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【佐賀】世紀の大発見!?「邪馬台国時代の墓」を発掘、有力者の墓の可能性も…吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で発見された石棺墓 ★8 [樽悶★]->画像>22枚
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表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号
佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」にある「謎のエリア」で大きな発見です。邪馬台国時代のものとみられる石棺墓が新たに見つかりました。
■「線刻」と呼ばれる多数の記号
吉野ヶ里遺跡で先月末に見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの「石棺墓」です。吉野ヶ里遺跡には長年、神社があり発掘調査ができていなかったいわゆる「謎のエリア」がありました。石棺墓は、去年5月に始まったこのエリアの調査の一環で見つかったもので、表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号があります。一般の石棺墓より規模が大きく、見晴らしの良い場所にあります。
■来月に石棺墓の入り口を開ける
邪馬台国があったとされる時期と重なっていることから、王など有力者の墓の可能性もあります。佐賀県は、来月5日にこの石棺墓の入り口を開け、1週間ほどかけて副葬品などを調べる方針です。
5/29(月) 15:27配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b1ecc567bd0e979d7100aa006959d899e4beb142 弥生時代の大規模な環ごう集落の跡が残る佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、弥生時代後期のものとみられる墓の一部が出土し、専門家は「かなり身分が高い人の墓の可能性が高く、さらに調べれば歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
吉野ヶ里遺跡では、歴代の王の墓とされる「北墳丘墓」のすぐ西側にあり、貴重な発見があるのではと注目されながら手付かずだった「謎のエリア」と呼ばれる場所で去年から、10年ぶりとなる大規模な発掘調査が行われています。
この調査で先月、4枚の平らな石が並んだ状態で見つかりました。
4枚を合わせると全長は2メートルほどになり、調査を行っている佐賀県によりますと、墓の「ふた」だということです。
弥生時代後期、1世紀から3世紀ごろの有力者の墓のふたとみられ、表面には「×」のように見える線が交差した記号のようなものが無数に刻まれていて、埋葬した際に何かしらの意図を持ってつけられたとみられています。
吉野ヶ里遺跡では、これまで弥生時代中期の王の墓が見つかっていますが、邪馬台国が存在したとされる弥生時代後期の有力者の墓だとすれば、初めてとなります。
吉野ヶ里遺跡の発掘に長年携わってきた考古学者の高島忠平さんは「『謎のエリア』の中でも最も高く、見晴らしのよい場所にあり、かなり身分が高い人の墓の可能性が高い」と指摘したうえで「さらに調べれば、当時の政治のあり方を読み取るうえで歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
佐賀県は今後、墓の中を調査することにしていて、副葬品などが見つかるかが注目されます。
2023年5月29日 5時40分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230529/k10014081181000.html 世紀の発見となるのでしょうか。佐賀県は5月29日、吉野ヶ里遺跡で邪馬台国時代のものの可能性がある石棺墓が見つかったと発表しました。
「邪馬台国時代の可能性が高い。いま、我々は非常に興奮してときめていて、これからどうなんだろうという気持ちが高ぶっています。」(佐賀県・山口知事)
吉野ヶ里遺跡で新たに見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの石棺墓です。去年5月から発掘が始まった、「謎のエリア」と呼ばれる場所で見つかりました。
見晴らしの良い場所に単独で存在し、線刻といわれる記号が刻まれているなど、これまでにない墳墓だということです。
佐賀県は、吉野ヶ里遺跡でこれまで見つかっていない弥生時代後期、いわゆる邪馬台国の時代の有力者のものの可能性があるとしています。
6月5日から石蓋をあけ、副葬品などを1週間ほどかけて調べるということで、佐賀県の山口知事は「世紀の発見を期待する」と話していました。
5/29(月) 19:08配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b5e6e9a20939b8f67d4fe4a0042eb3cdfa748a0c
★1:2023/05/29(月) 19:34:47.21
http://2chb.net/r/newsplus/1685541799/ オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:シナで見つからず、魏志倭人伝に記載がなく、実在しない年号が記された三角縁神獣鏡ってなんですか?
A:知りまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知りまへんのや!!
Q:纒向遺跡から大陸系遺物は出土しましたか?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らんがな!!知ったことかいな!!
邪馬台国が奈良にあったら北九州で役人が帰るわけないw
(前節のおさらい)
卑弥呼はん
あんさんのことでっから立てときますわ
(手前が祇園山古墳の方墳)
でもメインはワテらでっせ
(後方に神武の円墳がモッコリ)
→もうこうなるとどっちがどっちに寄生してんだか分かんないw
あと、出雲の前方後方墳もまねしーので前方後円墳
こう言うことだな
平原遺跡から出土した弥生時代の三種の神器、古代中国の高貴な方が身につけていた装飾品など豪華だもんね
北部九州が栄えていたのは明らか
なんか結局邪馬台国は九州ってことで決着ついて少し寂しい昼上がりのティータイム
>>14 九州だし、関西人ではない。
パーは関西人が使う
>>9 邪馬台国がヤマト政権と関係があるなら三種の神器があっても変じゃないけど
何か都合が悪いの?
まだ懲りないのかw
2015年末アンケート結果
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
半島人固有DNAの分布
過去最高に盛り上がってるSAGAスレ
ゾンビもあるよ
>>21 涙拭けよ近畿パーw w w
はい、また論破w
邪馬台国は古墳が沢山ある群馬にあったんだよ
邪馬=群馬
ぐんまパワー100%
大和の三種の神器はどっかからかっぱらってきたものw
しかしほとんど全部の謎
オレ一人で解いちゃったな
なんなんこいつらマジで
>>22 卑弥呼がゾンビィアイドルデビューか
ババア枠だけど
・前スレまでのあらすじ
ゴッドハンド
ゴッドハンド大丈夫?
どうせゴッドハンド
墓から卑弥呼の骨が出てくるのか?
DNAから子孫とか分かるのだろうか
台与が貢献した記録が残る西暦266年から、
わずか14年後に完成した『魏志』(倭人伝を含む)
には
女王がいる邪馬台国は、それまでの倭王の漢委奴国王がいた倭奴國よりも遥かに遠いと書かれている
卑弥呼はん
あんさんのことでっから立てときますわ
(手前が祇園山古墳の方墳)
でもメインはワテらでっせ
(後方に神武の円墳がモッコリ)
→もうこうなるとどっちがどっちに寄生してんだか分かんないw
あと、出雲の前方後方墳もまねしーので前方後円墳
それが大王崇神の墓だったから全国であやかりたいあやかりたいで広まる
こう言うことだな
>>35 ボンクラ
2015年末アンケート結果
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
>>39 後漢から遼東太守に任命された公孫氏は
同じく後漢から金印を印綬された九州の倭奴國の漢委奴国王に玉璽を与えて
後漢の第14代皇帝「献帝」から帝位を強奪した魏の曹叡(明帝)と司馬懿に反旗を翻して挙兵してる
このときの、公孫氏が九州の漢委奴国王に与えた玉璽が吉野ヶ里遺跡の墓から出てきて
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」なんつって
女王卑弥呼を地域共通のシンボルにする「卑弥呼連邦」の樹立を宣言した
九州説者は大混乱に陥る
■魏志倭人伝に記載された倭人の墓のつくり
「有棺無槨 封土作冢」
棺が有り外郭は無い、土で封じて塚を作る
■魏志倭人伝に記載された卑弥呼の墓のつくり
「大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人」
大きな塚を作った 直系約百歩(150m) 殉葬者は約百人
>>45 卑弥呼がいた所だな。
九州だよ
邪馬台国は近畿
>>25 真面目な話、この北墳丘墓域は前1世紀の中期まで王墓として利用されていたが放棄されてる
で、その段階の墓は甕棺墓
だから石棺が出てきた時点で系統は別
年代も記事でも1世紀から3世紀とか酷い書き方してるでしょ?
年代を無理やり邪馬台国に絡ませてる
更に言うならこの学者さんは吉野ケ里に紐付いた学者で九州説
だからまいど「吉野ケ里が邪馬台国」とか言うんだよ
もうお約束の芸みたいなものだよw
>>30
古墳が沢山ある群馬や千葉。
つまり、「倭人(阿波勢力)」が大勢進出していった所。 @阿波 >>45 『魏志』(倭人伝を含む)によると
卑弥呼が死んだ
・・時には、
帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が邪馬台国に居た
冢を大きく作った。直径は百余歩、徇葬者は奴婢百余人
・・の時も、
帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が邪馬台国に居た
その後、新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
・・の時も、
帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が邪馬台国に居たし
卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった
・・時も、
帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が邪馬台国に居た
下手したら、帯方郡太守が派遣した塞曹掾史の張政等が
卑弥呼の死後に男王を、新しい親魏倭王にしようとして失敗した可能性もある
>>46 いんや、ロマンシング福岡だよw
なんの確証も無いのに「伊都国歴史博物館」とか造っちゃったのも福岡w
私たち、
田川市、香春町、添田町、糸田町、川崎町、大任町、赤村、福智町の
8市町村は
田川に暮らす人々が地域の潤沢な古代の文化的、
歴史的資産を誇り、
訪れる人々をもてなし、古代史のロマンを分かちあい、
田川の新たな歴史を創造するため、
ここに「卑弥呼連邦」樹立を共同で宣言する。
https://himico.org/sengen/ なんでこんなスレ伸びてるんだ
お前らパチンコとマッチングアプリしか興味ない薄汚れたおっさんだろ、吉野ヶ里遺跡とか最も遠い存在だぞ
魏志倭人伝には、邪馬台国=女王国の東は倭種の国とかいてあります
ちょうどその頃、東の倭種の国では前方後方墳など古墳文化が始まりました
それはやがて東日本から纒向へと広まり、形状を変え、前方後円墳となりました
静岡県の高尾山古墳の年代について
・元愛知県文化財センターの赤塚次郎氏は狭間Ⅱ式土器と併行の230年ごろと判定し、
・寺沢薫(元橿原考古学研究所・現向学研究センターセンター長)はもっと新しい250年頃の箸墓古墳頃の年代論だという。
・大塚(初重)先生は赤塚次郎説までも行かないが箸墓古墳よりも古いだろうとは思うと説明された。
>>57 張政たちはずーーーっと邪馬台国に居ました
下手したら、卑弥呼が死にそうだと言う知らせを受けて
次の親魏倭王を誰にするかを決めるために
帯方郡太守に着任した王頎が塞曹掾史の張政等を派遣したことも考えられる
正始八年(247)、王頎がが帯方郡太守に着任した。
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。
王頎は塞曹掾史の張政等を派遣した。
それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
卑弥呼は死に、冢を大きく作った。
直径は百余歩。
徇葬者は奴婢、百余人である。
新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
また、卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。
張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。
8スレ目!
