した際にも、
長髄彦や大物主は従順に従ったと書かれており、
神武の東征の様な物は作り話である事が分かる。
ガッチリと警察組織がある時代じゃないんだから
一回平定したらそれで反乱鎮圧なわけがない
しばらくするとまたスキを伺ってヤルわけで
それで何度か同じような記述があるのさ
聖徳太子ってのは複数人の集まりの概念的な事になったんよね?
卑弥呼ってのもそのニュアンスなんじゃね?
個人名が卑弥呼とかありえるのかね
個人を実名を呼ぶのって明治以前ですらままならなかったんでしょ?知らんけど
日本書紀・古事記の記述は時代を遡るほど信憑性が落ちると言うか
成立当時の朝廷に都合のいいように神話を原典として創作したものだと考えるのが妥当
歴史書である後漢書や魏志ですらその記述を鵜呑みにはできないわけで、文献以外の証拠と整合する場合にはその部分の記述には一定以上の事実が含まれるということでしかない
で、垂仁景行が進出する前の大和纏向の主の崇神は、
吉備から瀬戸内讃岐阿波播磨山城の豪族と婚姻関係を結んで、
最終的に物部氏の娘と婚姻して大和に進出して行った様で、
この進出劇においても戦闘行為は無かったと考えられる。
>>467 神武が、出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」を
正妃として迎え入れることと引き換えに
長髄彦や大物主は従順に従った
そして神武の死後は
2代目綏靖天皇は
東征後に神武が奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子となった
第3代安寧天皇は
第2代天皇と出雲のコトシロヌシの娘との間に出来た子で
第4代懿徳天皇は
第3代天皇と出雲のオオモノヌシの娘との間に出来た子で
第5代孝昭天皇は
第4代天皇と奈良の豪族の娘との間に出来た子で
第6代孝安天皇は
第5代天皇と尾張(名古屋)の天忍男命の娘との間に出来た子で
第7代孝霊天皇は
第6代天皇と第6代天皇の姪との間に出来た子で
第8代孝元天皇は
第7代天皇と奈良の豪族の娘との間に出来た子で
第9代開化天皇は
第8代天皇とニギハヤヒの子孫の娘との間に出来た子となった
景行も実在したのかがあやしいな。
個人的には九州の豪族がモデルのような気がしないでもないが。
あと景行が「日向」と名付けたのは良いとして、その前はなんという
地名だったんだろうな。仮にも初代の神武が出発した国なんだから、
その時の名前くらい残っていそうなもんだけど。
それと景行も日向で熊襲退治している時に神武のことに触れた
記述ってあったっけか?
そもそも古くからある地名が何故そう名付けられたのか大体意味不明
古くからある日本語も含めポリネシア系の言葉に近い説あるけどどうなん
神武が、出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」を正妃として迎え入れる・・
つまり、実家の九州倭奴國王家と縁を切る・・ことと引き換えに
長髄彦や大物主は従順に従った
そして神武の死後は
2代目綏靖天皇は
東征後に神武が奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子となった
第3代安寧天皇は
第2代天皇と出雲のコトシロヌシの娘との間に出来た子で
第4代懿徳天皇は
第3代天皇と出雲のオオモノヌシの娘との間に出来た子で
第5代孝昭天皇は
第4代天皇と奈良の豪族の娘との間に出来た子で
第6代孝安天皇は
第5代天皇と尾張(名古屋)の天忍男命の娘との間に出来た子で
第7代孝霊天皇は
第6代天皇と第6代天皇の姪との間に出来た子で
第8代孝元天皇は
第7代天皇と奈良の豪族の娘との間に出来た子で
第9代開化天皇は
第8代天皇とニギハヤヒの子孫の娘との間に出来た子となった
その書物の編纂時に以前の古文書を禁書にして焚書してるもんな?
当時は縄文人と一部渡来系人の間には相容れない争いが有ったんだろうな。
>>450 こういうのって少なくとも歴史を真面目に語る資格ないよね
こうして見ると
>>477 東征の勝者は神武ではなく出雲王家だな(^_^;
>>470 神話の紙ですら記紀の都合で消された神がいるからなw
祈りには名前が残っているし未だ消された神が本殿にいる神社もあるね
>>470 実際の考古学の発掘成果を見ると、
神代記の記述は前3~2世紀から1世紀前後の日本の遺跡に、
精度が高く再現することが出来る事がわかる。
むしろ何故邪馬台国の時代の記述が改編され記述させられているのかを
考察しなければいけない事を強く示唆していると言えよう。
神武東征は日向の国スタートだからヤマト朝廷成立に南九州勢力が関わっているのは確かだろう
南九州と畿内その他の連合で作ったのがヤマト朝廷
その後世紀をまたいで豪族同士の主導権争いや反発があり
最終的に南九州組は負け組(ただし血統は特別)として8世紀に神話が整理された
>>477 5代目からの部分が吉備の豪族の大和進出劇のパートになるな。
>>483 神武の死後、九州勢は、大和朝廷には加わっていません
>>483 ソレが生目氏=伊支馬長官の垂仁景行の大和進出劇だな。
>>481 逆に記紀に合わせて祭神を変えさせられた神社もあるだろうね
本来の祭神が摂社末社に追いやられて
>>482 ところ神武が即位した橿原宮は、昭和になってからか見つかり
年代も紀元前7世紀と出てしまったんだよ
>>485 っつーか、神武の死後、8代じゃなく、もっといたんじゃねーかな天皇(^_^;
>>489 だから神武の東征は無いの。
スサノウが出雲に進出して、
大国主が国造りを始め、
大物主と同盟した後、
高天原からニギハヤヒ等が天孫降臨して、
国譲りが行われ、
建御名方神が信濃に逃れていったのを、
武御雷が追いかけていった下りな。
>>455 中国人ですら証拠が見つかるまで夏王朝の実在を主張したりしなかったぞw
>>457 そうだよ?
だから普通にキリストは実在しなかったのでは?
と唱える学者もいる。
もちろん信者なら証拠なんぞ無くてもキリストの実在を確信するだろう。
君が神武天皇の実在を信じているようにね
あと、因幡の白兎のサメに襲われた話も、
実際に鳥取県弥生の遺跡からのみ、
サメの刻印のある青銅武器が多数見つかっている。
この様に、イデオロギーのために、
記紀の記述を完全否定して、
考古学の発掘成果と記紀の記述を結びつけてはいけないという
皇国史観の否定を前提とした議論が
間違いであることが証明されているのである。
邪馬台国は、宮崎県西都市の西都原(さいとばる)で決まり。
>>486 隼人が近習として天皇の周囲にいた理由はどう説明する?
土井ヶ浜遺跡の多数の殺傷痕のある人骨の出土は、
因幡の白兎に関連した遺跡である可能性が極めて高い。
そうなると、記紀には、前3~2世紀の日本で実際にあった事が、
精度が高く記述されている事になる。
まいかい畿内説キチガイが現れるな
何度論破されても現れる
邪馬台国なんてどこだっていいよ
どうせ関西のつまんない土人の遺跡なんだから
これが海中に沈んだ神秘の古代王国とかなら面白いけどね
宮崎はピッチャーが多い
柳裕也(中日)、戸郷(巨人)、血縁的に工藤(SB監督)など
熊本はバッターが多い
村上(ヤクルト)、松中(SB)、前田智徳(広島)など
ということで、
前3~2世紀の出来事が、
実際の遺跡で高い精度で再現されるレベルで、
記紀に記述されているのに、
なぜどうして3世紀の出来事が、
記紀に正確に記述されていないのか??
コレが今後の日本の考古学のテーマになる。
ロシア工作員が血液型と弥生系のスレも立て始めたようだな
白兎神社と青谷上寺地遺跡、近いな。
>>504 ダメだ、最終的に狗邪韓国は倭の領土を教科書に載せるまで
持っていかないといけない。
>>453 逆に非実在を証明できなければ実在でいいんじゃね
あれもこれも実在が疑わしいじゃ話にならんし
非実在というならそれなりの合理的な根拠が必要
単に古くて昔の伝承だから疑わしいというのはただの難くせ
統一教会の解散命令も間近。
朝鮮系部族の工作活動、
邪馬台国畿内説も、
いよいよ終わりを迎えようとしている。
そうか出雲ももともとは渡来系で半島経由の弥生人だな邪馬台国連合も当時の半島南部も。
天孫降臨は弥生人ともルーツの違う大陸由来の渡来人で縄文人も弥生人も制圧したと。
だから焚書して記紀を編纂しないと都合悪かったんだろうな?
阿波と吉備がまだ判らん。
>>512 古伝承の人物が全部非実在という方が逆の意味でオカルトだよ
>>491 東征がないのに、東征先の橿原遺跡があるって変じゃね?
>>513 逆に九州説の方が綺麗さっぱり消えたりして
>>517 実際には九州のどこからも邪馬台国と断定できる遺跡も
卑弥呼の墓と言える古墳も見つかってはいないんだけどね
邪馬台国の痕跡は3世紀の魏志倭人伝の記録を最後に綺麗サッパリ消えてる
だから色んな人がいろんな空想を膨らませて、あーだ、こーだとやる余地がある
所がやりすぎて、その後の物的証拠とぶつかるからあまり無理はできない
>>518 さらに言えば科学で説明のつかないオカルトもこの世に存在するからね
【人類学】「弥生人」とは何者か? 急速に進む核ゲノム分析、見直し迫られる通説 [樽悶★]
http://2chb.net/r/newsplus/1696150189/ >>521 ロシアが攻め込む口実を作ろうとしてるな
やはり次は日本に来るか
>>522 あるものをあると言って何が悪いか
例えば宇宙の95%を占める科学的には未知な暗黒物質
>>524 お前はあるか分かんねーのを根拠もねーのにあると言い張ってるだけだろ
オカルトだよ
>>525 もしかしてただオカルト言いたいだけじゃないだろうな
さらに科学で説明のつかないオカルトもこの世に存在してるし
この世には科学で説明のつかない現象も存在している
記紀に書かれてる超自然的な記述も
もしかして事実だったりするかも知れないよ
>>526 未知なもんを根拠もなく妄想で語るのがオカルト
お前はさっきからそんな話ばかりしている
畿内説派はもう駄目だな
>>511 草
無いことは証明できないよ
ある、と主張する側が証明しなければならない
>>528 その可能性は否定しないけど
存在が証明されるまでは仮説でしかない
あるのか無いのか分からないけど『あると信じる』のは宗教であって学問ではない
>>498 誤解されたくないから一応言っておくと
俺は万世一系を信じてるからな?