今回は続くねw
まず伊都国=糸島という通説には意義を唱えたい
糸島行くのなら船で直接乗り付ければ良いわけで
船での移動がメインの古代社会で態々陸行五百里って事は海からそれだけ離れた内陸に在るという事
一大率を置き諸国を監視出来る軍事的要地
太宰府が伊都国が妥当
廣志に拠るとその南に邪馬台国
平地の少なく山ばかりの古代の九州
多くの人口を養える土地
自ずと場所は限られる
卑弥呼なんて実在するわけねーだろw
男尊女卑の日本で女がトップとかありえない
>>49 結果がどうあれ楽しみなのは間違いない
邪馬台国とかに拘らずに日本の古代社会が解明されるのはワクワクする
>>63 ↑
皆さん、この人日本史板で有名なキチガイですよ可愛がってくださいね
邪馬台国 → ヤマト 大和
卑彌呼 → ヒミコ 日巫女 火巫女
鬼道 → キドウ 戦士
>>65 魏志倭人伝、方角 無視
伊都国の東に不彌国
南に奴国
投馬国は?
>>59 またキチガイが自分語り
お前らそんなんばっかだなヨゴレ猿
>>65 魏志倭人伝、方角 無視
伊都国の東に不彌国
南に奴国
投馬国は?
>>67 まあ出てくるとしたら
後漢から遼東太守に任命された公孫氏が
後漢の第14代皇帝「献帝」から帝位を強奪した魏の曹叡(明帝)と司馬懿に反旗を翻して挙兵したときに
同じく後漢から金印を印綬された倭奴國の漢委奴国王に与えた玉璽
だろうねぇ
博多湾に浮かぶ志賀島で漢委奴国王の金印が出土して
吉野ヶ里の墓から、後漢から遼東太守に任命された公孫氏の玉璽が出てきたら
九州は、狗奴国の卑弥弓呼の支配地域であり
卑弥呼の邪馬台国では無かった
で決まりだ
>>79 イミフ
まるでイミフ
むしろ三種の神器が揃ってあったら邪馬台国ではない
三種の神器は卑弥呼が決めて奴国王に勾玉、出雲に剣を与えたんだよ
>>65 元寇のとき、呼子に近づいて南に回って長崎側から上陸してる
秀吉も 呼子から朝鮮に向かっている
>>71 魏志倭人伝は諸々の資料を繋ぎ合わせたあまり当てにならない記録
大月氏国の件もあり、捏造の可能性が高い
その行程を信じて上手く行かないのは既知の事実でしょ
そもそも元ネタの廣志では伊都国と邪馬台国の間の行程の記述がない
それなら当時の状況鑑みて妥当性を探る見方があっても良いと思う
6月5日の墓開きの時
目ぼしいものが出てこなかったら
なんてこと無かったってことなんだよな
>>83 同じ事言っている。
>> 三種の神器は卑弥呼が決めて奴国王に勾玉、出雲に剣を与えたんだよ
ここは定かではない。
>>85 はぁ?
『魏志』(倭人伝を含む)は
台与が貢献した記録が残る西暦266年から
わずか14年後に
西晋の陳寿が完成させた
ほぼドキュメンタリー
ですよ
>>88 俺が昔住んだことのある久留米市御井町?
良いじゃん、の誤字?
卑弥呼は剣と鏡をもらっているし台与は勾玉を献上しているから邪馬台国には三種の神器はあったと考えるべきだな
>>84 呼子を起点に長崎周りだと海路で邪馬台国まで行けるね!
またヤマト政権と結びつけようとしてる
卑弥呼が誰から剣をもらったと、いったいどんな記録にあるんだよ
三種の神器は記紀の中のお話
>>89 ごめん
そこは確かに違うかもね
ただ多分与えてるよ卑弥呼が
だって奴国王を宥めるためなんだから
自分でもってちゃダメでしょ
>>92 いや、両建ていいよ。
君はそっち方向で考えばいい
古代中国人が「邪」で「卑」しい「鬼」と馬鹿にしていたのが東夷の「倭」人
「古蘭」 クルアーン の当て字とは大違い
「鬼道」 も鬼の意味に引っかかると負け
>>90 滅ぼした公孫氏の記録が主ですけどね
そして様々な政治的思惑も絡む史書
ドキュメンタリーはないわ
三種の神器ってのは元々奴国の風習だからね
それを卑弥呼が邪馬台国の風習として取り入れたんだよ
ただそもそも奴国王を宥めるためにやってることなんだから
自分で勾玉持ってちゃダメなわけでね
剣も国譲りのときに出雲に与えたはずなんだよね
>>95 そう言う事、卑弥呼が登場しないという
人が三種の神器とか?奇妙な事を言う
>>81 なんで九州を一国とするのかw
古墳の分布見てないのか
>>102 勾玉は東北の文化だよ
それこそ三丸から出てるくらい、はるか昔からの文化
>>104 ヤマト政権と関係ないと書きながら
記紀を引用する説はアホ。
>>107 もちろんそうかも知れないが
三種の神器は奴国の風習だよ
それを卑弥呼が奴国を懐柔するために自分らに取り入れたんだよ
それから記紀にある記事はそもそも天孫降臨が作り話しで
ある以上参考にはならないからね
『魏志』(倭人伝を含む)は
台与が貢献した記録が残る西暦266年から
わずか14年後に
西晋の陳寿が完成させた
正始元年(240)に、邪馬台国に行って帰ってきた
建中校尉の梯儁たちや
正始八年(247)に、邪馬台国に行って帰ってきた
塞曹掾史の張政たちから
直接報告を受けた、ほぼドキュメンタリー
>>113 邪馬台国に行って帰ってきた
記述はない。
黒塚古墳の謎の鉄製品は結構強烈だぞ
中国から貰ったものなら黄幢の可能性もある
だから天皇家に伝わる三種の神器なんて
まるでウソなわけな
そんなものは存在しない
天皇ですら見たことないとかね
おかしいだろ
なんのための神器なんだよってねw
存在しないから誰も見たことが無い
それだけのことだよ
>>117 三種の神器は全く、証拠にならないでいいか?
内外の外交担ってたのが九州
饗応役のトップは外国人ウケ狙いで女王にしといた
ヤマト本体は奈良に隠されていたのです
三種の神器は当時たくさんあったし集めるのが難しいわけじゃない
日出ずる国の巫女に蔑称の当て字
日出ずるもただ単に東に位置したという意味合いでしかない
弥生時代の墓群から鏡、剣、勾玉が一緒に出土 佐賀県内初
http://2chb.net/r/newsplus/1626047399/ 佐賀市は、七ケ瀬遺跡で確認された弥生時代後期の集団墓地の甕棺や石棺から
副葬品の中国製の青銅鏡や鉄剣、勾玉が出土したと発表した。
「三種の神器」に数えられるこれらが一緒に出土したのは佐賀県内で初めてだという。
>>121 たくさんあったの?
揃っていたのは少ない。
邪馬台国が九州なんて当たり前のことはもはや議論する価値もないから、興味あるのはその後だ
滅んだのか、続いたのか
>>86 盗掘された形跡がないみたいだから期待は出来る
>>114 5尺刀は剣だろ
知事が期待している「世紀の発見」というのは、卑弥呼が授けられた印のことだろう。
以前から、この神社が古墳の上に建っていて、ここが卑弥呼の墓だという学者はいた。
卑弥呼の墓ではなく、印はないと思うが、魏の使節が持ち込んだ鏡は出てくるんじゃないかな。
「ヤマト」とか「ヤマタイ」というのは、「国」を表す古代日本語の普通名詞だったんだよ
九州には九州の「ヤマト(ヤマタイ)」があり、畿内には畿内の「ヤマト(やマタイ)」があった
日本語がよく分からないシナ人がそれを固有名詞だと誤解したのが混乱の原因、とか
>>122 卑弥呼と名付けたのはシナ人
日出る処と大見得を切ったのは日本人
>>129 日本じゃないよ。日本は邪馬台国を滅ぼした側。
>>112 初めて3つ揃って出たのは吉武高木遺跡だけど
鏡にしても剣にしても当時輸入しやすい立地なだけど
揃って出るのも「そりゃそうでしょ」的に思ってるけどな
それに何か特別な意味があるとも思わないかな
>>125 鏡も剣も勾玉もたくさん出てるだろ
三つ集めるのがそんなに難しいと思うか?
>>129 県単位じゃないね
北部九州一円をまとめて邪馬台国だから
この中で卑弥呼が居たのが吉野ヶ里かもしれないという話
>>129 九州倭国の発祥は福岡
近畿日本の発祥は奈良
>>135 特別な意味を与えたのは卑弥呼
理由は倭国大乱を収めるため
奴国の風習を自ら取り入れて奴国を懐柔しようとした
魏志倭人伝に伝えられる邪馬台国と卑弥呼は実在したわけだよな。
ただその邪馬台国が後の大和王権に繋がるのか確かな証拠はないわけだよね?
>>132 中国史書にはヤマ「ト」と発音する名称は一切記載されていない
ことごとく語尾は「タイ」と読む文字が使われている
つまり当時中国に対しヤマトと名乗った者や地名は存在しない
>>115 壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還
壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等の二十人を遣はし、政等の還るを送る
壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。
第四章 クシャン朝と倭
邪馬台と大和は現在では似ている語感であって、当時は全く別の発音だったろ
>>144 つながりそうもないんだけど、皇紀2600年なので無理矢理つなげようという思考をする人が少なくない。
>>137 わからない。
平原は証拠として上げる
阿保か?
>>145 全くイミフ
倭国大乱が起こったのは倭国だよアホ
奴国と邪馬台国との騒乱
>>153 他にも下賜品あるのに、なんで別格なんだよ
てか、親魏倭王印で十分だろ
邪馬台国の卑弥呼が出るか、狗奴国の卑弥弓呼が出るか
まあ出てくるとしたら
後漢から遼東太守に任命された公孫氏が
後漢から帝位を強奪した魏の曹叡(明帝)と司馬懿に反旗を翻して挙兵したときに
同じく後漢から金印を印綬された倭奴國の漢委奴国王に与えた玉璽
だろうねぇ
博多湾に浮かぶ志賀島で漢委奴国王の金印が出土して
吉野ヶ里の墓から、魏に反旗を翻した公孫氏の玉璽が出てきたら
九州は、狗卑弥弓呼の奴国で決まりだ
>>144 そうね。ただ畿内説の連中は無理やり皇女の誰かに当てはめようとしてる
>>154 たくさん出てるだろうが
鏡は一か所から数十枚出てるし剣は出雲で数百出てるし
足りないから一つ下さいなと言えばくれるだろ
剣も勾玉も出来が良いものを選んで権力者に献上するようになった
それが三種の神器の始まりじゃないの?
>>143 卑弥呼って鏡と剣は出てきても、勾玉って関係なくない?
三種の神器の中でも、唯一日本独自で縄文から存在しているのが翡翠の玉
三種の神器の中でもちょっと格上に見てる
アメノミナカヌシからイザナミまで全部奴国王だよ
卑弥呼が奴国を懐柔するために自分たちの王だったことに
したんだよ
だから始祖のはずなのにアメノミナカヌシ?誰それ?
状態でアマテラスが一番偉い扱いなの
>>167 ?
剣だって出て来てないだろ
日田で出て来たヤツが卑弥呼の鏡
あと全部出て来てないじゃんか
そんなもの邪馬台国には無いからだよ
与えたんだよ奴国と出雲に
中国魏晋南北朝史学会の陳教授によれば「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない」「いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」という
魏志倭人伝では伊都国に一大率を置いて諸国を検察させたと書いてあるが魏の時代の刺史は行政官であり監察官では無いという
教授曰く「魏よりも古い漢代の史実が混在している」「1つの完成した史料とは言えず部分部分で内容が矛盾している」「1人の人物が書いたものではない」
このことから「異なる時代に書かれた記事が並んでいる」と教授は指摘する
「正確さよりもわかっている情報をかき集めて盛り込まざるを得なかったのでは」
>>159 三種の神器は邇邇芸の時代からの慣わしだろうな
>>163 むしろ、邪馬台国と大和政権は関係無いという文献のほうが無い
日本書記には
神功皇后摂政
卅九年、是年也太歲己未。
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
卌年。
魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
卌三年。
魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
と書かれている
>>160 九州人が「山たい」と言い、近畿人が「山どす」と言ったんだな、たぶん
>>172 違う
天孫降臨がまるで作り話しなように
(天皇家に伝わる)三種の神器も作り話し
そんなもの無いそもそも
>>170 鏡、剣、勾玉が一つの墓から出てきた古墳はいくつかあるよ
>>171 『魏志』(倭人伝を含む)より古い時代に書かれた史書って無いよ
>>168 卑弥呼は神宮皇后だ!、いやモモソヒメだ!と畿内説がでっち上げるのは、せいぜいその時代の女にしないと辻褄が合わないからで、イザナギやイザナミなんて論外
>>175 仮定言われても
証拠がない。少ないんだよ
>>178 陳寿が参考にしたであろう史料はいくつか指摘されてるが
それが気に入らないなら中国魏晋南北朝史学会に問い合わせてみるといいかも
>>182 作り話しだなまるで
むしろそもそも無かったのを辻褄合わせるためにでっち上げたんだねその話しを
>>180 仮定じゃなく現実にたくさん出てるだろ
仮定は三種の神器とか言って意味があるように言ってるお前だろ
>>171 日本書紀でも記紀でもでもなんでもそうだろwいろんな文書をまとめて統一的な文体で改めたものが史書
>>113 >『魏志』(倭人伝を含む)は
>台与が貢献した記録が残る西暦266年から
>わずか14年後に
>西晋の陳寿が完成させた
細かい指摘だが、魏志の完成年が西暦280年とする根拠はないんじゃないか
男子はみな入れ墨をしている・・・うーん、これは福岡あたりかもしれんなw
>>188 一番有名なのは平原古墳だな
国内最大級の銅鏡、鉄剣、勾玉、ほか、女性用の装飾具が出てきてる
>>173 卑弥呼は晩年、狗奴国と戦闘中であり力添えを魏に求めていたが、記紀によると神功皇后は朝鮮半島に侵略に出るような人間
まったく適合しない
好太王碑によれば4世紀の話だし、履中天皇以前の異常に長い寿命を適正な寿命で計算して逆算しても神功皇后は4世紀半ばにあたる
卑弥呼とは100年ずれている
>>194 宗像族と安曇族は入れ墨の風習があったようだ
なんとなく全国で栄えてたんだよ。
そして卑弥呼は一人ではなくいわゆる『姫』
>>144 普通に考えたら魏志倭人伝の倭人の文化は海人系
ヤマト王権とは全く関係がない
古代人はリスク管理のために首都機能分散してた
おまけに呪いとか非科学的なもの信じてたから大切なものは隠しといた
山大国を邪馬台国と呼ばせ真の名前を隠した
そして我が国で山といえば富士
富士山こそが邪馬台国だったのだ
邪馬台国はヤマ有りの静岡だったのだ
>>195 それは知っている。
八咫の鏡と同等ではないか?
とかあったのでボツ。
相手にされないヤマト説がうざいですね
魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
卑弥呼は大倭よりずっと格上の女王ですから
>>36 これでゾンビィ0号の正体が卑弥呼だったという裏設定が生きてくるな
警官「ちょっと~ お姉さん発掘現場に入っちゃダメだよ~ どこから来たの? 名前は?」
山田「あうあ~ やまたぃぇ~(から来た)」
警官「はいはい、お名前は山田たえね」
>>201 シナ人が書いてる
つまり、自分とこの人間ではない
朝貢してくる目下の国の女王
>>185 だから、陳寿が参考に出来る史書なんかねーんだよ
魏の前の後漢について書かれた「後漢書」なんか
魏から200年後に、『魏志』(倭人伝を含む)を参考にして書いてるし
三種の神器についてはそもそも日本書紀や日本の歴史でも扱いが曖昧
古い大王や天皇の即位の際に出てくる宝物は「璽」「璽符」とか書かれてよく分からない
ハッキリとものが出るのが継体天皇だが「剣と鏡」
宣化、持統でも「剣と鏡」
神武天皇がナガスネヒコに対して天孫だという証拠として出したのは「弓矢」
記紀の中でも扱いに混乱が見える
この事から古来は即位の絶対の宝物として扱われてない可能性が高い
博物館「やっと気付いたかwww葉っぱとかどけてわかりやすくしてたのにwww」
八咫の鏡を依り代にしているのは伊勢神宮と宗像大社だけ
>>208 ああ無くは無いな
でも勾玉を中国が邪馬台国へプレゼントするのか?
変だろそれ
卑弥呼が自ら所有してた高価な勾玉と剣とを奴国と出雲に与えた
と考えたほうが自然だろな
>>211 記紀に出てくる三種の神器は土蜘蛛のオタカラです
>>207 このスレで最も有力な説を見た
過去のアイドル性質が集合してるからあり得る
BBA枠だけど
>>210 後漢書は無くても後漢時代に書かれた書物はあっただろう
後漢書と内容も違うし
>>194 温暖で薄着じゃないと刺青の意味がないからな
卑弥呼が与えた勾玉も剣も
福岡と出雲から出て来るはずだけどね
鏡が出て来たんだから有り得る
三種の神器なんて記紀に出てくる逸話で、邪馬台国には関係ない
>>217 その通り
日本書紀にも風土記にも「八咫鏡」という皇室と全然違うところでちょくちょく出てくる
なので大きい鏡と言うだけの意味しかない
生中継あるのか?