ただ万世一系の始まりが4世紀、早くても3世紀後半、邪馬台国以後だと考えてる。
継体天皇での王朝交代も無い。
仮に大化の改新が『小国日本が倭を併合したクーデター』だったとしても
男系は途切れていないと思ってる。
要は
倭と日本のどちらが天皇を擁立するか
というクーデターだったと考えている。
三角縁神獣鏡の初期型が出た最古の古墳は九州ではあるな
>>530 それじゃ本来的には何々はないとの断定はできないわけだね
一生懸命に記紀の古代の人物は居ないと断定してる頭オカルトな人間がいるけど
>>538 九州説が九州の古墳の年代を古く捏造したからじゃ
>>536 万世一系は科学的に証明できないから『信じてる』という言い方をしてる。
万世一系は俺の日本人としての宗教だよ。
それはそれとして
100歳越えの天皇が古代にいたというのは明らかに嘘なんだから
それは認めなくちゃいけないよね
というのが俺のスタンス。
いや実は2倍年でした3倍年でしたと言い張るのなら
それはそれでちゃんと短くなった年数分を補正した年表を示さなければならない。
2倍年3倍年なら神功皇后は邪馬台国卑弥呼の時代よりずっと後の人物になるんだから
日本書紀の神功皇后の記述は嘘になる。
それは認めなければならない。
>>541 100年前倒しにしたのが畿内説なんだけどな
『纏向型前方後円墳の築造時期は4世紀代』
東京都立産業技術高等専門学校 名誉教授 石井 好
ホケノ山古墳の築造時期は350年頃と明らかになっています。
その証拠は
1ホケノ山古墳の第2次調査に、橋本氏によると布留 0 式新相から 1 式期(310~340 年 頃)の土器がみられる事でわかります。
2 画文帯同行式神獣鏡 B 型(蟠龍形)が出土するとそれは4世紀代という大体の年代観があ てられると樋口隆康氏も証言しています。
3のかつき銅鏃を見ても4世紀後半(370 年頃)と分ります。
4小型丸底土器をみても4世紀代の物と分ります。
5考古学の常識では新しい遺物は350年頃になります。
6決定的なのは負の伝世になる事です。伝世は正がただしいのです。伝世が負になると鏡の届く前の埋葬となり不自然なのです。
6件の350年説の証拠があります。
樋口隆康・河上邦彦氏の250年説は崩壊します。
>>426 そりゃ古代華南人達だもん
中国南部の華南地方から東南アジア北部と台湾・沖縄・日本列島と半島南部
に掛けて広く一帯に拡がり水稲栽培技術を持ち稲作文化に依って人口増大を続けついに青銅器時代、鉄器時代、古墳時代を興し翡翠加工をも殊としていた巨石文化を構築していた古代華南人が日本人のモンゴロイド系の祖先だもん
華北蛮族エベンキはトナカイを生で食べて糞の上に平然と寝てて小便で顔を洗い、動物の皮を剥いで着てて、
臭穢不潔の濊族と漢族を仰天辟易させて忌避されてた、全く別の系統でその頃は半島にはまだ侵入して無かったよ
氷河期に凍土の上を極少数の親族のみで彷徨いてて近親交配を重ねて、少し前まで共食いまでしてて攻撃的で野蛮でトナカイ生で食べる共食い原人のネアンデンタール人と全く同じレベルで分子レベルで進化が遅れてたからね
今でもアフリカの部族が牛の糞で家建てて牛のおしっこで顔洗ってるし、エスキモーと生でアザラシ食べてて同じ暮らししてるから辺境の蛮族には珍しくはないスタイルんだろうけど。
黄河文明から長江・揚子江流域の広い一帯に掛けてこの人口を多く有して分子レベルでの進化が進んでいた古代華南人達文明人モンゴロイドとは、全く遺伝子系統と性質が異なるからね
>>426 そりゃ古代華南人達だもん
中国南部の華南地方から東南アジア北部と台湾・沖縄・日本列島と半島南部
に掛けて広く一帯に拡がり水稲栽培技術を持ち稲作文化に依って人口増大を続けついに青銅器時代、鉄器時代、古墳時代を興し翡翠加工をも殊としていた巨石文化を構築していた古代華南人が日本人のモンゴロイド系の祖先だもん
華北蛮族エベンキはトナカイを生で食べて糞の上に平然と寝てて小便で顔を洗い、動物の皮を剥いで着てて、
臭穢不潔の濊族と漢族を仰天辟易させて忌避されてた、全く別の系統でその頃は半島にはまだ侵入して無かったよ
氷河期に凍土の上を極少数の親族のみで彷徨いてて近親交配を重ねて、少し前まで共食いまでしてて攻撃的で野蛮でトナカイ生で食べる共食い原人のネアンデンタール人と全く同じレベルで分子レベルで進化が遅れてたからね
今でもアフリカの部族が牛の糞で家建てて牛のおしっこで顔洗ってるし、エスキモーと生でアザラシ食べてて同じ暮らししてるから辺境の蛮族には珍しくはないスタイルんだろうけど。
黄河文明から長江・揚子江流域の広い一帯に掛けてこの人口を多く有して分子レベルでの進化が進んでいた古代華南人達文明人モンゴロイドとは、全く遺伝子系統と性質が異なるからね
>>534 そんな君に、光仁天皇が天武系の井上内親王やその子の他戸親王を
廃して、渡来系の高野新笠の子の桓武天皇に皇位継承したのは何故か、
と問いたい。
>>542 実は天皇は呉の太白の子孫で
系図も残ってる
司馬遷『史記』「呉太伯世家」
太伯(句呉を建国)→虞仲→季簡→叔達→周章(中略)…夫差
この最後の夫差という人の続きが
日本の松野連系図という系図にあって
夫差→忌→順→景弓→阿岐→布怒之(中略)
…謄→讃→珍→済→興→武(倭の五王?)→哲→満…
とある
まあ神話で言うと天皇の系図じゃなくて
その先祖の兄の海幸彦の系図に相当するように思えるとこもあるけど
けどそれでもまた違う理由で天皇家は万世一系と言えるとこもあるけど
日本書紀に神功皇后が山門の田油津媛を成敗したって書いてあるじゃん
邪馬台国の末裔が田油津媛だろ
ヤマト王権が邪馬台国を征服した
>>548 昆支王、東城王、武寧王の王妃も倭人だったそうな、つまり3代母親が倭人だったらもう倭人と変わらんよ
初期の天皇家は出雲との血縁が濃いね
むしろ出雲王朝と言っていいくらい
古代は
倭人と渡来人でどちらが天皇を擁立するかで争い
中世は
源氏と平氏でどちらが天皇を擁立するかで争い
近代は
徳川と薩摩長州のどちらで天皇を擁立するかで争った。
多くの国から女王として共立されながら
誰とも合わずに祭祀に専念していた卑弥呼の在りようが天皇家に繋がっているのかな
と妄想するのは楽しい。
日本書紀の記述は全部真実!
天皇家の歴史は紀元前660年から続いてるんだ!
みたいな妄想よりずっとロマンがあると思うわ
>>550 まあ太伯と虞仲は先に「虞」(現在の山西省)を建国したという説が
あって、山西省なら朝鮮半島もそんなに遠くないんだよね。
そもそも太伯が建国したとされる句呉が滅亡したのは
紀元前473年で、そんな昔の系図が文字もなかった頃の
倭に残ってると考えるほうがおかしい
「大和王権」なんてものが日本を統治した事は無いし、
邪馬台国は日本じゃない。
全身刺青の半裸生活の南国の島が日本なわけないだろうがドアホ!
>>552 うん、だからそこでわざわざ渡来系の雄略天皇に戻した理由は
おそらく継体で渡来系に置き換わっていたのを、天武系が取り
返して、光仁天皇でまた渡来系に戻したのではないかな、と
思ってるんですよ。
>>557 差別で書かれた倭人伝をそのまま信じれるのすごい
古代支那チョンは絶滅して別の遺伝子に置き換わっている
日本人は絶滅していない
現行支那チョンは日本人の歴史に興味を持つな
チンギスハンにこだわれチンキスハンに
>>555 ソレはない。
なぜなら古代に天皇というシステムが存在しなかったからな。
5ちゃんが大変な時にくだらないことで盛り上がってるのね
>>563 このスレも5chもロシアが関わってるからな
このスレも歴史人と言う雑誌のステマになっているのかな??
中国史書には九州の「倭国(邪馬臺国、狗奴国など)」そして東日本の代名詞「日本」しか登場しませんね
ては、何故ヤマトは中国に対しはっきりヤマトと名乗らなかったのでしょうか?
①そもそもヤマトなんて呼び名が存在しなかった
②ヤマト自身はは中国人と会ったことがない
③罪日だとバレないよう、九州邪馬臺国の末裔に成りすましていた(オレオレ詐欺)
哀識りたほ嵐滋哀い鹿室璽安諮巧委光宛更て好航愛寺に洪耳み恒次校医依挨宛偉案嫉を
>>561 大君だな
幾つかの君から共立されて大君になったんだろう
共立されることなく完全な世襲を確立して天皇と名乗りだしたんだと思う
徳川家康が戦乱を勝ち抜いて征夷大将軍を世襲して3代目の家光になったようなタイミングで
天皇を名乗ったんじゃないかと思うわ
耳児更餌飼肯持持孔郊湿質以室ねり辞孔案為や似移そ功挨曖育持いふたさ高厚更貢握
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耳江肯は安悪医椅握坑め磁す好え委き慈巧識え字違扱ら恒
支那チョン風情がどんなにわめいても
お前等はチンギスハンの子孫
日本と遺伝子的に関係ない
郊握行医むし域は宛さ胃侍更椅胃尉字校緯式寺行摯恒医
璽ん育識ろみ曖璽鹿め洪軸萎ふお璽孝ね暗悪式飼域向さ
現代の支那チョン風情がどんなにわめいても
お前等はチンギスハンの子孫
古代支那人も古代朝鮮人も絶滅してしまった
現代の支那チョンは日本人と遺伝子的に全く関係ない
日本の歴史に興味を持つな
偉威みす式せ遺肯域安摯てき次寺質ほ維ち誌為示孝治叱な
坑慈誌抗自域りはえ疾示幸ひ后宛貢候み康る移緯似疾耕さた
案識高疾孔鹿香広示曖哀威耕失拘く公康維へつ交実ねる胃
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>>558 皇室はd1a2らしいので渡来系では無いと思うよ
中国史書には
漢の光武帝の時、使者を派遣して入朝し、安帝の時、また遣使して朝貢したのが「俀奴国」で
大業四年、隋の第2代皇帝「煬帝」が裴世清を使者として派遣した、奈良の邪靡堆を都とする倭國が、
「魏志いうところの邪馬臺なる者」だ
としか書かれていないね
大和朝廷は裴世清に対して、はっきり「我々は、邪馬臺国だ」と名乗ったんだねぇ
でも隋は、漢王朝の末裔だから、魏・晋王朝に冊封された邪馬台国と名のったのは大失敗だったんだ
魏・晋王朝は、漢王朝から帝位を簒奪(帝王の位を臣下が奪取すること)した謀反人だからねぇ
で、唐に対して再び遣使を派遣したときは
我々は、漢の光武帝の時、使者を派遣して入朝し、安帝の時、また遣使して朝貢した「俀奴国」で
彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んだのだ
ってことにした
神功天皇を倭の女王卑弥呼として晒す異常性は、他の倭王とは段違い。
卑弥呼は大日女命、比売大神クラスの神。比売神社自体が卑弥呼神社!
そしたらそれはそれで
第2代皇帝太宗が派遣した高表仁は、
大和朝廷が漢の光武帝の時、使者を派遣して入朝し、安帝の時、また遣使して朝貢した「俀奴国」だと聞いた途端に態度を豹変させて、俀奴国のように冊封を命じようとして礼を争い、日本がそれを断ったら、踵を返して帰国されてしまったんだ。
陳寿は、
蜀の役人の子で、四川にうまれ
のちに魏に使えた官吏。
よって、呉音が役に立つとみる。
邪馬国は八女
邪馬台国はその南方
陳寿は、
蜀の役人の子で、四川にうまれ
のちに魏に使えた官吏。
よって、呉音が役に立つとみる。
邪馬国は八女
邪馬台国はその南方
あっ、、、
一番由緒正しいのって、
邪馬台国じゃなく奴国じゃないですかー
>>615 そだよ
由緒正しいかはおいといて
倭奴國は自民党政権
邪馬台国は民主党政権
>>511 すごい理論やなw
それで言うとフライングスパゲティモンスターも実在するやん
あらゆる方向から実証・考察して蓋然性が高いものを求めるのが考古学だよ
「史書なんて当てにできない」も「史書に書いてあるからこれはこう」
も、どちらも考古学ではない
>>606 そういうのあんま言わない方がいいよ
一切根拠も無いし
今日のそこまで言って委員会で竹田が「邪馬台国と皇室は何の関係も無い、邪馬台国は九州にあった」と言ってたよ。
>>611 神戸の六甲比命神社行ったが雰囲気的に凄すぎたわw
案外オカルトで流行ってんのか若い子もいた 凄いとこなのに
>>1 ★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html 伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
手塚治虫の火の鳥では邪馬台国は九州で二ニギに滅ぼされてた
最近になって纏向で少し遺跡が発掘されたから畿内も可能性が?ってなってるだけでつい最近までずっと九州が主流だよ
箸墓とかそれまでなんだと思ってたんだろうね畿内派
>>619 根拠が一切無いとは言えない。
というか、d1a2であることはほとんど確定的です。
一応、根拠を上げれば、ずっと男系で相続してきた確率の高い
源氏や平氏の武家の子孫をはじめとして、皇位継承順位120位に
連なる人々で、ハプロ検査した人たちの証言がd1a2であること。
そもそも、d1a2が、日本人の40%近いことから、これが天皇家
および武士のYdnaハプロタイプであろうというのが、海外の
DNA家系調査研究家の一致した見方だから。
なんだ
九州説が伊都国だっつってる糸島市じゃなく
春日市から、王の遺跡が出てるじゃねーか(笑)
やっぱり、神武の実家の筑紫城はすげーわ
須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 須玖遺跡群の全体像紹介 出土品や写真並ぶ 春日で企画展 /福岡 2023/9/28
https://mainichi.jp/articles/20230928/ddl/k40/040/182000c 春日市岡本の奴国(なこく)の丘歴史資料館で考古企画展「わたしたちの須玖(すぐ)遺跡群」が開かれている。
10月22日まで。
市の中央にある春日丘陵の北部一帯には須玖岡本遺跡など多くの遺跡があり、須玖遺跡群と呼ばれる。
弥生時代最大級の集落で、住居域や墓地、工房などが見つかっており「奴国の王都」だったと考えられている。
企画展は「王の館と民衆の住まい」「弥生のテクノポリス」など5章構成。
140点の出土品や写真、図で遺跡群の全体像を紹介している。
福岡市博物館所蔵で資料館では初展示の須玖岡本遺跡岡本地区出土銅戈(どうか)、通常はレプリカを展示している大南A遺跡出土銅戈鋳型の実物など貴重な出土品が並ぶ。
須玖遺跡群の坂本地区や五反田地区では青銅器やガラス器の鋳造遺跡が見つかっている。
これらは場所や規模から、奴国の官営工房であると考えられている。
これらの工房が成立したのは、奴国王が青銅、ガラスの原料の輸入を占有していたと考えられる。
その材料をもって、祭器等を集中生産し、自国内の首長およびほかの地域の支配者に供給し彼らの要求を満たしていた。
その範囲は北部九州沿岸地帯のみならず山陰中国西部、四国南西部、対馬に及び、韓国南部からも春日地域で生産された青銅器武器が見つかっている
やはり
公孫氏の帯方郡に属していた、漢委奴国王の倭奴國に
出雲と畿内は含まれていなかったのね
畿内は東鯷国
>>631 ねぇ
金印も出ている
王都も発掘されている
九州は、57年から150年以上倭國王として君臨した
漢委奴国王・倭奴國を推したほうが良い
日本政府はさっさと古墳を調査しろ
天皇が朝鮮の一族であったことがバレるのかそんなに怖いか
邪馬台国は北部九州の一小国に過ぎない
ヤマト王権とは別だよ
>>605 残念
記紀に住吉仲皇子と雄略天皇に近習隼人が仕えていた記録がある
>>614 陳寿は蜀に仕えたんだよ
そして呉音(漢音も)と言うのは、日本に伝わった漢字の発音であって
中国の文献の発音の読み解き方には使えないもの
>>633 朝鮮の範囲がどこまでになるかは元寇でレイプされまくった朝鮮人と古代も違うしな
渡来で行くと今の中国の北の方じゃね? 大和と出雲も大陸の時は多分別種族だろ 文化違うし
九州は・・・多分当時から修羅の国 その後の熊襲はないよな 天孫降臨後付けだろな
>>638 熊襲の後、朝廷に仕えた九州の人たちが隼人じゃん
何故に別称にしないといけないのか?蝦夷と共に
神武の死後は
2代目綏靖天皇は
東征後に神武が奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子となった
第3代安寧天皇は
第2代天皇と出雲のコトシロヌシの娘との間に出来た子で
第4代懿徳天皇は
第3代天皇と出雲のオオモノヌシの娘との間に出来た子で
第5代孝昭天皇は
第4代天皇と奈良の豪族の娘との間に出来た子で
第6代孝安天皇は
第5代天皇と尾張(名古屋)の天忍男命の娘との間に出来た子で
第7代孝霊天皇は
第6代天皇と第6代天皇の姪との間に出来た子で
第8代孝元天皇は
第7代天皇と奈良の豪族の娘との間に出来た子で
第9代開化天皇は
第8代天皇とニギハヤヒの子孫の娘との間に出来た子
九州とは縁を切った
>>607 遣隋使の段階(西暦604年)では自分達は邪馬台国の末裔だという認識があったんだよね。
でも西暦720年に完成した日本書紀からは消されて存在しなかったことになってる。
やっぱり大化の改新で天皇を擁立する勢力が
邪馬台国系から変わった、政権交代したんだと思うわ。
源氏と平氏みたいな政権交代が邪馬台国系勢力と帰化人勢力の間で起きたんじゃないかと。
ちなみに明治維新では薩長が天皇を擁立したから今の政治体制は邪馬台国系だと思う
>>622 測量方法は伝わっていないが方向に関しては驚くほど正確だった。
1 世紀末に書かれた『漢書』地理志には『周礼』
(周代ではなく戦国時代:BC403~BC221 になってからの成立とされる)
の九州のうち 6 つについて目標となる山への方位が記述されている.