映ったらヤバイやつが有ったら良いのにな
>>221 溺れた時のための身分証だったという話です
>>185 だから、陳寿が参考に出来る史書なんかねーんだよ
魏の前の後漢について書かれた「後漢書」なんか
魏から200年後に、『魏志』(倭人伝を含む)を参考にして書いてるし
「魏略」にしても
『魏志』(倭人伝を含む)を簡略化した内容だし
出雲の王様は単純に青銅器が大好きだったんだと思うけどな
>>215 正確には中国では翡翠は取れないからね
何がいいたいのかというと、剣と鏡は一番流通しやすいところだからあっても当然だし
玉は昔から日本で用いられてるもの
この3つが揃うことにはあまり意味はないと思ってる
『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』・『晋書』・『日本書紀』
にいたっては、全て、
唐(618年 - 907年)の時代に
唐の学者が書いたもの
>>223 当然だけど、証拠としてあげる阿保がいる
から書いたまで。
>>210 范曄の後漢書は5世紀に作られたが、それ以前にいくつも後漢書は執筆されてるよ
そもそも陳寿の三国志って、先人の書いた三国志史料のダイジェストだからな
>>230 奈良では三種の神器のセットは出てないからね
>>228 漢時有朝見者
なんで漢の時代の事を書いたんだろうと思うけどな
>>229 それよくある勘違い
出雲が銅鐸や銅剣の国だったとか言うのは間違い
荒神谷や加茂岩倉の銅鐸や銅剣、銅矛はかなり古い段階の物
弥生時代の中期ごろの初期段階の物ばかり
つまり「出雲は真っ先に青銅器を放棄した土地」であって銅鐸や銅剣の国では全くない
三種の神器が出たのはここだけ
お前ら弥生時代の時代区分捏造してることを認めろ
そしたらオレが発見したこと全部教えてやるから
お前らその捏造体質いい加減にしろ
何もかもメチャクチャになるぞこのままじゃ
コロナのデータとかGDPとかテロ関係の資料の捏造とか
お前らもうメチャクチャやり出してるだろが
いい加減にしろバカどもが
>>234 三種の神器とは、天皇が受け継ぐもので、伊勢神宮と熱田神宮と皇居にある
その他の剣も鏡も勾玉も、ただの剣であり鏡であり勾玉
三種の神器ではない
熱田は草薙剣を静岡に返却せよ
静岡県静岡市草薙神社が管理するべきものである
>>242 近畿では玉類が廃れて出雲に移ったみたい
>>238 黒塚古墳やホケノ山古墳からも勾玉は出ていない
太宰府に残された文献「翰苑」より
広志(史書編纂:晋の郭義恭)に記載された邪馬臺国
広志いわく、~東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国・・・(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国とは福岡西区であり倭国の守衛国
又南至る邪馬臺国とは、
吉野ヶ里、朝倉、八女など有明海と取り巻く広範囲に存在した国々の総称です
>>245 剣と鏡と勾玉を3つセットにして神器としてるのは、記紀が伝える限られた特定のセットだけで、
何でもかんでも3点セットにすれば神器になるってもんじゃない
白物家電じゃあるまいし
>>239 新しい器種がないから弥生時代中期の前1-前2世紀くらいにはもうやめてる可能性が高い
お前らその捏造体質いい加減卒業しろ
いつまで奈良時代やるつもりだ
いい加減にしろバカども
当時の人間が遊び心で適当に作ったやつってオチだろ
古代の遺物に何でも意味があると思うのは良くない
>>237 記紀を読んでも分かるように、三種の神器を持ってるのは熊襲の女酋長なんだよね
三種の神器を掲げて、天皇に降伏する
ヤマト王権はそれを強敵熊襲の支配の象徴して奪い、神器とし、それ以後天皇の力の象徴としたのだろう
>>233 先人の書いた三国志史料?
陳寿は、後漢の混乱期から西晋による中国統一まで
蜀漢と西晋に仕えた官僚だぞ?
先人なんかいねーよ
>>252 弥生時代の纏向には勾玉が流通していなかったとも考えられる
>>253 鏡と剣と勾玉をセットで王の象徴とする考え方がどこでどのようにして始まったのかが問題なのであって、現在の皇室が引き継いでるものの話をしてるんじゃないよ
勾玉は吉野ヶ里でも出ている
>>251 イザナギとイザナミの神話に象徴される、大和政権の征服進路
天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神がいる
高天原(紀伊半島)←『魏志倭人伝』の『真珠』の産地
淡路島を足掛かりにして
四国←『魏志倭人伝』の『丹』の産地
隠岐島(出雲)←『魏志倭人伝』の『青玉』の産地
九州・壱岐島・対島←日本武尊の熊襲征討
佐渡島・本州←日本武尊の東国征討
>>261 どこでどのようにも始まってない
記紀以外に、剣と鏡と勾玉のセットに特別な意味を持たせてる文献があるなら出してみろよ
>>259 お前さぁ、三国志に関するデタラメ知識をバラ撒き過ぎだわ
三国志の時代には後漢についての書物として東観漢記がある
魏についても先人が魏書や魏略やら書いてる
呉についても呉人が呉書を編纂している
それらを広くまとめたのが陳寿なわけ
だから陳寿が拾わなかった異説については裴松之が注をつけたわけ
んで、陳寿が三国志を書いた時期が西暦280年とする根拠を教えてくれよ
邪馬台国は奈良にあったと主張する連中の根拠=平城京があったから
こじ付け以外の何物でもない
>>264 記紀によると剣は出雲から取り上げたもの、鏡は九州から持ち込まれたもの、どれも畿内にもとからあったモノじゃないな
>>166 皇室は勾玉以外遠ざけてるだろ。遠ざけてるというより封印してる。
勾玉以外といえば新羅だ。皇室はある時から新羅系なんだよ。昔は三国連立政権だったのに。
>>265 あのなあ、そんなことしなくても、特に邪馬台国の事に関しては
正始元年(240)に、邪馬台国に行って帰ってきた
建中校尉の梯儁たちや
正始八年(247)に、邪馬台国に行って帰ってきた
塞曹掾史の張政たちから
直接報告を受けた、ほぼドキュメンタリー だぞ
そもそも陳寿が仕えた西晋の初代皇帝「司馬炎」は
三国志そのものである司馬懿の孫
魏志倭人伝には山海経やら淮南子やらの引用もある
有名な話のはずなんだが……
>>263 記紀引用しなくも
サヌカイトもあるね。
三重にも丹、
>>269 時代が近いのは当然だが、陳寿は240年代には魏に仕えてないので
ドキュメンタリーとはとても言えない
で、三国志が西暦280年に編纂されたとする根拠を教えてくれよ
適当なこと言ったなら、そう告白してくれ
なんか根拠があるなら知りたいというだけだから
>>267 そう、剣ならなんでもいいわけじゃない
草薙の剣という伝説の剣的な要素をでっち上げてるから神器になる
ほかの2つも同じ
3点セットが権力の象徴じゃなくて、記紀が権威付けに利用したアイテムが、みっつあったにすぎない
日本書紀「第九巻:神功皇后」に
神功皇后が摂政になってから39年、是年也太歲己未・・に
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」(西暦239年)
神功皇后が摂政になってから40年・・に
魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」(西暦240年)
神功皇后が摂政になってから43年・・に
魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」 (西暦266年)
と、ハッキリ書かれているのが畿内説の根拠です
むかーし纒向説というのがあったが今頃どーしてるんだろうな
お前ら捏造体質卒業しろキチガイども
頭おかしいのかお前らは
三種の神器の話は面白いな
鏡は日本人が異常なくらい尊重してる宝物
中国や半島では鏡はただの鏡でしかない
こんなに重要な宝物扱いしてるのは日本だけ
これを見ても日本の勢力が中国や半島と違う勢力なのが理解できるな
実務の卑弥呼とファンタジーの天皇
問題は今の歴史がファンタジーに乗っかってること
だから邪馬台国はロマンでなければならんのです
三種の神器は関係ないよ。
親魏倭王の金印が出てくるかどうかが焦点。出てくれば世紀の大発見。
>>276 いいか
8年 漢皇帝の劉氏から天命に基づいて禅譲を受けたとして王氏が自ら皇帝に即位、「新」を建国
14年 出雲から倭人が兵船百余隻で新羅の海辺に侵入
25年 王氏に滅ぼされた漢王朝の皇族「劉秀(光武帝)」が漢を再興し「後漢」とする
57年 倭奴国が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜る
中国後漢の第12代皇帝「霊帝」の光和年中(西暦178~184 年に相当)に「倭国大乱」が起こった
ここら辺までは、先人からの伝承だろう
>>279 神功皇后は4世紀
卑弥呼は2世紀末~3世紀前半
人違い
ストーカー行為はやめてください
親魏倭王の印は仮授されたもので
与えられたものじゃ無い
あれは中国へ返還されてる
日本には無い
>>286 邪馬台国じゃないからそれはない
ただし連合国であったことは確実だから、卑弥呼の鏡を1枚でもおすそ分けされてたら大発見
あと魏志で下賜されてる物に五尺の刀がある
中国的にはこっちの方が鏡よりも格上だけど日本人が鏡を欲しがるからなのか100枚も上げてる
わざわざ「お前たちの好きな物」とか言ってくれてる
皇帝も「なんでこいつら鏡なんて欲しがってんだろうなぁ」と思ってだろうなw
なので鏡と刀という組合せは「日本人の尊重するもの+中国で価値のあるもの」という二つのセットで王権のシンボルとして説得力がある
>>1 まだやるの?適莫爾解だぞ?
チャックマクニケーwwwww
しかし、その後は、参考にする文献など必要無い実体験
204年 公孫氏が韓と倭を制圧して帯方郡とし、朝鮮半島南半から北部九州の漢委奴国王の倭奴國までの統治体制を築く
207年 公孫氏が曹操へ恭順し、自らが支配下に置くのは遼東と、遼東の南の楽浪郡と、そのまた南の帯方郡と、そのまた南の韓とそのまた南の倭だと述べ、曹操から襄平侯・左将軍に任命される
同時期に司馬氏も曹操へ出仕して、曹操の息子の曹丕に仕える
220年 曹操が死去すると、息子の曹丕(文帝)が魏王に即位、後漢の献帝に皇位の禅譲を迫り魏の初代皇帝になる
226年 曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると、司馬氏は、その長男の曹叡(明帝)を皇太子に立てて皇帝に即位させる
235年 司馬懿は三公の一つ太尉に就任し、魏の軍事面でのトップとなる
魏志倭人伝に桃は出てこない。
ところが、大量の桃の種が見つかったことから、ここが邪馬台国だというのが畿内説。頭おかしい。
>>290 ストーカーって何だよwwwww
言わせとけばいい
237年 司馬懿と同じく曹操に仕え、曹丕が京兆王曹礼を後継ぎにしたいという考えを持っていたことを知る公孫氏は猛反発し、ついに燕王を称し、曹叡(明帝)と司馬懿からの独立を宣言し、韓と倭を掌握して玉璽を与え、挙兵する
238年 曹叡は司馬懿に全権を託し4万余の兵を与え、公孫淵征伐を命じ出兵し、公孫氏は滅亡して燕の残党は対馬伝いに倭、つまり九州の「漢委奴国王」倭奴国(筑紫城)に敗走
同時期に出雲から、奈良の邪馬台国の卑弥呼の使者が帯方郡に現れて魏の皇帝に朝貢
239年 曹叡が病床に伏し、死期を悟った曹叡は、幼年8歳の皇太子の曹芳の補佐をすることを司馬懿と、皇族の曹爽に命じて崩御
240年 帯方郡太守「弓遵」が親魏倭王の詔書、印綬を持たせた建中校尉梯儁等を出雲ルートで邪馬台国に派遣
243年 曹芳が元服し、建中校尉梯儁等の帰国に際して卑弥呼が再び魏に出雲ルートで使者を派遣
247年、魏が韓を滅亡させて帯方太守王頎到官。朝鮮半島の直轄化が完了
奈良の邪馬台国の卑弥呼から狗奴国、つまり燕の残党が逃げ込んだ九州の「漢委奴国王」倭奴国(筑紫城)と戦争状態だと報告されて、塞曹掾史の張政等を出雲ルートで派遣するも卑弥呼が死去
>>296 この日本書紀、フリガナふってあるじゃん!!
249年 司馬懿がクーデターを起こして曹爽一族、一党を追放・誅殺
曹芳は司馬懿を丞相に任じ、これ以降の魏は事実上司馬一族が支配する
254年 司馬師が曹芳を魏の皇帝から廃位させると
司馬師の反対を押し切って郭太后が曹髦を第4代皇帝にする
260年 皇帝曹髦が司馬師打倒のために挙兵するが、司馬師の腹心により殺害され、曹奐が第5代皇帝に即位
265年 司馬炎が曹奐から禅譲を受け晋を建国し、晋の初代皇帝となり、魏は5代45年で滅亡
266年 塞曹掾史の張政等の帰国に際して台与が出雲ルートで晋に朝貢
280年 晋が呉を滅ぼして、三国時代を完全に終焉させて
陳寿が、後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う
「魏志(魏書)」30巻、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る『三国志』を編纂する
福岡県遠賀川河口域の山鹿貝塚で3500年前の埋葬人骨が20体以上出土しており、
緑色大珠を持った2号・3号・4号の女性人骨は呪術師兼女族長であったとしている。
サメの歯のイヤリング、翡翠勾玉、貝の腕輪十数個、垂れ飾り、足飾りを全身に付けていた。
縄文人の女性が装身具を多数身に着けて埋葬された事例は全国でも極めて数少なく、縄文社会の構造について一考の余地を与えている。
🐪ラクダで来れるぐらいの近所にいたんだろwwwww
>>289 それは先人からの「伝承」というより、後漢の史料の丸写しだろ
後漢は史料を編纂していた
それが東観漢記
この編纂作業は霊帝時代で終わってしまうが
献帝の時代については、同時代人が「献帝紀」やら「献帝起居注」などしてまとめている
鏡を尊重する価値感はその後に西日本へと伝播してる
この動きは「九州で鏡が廃れて西日本に新式完形鏡出てくる+畿内で独自の鏡の作成も始まる」
と言う変化がセットになってる
九州が中国との外交をする力を失い、瀬戸内海方面にその外交をする勢力が出現したことが見て取れる
生活様式、墓制やそのほかの面は一切伝播してないので、
鏡と言う海外からしか手に入らない物が西日本の物になった
逆に九州は生活様式から祭祀、墓制まで瀬戸内海方面の文化に塗りつぶされていく
邪馬台国の前段階で外交の中心が瀬戸内海方面に移った事が考古学的に理解できる
>>304 生産地のデータだろ
北へ移動と思うが?
それどころじゃないの?
>>297 >しかし、その後は、参考にする文献など必要無い実体験
アホかって
陳寿は後漢にも魏にも仕えたことがない
生まれたのも230年代だ
>同時期に司馬氏も曹操へ出仕して、曹操の息子の曹丕に仕える
いや、司馬朗はそのずっと前に仕官しているし
司馬懿が太子時代の曹丕に仕えたのは、お前の言う時期から10年後
>226年 曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると、司馬氏は、その長男の曹叡(明帝)を皇太子に立てて皇帝に即位させる
司馬懿より曹真、曹休、陳羣の方が席次が上
>>297 その帯方郡ベースに記録がされてるのがよく指摘されるけど、その辺はどう解釈してるの?
明らかにそこに本拠を置いた公孫氏による記録の引用なんだけどな
>>300 死んだあと返したなんて書いてないぞ
仮すには許すの意味もある
>>317 オレ様読みなんてどうでもいい
仮授なんだから日本には無い
琉球語で日本をヤマトゥと言う
ヤマトゥの当て字が邪馬台
>>318 オレサマ読みをしてるのはお前だろ
どこにも返したなんてなんて書いてない
そもそも卑弥呼が死んだ後に使者は伊都国まできてる
取り上げるつもりなら、このとき取り上げてる
そこで卑弥呼宇宙人説ですよ
かぐや姫は卑弥呼の伝承だった
>>278 つまり魏に勾玉を献上したのは纏向では無かったと言えるのでは無いだろうか?
207年に司馬懿が曹操へ出仕した後の話は
倭人伝や韓伝を含んで
西晋の初代皇帝の司馬炎の爺ちゃんの司馬懿が
曹操の息子たちといかにして倭や韓を従えて中国を統一したか
という武勇伝で、先人の言い伝えなんかねーのよ
>>319 邪馬臺の古代の発音をひもとくと時代とともにヤマダ → ヤマドゥ → ヤマダイという風に変化していくうえに
畿内ヤマトですら隋唐時代にはヤマダイみたいな発音だったぽいという
金印の金の含有率って大昔の技術でできるの?
金印は全部偽物ってことはない?
じゃあやっぱ多分御井の筑後国府跡だな
金印が眠ってるのは
宇佐神宮の神輿には鏡が飾られている
魏志倭人伝による倭国の政治的出来事
①倭国大乱
②卑弥呼女王共立(AD180年前後)
③狗奴国との戦争
④卑弥呼死去(AD247年頃)
⑤男王を立てるも内乱勃発
⑥台与女王共立
そして「やっと」平和になった(AD266年頃)
畿内説の主張内容はすべて無関係な作り話です
>>328 何にせよ当て字で3文字だから、3音発音だったのは間違いない
もしヤマタイだったら邪馬多伊みたいになる
邪馬台国は日本の歴史には繋がらないだろ
ムキになって調べるほどのことではない
倭人とはおそらくワ族
今は雲南省ミャンマーに追いやられたが当時はまだ東南アジア方面に追いやられてはいなかった
>>334 とんでもない
ヤマト政権の全国統一時期が何十年、ヘタしたら百年ぐらい変わる
魏略など中国史書には、倭人は呉・越の末裔だったと記されている
一口に倭人と言っても2つのグループが存在する
直接九州に上陸したのが魏志に出てくる倭人であり、
半島で混血したのち山陰あたりから入植したのが畿内を含む東の倭種の国の倭人
>>283 中国では、道教の伝統の「三宝(鏡・剣・玉璽)」が、儒教の式典に取り入れられていった歴史がある。
とくに鏡には呪術的な力があるとされ、貴人の墓の副葬品として古来よりマストアイテム。
皇帝の継承の儀式においては、玉璽がマストアイテム。
倭人とは
一升瓶を持って
ワ(車座)になって平和をかたる人種
>>337 その宗教流行ってるの?
ヤマト政権の全国統一時期?
7世紀末だよ
石棺の中の死体が着ている服に「ヒミコ」って書いてあればもう確定だな
筑後国府は怪しい
下に何かあったのを隠すためにあそこに国府を作ってる
つまり下に何かある
>>333 そう言うことじゃない
aiみたいな読みは古代日本語には存在しない
>>332 それな
倭国大乱後に、分離独立。
しかし、狗奴国が許さず抗争。
卑弥呼が死んだら、
1)狗奴国が攻めてきたが、王だとまとまらず負けが続いて壹与女王へ
2)邪馬台国内で内乱となり、壹与女王をたててまとめた
と、読める。
金印の金の含有量って江戸時代の大判小判より高いらしいがそんなことありえるのか?
>>326 いや、王沈の魏書があるだろ
正元中,遷散騎常侍、侍中,典著作。與荀顗、阮籍共撰《魏書》,多為時諱,未若陳壽之實?也。
古代日本語には母音が続く読みが存在しない
これは非常に強い法則で
例外がほとんどない
Yamataiと言う読みはあり得ない
>>341 大化の改新は7世紀の中盤だぞ
すると蘇我氏の台頭が7世紀始め
もうそこにヤマトタケルの建国苦労話などカケラもなく、とっくにヤマト政権内での権力闘争に移ってる
>>344 魏志倭人伝に倭人が発した「姶(ハイ)」という承諾を意味する言葉が記載されている
>>348 九州の方言だとありそうなんだが
「ヒミコすんどっとどこ?」
「やまたい」
>>351 古代日本語には母音が続く読みが存在しない
これは非常に強い法則で
例外がほとんどない
Yamataiと言う読みはあり得ない
九州には他にもいろいろな国があった
邪馬台国も吸収だよ
>>344 大工→でぇく
帰る→けぇる
ない→ねぇ
>>352 江戸時代の方言でさえ地域差で外国語並みに通じないのに
古代日本語は統一されてたん?