これらの山は霊峰とされ、その後仏教や道教の寺院が建立され、現在では観光地となっている.
いずれも洛陽からの距離は400~1100km、山の高さは 2 千 m 程度かそれ以下であるので、
見透し線は得られない対象である.
しかしその(8)方位の精度は 6 つの山のうち 4 つは 5 度以内、残りは 18 度、12 度であり、
8 方位(45 度ずつ)記述としては驚くべき正確さである.
ただし測量方法はわからない
ちなみに距離の測定がイマイチだったのは一寸千里法の欠陥から分かっている
纏向遺跡の頃の奈良はヤマトなんて名乗ってないし言われてもなかったんだけど
>>644 日本書紀によると記録上近習隼人が確認できるのが4世紀末あたり
当然ながら起源はもっと早い
あなたの設定では神武天皇っていつ退位したの?
604年:遣隋使「我々は邪馬台国の末裔」
↓
645年:大化の改新
↓
663年:白村江の戦い
天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。
↓
720年:日本書紀(邪馬台国が日本の歴史から抹消される)
大化の改新で百済からの渡来系が政権を握ったんだろうね。
>>646 いや、隋や唐の皇帝が、後漢以来の漢人の名門の子孫だと標榜しているのを知らなかったんだよ
木花之佐久夜毘売も大国主の妻だったりするのもあるし
となると大国主=二ニギになる
>>646 いや、
隋や唐の皇帝は、邪馬台国と同じく
正始元年[二四〇年]に魏の皇帝に使者を遣わして来貢した鮮卑の出身
んで、大和朝廷は遣隋使を派遣して、魏に冊封された邪馬台国の末裔として「ひさしぶり~」(^-^)vイエイ!って手紙を届けた
後漢以来の漢人の名門の子孫だと標榜している隋の皇帝は、「テメぇら何者だ」って怒るしかなかったのよ
んで、遣唐使では
後漢以来の漢人の名門の子孫だと標榜している唐の皇帝に合わせて
我々は、漢の光武帝の時、使者を派遣して入朝し、安帝の時、また遣使して朝貢した「俀奴国」で
彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んだのだ
ってことにしたんだわ
逆に言えば
鮮卑の出身なのに後漢以来の漢人の名門の子孫だと標榜している隋の皇帝に
日出処(邪馬台国)の天子、書を日没する処(鮮卑)の天子に致す
つつがなきや(ひさしぶり~)
って国書を送るってことは
後漢以来の漢人の名門の子孫だなんつってるけど
おまえが俺たち邪馬台国(日出処の天子)と同じく
正始元年に、魏の皇帝に使者を遣わして来貢した
鮮卑(日没する処の天子)だと知ってっかんな
って、聖徳太子が脅しているってことなのさ
ヤマト政権の成立が4世紀半ばだから記紀に照らすとかなり初期から近習隼人が畿内にいたことになる
これでヤマトに九州勢力が関係していないという主張は無理がある
あ、ひとつ思いついた。
わたしは「崇神(神武)が狗奴国出身」説なんだけど、例えば熊本市から
阿蘇の南側を通って東に行くと高千穂町に出るんだよね。
もしかしてこれを天孫降臨に置き換えたってことはないのだろうか?
で、崇神(神武)は高千穂町から延岡に出て東征を始めたと。
【LIVE】10/02 百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第215回
28,991 人が視聴中 6 分前にライブ配信開始 #あさ8
>>658 雄略天皇の配下が5世紀に熊本で枝船山古墳を作ってるし
それまでにある程度の全国統一が済んでるってことだと思うよ?
銀錯銘太刀にワカタケル大王の部下って書いてあるんだし
そして隼人とは、吾田(薩摩)隼人や大隅隼人のような、九州南部の集団をさす言葉
九州南部から近習として、天皇に仕えた人物や集団がいたという意味
>>663 時代を下っても近習蝦夷はいないんだよね
>>663 雄略天皇から遡る大和朝廷の歴史
崇神天皇
垂仁天皇
景行天皇
成務天皇
仲哀天皇
応神天皇
仁徳天皇
履中天皇
反正天皇
允恭天皇
安康天皇
雄略天皇
平均在位12年なら132年
西暦456-132年なら西暦324年
崇神天皇=初代なら大和朝廷成立は4世紀中頃
古墳時代やね
ついでに言うと、崇神(神武)は邪馬台国出身の一派と
宇佐で待ち合わせたのではないのだろうか。
その邪馬台国一派が筑紫平野から日田市を通って宇佐へ
落ちていったのも、また天孫降臨のイメージの元になって
いるのではないか。
大国主の本州国造りそのものが東征となっているのでは
ワカタケルってさ、それこそクマソタケルがいたようにもともと
クマソの名前で、それに幼年(皇太子)をイメージさせる「ワカ
(若・稚)」がついただけような気もするんだよな
>>665 その12年って君が勝手に決めただけのあんまり意味がないと思うよ?
そもそも雄略天皇が23年間在位なんで、いきなり破綻してるし
熊襲のキャラ付けは大隅隼人が反抗期だった8世紀の記紀編纂時に行われたものであって
それ以前の立ち位置が違った可能性はあるよな
>>658 神武が、出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」を正妃として迎え入れる・・
つまり、実家の九州倭奴國王家と縁を切る・・ことと引き換えに
長髄彦や大物主は従順に従った
そして神武の死後天皇家は、九州倭奴國王家の神武の皇子を殺害し、出雲王家の神武の皇子に跡を継がせ
九州倭奴國王家と畿内大和天皇家は「素と和せず」となる
>>668 ワカタケル=雄略天皇の推論ロジックは
埼玉県稲荷山古墳の金錯銘鉄剣ともリンクするのよ
あっちには、ワカタケルの名前と斯鬼宮の居住地が載ってる
埼玉の金錯銘鉄剣が獲加多支鹵大王
熊本の銀錯銘太刀が獲???鹵大王
現代風に書くとワ???ル大王が共通点
>>669 天皇平均在位
でググると計算してくれてる人がいるよ
俺は自分で計算した12年でやったけど
古代、中世、近代に分けて平均在位を計算すると古代天皇は平均在位10年という結果になるってさw
【関連】
邪馬台国をヤマトだと言い張る畿内説は韓国式ウリナラ起源説という事よ
半島系固有DNAの分布
邪馬台国時代の倭人は呉越の末裔と記されている
そして女王国の東の倭種の国の人は半島系と判明している
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
神武が、出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」を正妃として迎え入れる・・
つまり、実家の九州倭奴國王家と縁を切る・・ことと引き換えに
畿内の天照大神の流れを汲む長髄彦や
出雲の大国主の流れを汲む大物主は
神武に従順に従った
そして天皇家の外威となった出雲王家は神武の死後、
九州倭奴國王家の神武の皇子を殺害し、出雲王家の神武の皇子に跡を継がせ
以来、九州倭奴國王家と畿内大和天皇家は「素と和せず」となる
九州倭奴國の者が、畿内大和天皇家に仕えるようになるのは
神武よりはるか後の時代
第12代景行天皇が息子のヤマトタケルを派遣して、九州倭奴國王家を討伐してからの話となる
そこまで言って委員会NPで竹田さんが「邪馬台国と大和王権は何の関係も無い、邪馬台国は九州にあった」と言ってたよ。
皇室が言うんだから間違い無いだろw
古事記、日本書紀を編纂する時魏志倭人伝を読んでるんだって、それでも邪馬台国を触れないって事は大和王権と邪馬台国は何も関係ないからだって竹田さんは言ってたよ
奈良がヤマトと名乗るようになったのはずっと後の事だと思う
九州制圧した後のことでしょ
>>669 そもそも論として
100歳越えの長寿の天皇なんかいるわけ無い
というのは君にも分かるよね?
んで、じゃあ本当はそれぞれの天皇が何年から何年まで在位していたのかどうすれば分かるか?
というのを考えた時に
それを知るための材料は0なわけだ?
日本書紀、古事記以外の歴史書は焚書されてるしね。
じゃあどうするかと考えた時に『平均在位』という物差しが生きてくる。
天皇の中には比較的長く在位していた方もいるだろうし
無茶苦茶短い在位期間の人もいたろう。
ただそれらを全部足して平均を取ることで全体的な傾向を知ることができる。
実在が確認されてる雄略天皇以降の在位期間と
雄略天皇以前の平均在位期間が極端に違うと考える理由は無い。
栄養状態や衛生状態、医療技術を考えると平均在位期間が短くなることはあっても長くなることはないだろう。
そこで
>>665なんだよ
>>680 纒向なんかと比べ物にならない規模の、
神武の実家の筑紫城
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 帯方郡からの青銅、ガラスの原料の輸入を占有し
その材料をもって、祭器等を集中生産し、
北部九州沿岸地帯のみならず山陰中国西部、四国南西部、対馬、韓国南部の支配地に供給した
中国の後漢皇帝に冊封された漢委奴国王←←
>>680 神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 帯方郡からの青銅、ガラスの原料の輸入を占有し
その材料をもって、祭器等を集中生産し、
北部九州沿岸地帯のみならず山陰中国西部、四国南西部、対馬、韓国南部の支配地に供給した
中国の後漢皇帝に冊封された漢委奴国王←←竹田は認めない
>>685 厳密に言えば卑弥呼には子孫がいないから先祖では無いよ
大国主も九州から来たんだろ
兄たちに蔑ろにされたので新天地求めて
>>685 ちがう
筑紫城・・つまり
中国の後漢皇帝に冊封された倭奴國の漢委奴国王が
大和の天皇家の祖先
大日本帝国は認めることができず帝大に、邪馬台国九州説を唱えさせた
>>685 卑弥呼は高齢の独身だと魏志倭人伝に書いてるのに
「卑弥呼は天皇の先祖だろ 」
メチャメチャバカっぽいww
スサノオといい九州から追い出されたアウトロー達が本州の国造りをした
筑紫城・・つまり
中国の後漢皇帝に冊封された倭奴國の漢委奴国王が
大和の天皇家の祖先
場所もとっくの昔に判明してる
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 しかし大日本帝国は認めることができず帝大に、邪馬台国九州説を唱えさせた
>>682 だからといって、在位12年が正しいという根拠がない
短命の天皇もいれば、ご長寿のケースもある
平均寿命を超えたらおかしいのかといえば、そもそも平均寿命は乳幼児死亡率の影響が大きくヒトの寿命とは別の考え方
卑弥呼は、在位60年〜70年
凡そ100歳超えで亡くなっているけど
これはスルーできるのも単なるダブスタ
とはいえ
九州説は「偽説」なので
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 を邪馬台国だとは言えなかったのよ
>>680 応神の五代孫とされた継体と同じくらいあやしいwww
筑紫城・・つまり
中国の後漢皇帝に冊封された倭奴國の漢委奴国王が
大和の天皇家の祖先
場所もとっくの昔に判明してる
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 しかし大日本帝国は認めることができず帝大に、邪馬台国九州説を唱えさせた
とはいえ、九州説はあくまでも「偽説」
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群を
邪馬台国だと言うことは不敬罪に価したのよ
>>672 前にも書いたけど、「磯城」は大和(奈良)にも河内(大阪)にも
あるので、埼玉になかったという保証もないから埼玉の豪族であった
可能性が0でもない。
せめてもう一箇所くらい(吉備とかないかな?)出てくれたら
話はまた別だけど。
筑紫城・・つまり
中国の後漢皇帝に冊封された倭奴國の漢委奴国王が
大和の天皇家の祖先
場所もとっくの昔に判明してる
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 しかし大日本帝国は認めることができず帝大に、邪馬台国九州説を唱えさせた
とはいえ、福岡県春日市の須玖遺跡群は、紛れもない神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
「偽説」の九州説が
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群を
邪馬台国だと言うことは不敬罪に価したのよ
同じことを何度もコピペしてるのってチョンの声闘ってヤツ?