孫権が目指した徐福の亶洲。夷洲。
東鯷人と倭人。
倭人は、呉、越、燕の姫氏系?
徐福の亶洲、東鯷人って、余り話題にならないよね。
yama-to → yama-ti → 邪馬台
Qeshqer → kā-shén → 喀什
中国人の当て字はこんなもん
>>357 デマは犯罪ですよ
持論を語る時は語尾に「と思う」と付けておけ
邪馬台国は山大国
大国…邪馬台国は奈良律令制の原型
信仰…出雲の「大国」主
古代人は中央集権を避けていた時期がありそれが邪馬台国の時代だった
しかしめんどくさいからやめたのだ
反論あるなら学術的かつ論理的にやってね
レッテル貼りは学問ではない
>>358 体育をどう読む?
タイイクか?
タイクじゃないのか?
>>350 騙されるところだったわ
巧妙なウソつくな近畿パーはw
>>323 つまり、吉備、東海、四国、近畿は
復興や開拓と思うんだな。
支配とか、中心国とはなり得ないと思う。
近畿
>>361 お前もやるなよ
鬼道とは降霊術のこと
鬼とは幽霊のこと
倭国を統一出来る→強大な軍事力
強力な武器になる鉄器文化は九州北部が早く九州阿蘇などが鉄器生産の中心
神武東征とも符号する
ヤマトゥ国は西日本全体30ヵ国連合体であり
日巫女は女性に与えられる祭祀の役職で一国一地域にいた
↑
これが現状に近いと思うが
>>361 倭は多分我のことだろな
「お前自分達のことなんて言うの?」「ワだが何か?」
こんなんだろ多分
>>360
下戸與大人相逢道路 逡巡入草
傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾
「下層階級の者が道路で貴人に出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る(=道を譲る)。
言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付けうやうやしさを表現する。
貴人の返答の声は『アイ』という。(中国で承知したことを表す)然諾と同じようなものである。」 ぶっちゃけ倭人て北東アジアから渡来してきた人たちだよね
東アジアからの渡来は古墳時代になる頃
その頃大陸で何があったのかな
>>234 それは弥生時代に鉄器が出てないんだから、当たり前じゃね?
後漢の頃の剣と、鏡、玉が出た4世紀の古墳ならあるけど
>>373 卑弥呼とかいう漫画が唱えてるリチャードウーの説やん
>>339 実際にこの当時の中国や朝鮮半島の墓地を見ると鏡を尊重してる様子はない
あくまでも姿見としての役割りしか見てないのが分かる
王の墓になく、周りの妃の墓にたくさん見つかるなど日本と全く様子が違う
ましてや一人の墓に大量に埋納するなど明らかに扱いが違う
この事から日本人にとって鏡と言うのが他の地域と全く違う扱いを受けていた事が読み取れる
>>377 誰が言ったか知るかバカ
倭国は何十国もあったんだから
自分達のことは何と言うと聞かれたらワと答えるしか
無かったんだろ当時は
中国では鏡の副葬に殆ど意味がないので鏡の研究をあまりしてない
日本での出土状況を見て鏡が日本で重要な扱いを受けてると知ってから研究が盛んになった経緯がある
これも中国の鏡が大した扱いを受けてなかった事のあらわれ
福岡県に耶馬渓って地名があるんなら北部九州で決まりやろ(・ω・`)
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
しかし奈良には鉄器が浸透していません。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
卑弥呼時代の鉄器文化圏
西南戦争
日本国最後の内戦。
西郷隆盛が挙兵した戦いで、武士の世に終止符を打った戦い
>>313 魏を建国したのは曹丕の家臣の司馬懿と
その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡(明帝)
魏を建国したのは
曹丕の家臣の司馬懿と
その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡(明帝)
邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王にしたのも
曹丕の家臣の司馬懿と
その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡(明帝)
吉野ヶ里遺跡…何としても九州説になぞらえ為無理してつくった虚構の遺跡と呼ばれているのは公然の秘密…
>>364 続き、九州に東海や近畿系等の土器出土は
移動によるもの、ト骨の風習もそうと思う
乱の原因のひとつに人の移動ではないか?
食糧問題も生じる。
>>279 720年に書かれた更に400年前の事項に関する記述が根拠なんですか?
>>390 まだ大したもん何も出てない
何をビビってんだよ畿内説
魏を建国したのは
曹丕の家臣の司馬懿と
その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡(明帝)
倭奴國の漢委奴国王(男王)に代わって
邪馬台国の卑弥呼(女王)を親魏倭王にしたのも
曹丕の家臣の司馬懿と
その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡(明帝)
>>59 歴史を自分の思う通りにねじ曲げたい九州説工作員が暴れてるだけだよ
>>386 又、これ?
近畿、出雲、越、関東まである。
決めつけはよくないね
なんで機内説の人ってそんなに頭が硬いの?
どう考えても邪馬台国は九州じゃん
5ch常駐の畿内説工作員↓
397:ウィズコロナの名無しさん:[sage]:2023/06/01(木) 17:27:28.82 ID:pUXH/hVm0
>>59 歴史を自分の思う通りにねじ曲げたい九州説工作員が暴れてるだけだよ
>>400 どうして魏志倭人伝を無視して北上しようとするんだよ
>>394 否定できる文献が無い
唐が書いた唐は『隋書』にも
小野妹子を派遣した大和政権の都は、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)であると書いているし
>>398 重視してない
上で書いた通り
中国の宝物は玉璧
鏡はただの姿を見る道具でしかない
また宝石とか真珠とかは当然あるがヒスイの勾玉など重視してない
出土状況を見ても鏡など全く重視してないのは明らか
>>400 北陸のデータとホケノ山古墳の副葬品を足しても何の足しにもならなかった
このデータだけでも弥生末期までの交易が密な領域は十分見て取れる
>>386 九州の鉄器文化が近畿の銅鐸文化(3世紀で終わり)を破壊した
これだな
>>401 だってヤマトは奈良しかないんだもん!もん!
これが畿内説の唯一にして絶対の理屈
記紀に紀元前頃引っ越してきたと書かれてたり地域の地名が他所とそっくりなことはあーあー聞こえない
>>403 無視していないよ。
東や東北に関しての記述はない。
其餘旁國遠絶 不可得詳の国々は定かではない
たんに東に海渡りは確定できない。
使者が確認したなら里数表示がある所
なら、壱岐から東の国々になる。
>>396 ぼくのかんがえた妄想三国志を炸裂させるのはやめてくれ
魏の建国時には司馬懿以上の重臣が山ほどいる
明帝即位の際も司馬懿以上の重臣が3人いるので
司馬懿が明帝を即位させたというお前の陰謀論もここで潰える
>邪馬台国の卑弥呼(女王)を親魏倭王にしたのも
>曹丕の家臣の司馬懿と
>その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡(明帝)
別に曹叡は隠された存在でもないし
そもそも親魏倭王に任じた頃、曹叡は即位してすでに10年以上経っている
曹叡は創業者でもないにも関わらず、内政と軍事の両面で滅茶苦茶リーダーシップのある君主
まるで司馬懿が魏を操っていたかのようなお前の書きぶりは皆目見当違いとしか言えない
>>411 東や東北の記載がないだけじゃない
はっきり南と書いてる
伊都国も女王国だから、伊都国よりも東の海の先だな
弥生時代の鉄器は完全に過大評価されている
「鉄器」と大雑把にまとめているがその内実は
手斧、槍鉋、細工のための細い棒、鏃
これが弥生時代の鉄器のほぼ全て
「農具」と称される物は弥生時代後期になってようやく鎌が出てくる
そして開墾道具である鋤や鍬は弥生時代後期後葉でもう古墳時代に突入する直前
この道具は使われた痕跡が無く、数も少ない
更に言うと弥生時代の鉄の武器は大変稚拙な物でハッキリ言って武器にならない
薄くて刃とても実用に耐えない物でしかない
弥生の鉄器は石器の代替に過ぎず「鉄があるから凄い」はまったく成りたたない
九州に分布が偏るのは石器の材料の中心地である四国東部などと直接的な交流をしてないからだと考えられる
「鉄が凄い論」はハッキリ言って研究が全く進んでなかった昭和の発想だと言って良い
>>405 畿内説の中でも神功皇后=卑弥呼説はトンデモ扱いされてるやで
魏を建国したのは、
後漢の献帝から帝位を強奪した曹操の息子の曹丕と
曹丕の家臣の司馬懿
曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると
その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡を
魏の第2代皇帝(明帝) にしたのは
曹丕の家臣の司馬懿
曹操から襄平侯・左将軍に任命されてた公孫康一族を
女子供まですべて滅亡させ
倭奴國の漢委奴国王(男王)に代わって
邪馬台国の卑弥呼(女王)を親魏倭王にしたのは
曹丕の家臣の司馬懿と
その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡(明帝)
国産の鉄を実用化した多々良製鉄の出雲国の存在がカギを握っていそう
倭にしても和にしても争いを避けたい意図が読み取れる漢字を選択している
戦のない国それはつまり天国
そして神道では先祖=神であり日本人は神の子孫といえる
高いものと言えば山しかない未開の地をこの世の天国にしたかった先祖たちの意志を汲むのだ
やまとは国のまほろば泣けてくるだろう;-)
>>405 ヤマト王権が確立してからの中国の史書は、その後書かれる日本書紀の内容の元になっているヤマト王権の考えに影響されているだろうから、それを言うなら記紀の内容を根拠にすれば良い
つまり、たいした根拠にならない
>>419 神武東征見るとどう考えても和の種族じゃないだろ
全員倒した蛮族の王
>>417 南至邪馬台国だ
東至でも北東到でも北到でもない
>>414 弥生期の鉄器は意外と凄いんだよ
富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭~後期前半)
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された
>>413 其餘旁國遠絶 不可得詳の国々は南にあるのか?
九州で鉄器が当たり前だったころ、纒向は何をしていたのだろう
弥生時代末期「ムラのナイフ工房」跡か 長崎で見つかる
https://www.asahi.com/articles/ASN2674JRN26TOLB001.html >>421 そのとおり
反逆者に対する処分が甘いから何度でも内乱が起きる邪馬台国
服従か虐殺かの2択を迫るのヤマト政権とは別モノ
日向に降りて東に進んで出雲倒して奈良で建国しました
これヤマト王権は渡来人だろ
>>423 へー凄かったんやね
やっぱり鉄鉱石は輸入なの?
製鉄といえば越
影響を受けているのかは気になる
>>424 そう書いてるじゃないか
女王国の限界より以北はわかるが、南は分からないと
>>422 行っていないので投馬国同様、出発方向のみ
詳細など書けない、官名と戸数
の紹介となっただけだよ。
なんら魏志倭人伝とは矛盾せず。
卑弥呼が九州にいるのだから行く必要性もない。
>>418 これもよく勘違いする「鍛冶遺跡」「製鉄遺跡」とかの混同と同じ
弥生時代には製鉄どころか鉄をまともに加工するような技術もほとんどない
大半が「鉄くずを研いで刃を付ける」「温めて適当に曲げる」とかその程度しかできてない
こんな程度の技術で鉄器が世の中を変えたとかいう方がおかしい
たたらは考古学的にはもっとずっと後の古墳時代の吉備から
魏を建国したのは、
後漢の献帝から帝位を強奪した曹操の息子の曹丕と
曹丕の家臣の司馬懿
曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると
その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡を魏の第2代皇帝(明帝) にしたのは
曹丕の家臣の司馬懿
曹操から襄平侯・左将軍に任命されてた公孫康一族を女子供まですべて滅亡させ
倭奴國の漢委奴国王(男王)に代わって
邪馬台国の卑弥呼(女王)を親魏倭王にしたのは
司馬懿が魏の第2代皇帝(明帝) にした曹叡と、
三公の一つ太尉に就任し、魏の軍事面でのトップとなった司馬懿
後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う「魏志(魏書)」30巻、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る『三国志』を、陳寿に編纂させたのは
第5代皇帝「曹奐」から帝位を強奪して
魏を5代45年で滅亡させて晋の初代皇帝になった
司馬懿の孫の司馬炎
実際に「鉄器が出た」と言う物の内容をよく精査してみると良いだろう
言った通りの石器の代替的な物しかない
武器なども言った通り稚拙な武器として用をなさない物しかない
ましてや「世の中を変えた」とかいわれる開墾道具など「日本で20例くらいしかない」
世の中を変えたはずの鉄器がこの程度の出土数の時点で実態が分かるだろう
イメージ通りの鉄器の活躍は古墳時代になってから
>>434 「南至邪馬台国だ」
「南至だよ。南到ではない。」
>>435 弥生時代までは鉄製品は輸入に頼ってるからね
出来合いの鉄製品を輸入しやすい立地が有利なのは当たり前なんよ
製鉄遺跡はもうちょい後の時代にならないと見当たらんし
多分魏からのルートでは入ってきてない(もしかしたらあるかもしれないけど聞いたことがない)
>>433 帯方郡の東南の海の先にあるとも書いてるな
>>435 隕鉄かもよ
福岡県須賀神社の神体は隕石
日本の少ない地域で隕石信仰があったのは事実
>>1 見んでんき?
じゃなくて、皆んな、んでんき
>>441 東南海にちっさな点があるわけではないよな
横長の倭があるんだよ
そこへ向かって南へ南へと進めば邪馬台国があるわけ
その邪馬台国の位置は倭の西部なわけよ
未だに意味わからないのか?
そもそも「弥生の鉄器」と言うのはまだ研究もほとんど進んでない段階で「ヒッタイトをイメージした」ものをそのまま持ち込んだだけ
実際に弥生時代が紀元前1000年くらいになると分かったら鉄器など一切なくても農耕が広まってる事が明らかとなった
そして実際の鉄器の出土と鍛冶遺跡の数を見ればその総数も実態も最早大した意味を持たない事も理解されている
そもそも青銅器の材料も国産でないのだから入手の経路は同じ
西日本は周知の通り大量の青銅器を生産しており手に入れようと思えば鉄も当然手に入る
だが優良な石器の生産地を抱える西日本は興味を持たずに青銅を入手している
九州は石器の素材の中心地である四国東部との関係が薄いために仕方なく鉄器を代替にしている様子が見える
弥生時代は「木と石の時代」であって鉄器の活躍は古墳時代から
日本が積極的に半島に影響を拡大しようとしたのは鉄を入手するため
たたらが成立するころになると興味を失う事になる
>>436 だからウソをばらまくなっての
明帝即位の時、司馬懿の序列は4番手
あと、三国志を陳寿に編纂させたのは司馬炎っていうのは何を根拠に言ってるのか教えてくれ
司馬炎の時代に編纂されたのは事実だが、司馬炎が「編纂させた」という根拠ね
弁→鉄が多い
韓→朝とは違う
馬→馬が多い
韓→朝とは違う
辰→貝が多い
韓→朝とは違う
>>441 まあ、当方には邪馬台国が首都とか
威信材が豊富とかの決めつけはない。
共立されたのは卑弥呼であって邪馬台国ではない。都とする所でいたに過ぎない。
もしも邪馬台国の場所を外したらしねるか?いやしねないよね
それくらい無責任な発言広場だからイキっても仕方ないよ
>>447 伊都国の南が、なぜ倭の西部になるんだ?
もっと西に末盧国があるぞ
>>452 女王国の都は邪馬台国
したがって女王国の中にある
倭種の国にはないな
😢ゐたたまれない…
香港戻ってもイギリスの奴隷
共産のままでも奴隷
満州語使ったら?
>>452 まず中国に倣って首都を作ろう、と決めたのが平城京やろ
その更に300年400年前は首都って概念ないだろう
>>440 倭人は朝鮮半島から鉄を入手している事が書かれてる
これも製鉄じゃなくて再加工のためのくず鉄
実際に出土する鉄の状況から再加工品がほとんどなため状況が分かる
半島は鉄を手に入れるための場所だったために鉄が本当に活躍する古墳時代になると大和朝廷は盛んに半島に進出する事になる
しかしたたらが始まるともはや意味を無くしかなり消極的な関係になる
>>446 あー、男もおちんちん付いてないもんね
😂🙊🤣
>>462 どこにもそんなことは書いてない
女王国の東の海の先が、倭種の国だ
吉野ヶ里の期待値は30%くらいある
日田が20%
宇佐が15%くらいだな
曹操の息子の曹丕と、曹丕の家臣の司馬懿は
後漢の献帝から帝位を強奪して魏を建国する
曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると、曹丕とともに魏を建国した司馬懿は
その存在を一部の人しか知らなかった曹丕の長男の曹叡を魏の第2代皇帝(明帝) にする
そして
司馬懿が魏の第2代皇帝(明帝) にした曹叡と、
三公の一つ太尉に就任し、魏の軍事面でのトップとなった司馬懿は
曹操から襄平侯・左将軍に任命されてた公孫康一族を女子供まですべて滅亡させて
公孫康から玉璽を受けてた倭奴國の漢委奴国王(男王)に代わって、邪馬台国の卑弥呼(女王)を親魏倭王にする
そして司馬懿の孫の司馬炎は
第5代皇帝「曹奐」から帝位を強奪して
魏を5代45年で滅亡させて晋の初代皇帝になって、陳寿に
後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う「魏志(魏書)」30巻、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る『三国志』を編纂させた
石棺墓の回りには数多くの人らしき棺も発見をされている。これ来るで~
中国人韓人を古代ギリシャに差し出したから
日本は助かったんじゃないの??
>>464 まあ、淡路島で鉄に変わる。
滋賀でも鉄も出土、朱の生産
素環頭大刀でさえ四世紀後半
卑弥呼の頃の日本に鉄なんかねえよ
>>468 九州とは書いていないけど?
候補、四国から紀伊半島
紀伊半島から東海、
伊豆から千葉
丹後から越、
とある
>>464 鉄と青銅では全く必要とされる技術が違う
青銅は融点が低く700℃程度で溶かすことができる
鉄はその倍以上の1500℃
これだけの高温を出すことのできる炉の作成など当時の技術では困難
>>463 鍛冶遺跡と製鉄遺跡では、構造がまるっきり違うからね
>>477 狗奴国、毛野国(栃木)せつもあるから否定はしきれない
モモソも喜んどるわ!あそこに箸が刺さって死んだ人間が卑弥呼とか何を言うてんねん。
ふざけんな、無能がざまーw
鉄の武器は鉄鏃
鉄鏃の出土は九州のが多い
倭国大乱は九州だろなあ
だったら大乱によって卑弥呼が共立されたのも九州だな
日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本。百済、新羅、高句麗は倭国」
>>478
>これだけの高温を出すことのできる炉の作成など当時の技術では困難
鉄器王国「阿波」のⅠ類鍛冶炉のことか? わははははは @阿波 稲作の日本伝来は縄文時代
他国との行き来があった以上
卑弥呼の時代にはそれなりに進んだ文明があったと思うほうが自然
鎌倉幕府の北条氏と戦国時代の北条氏は別みたいなもんだろ、ヤマトと邪馬台国は
仮に邪馬台をヤマトと呼ぶバカ読みするならだけど
>>482 出雲、越、丹後、兵庫にもあるけど?
九州は貿易の要じゃないの?