卑弥呼とか言い出したのも戦後からでしょ
そして卑弥呼が奈良にいたって言い出したのはもっと最近
何やら怪しい
外国勢力が絡んでいるのでは
須玖遺跡群の全体像紹介 出土品や写真並ぶ 春日で企画展 /福岡 2023/9/28
https://mainichi.jp/articles/20230928/ddl/k40/040/182000c 福岡県春日市岡本の奴国(なこく)の丘歴史資料館で考古企画展「わたしたちの須玖(すぐ)遺跡群」が開かれている。
10月22日まで。
市の中央にある春日丘陵の北部一帯には須玖岡本遺跡など多くの遺跡があり、須玖遺跡群と呼ばれる。
弥生時代最大級の集落で、住居域や墓地、工房などが見つかっており「奴国の王都」だったと考えられている。
企画展は「王の館と民衆の住まい」「弥生のテクノポリス」など5章構成。
140点の出土品や写真、図で遺跡群の全体像を紹介している。
福岡市博物館所蔵で資料館では初展示の須玖岡本遺跡岡本地区出土銅戈(どうか)、通常はレプリカを展示している大南A遺跡出土銅戈鋳型の実物など貴重な出土品が並ぶ。
市内の中学生4人が須玖坂本B遺跡を調べた成果のミニ展示もある。
手塚治虫の火の鳥黎明編で、騎馬民族征服王朝説を大々的に取りあげたのはまずかった
今や考古学上で完全否定されたトンデモなのに、あの作品のせいで未だに信じてる奴がいる
>>705 漫画にマジレスしてもしゃーないっていっぱんかは普通に理解してるよ
卑弥呼によって皇室が始まったという方がトンでも過ぎる
今の畿内説には統一教会でも入り込んでるのか
邪馬台国、出雲、ヤマト、、、、少なくとも3つの王朝があった。
場合によっては、吉備や越にも
>>693 平均の求め方は小学校でならったよな?
雄略天皇以降と以前で極端に平均在位期間が変わるという理由は無い
もちろん崇神天皇の即位がぴったり324年とは限らない。
多少は誤差がでるだろう。
でもあっても数年だね。
12年を越えると平均在位期間が一年変わるから
324年±12年だな。
>>693 特殊な長生きの人を一人あげて否定するのは詭弁だね
そういう特殊な長生きや特別短命な人達の偏りを丸めるのが平均なんだから
隼人って天皇家の護衛をやってきてたんだよな
現在も警視庁に鹿児島出身が多いのは偶然だろうか?
>>707 いきなり皇統が絶える事になるので畿内説は左翼仕草だね
>>712 神武よりはるか後の時代
第12代景行天皇が息子のヤマトタケルを派遣して、九州倭奴國王家を討伐してからね
要するに皇室の歴史を覆そうという意図があるんでしょ
外国勢力に被れた左翼系だろうね
矛盾だらけなのに
しかも箸墓のモモソを更に無視
そこからして破綻してる
>>715 目を醒ませ
神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳
考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供
>>712 それは明治維新の影響かな
一応現日本政府は明治政府に始まるわけで
ウリの国の歴史は5000年ニダ
みたいな恥ずかしい真似は止めようよ
無い、そもそもそれを証明するモノが出てきてない。国譲りの証拠が出てきてない。文献にもなければブツすら無い。証明の使用が無い。
纒向の建物は時代の異なる柱穴が複数存在している
よって古墳建造時に臨時で建てられた施設
纒向出土品の大部分が木製土木用具、飯炊土器、残飯
よって纒向遺跡は古墳造営キャンプ場と見なすのが正常な見解
>>714 実は神武=崇神と言われていて、百襲姫は崇神の二代ほど前の話。
神武は崇神ではないでしょ
崇神は四道将軍の時代でのちの九州征伐に繋がる人
逆じゃん
>>724 わりと有名
初代神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が一般に希薄であることされることから、
この崇神天皇をヤマト王権の初の天皇と考える説が存在し、
また記紀に記された事績の類似と諡号の共通性(後述)から、神武天皇と同一人物とする説もある。
井上光貞は御名に後世的な作為が窺えず、欠史八代と違って旧辞も備わっていることから、
崇神を実在の可能性のある最初の天皇としている[2]。
モモソ邪馬台国軍の四道将軍らと崇神が戦って勝って東征したってことになる
四道将軍は崇神以前の皇室に繋がる人達なのだから
トンでも過ぎるね
>>725 神武の故郷を討伐しに行く崇神
別人だよな
>>724 崇神はハツクニスメラミコトの別名があって、神武も同じくハツクニスメラミコトと言われていた。
あと、神の名がつく天皇は応神天皇しかいない。
何でそこまでして実在も特定できてない邪馬台国と大和王権を無理矢理繋げようとするのか
>>726 全て単なる空想じゃん
しかも古代から日本に王朝は一つしか無かったという証拠は無い。
というかそう思う事自体おかしい。
複数の王権が並行して存在しており、それぞれ口伝が残っていた。
それらを直列に繋いだものが記紀だと考える方が現実的
ここでふたたびロマン溢れさせてみようと思う(修正版)
ソースはもちろん無い
九州全土を委奴国が掌握(極南界)
↓
委奴国が内部分裂して○奴国が多数誕生
↓
委奴国の後継として倭面土国(狭義のヤマト)が覇権を握る
この時点で九州全土のこともヤマト(広義のヤマト)と認識し始める
↓
倭国の覇権(広義のヤマト)を争って倭国大乱
邪馬台国(狭義のヤマト)の卑弥呼を共立、狗奴国は和せず
↓
台与ついに九州倭国(広義のヤマト)を統一
狗奴国の反卑弥呼勢力だった神武が東遷して畿内に国を立てる(広義のヤマトを自称)
↓
東遷していた神武狗奴国が、266年以降に九州へ侵攻開始、九州女王国崩壊
要は崇神が卑弥呼系邪馬台国の王の座を乗っ取り、勢力拡大して一気に南九州と関東を支配下においたのでは?
て、その時に前方後円墳が全国に拡張すると。
崇神と神武じゃ皇后からして違う系でしょ
崇神のどこに九州系がいるの
>>724 神武天皇と崇神天皇の同一人物説としてはどちらも別称が
「はつくにしらす すめらみこと」(初めて国を統治した天皇)
であることや
神武天皇は即位するまでの記録が充実していて
崇神天皇は即位してからの記録が充実している。
神武天皇も崇神天皇も52歳で即位してることや
どちらも彦火火出見尊という諱であり
即位前と即位後で同一人物を二人に分けて記述したのでは?という見方をする説がある。
(欠史八代は殆ど記録が無いから実在しないと思われる)
卑弥呼系邪馬台国は共立制だったので、王は話し合いか祈祷?で決められてたのを崇神=神武が武力で奪い取り男系にしてしまったと。
だから、卑弥呼=アマテラスは神話の世界に押し込められた。
中興の祖だから初代と同じ別名を後からつけたんでしょ
畿内説はファンタジーなのよくわかる
日本神話より創作過ぎる
学研の学習漫画(日本の歴史人物もの)で、ナビゲーター役の少女の父親が
「ジンムスイゼイアンネイイトクコウショウ…」
と唱えていて、少女がそれは何かと質問すると
「歴代の天皇の名前だよ。小学生の頃はよく暗記させられたものだ」
なんて答える場面があった
これが出されたのは昭和の後期だったと記憶しているが、時代を感じさせられる内容だった
そこまでして奈良を邪馬台国にして卑弥呼を皇室の歴史に組み込みたい勢力の熱意はなんだろうね
祇園山がどうみても卑弥呼の墓だし九州にあった勢力でしょ
崇神天皇は畿内説の人が大好きな纒向遺跡とも関わりがあるよ
崇神天皇=神武天皇なら纒向遺跡が大和朝廷始まりの地になるわけだ。
邪馬台国よりよっぽど箔がつくんじゃない?
崇神天皇(すじんてんのう、旧字体: 崇神󠄀天皇、
『日本書紀』での名は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。
祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)。
実在した可能性のある最初の天皇[2]とする説があり、
考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、
近年発掘の進む纏向遺跡との関係からその存在に注目が高まっている天皇の一人である。
崇神がヤマト王権の実質初代で八代はほぼ架空
神武だけはモデルとなった人が居て、弥生人が列島入植後に東へ向かい、
2600年前に大和に辿り着いたのがヤマト王権の祖先ということじゃないかな
数百年くらいズレるかもだけど口伝なんだからそこはしゃあないw
>>734 マジで科学的論理的思考が出来てないっぽいな
>>741 アホ?
同時期に複数の王がいた事は後漢書にも記されている(30国)
同時期の王墓や遺跡が多数存在するのも事実だろ
>>746 天孫降臨が弥生時代の始まりの渡来人の話で
ニニギが渡来してきた倭人が水稲栽培を始めたエピソードだろうな
ソコを神武の先祖にあてて、初代神武の正当性を強調したのかな
>>750 神武は天武の作り話だという説の方がマシだよな
神武なんて架空のキャラよ
時空なんて簡単に飛び越えるさ!
>>748 後漢書が記述してるのは西暦25年から西暦220年の出来事だってさ。
俺らが議論してる崇神天皇の頃の話とは無関係だね。
後漢書が天皇家の編纂させた日本書紀と矛盾するというのは
まさしく日本書記の書く天皇家の歴史が西暦220年以降の話だという証明になるね。
中国の書は九州の一部の事だけ書かれているんでしょ
集落なんて日本国中離れて点在してるのに一部が交流してただけだろうに
日本書紀なんて信頼性の根拠がないしな
全部が後づけの創作の可能性だって充分ある
やっぱ地道に遺跡発掘とか年代の科学的測定とかやるしかないよ
歴史の脳内妄想を楽しんでるだけの学者も多そうだがw
当時の大和朝廷自身が支配の正統性が無いと思ってるから古代の古書は焚書して記紀を編纂してるんだろ?
そして女王国は土蜘蛛として討伐したと。
>>755 バイアス脳な学者がバイアスで科学的調査結果をチェリーピックするから意味ないんだよ
徹底的に都合の悪い結果は無かったことにする連中だぞ?
>>749 国宝、海部氏系図の伝承によれば、天火明が現在も丹後の籠神社に存在する息津鏡辺津鏡などの神宝を携え丹後に降臨したとある
天火明はニギハヤヒと同一視され、そのニギハヤヒが大和に入植
古事記の応神紀にも同じような話があり、息津鏡辺津鏡などの神宝を携えて丹後に渡来したのが新羅王アマノヒボコ
これは同一視できるのでは
まあ天孫降臨神話って高技術を保有する渡来系の話なのだろうが、日本海側の丹後に渡来したというのは腑に落ちるが、同じく渡来系だろう神武がなぜ日向なのかというのは謎だ
>>758 それでも科学とそれに基づく論理しか学術的信頼性の拠り所はない
扱い方や扱ってる奴の質が悪いだけ
祇園山以外で殉葬のある有力な卑弥呼の墓はないの?
明らかに箸墓は違うのだし拠り所にするなよ
>>759 >同じく渡来系だろう神武がなぜ日向なのかというのは謎だ
記紀の著者が魏志倭人伝実は読んでて、つじつま合わせの日向を天孫降臨の地にしたのじゃね?w
書いた時点で500年前の事誰もわかんねーよ ぷんぷん 都合の良い神話にしとけってみたいなぁ
魏志倭人伝には倭の伊都国に代々、王様が居たと書いてある
伊都国王と天皇と連続性が無ければ違う王朝という事になる
大和の天皇家の祖先
初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。
彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。
場所もとっくの昔に判明してる
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 複数存在した王朝が次第に統合されていった
という最も常識的な考えを受け入れられない学者って明らかに学者ではなく思想家だよな
記紀は一旦フィクションとして位置付けるべき
>>763 九州に王がいたのは、糸島市ではなく春日市だから
伊都国は九州では無い
>>764 中国史書の新唐書にそう書いてあるが、それも日本国の自己申告文献を丸写しした文献だからなあ
>>764 奴国か
卑弥呼を共立した国の中の一国だな。
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之
「祖賦を収め、邸閣あり。国国は市ありて、有無を交易す。大倭をしてこれを監ぜしむ。」
租税を収めた高床式の倉庫や市場の監督を『大倭(大和)』がやっていた。
大倭が氏族の名前なのか役職の名前なのかはともかく
弥生時代には天皇家はまだ大君ではなかったんだな。
幾つかある国や有力氏族の中の一角だったんだろう。
上にも書いてくれている人がいるけど、崇神=神武説っていうのは
崇神(のモデルになった人)の業績を神武と崇神とでわけて書いている、
と解釈する説ね。
つまり東征したのも崇神なわけよ。
ついでに最近の邪馬台国スレだった「桜井茶臼山古墳」も
崇神の墓ではないかと思っていて、その理由としては崇神の
宮の近くでもあるし、付近に「神武の東征」の逸話もいくつか
あるわけね。
神武天皇
45歳10月東征に出発
45歳:11月筑紫に到着
45歳:12月安芸国に到着
46歳:吉備の国に拠点つくる
47~48歳:船や武器や糧食等の戦闘準備整える
49歳:2月軍を率いて東へ
49歳:3月河内に到着
49歳:4月交戦して敗退
49歳:5月山城水門につく五瀬命(兄)死ぬ
49歳:6月戦闘激化
49歳:8月兄猾撃破
49歳:10月八十梟帥撃破
49歳:11月兄磯城撃破
49歳:12月長髄彦撃破
50歳:2月土蜘蛛撃破
50歳:3月橿原に都作る
51歳:9月結婚
52歳:即位
53歳:2月東征の論功行賞
55歳:2月天神祀る
82歳:4月全国巡幸
93歳:1月皇太子決める
127歳:3月崩御
さっさと古墳掘らせればいいのにな
万世一系ロマンと事実としての歴史を混同する輩ばっかりじゃないか
崇神天皇
19歳:皇太子になる
51歳:開化天皇崩御
52歳:即位
54歳:都を磯城瑞籬宮に移す
55歳:郡卿に詔
56歳:疫病で民の半数死ぬ
57歳:大物主祀る、疫病止む
58歳:大物主に捧げる酒担当者決める
59歳:大阪神を祀る
60歳:四道将軍派遣箸墓作る
61歳:四道将軍凱旋
62歳:人口調査
63歳:船つくらせる
64歳:皇太子立てる
65歳:出雲で政変、鎮圧
66歳:河内に農業用の池や溝を作る
67歳:任那国が朝貢
68歳:崩御
さっさと古墳掘らせればいいのにな
万世一系ロマンと事実としての歴史を混同する輩ばっかりじゃないか
即位前の
>>771と即位後の
>>773を合わせると
大和朝廷を開いた偉大なる英雄の生涯が浮かび上がる
ついでに崇神=神武だとすると、神武の東征でナガスネヒコに
祀られたニギハヤヒを、現在の奈良県北部に宮を置いたとされる
開化として記述したのではないかと思ったりもしている
>>710 平均は小学校のときに習うが、それだけが統計の基礎なんて中学校で習ったことを忘れてるのかな?
最頻値、中央値が出てきて、平均との違いや活用方法について習わなかったかな?
>>710 平均は小学校のときに習うが、それだけが統計の基礎なんて中学校で習ったことを忘れてるのかな?
最頻値、中央値が出てきて、平均との違いや活用方法について習わなかったかな?
「邪馬台国」というシナ畜が作り出した幻想ww
そんなものハナから存在してなかったってのに
>>774 掘っても何も見つからなかった、吉野ヶ里の墓
墓を掘ればわかるというのは、迷信だよ
>>769 神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 中国の後漢皇帝に冊封され倭王「漢委奴国王」となり
その後、公孫康が設立した帯方郡に属して
青銅、ガラスの原料の輸入を占有し
その材料をもって、祭器等を集中生産して、
北部九州沿岸地帯のみならず山陰中国西部、四国南西部、対馬、韓国南部の支配地に供給し
燕王を称し、曹叡(明帝)と司馬懿からの独立を宣言した公孫淵と共に挙兵して、司馬懿軍に大敗して
倭王の座を剥奪されて、畿内の邪馬台国の卑弥呼が倭王となり
呼称も倭奴國から狗奴国に変更させられた
>>719 海幸山幸神話に端を発する隼人司は明治初期まで存続して天皇の御前で吠声を上げていたらしい
明治天皇が西郷隆盛を信用したのは隼人に対する親しみもあったかもしれないね
>>759 @ アメノホアカリの天孫降臨は丹後か?
A 崇神(神武)が狗奴国から畿内へ東遷
この二つのエピソードを合体させるためにニニギというキャラが創作されたのかも?
>>777 大和の天皇家の祖先
初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。
彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。
王都の発見で
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 とっくの昔に実在してたことが判明したんだよ
>>784 ニニギは単に持統(用明)から文武(聖武)への皇位継承を
正当化するための創作でしょう
結局だ
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 これを邪馬台国だと言う九州説者がいない時点で、九州説は崩壊して
【国立歴史民俗博物館】
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c >>785 残念だが元になった王年代記は後世に創作されたもの
そして須玖遺跡群は纏向のような環濠で囲われた都市群ではない
>>786 KADOKAWAノベルで全8巻くらいかな?
>>759 渡来人は日本海から東シナ海沿岸の広い範囲に来ていて然程珍しいものではなかったんだろうと思う
全く別ルートで渡来した天火明とニニギが記紀編纂時に同じ系統に纏められてしまっただけかもね
天火明はニニギの兄になったり子供になったりとにかく設定が安定しない
常識的に考えて邪馬台国とヤマト王権は別物
そもそも邪馬台国自体がそんな大したもんじゃない
北九州の緩やかな連合王国の盟主ってだけだし
南の熊襲に押されて魏に助け求める程度の勢力よ
纏向に代表されるヤマト王権の母体とは並立してたと考えるのが自然
邪馬台国がその後に吸収されたのか滅亡したのかは知らんけど
いずれにせよ卑弥呼の時代にはもうヤマト王権の方が巨大だったのだろう
邪馬台国論争がやっかいなのは
邪馬台国が当時の日本を支配する一大勢力かのように考えてしまうから
既に日本の中心が畿内に移っていた時代に
滅びかけていた北九州のショボい勢力に過ぎないんだよ
>>793 >いずれにせよ卑弥呼の時代にはもうヤマト王権の方が巨大だったのだろう
いや存在しなかったと思うわ
>>706 しかもNHKでアニメ化して流したんだよ
((( ;゚Д゚)))
>>789 また遺跡群の南部から西部にかけて位置する、高辻遺跡・大谷遺跡・大南遺跡・竹ヶ本遺跡・赤井出遺跡では、各遺跡の間を画する谷戸を横断して連続して造られたと見られる大規模な溝状遺構が検出されており、当遺跡群は須玖岡本遺跡を中枢として周囲に環濠が廻る大環濠集落だったと見られている
だけど
邪馬台国だと言う九州説者はいない
【国立歴史民俗博物館】
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 魏志倭人伝の研究に関しては中国の学者が一騎当千だから日本の畿内説学者の頭数なんてどうでもいい
>>798 2011年以後論文なし
2015年以後HP更新無し
>>798 旧石器捏造事件から何一つ変わっていないね
本来、人類の普遍的価値遺産として扱われるべき歴史的事物について、
その多くが観光資源の観点に偏るかたちで地域住民に認識され、
商業的な効果を優先させるように取り扱われてきた実態が、今回の事件発覚によって明らかになった。
「前・中期旧石器」の研究が活発であった当時は批判が難しく、
1986年の小田静夫、チャールズ・T・キーリーによる批判論文以後[15]、
再び反論が開始されるのは1998年の竹岡俊樹の論文1点、及び2000年発覚前の角張淳一と竹花和晴の2名に限られる。
考古学界は捏造発覚以前の25年間、
捏造を批判した学者や研究者を排斥したり圧力を加える事によって、事実上の学会八分(村八分)にして、
捏造批判の声が噴出する気運を押さえつけた。
例えば、1980年代初頭、東京都教育庁の小田静夫(とキーリー)らが科学的根拠が疑わしく、
軽石の降下や水害が相次ぐ土地に連綿と移住した要因が不明であり、
発掘された石器の殆どは水平に埋設している上に単品で出土している、と指摘していた[15]。
1998年以後の批判の要点は、問題の石器資料群が、本来あるべき前期や中期の石器として「おかしい」という批判である。
こうした正当な批判は、2000年11月5日の毎日新聞によるスクープまで、学界として省みられることはなかった
魏志倭人伝の記述を殆ど無視した根拠薄弱な纒向邪馬台国説を徒党を組んでゴリ押しする姿勢を見ると、考古学界の体質はこの頃と何も変わってないなと思う
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 中国の後漢皇帝に冊封され「漢委奴国王」となり
その後、公孫康が設立した帯方郡に属して
青銅、ガラスの原料の輸入を占有し
その材料をもって、祭器等を集中生産して、
北部九州沿岸地帯のみならず山陰中国西部、四国南西部、対馬、韓国南部の支配地に供給し
倭国王として君臨し「一強体制」を築く
しかし
燕王を称し、魏の皇帝の曹叡(明帝)と、司馬懿からの独立を宣言した公孫淵と共に挙兵して、司馬懿軍に大敗して
倭王の座を剥奪されて、畿内の邪馬台国の卑弥呼が倭王となり
呼称も倭奴國から狗奴国に変更させられた
>>794 ん?纏向に無いというのは吉野ヶ里のような環濠がないだけだよ
反ワクにそっくりだな九州説の人ら とりま記紀の熊襲でフルボッコ問題何とかしてやれよ
これはクマった…
∩___∩
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>>759 神武が日向なのは日本の地図を鏡写し(上下反転)にすると日向が半島の辰韓の位置になるから
神武東征の話は事実を元にしたフィクションで
地図上の神武東征のルートを鏡写し(上下反転)にすると実際の邪馬台国征服ルートが現れるように計算して作られたんよ
日向は辰韓で瀬戸内通ったのは実際は日本海側
紀伊半島は実際は丹後半島で熊野のヤタガラスは丹後籠神社の案内人のこと
面白そうな展開としては
奴国があって傍系の狗奴国が出来て
倭国大乱で奴国の権威が失墜して北部九州同盟に組み込まれるも狗奴国は南部九州を取り込んでて北部と対立
狗奴国は東側に勢力を伸ばして近畿地方にも足掛かりを作る
みたいな展開かな
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 中国の後漢皇帝に冊封され「漢委奴国王」となり
その後、公孫康が設立した帯方郡に属して
青銅、ガラスの原料の輸入を占有し
その材料をもって、祭器等を集中生産して、
北部九州沿岸地帯のみならず山陰中国西部、四国南西部、対馬、韓国南部の支配地に供給し
後漢と公孫氏を後ろ楯として、倭国王として君臨し「一強体制」を築く
しかし
燕王を称し、魏の皇帝の曹叡(明帝)と、司馬懿からの独立を宣言した公孫淵と共に挙兵して、司馬懿軍に大敗
魏の皇帝の曹叡(明帝)は、帯方郡に属していなかった畿内の邪馬台国の卑弥呼を倭王としたため
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城は
倭王の座を剥奪されて、呼称も倭奴國から狗奴国に変更させられた
>>805 纒向遺跡の建物を囲ってるイノシシよけの垣根の事を言ってるのか?
環濠の意味わかってる?
>>1 そんなこといくら考えたってわかるわけないだろ
昭和のことでさえ、いい加減な話がまかり通っているんだから
学者の考えなんてアレだし
>>809 つづき
ところがだ
倭王の座を剥奪されて、呼称も倭奴國から狗奴国に変更させられたとはいえ
これだけの規模を誇る
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 だ
司馬懿と共に第3代皇帝の曹芳の補佐を託された曹爽が正始五年(244年)蜀に侵攻し大失敗して
それを挽回せんとして増長し、事あるごとに司馬懿と衝突するようになり
一計を案じた司馬懿が70歳近い高齢と病気を理由に引退する芝居を打ち始め
畿内の邪馬台国の卑弥呼の後ろ楯が弱まったとみるやいなや
247年、
奈良の邪馬台国の卑弥呼から狗奴国と戦争状態だと報告
石器を捏造してた学者の嘘が暴かれた事案が、顕著な例
ここで滔々と演説してるやつも、現場で研究してるわけではなく
誰かの書いたことを読んだ程度だろうしな
当時の為政者に憑依したやつがいるなら、話を聞いてみたいが
そんなやつは此処には居ないだろ
>>813 つづき
神武が畿内の邪馬台国の制圧に成功するも
249年 司馬懿がクーデターを起こして曹爽一族、一党を追放・誅殺
曹芳は司馬懿を丞相に任じ、これ以降の魏は事実上司馬一族が支配することとなり
司馬懿が70歳近い高齢と病気を理由に引退するのは大嘘だったことが判明して
神武が、出雲の事代主の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」を正妃として迎え入れる・・ことと引き換えに
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城は、倭王「邪馬台国」と和解して、卑弥呼の後継に台与をたて
265年 司馬炎が曹奐から禅譲を受け晋を建国し、晋の初代皇帝となり、魏は5代45年で滅亡すると
266年 台与の使者として晋に朝貢する
先ず当時の倭国の航海技術は、
沖縄から北海道まで、
貝の道という航路を維持するレベルであり、
倭国についても、狗邪韓国という
朝鮮半島南部を倭の領土にするぐらい、
高いレベルにあった。
>>821 九州説だとこういう想像をすることすらできなくて
邪馬台国は福岡・筑豊の田川地域にあった-。福岡県田川市など地元8市町村の首長が1日、同国の女王卑弥呼を地域共通のシンボルにする「卑弥呼連邦」の樹立を宣言した。卑弥呼をキーワードに広域観光ルートの開拓やガイドの育成などを進めるという。
地元の文化財担当者は厳しい見方を示すが、「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」と関係者
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/660288/ 後漢書には、邪馬台国は後漢時代から存在しており、その時点で代々王を継ぐ国々30国からなると記されている。
魏志倭人伝によると邪馬台国は7万戸の大国です。
旧唐書で日本の使者が説明している「日本はかつて小国だった」と矛盾します。
>>1 九州の邪馬台国(首都)は理論上ない
大陸の脅威の隣接地に国の首都を構えるはずがない
九州はせいぜい検閲か邪馬台国の防御または貿易
地
だから出土は物品類だけの結果
>>822 同じコピペを何度も繰り返し貼るのは物凄く頭悪そうに見えるから止めた方が良いと思う
ニギハヤヒの天孫降臨は
国譲りとして先代旧事本紀に記されているが、
河内に拠点をおいて大和に進出し、
建御名方神を追って信濃に進出して行ったと書かれているが、
コレが大阪湾型銅戈が信濃柳沢遺跡から出土したことで、
事実である事が明らかにになった。
>>823 旧唐書は既に日本側が接触してるからそのまま受け取ってはダメ
>>825 九州の出土は物品類だけの結果は想像ではないが
>>824 大陸が脅威になったのは白村江以降が古代の常識だろ。
>>829 文献、物品(三種の神器、鉄の鏃etc)、吉野ヶ里のような警備厳重な遺跡(環濠集落)、殉葬とも見える祇園山古墳など一式揃ってますが?
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ >>828 畿内日本国が創作した歴史は九州から畿内に攻め込んだというもの
ところが当時の倭人は真逆の畿内から九州に攻め込んだと言った
だから誠実じゃないと疑われた
>>832 九州説は、もう無理
糸島に王はいなかった
王がいたのは
>>831 >>831 魏の時代の邪馬台国は衰退期だと思う。
だから卑弥呼を中心として魏を後ろ盾に付け、立て直しを試みた
しかし狗奴国に戦争を仕掛けられるほど衰退してしまい、消滅した。
卑弥呼時代に飢饉に陥ったという記録もある。
皇国史観邪馬台国畿内説
邪馬台国は奈良にあったんじゃ
だから純日本人の卑弥呼は奈良にいたんじゃ
そして純日本人の卑弥呼から天皇家の血筋が続いてるんじゃ
けってして天皇家のルーツが渡来系であってはならんのじゃ
それ以外のことは適当に嘘八百並べてツジツマ合わせておけばいいんじゃ
>>832 九州説は、もう無理
糸島に王はいなかった
王がいたのは
>>831 「伊都国=糸島」説も、とっくの昔に崩壊してる
>>781 わからないことがわかるだけでもいい
「何かあるかもしれない」からバカウヨファンタジーが蔓延する
>>834 なんで糸島?
まさか糸島=伊都国だとでも思ってるのか?
>>835 いやいや元々、本家と妾の子なのよ
伊邪那岐命と正室の伊邪那美の嫡流である
綿津見大神&九州の筑紫城
vs
伊邪那岐命と側室の根之堅洲国の女との傍流である
天照大神&熊野の邪馬台国と、建速須佐之男命&出雲の葦原中国
>>837 お前の頭は矛盾しか詰まってないのか?w
銅鐸や銅矛の祭祀は受け入れなかった
甕棺は早い時期に少数あるが広がらなかった
畿内や瀬戸内や他九州の土器は出土する(人や物の交流交易はある)
水田遺跡はある
少ないが鍛冶工房はある
ほとんどに鉄鏃1個を副葬された兵士と思われる大量の土坑墓
鉄器は導入した
数で九州北部に見劣りする
見つかっていないだけかもしれない
宮崎の弥生時代はこんな様のようだ
勝った女王国邪馬台の名前が後世日本、大和、夜摩苔となって受け継がれたわけ。統一の象徴になれなかった狗奴国や奴国は結果的に負けたのよ。日本の皇祖は女神。
>>841 >>832 九州説は、もう無理
糸島に王はいなかった
王がいたのは春日
>>831 「伊都国=糸島」説も、とっくの昔に崩壊してるのに
糸島に伊都国歴史博物館なんかつくっちゃって
九州説者はどうすんのかねぇ(笑)
基本的に邪馬台国というのは
魏志倭人伝を通して現在に存在が知られている
であるならば邪馬台国がどこにあったか?
という問いには魏志倭人伝の記述をベースに語られなければならない。
大和朝廷や天皇家の出自等は
『邪馬台国がどこにあったか?』
という問いとはひとまず無関係として議論すべき
ちなみに、福岡県の春日市は
九州に邪馬台国はなかった
九州にあったのは天皇家の先祖の倭奴國・漢委奴国王
って、大々的に売り出すつもりみたいだわ
倭奴國・漢委奴国王の王都の、こんなスゲー遺跡が福岡にあったことをほとんどみんな知らないから
大ブームになりそうだ
須玖遺跡群の全体像紹介 出土品や写真並ぶ 春日で企画展 /福岡 2023/9/28
https://mainichi.jp/articles/20230928/ddl/k40/040/182000c 福岡県春日市岡本の奴国(なこく)の丘歴史資料館で考古企画展「わたしたちの須玖(すぐ)遺跡群」が開かれている。
10月22日まで。
市の中央にある春日丘陵の北部一帯には須玖岡本遺跡など多くの遺跡があり、須玖遺跡群と呼ばれる。
弥生時代最大級の集落で、住居域や墓地、工房などが見つかっており「奴国の王都」だったと考えられている。
企画展は「王の館と民衆の住まい」「弥生のテクノポリス」など5章構成。
140点の出土品や写真、図で遺跡群の全体像を紹介している。
福岡市博物館所蔵で資料館では初展示の須玖岡本遺跡岡本地区出土銅戈(どうか)、通常はレプリカを展示している大南A遺跡出土銅戈鋳型の実物など貴重な出土品が並ぶ。
邪馬台国があったのは徳島
仁徳陵などの巨大古墳は天皇に関係ない倭の五王の誰かの墓
初代天皇は天智天皇
天皇家は藤原氏と一緒に天下を取った
それ以前の天皇家の歴史は模造
これが真実だと思います
>>843 奈良盆地は周辺国の墓域だったので古墳が多いのは当たり前
だから副葬品が多いのも当たり前
しかしそれらは外部のものであり奈良の人の墓だとか、出土品が奈良産のものだとは言えない
そりゃあ佐賀県も焦って、吉野が里を堀始めるわな(笑)
ベストセラーの百田尚樹『日本国紀』(P31〜32)
『継体天皇の代で王朝が入れ替わったとするなら、むしろ納得がいく。(略)
多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その位を奪取すること)が行われたのではないかと考えている。
私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ』
百田尚樹氏の女性天皇容認と思われる発言 女系も容認か?
百田尚樹
「女性天皇が許されないというのは130年前に出来たルールですから、当時は女性は選挙権もなかったですからね、
そんな時代に作られたルールですから、現代の考え方にはまったく合いません」
ロンブー淳
「竹田恒泰さんが『女性が入ってくると天皇の血筋が守れなくなるんじゃないか』みたいな意見もあるじゃないですか」
百田尚樹
「しかしまあ、もともと本当に綺麗に血筋が一つだったかというと微妙なところで、それほど神経質になることではない」
ちなみに、福岡県の春日市は
九州に邪馬台国はなかった
九州にあったのは神武の実家
天皇家の先祖の倭奴國・漢委奴国王
って、大々的に売り出すつもりみたいだわ
倭奴國・漢委奴国王の王都の、こんなスゲー遺跡が福岡にあったことをほとんどみんな知らないから、大ブームになりそうだ
須玖遺跡群の全体像紹介 出土品や写真並ぶ 春日で企画展 /福岡 2023/9/28
https://mainichi.jp/articles/20230928/ddl/k40/040/182000c 福岡県春日市岡本の奴国(なこく)の丘歴史資料館で考古企画展「わたしたちの須玖(すぐ)遺跡群」が開かれている。
10月22日まで。
市の中央にある春日丘陵の北部一帯には須玖岡本遺跡など多くの遺跡があり、須玖遺跡群と呼ばれる。
弥生時代最大級の集落で、住居域や墓地、工房などが見つかっており「奴国の王都」だったと考えられている。
企画展は「王の館と民衆の住まい」「弥生のテクノポリス」など5章構成。
140点の出土品や写真、図で遺跡群の全体像を紹介している。
福岡市博物館所蔵で資料館では初展示の須玖岡本遺跡岡本地区出土銅戈(どうか)、通常はレプリカを展示している大南A遺跡出土銅戈鋳型の実物など貴重な出土品が並ぶ。
そりゃあ佐賀県も焦って、吉野が里を堀り始めるわな(笑)
古代日本(邪馬台国その他)は異民族に征服された説を提唱します
その異民族によってヤマト王権が作られた
鉄性の武器や工具や農具の出土量を見れば一目瞭然
~ 中国史書に記された卑弥呼時代 ~
魏志韓伝によると、ちょうど鉄器時代ということもあり、
半島では中国に供給できるほどの鉄が取れ、倭人たちも
鉄を求めてやって来ていた様子が描かれている。
(弥生時代の鉄器出土量)
卑弥呼とは、倭国大乱で対立していた国々によって共立された女王である。
その女王に属する国々が女王国=邪馬台国連合である。
しかし女王国の南にはまだ反対派の狗奴国があり、戦争が勃発していた。
海を挟んで東には他にも倭人の国がたくさんあった。
少なくとも卑弥呼時代においては、全国統一には至っていない。
なお三国史記にも卑弥呼時代が記録されており、卑弥呼が女王となったのは2世紀後半と推測できる。
AD173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
AD193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
248年、卑弥呼が死に、次の王として男王が立ったが、国中が納得せず内乱となり、1000人以上の死者を出す始末。
そこで卑弥呼の親戚でまだ幼かった臺与を女王とすることで、ようやく平和が訪れた。
しかし臺与時代AD266年の朝貢を最後に、女王の記録は途絶える。
>>855 邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに、
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
>>830続き
過去の日本への侵略
・夷洲・亶洲遠征 ・新羅の入寇 ・刀伊の入寇
・元寇 ・フェートン号事件 ・宝島事件 ・露軍艦対馬占領事件 ・薩英戦争 ・下関戦争
これだけの大陸からの脅威
だから九州は出土品が物品だけの貿易地言うなれば出島的役割地なんだよ
>>843 宮崎は弥生時代中期から瀬戸内海方面の影響を強く受けてるのが分かってるね
北部九州の勢力とは組しないで瀬戸内海勢力と関係を持ってる
これは時代を追うごとに強くなって西都原古墳が現れる
瀬戸内海勢力が九州に影響を拡大するための足掛かりとして機能してると考えられるね
宮崎が神武東征のスタート地点として重視されてる意味が分かるかもね
>>857 竹田がそれは絶対ない
なぜなら古墳とかから馬の装飾が一切出てこないから
って言ってたけど
その後、馬の装飾が出てきたんだよね
竹田は今なんて言ってるのか知らんけど
>>862 それでいくと女王国の南の狗奴国がヤマトの祖先となる
女王国の東の倭種の国は瀬戸内ってね
やはり古代日本は大陸からやってきた騎馬民族に征服されたんだな
銅鐸の使用方法が伝わって居ないことや出土状況もそれなら納得がいく
>>863 竹田はそもそも当時の半島人も倭人だった
半島居残り組は混血しまくって朝鮮人が出来た
という説だろ
>>866 人によって全く主張違うから
何が本当かわかりにくいけど
日本人と朝鮮人はDNAが一緒って人と
全然違うって言う人いるよね
>>866 人によって全く主張違うから
何が本当かわかりにくいけど
日本人と朝鮮人はDNAが一緒って人と
全然違うって言う人いるよね
>>866 朝鮮半島は元寇という悲しい歴史があるから今となっては不明だ
元はエベンキではなく漢民族の血が強いらしいが、モンゴルの血も強いらしい 現在の韓国人
>>870 ゲノム解析を根拠にするとほとんど同じってなるけど
信仰を根拠にすると全然違うってなるようだ
>>869 DNAは全体的に見ればほぼ同じ
ある領域に的を絞って見ると30%ほどの違いがある
という程度
>>857 異民族に征服されたのなら、彼らの風習が何らかの形で残っていなけらばおかしい
騎馬民族征服王朝説の有力な否定材料として、馬の去勢技術がある
日向と言うと記紀神話の影響から最初から畿内に強い影響を受けてるように見えるけど土器様相は山陰や四国西部に近いんだよな
畿内と山陰や四国東部と上手い事同盟関係を作って北部九州からの影響から独立を保っていたのかも知れない
そう考えるとしたたかな地域だと思える
九州南部の隼人が皇室と血縁だという辺りもそういう直接的じゃないけど繋がってるという表現なのかもな
西都原古墳群の成立を見て初めて強く畿内に繋がったのかも知れないな
えーーっと
邪馬台国に敵対する狗奴国の王都は、博多から十数キロしか離れていない春日市にあったことがわかっている
その北に邪馬台国は造れない
ローマと邪馬台国の差
文明ってすごいな、せめて記録ぐらい残せよ倭人
ローマと邪馬台国の差
文明ってすごいな、せめて記録ぐらい残せよ倭人
>>877 もう無理だって
神武の実家 = 天皇家の実家の筑紫城
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 中国の後漢皇帝に冊封され「漢委奴国王」となり
その後、公孫康が設立した帯方郡に属して
青銅、ガラスの原料の輸入を占有し
その材料をもって、祭器等を集中生産して、
北部九州沿岸地帯のみならず山陰中国西部、四国南西部、対馬、韓国南部の支配地に供給した
畿内や、山陰中国東部の出雲は、敵対する邪馬台国だから供給していません
アンチ九州説はほぼ100%脳がイカれてる奴しかいない
特に畿内説とかID:zNSw6hpq0
>>881 >> 青銅、ガラスの原料の輸入を占有し
専有した根拠は?
青銅器はそれこそ日本全国からでてるし、鏡大好きな大和とは
交易の証拠が全く無い
鏡というのは青銅製な訳だけど?
>>862 瀬戸内の土器も九州の土器も出ていてどの方面とも交流はあったようだね
ベッドのように仕切られた花弁状間仕切り住居は
宮崎で広がる前の早い時期に佐賀で見つかり
宮崎で広がった後に四国で見つかった というような流れもあるようだ
同時期同地域で花弁状のものもあればノーマルな物もあり
ばっかりなわけではない
>>866 竹田恒泰が九州説なのをみて
やっぱりカルトウヨはそうだよなと思った
>>884 土器土器と過信するのは浅はか
使い勝手の良いものなら民間交易で広まる
いま世界中が中国製品だ溢れかえってるが全世界が中国の属国と言えるか?
>>884 須玖式は沢山見つかるね
でも指摘してる通り銅矛、甕棺のような勢力を象徴する様な物は受け入れてない
祭式の土器は四国西部の物を用いたりしてるから政治的な関係性はやはり西部瀬戸内海に偏っていると言える
ただそれにしても生活土器は摸倣に終始してるから人間の流入や入れ替わりは起こってないと思われる
日向は北部九州とは政治的に距離を取って四国西部や山陰とつながりを強めて独自性を高め、
それでいてその地域にも取り込まれない、したたかな勢力を形成してるように見える
これが最終的に畿内と同盟を組んで古墳を取り入れて畿内勢力の九州の重要な拠点となったのかも知れない
>>885 大和朝廷の成立は邪馬台国より古いんだ!
と言い張る方はネトウヨではないんだ?
逆さま地図を使わないと畿内には辿り着けません
西都原古墳群でも4-5世紀の46号墳で山陰式の祭式土器が出てくるのが面白いね
この段階だともう畿内の影響の拡大が色濃いのに山陰の土器を使うあたり畿内一辺倒でもないみたいだ
有名な鬼の窟古墳とかかなり個性出しまくってるしね
日向の特殊な性格が見えるかもしれない
寺澤薫の間違った認識
「また写真 2は、李氏朝鮮の一四〇二年に作成された『混一疆理歴代国都之図』である。そこでは倭地が北部九州から南へと長く延びた島国として描かれている。正しい方位の地図がすでに存在する一五世紀でも、こうした地理観は残っていたようだ。朝鮮半島から最初に到達する九州島が日本列島の北端にあたるという認識は、唐の賈耽の『海内華夷図』(八〇一年)にまでさかのぼることができる[海野、一九九九年]。倭国に対する中国人のこのような地理観は、それ以前はより普遍的だったとみてよいであろう。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
※朝鮮人が作った地図を根拠にしてはいけませんね
>>888 そう考えてるよ
基本的に昔の日本のことは全部日本書紀に書いてある歯の人
だから関係のない邪馬台国や卑弥呼は畿内にはない
卑弥呼(壱与)が田油津媛というのも、彼は言ってる。
土蜘蛛として大和に倒された存在として認識してる
昔歴史の教科書を書いてた頃に、夜中にライブ配信で視聴者にそう答えてた事がある
>>891 寺澤薫氏は畿内説から逃げ支度を始めているみたいだよ
「そこで私が本書で提案したのは、そろそろ「邪馬台国」という一部族的国家に拘泥した議論はやめにしようということである。中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
>>892 いや武田恒彦じゃなくて君の意見聞いてるんだけど?
>大和朝廷の成立は邪馬台国より古いんだ!
>偉大なる天皇家は邪馬台国の時代には奈良に都を置いていたんだから邪馬台国=大和だ
>つまり邪馬台国は畿内だ!
と言い張る方はネトウヨではないんだ?
>>810 纏向にあるのは空壕
吉野ヶ里のような小さな環濠ではないよ
>>888 そもそもが記紀に書いてあることが歴史的事実であり
中国の書いたもんは信用ならないっていうのが基本スタンスだから
神代から連綿と続く大和朝廷が邪馬台国と関係してるはずがないわけよ
>>893 2世紀の纏向は原野で邪馬台国の痕跡が無かったから邪馬台国を名乗るのを諦めたのかな
>>897 ネトウヨかどうかと聞かれてるんだよ?
質問の意味が分からないの?
>>897 ネトウヨかどうかと聞かれてるんだよ?
質問の意味が分からないの?
まあガチウヨはそうだよなw
万世一系の天皇家と卑弥呼が繋がってたらいろいろややこしいから、九州の女酋長にしといた方が都合がいい
三韓征伐には触れない
歴史学
ジャニに触れないと同じ
文春砲
パヨクの歴博が暗躍しているね
>>887 日向の生目氏が吉備から大和纏向に進出したのだよ。
>>897 あぁでも神代から連綿と続く大和朝廷とか言っちゃうあたりでお察しだったかw
九州説もいろんな人がいるから一括りには出来ないが
大和朝廷が神代から連綿と続く
なんて言う奴はいないと思うわ。
大抵は絹や鉄器、鉄の矢じり、鏡の出土、魏志倭人伝の記述
そういうのを総合的に勘案して九州じゃないかと言ってるわけで
日本書紀に書いてあることは全部真実
日本書紀は真実でそこには邪馬台国の時期には奈良に大和朝廷があったと書いてある
だから邪馬台国=大和だ!
みたいなレベルの畿内説よりは遥かにマトモだと俺は思うね
>>908 だからそういうまともな説はとってつけたようなもんで
さっき言ったようにもともとシナの歴史書なんて信用ならない、
シナの皇帝に天皇陛下が冊封を受けるはずがない
という前提があるから邪馬台国がぶっちゃけどこでもいいけども
畿内には天皇陛下がしろしめす大和朝廷があるからありえないと
それが竹田とかはそういうんだろうと
>>809 壺達が安倍政権につながる聖遺物を埋めそう。
>>809 壺達が安倍政権につながる聖遺物を埋めそう。
とはいえ、わざわざ神武東征神話なんて残しているあたり、大和王権と九州の間にも何らかの深い繋がりはありそうではあるが、そのあたりはどう考えるんだ?
邪馬台国が滅びたあと、別の九州勢力が東に勢力拡大した?
女王共立とは、
倭国大乱=狭穂彦王の乱で、
日向の覇権争いに勝った生目氏が、
邪馬台国長官=伊支馬になって、
彦坐王の娘達を人質にとり、
出来た息子の景行を王にしようとしたものの果たせず、
娘の倭姫命を女王にする事で妥協した事を言う。
ここから景行が吉備の吉備津彦と通じて大和纏向に進出して行って、
崇神朝を乗っ取ったのが大和王権の始まりで、
一方の邪馬台国の臺與は、山陰から丹後へ進出して拠点を張り、
山陰北陸近江東海関東と勢力拡大を一気に果たしたのが倭健命の東征になる。
で、神功皇后の時代に大和に進出したのが大和王権の確立ということになるだろう。
九州説の人って基本的なことなんにも知らないから凄いよな
①終末期の九州は古い時代の鏡を討ち割った破鏡は鏡片、民間用の位至三公鏡か仿製鏡しかなく完形鏡の出土は4-5世紀以降の古墳出土から
②絹は最盛期から激減して1遺跡からしかでずこれも麻布レベルで明らかな衰退期で纏向の絹の巾着の方がよっぽど優れている
③弥生の鉄器は石器の代替レベルの稚拙な物しかなく鉄器は富や力の象徴でも何でもない
④終末期の九州は各地は村落レベルでバラバラでとても勢力と呼べるものは存在しない
⑤後期後半から終末期に掛けて九州は瀬戸内海、畿内の影響を強く受け生活土器から祭祀まですべて塗りつぶされて独自性を失う
こんな状態だから九州説なんて上がらない
むしろ九州説の人が妄想してるみたいな鏡だの何だのが大量に出てくるなら論争になんてなるわけないだろうに
>>894 あっ俺?
邪馬台国九州北部、泡沫豪族説ナノで大体同じ
邪馬台国は大和の系統には非ずという、九州説もあるんだぜ?
>>897 武田の話はしていないんだよw
あなたの認識を聞いてるんだよ
885 ウィズコロナの名無しさん sage 2023/10/02(月) 14:48:08.08 ID:BHUArPkf0
>>866 竹田恒泰が九州説なのをみて
やっぱりカルトウヨはそうだよなと思った
あなたは九州説を支持する人間はカルトウヨだと言った。
これはファクト。
それに対して俺は
畿内説の方が遥かにカルトウヨな主張ではないか?
と『あなた』に質問してる。
『あなた』は神代から連綿と続く大和朝廷とか言っちゃう畿内説をカルトウヨだと思いますか?
思いませんか?
思うか思わないかで答えてください
議論を進める上で確認しなければならない大切な点です。
>>916 2世紀の纏向には邪馬台国の痕跡が無いのだが?
刺青文化は九州の部族だと確定してるから魏志倭人伝に記されてる邪馬台国は九州で間違いないでしょう。
刺青文化は九州の部族だと確定してるから魏志倭人伝に記されてる邪馬台国は九州で間違いないでしょう。
青龍三年鏡の出土により、
方格規矩四神鏡は魏鏡があることが確定し、
時代編年の見直しを迫られているが、
ソレをやると方格規矩四神鏡の出土地の北部九州が
邪馬台国が確定してしまうので見直される気配が無い。
しかし、銘文の漢→魏への変化や、
成分分析の結果、魏の銅が混ぜられて作られた
特異な銅鏡があることが分かっており、
最早隠し通す事は不可能な状況になっている。
寺澤が何十年も調査した2世紀の纏向からは邪馬台国の痕跡が出なかった
寺澤薫「纒向遺跡が形成された初瀬川上流の「纒向川扇状地」小共同体には、弥生時代の拠点的母集落はおろか、集落といえるほどの遺跡がない。自然林に覆われた空閑地に突如として纒向遺跡は出現したのである。 纒向遺跡の第一の特徴は、弥生時代にはほとんど人の手が入らなかった地域に、三世紀になって突然、人が集まりはじめて巨大な集落を形成し、一〇〇年もたたないうちに急速に衰退する点にある。」
>>871 高句麗じゃなくて百済あたりならまだ可能性はあるかも
平原遺跡の方格規矩四神鏡が、
卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡の一部である事は、
今後覆しようがなく、
邪馬台国の超重要拠点の伊都国の、
卑弥呼の死亡時期に作られた平原遺跡が方墳であることで、
邪馬台国は初期の前方後円墳の築造を権威の象徴とする勢力なる畿内説は
跡形もなく完全崩壊しており、
今後学界で唱えられることは一切無い学説になってしまった。
>>916 大祓に、
みんなで話し合って、
豊の国の葦原瑞穂に、安倍の国を作った。
それからしばらくして
日高見の国に、安倍の国を作った。
と書いてあるよね?
その過程で幾重にも蜘蛛や罪を根の国へ吹き払った。と。
>>926 銅鐸は権力者の所有物ではなく共同体の祭祀の道具だったと考えられる
なので政治権力と無関係なので古墳時代には忘れ去られて記録されてないと思われる
>>926 弥生時代には大和朝廷は存在しなかったから知らなかったのか
日本書紀を編纂した7世紀後半~8世紀には完全に失伝していたか
邪馬台国のように隠蔽したい歴史の一部だったか
>>925 銅鐸は時代編年と密度分布の時代変遷が、
大国主の国造りや国譲りの変遷と一致する事から、
大国主が国造りの際に祭祀の道具として用いたモノである事が確定している。
この銅鐸の最も初期の福田型銅鐸の鋳型が北部九州の安永田遺跡から出土しており、
吉野ヶ里遺跡では実際に祭祀の道具として用いていた事が判明し、
ソレを出雲荒神谷遺跡に北部九州型の銅剣と共にもたらした人物が居た事が判明し、
ソレを記紀から抜き出すとスサノウと言う事になる。
>>926 銅鐸は天の詔琴として記紀に記載されている。
だからイエズス会だろう?蛇の信仰ってシオニズムだろう?
>>934 蛇の信仰は全世界にあるのでは?
南米の遺跡にもよくあるモチーフだしね
考古学の発掘の成果を、
キチンと理論に基づいて周知徹底できるように、
日本の歴史教育を変えていかないといけないな。
>>923 青龍三年鏡って京都から出てるものでは?
宮内庁が古墳を発掘させないのは、なんか後ろめたいことがあるのだろうか?
>>938 歴史は悠久より連綿と現在まで続いている
歴史の末、現在への社会的な影響を全く考えない考古学者は歴史の冒涜者とも言える
不許可への批判までは良いけどそれを後ろめたいなどと適当な事を言ってはいけない
まあ、
纒向なんかと比べ物にならない規模の
福岡県春日市の須玖遺跡群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%8E%96%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4 を、邪馬台国だと言う考古学者が一人もいない時点で
邪馬台国は九州には無かったことが確定しているんだよな
>>940 >歴史は悠久より連綿と現在まで続いている
これが嘘。
ならば縄文時代の発掘もするな。
>>942 うるっせえシね
ごめん、ちょっと面倒臭くなっちゃった
>>807 これは面白い説だ
確かに日向からの神武東征を反転させて新羅から日本海ルートと解釈すれば距離感も同じような感じだし納得いく話になる
瀬戸内海は穏やかなようで要所で潮の流れが激しく安全に航海できるようになったのは古墳時代以降という話を見たことがあるし、日向から瀬戸内?と疑問に思っていた
アマノヒボコの渡来をニギハヤヒだのニニギだの神武だのの話として作ったならいろいろ腑に落ちるな
まあアマノヒボコという個人でなく渡来人集団の話とも解釈できるけど
まあ邪馬台国は、ニギハヤヒなど渡来人の技術力で強大化した大和に、西暦300年以降滅ぼされたと思ってるけど
>>941 あるかどうかわからない斜陽国家邪馬台国より
明確に存在が確認されてる北九州政権最盛期、古代奴国王朝の方がロマンあるよね
魏人が出世の為に作った国が邪馬台国だよ
wikipediaにも書いてある
>>946 ねぇ
57年に、倭國王「漢委奴国王」となった倭奴國の
金印も出土して、王都も発掘されて
大和朝廷が自らを
初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。
彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。
と言ったことは、事実だったことが立証されてる
ほうが、よっぽどスゲーよな
銅鐸は九州から小さい本体と鋳型が
ちょこっと出土するが
近畿地方のような大ブームにはならず
あまり興味を持たれなかったっぽい。
>>945 考古学上の裏付けが皆無。
全くデタラメでお話にならない。
邪馬台国は日本の記録には一切出てこない
わざと卑しい字を当てた大和国の事だろな
>>956 違う
神武が福岡県春日市の王都から東征して、大和国にしたから
邪馬台国も卑弥呼も出てこない
>>953 ちょっと出たくらいで銅鐸文化圏否定すんの変だよなあ
東方の方が圧倒的なのに
どれだけすごいと連呼しても、纏向のような交易拠点でもないし
巨大古墳すら作れない九州は弥生時代で終わった都市
応神天皇陵付近から晋の印が発見されとる
あの時代に晋に朝貢したのは邪馬台国だけだから
邪馬台国は畿内
>>960 畿内説の大御所寺澤薫の「卑弥呼とヤマト王権」から抜粋です
纒向遺跡が形成された初瀬川上流の「纒向川扇状地」小共同体には、
弥生時代の拠点的母集落はおろか、集落といえるほどの遺跡がない。
自然林に覆われた空閑地に突如として纒向遺跡は出現したのである。
纒向遺跡の第一の特徴は、弥生時代にはほとんど人の手が入らなかった地域に、
三世紀になって突然、人が集まりはじめて巨大な集落を形成し、
一〇〇年もたたないうちに急速に衰退する点にある。以上転載終わり
要するに2世紀の纒向には邪馬台国の痕跡どころか集落遺跡も無かったという事です
>>961 親魏倭王と漢倭奴国王ばかり有名だけど
結構色々発掘されてんだっけ
>>953 安永田遺跡から最も初期の福田型銅鐸の鋳型が出土、
吉野ヶ里遺跡からは実物が出土。
その次の時代編年の菱環紐1式が、
北部九州型の銅剣と共に、
荒神谷遺跡で出土。
その次の、外縁付1式が加茂岩倉遺跡で大量生産され始め、
外縁2式は大和に生産の中心地が移っていく。
最盛期には三遠式が静岡や信州まで伝播するが、
信州中野市柳沢遺跡では、
大阪湾型銅戈北部九州型銅剣などと共に出土し終焉を迎える。
コレラの銅鐸の出土の時代変遷が、
スサノウが出雲に進出し、
大国主に国造りを教え、
大国主が日本各地に国造りを伝えた後、
大和の大物主が現れ、大物主との国造りが開始され、
やがて北部九州の銅剣銅鉾を祭祀の道具とする高天原の天孫降臨族の国譲りが始まり、
ソレに逆らった建御名方神が、
信濃まで落ち延びていくという
記紀の記述と一致する事で、
銅鐸が大国主が国造りの際に祭祀の道具として用いたモノである事が、
理論上確定し覆すことは不可能な状態になっている。
そもそも九州は球磨、曽於のクマソだよね
大和国のヤマトタケルに討伐されて占領されたじゃん
>>961 応神天皇陵
5世紀初頭(401‐420年頃
邪馬台国時代の印が伝世されて応神天皇の時代に埋められただけ
>>964 神話絡めて確定とか言っちゃうのやめない?
途端に安っぽくなる
北九州に一時期勢力ある国があったことは否定しないが倭国大乱後は姿を消したと倭人伝でも記されている。倭奴国金印が本物であれば落っこちていたので滅んでいる。
また、伊都国は卑弥呼の官により管理下にあるとも記され、隋代には香春信仰がはびこり秦王国が出来ていたのは確実であり、倭国に属していたとも隋書にある。北九州は半島渡来人の勢力地。
古くは阿と呼ばれた人々であり、竈信仰のスサノオ韓神。デッカイ竈の阿が蘇る山が阿蘇山。竈は西に造る、ゆえに東の宇佐が本拠地。それがおそらくもとは小国、倭の別種。
北九州に一時期勢力ある国があったことは否定しないが倭国大乱後は姿を消したと倭人伝でも記されている。倭奴国金印が本物であれば落っこちていたので滅んでいる。
また、伊都国は卑弥呼の官により管理下にあるとも記され、隋代には香春信仰がはびこり秦王国が出来ていたのは確実であり、倭国に属していたとも隋書にある。北九州は半島渡来人の勢力地。
古くは阿と呼ばれた人々であり、竈信仰のスサノオ韓神。デッカイ竈の阿が蘇る山が阿蘇山。竈は西に造る、ゆえに東の宇佐が本拠地。それがおそらくもとは小国、倭の別種。
で、このスサノウが出雲にもたらし、
大国主の国造りの時代変遷と一致する
分布変遷を示す銅鐸というものが、
記紀でどの様に描かれているかというと、
大国主がスセリビメとスサノウの館から逃げる際に、
森の木の枝に触れて鳴ったと書かれている天の詔琴が、
その木に吊るして鳴らす銅鐸の使用方法としてドンピシャ。
読みが同じだから関係性がある!!
依ってアメリカ合衆国と宇佐市は同一だ!!
読みが同じだから関係性がある!!
依ってアメリカ合衆国と宇佐市は同一だ!!
>>968 そんな事はどこにも書いてないが??
どうしてそういう嘘捏造をすつかな??
>>974 神話というのは
科学的根拠に基づかない宗教的な作り話のことです
この様にして、記紀には、
実際の日本の前3~2世紀の遺跡から再現できる日本の歴史が、
極めて高い精度で記録されている事が分かる。
コレは日本の考古学史上燦然と輝く偉業であり、
コレが安っぽく見えるのは、
アンタが歴史を知らないからでしかない。
>>975 アンタ、考古学上の発掘事例と記紀の記述を照らし合わせて検証しているのに、
ソレを無視して神話とはーとか、
全然人に書き込みを見てないアンポンタンだな。
アンタ、脳が、安っぽいぞ。
>>967 57年に、倭國王「漢委奴国王」となった倭奴國の
金印も出土して、王都も発掘されて
大和朝廷が自らを
初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。
彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。
と言ったという神話は、事実だったことが立証されてます
邪馬台国より、よっぽどスゲーよ
卑弥呼邪馬台と大和朝廷に血統的関連性は無い。
前方後円墳が切れた時点で1つの大勢は傾いたとする。
卑弥呼は老子道徳教、神仙思想。三種の神器は剣と鏡と印璽である。印璽は死、最期に天太一と契約を結ぶ為に使うとされる。
太一(万物)を信仰した連中が園神、物部。
スサノオは韓神、アマテラします大神(万物)と韓神竈信仰とは姉弟である筈はない。がそれを定義付けたのが記紀。
んだ
57年に、倭國王「漢委奴国王」となった倭奴國の
金印も出土して、王都も発掘されて
大和朝廷が自ら言った
初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。
彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。
という神話は、事実だったことが立証されている
邪馬台国より、よっぽどスゲーよ
>>977 見付かった銅鐸と素戔男尊の関係は証明されていません
>>845 弥生時代最大の鏡と三種の神器が出た平原王墓は?
>>845 弥生時代最大の鏡と三種の神器が出た平原王墓は?
>>845 弥生時代最大の鏡と三種の神器が出た平原王墓は?
>>982 アンタの脳が安っぽいからな~
オレのせいじゃないぞ~
何でもそうだけど、
書いてあることが理解出来るできないっていうのは、
人間の能力によってだからな。
神話トハーとか言っちゃうようじゃあ、
脳が、安っぽいって自ら吐露しているってことにしかならない。
>>862 瀬戸内の土器も九州の土器も出ていてどの方面とも交流はあったようだね
ベッドのように仕切られた花弁状間仕切り住居は
宮崎で広がる前の早い時期に佐賀で見つかり
宮崎で広がった後に四国で見つかった というような流れもあるようだ
同時期同地域で花弁状のものもあればノーマルな物もあり
ばっかりなわけではない
>>988 こう考えれば辻褄が合う
というのとその考えが正しいかどうかは別の問題だよ
キリスト教やオウム真理教や統一教会だってその教義体系の中では辻褄が合うようにお話が作ってある
だから高学歴でもオウム真理教や統一教会やキリスト教に傾倒するような人も出てくる
辻褄が合うからといってそれだけで信用せず
検証を繰り返すのが学問
>>992 辻褄の合わないことを連呼するバカよりは、遥かにマシ
このドライバーがバスドライバーとして不適格だったとは信じてないってのは
因みに因幡の白兎の神話も、
実際に弥生時代、鳥取県周辺に、
サメのマークを象徴として用いていた
部族が居た事も分かっており、
そして白兎神社の近くに、殺傷跡のある多数の人骨が出土した、
青谷上寺地遺跡がある。
見事、国造りのパートは歴史の記述と言っていい。
>神話というのは
>科学的根拠に基づかない宗教的な作り話のことです
歴史の素養がない事を曝け出さんでもエエのになあプププ−
太安万侶は語り部の稗田阿礼に話を聞いて古事記を書いたんだよな
>>996 それそれ、そういうところよ
見付かったものはいつの時代のものか科学的に検証したのか?
>>996 > サメのマークを象徴として用いていた
ソースは
>>973-974 神話は史書・口伝である以上史学であり民俗学
真実を追うならば考古学だけじゃダメ
でも史学優先じゃダメ、ましてや神話から考古学をなぞらえる姿勢に至ってはうんこ
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