>>470 後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う「魏志(魏書)」30巻、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る『三国志』
は、
第5代皇帝「曹奐」から帝位を強奪して
魏を5代45年で滅亡させて晋の初代皇帝になった
司馬懿の孫の司馬炎の【正統性】のために編纂されたのよ
>>485
>稲作の日本伝来は縄文時代
伝来などしとらん! 日本では「阿波」で稲作発祥だ。 @阿波 >>364 支配とか中心国とか全然思ってないから
一年に一回各地の王たちが伊勢遺跡に集まって酒でも飲んでたんじゃないの?
日本は淡路島から出来たと神話に書かれてるだろ
邪馬台国=ヤマト王権だとして、九州説と海上説を否定したら、機内じゃなくて淡路だろ
>>496
>日本は淡路島から出来たと神話に書かれてるだろ
それは、忌部の郷、日本一の中州「粟島」だ。 @阿波 この当時の九州は以下のようになっている
①新式の完形鏡が一枚も出ず?製鏡、古い時代の鏡片しかなく鏡が出るのは4世紀以降の古墳出土
②絹は最盛期の13遺跡から激減し1遺跡から麻布よりも粗雑な物が出るだけ
③福岡を中心とした勢力は消滅し最早まとまりが無くなっており、現代までまとまりのある勢力など出現しない
④鉄器は稚拙な石器の代替品に過ぎず優位性など全くない
⑤生活様式、祭祀、墓制の全てが畿内からの影響に塗りつぶされそのあと独自性を取り戻す事はない
これが九州の考古学的な実態
なぜか「先進の巨大勢力がいたお宝ザクザクの土地」とか妙な思いこみをしてる人が多いのが謎
>>496 日本書記で、イザナギとイザナミの國作りとして象徴的に記されている、大和政権の征服進路は
天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神がいる
高天原(紀伊半島)
↑『魏志倭人伝』の『真珠』の産地
淡路島を足掛かりにして
四国
↑『魏志倭人伝』の『丹』の産地
隠岐島(出雲)
↑『魏志倭人伝』の『青玉』の産地
九州・壱岐島・対島
↑日本武尊の熊襲征討
佐渡島・本州
↑日本武尊の東国征討
>>446 だって、日本が奪ったからこんな貧しい国だったんだ!!
恨む!💢
違うぞwwwww
セーケイ人?
国生みの順序には何か意味あるのかね
淡路四国隠岐九州壱岐対馬本州だが
>>1 アイドル女優タレント俳優モデル
芸能人は性奴隷になるだけの簡単なお仕事です
>>499 それさあ、5ch畿内説という作文じゃん
読んだ事あるよ
九州邪馬台国は266年を最後に消息が途絶えてしまいました……
近畿パーは精神病
近づくとキチガイが移るのでみなさん注意しましょうね
聖徳太子が複数の人間の集合エピソードだとするなら
邪馬台国も複数の国の集合エピソードなのかもしれない
とすると主な邪馬台国主張はどれも正しいのかもしれない
>>506
>淡路四国隠岐九州壱岐対馬本州
それは、忌部の郷、日本一の中州「粟島」だ。 @阿波 聖徳太子はお墓(円墳)あるが
あれは集合体の墓なんか
大半の敗者は嘘を吐き続ける事で何とかなると思っている発達みたいなもん
>>518 聖徳太子という人物像だろ
厩戸皇子が全部やったわけじゃないというのが最近の定説
>>514 時代や場所もバラバラだけども倭人に関する記述をあちこちから探してきて全部詰め込んでる可能性はある
九州倭国はずっと存続し続けてるんだよ
一応正統だからね
近畿日本は九州倭国が滅ぶのを辛抱強くまったんだよ
むしろ助けさえした
白村江で九州の倭王が唐に捉えられたんだが
近畿日本の骨折りで許して貰って倭国に返してもらった
九州倭王は実に一時近畿日本の臣下になっている
天智天皇が即位をあんなに送らせたのも
結局九州倭国がハッキリと滅ぶのが確定するまで待ったからなんだよ
>>514 歴史が変動する時は一人で一遍に改革するもの。アイデアマンは常に斬新なアイデアを
出し続けるから。
凡人は平凡なことしかできない。
>>514 まず中国の史書は邪馬台国は大和で九州は属国だと明記してる
そして考古学的に見てこの当時に纏向を中心とする畿内の影響力が全国に拡大し時代を追う語事に強まっているのが分かっている
なので「どこか分かりません」などと言う場所ではなく言うまでもなく大和
最初から論争も何も存在してない
ただ九州、瀬戸内海、関東に至る広域の連合体なので「邪馬台国的な物」はその全領域で見つかる
その点では各所に痕跡があるのは当然だと言える
>>524 どこにそんなことが書いてあるんだよ
捏造畿内説
単にヤマト政権が「邪馬台」のブランドを乗っ取っただけだろ
近畿日本は簒奪者ではない。
近畿日本は当時の国際情勢ゆえの方便としてのギリギリのウソはついたが、簒奪者ではない。
つまり近畿日本は日本の正統な政権である。
これは非常に重要な事であるので、全ての日本人は確認する必要がある。
1 九州倭国は近畿日本へすでに事実上の禅譲を行っていた。
隋書
>開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。
これは奴国王。
>上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、
天は高天原=筑紫平野の邪馬台国であり、
日は近畿日本のこと。
>天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、
>日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。
これは奴国王が既に近畿日本へ事実上の禅譲を行っていた事を示している。
これは非常に重要な記述だ。
>高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
これが小野妹子が紛失したことにした「隋からの国書(実際は訓令書)」のことで、
倭人の代表は九州倭国であり、お前ら近畿日本は認めないと書いてあった。
2 九州倭国は基本自滅したのであって、近畿日本が攻め滅ぼしたのではない。
九州倭国は白村江の戦いで滅亡したが、この戦いに近畿日本は参加していない。
3 近畿日本は九州倭国に対して最大限の配慮を行なっている。
磐井の乱のとき、一気加勢に攻め滅ぼしても良かったはず。ところが敢えて許している。
むしろ磐井を筑紫の君と呼び、太宰府(倭京)を遠の朝廷と呼び、最大限の尊重をしていた。
中大兄皇子が即位をあのように遅らせたのも、即位を倭国滅亡まで待ったから。
このように可能な限りの配慮を行っている。
畿内勢力が広域の連合になったはだいぶ後になってからじゃねえかな
具体的には崇神が東西に四道将軍を派遣し始めてから後の話
>>237に加えて新規で佐賀平野も加わった
>>123 位置は吉野ヶ里よりも西
>>494 そうか、さんまの
パーでんねんが印象だったんだな
>>529 神功皇后だったり、雄略天皇だったり、崇神より後の人物がだいたい年代が定まってるのに?
>>535 崇神から畿内ヤマトの拡大が始まって
雄略の時代には西に66国、東に55国、海を渡って95国平定するくらいだったんだろな
日本の古代史に半島も関東もニッショクも関係ない。百歩を150メートルとするのは論外。
>>538 8世紀にできた古事記でも、ヤマトのことは「倭」と漢字を当てていた
大和の文字を当てたのは、それよりも後
>>520 蘇我氏の仕事だと思ってる。
その後権力を牛耳った藤原氏によって聖徳太子とかいう架空キャラの仕事だと歴史書に書かれ、
おまけに馬子とか蝦夷とか入鹿とかヘンな名前に改名され歴史に刻まれて
かなり可哀相な蘇我氏(´・ω・`)
聖徳太子展で法華経の写経みたがどう見ても同一人物の統一された書体だって
邪馬台国は大和、邪馬台国の南の狗奴国は大和川の南の河内、委奴国は猪名県だった摂津
狗奴国の官は河内彦、卑弥弓呼は大神神社の狭井の神さまのモデルだろう
>>542 歴史は勝者が書くからしかたない
邪馬台国も、ヤマト政権が利用できるところは利用しただろう
>>539 21代の雄略天皇が470年くらい
16代の仲哀天皇の皇后神功皇后が350年くらい
10代の崇神は?
>>528 安曇水軍は味方の裏切りで壊滅したのだぞ!
>>548 >>547と同じペースならどうなるんだろうね?
パーの由来は分からんが特に関西でよく使われるとかは無いな
パープリンとか造語作ったのは福岡人の漫画家みたいだし九州に馴染み深いのかもな
>>526 ①「神武天皇が筑紫城から大和州に都を移した」(新唐書)
②「アメノタリシヒコは用明天皇」(新唐書)
※日本側の記録を無視した中国独自の記載で中国が丸写ししてない事が明らか
③「アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じ」(隋書)
※実際に裴世清が来ており①の伝説はともかくとして大和の位置と魏志との関係を理解している
④「アメノタリシヒコは属国に一大卒を派遣して支配してる」(旧唐書)
⑤「伊都国には一大卒がいて各国を監視している」(魏志)
※④、⑤で九州は大和の属国である事が明らかとなる
⑥白村江戦いの当事者である唐が日本を滅ぼしたなど一切書いてない
⑦隋書のアメノタリシヒコとその後の平安時代以降の天皇まで系譜が繋がっており断絶など一切ない
⑧中国の皇帝が「日本は小国だが王も家臣もずっと同じで絶えてない」と称賛(宋史)
⑨時期的に考えて旧唐書の倭と日本は壬申の乱の事だと分かる
※⑥、⑦、⑧、⑨で九州王朝など微塵も存在しない事が明らかとなる
⑩日中ともに卑弥呼も台与も系譜に入れてない。神功皇后に付いても中国は卑弥呼の記事を一切書いておらず同一視してない
>>549 そもそも近畿日本は白村江の戦いに参戦してない
記紀の記述は前提から嘘松なわけで
参考にはならない
>>527 あのよお
隋書俀国伝に
倭国は邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である
つまり
大和朝廷は大和を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である
って書いたのは、国交が回復して、
大和朝廷から遣唐使がバンバン派遣されてる
唐だぞ?
>>526 そうだね
近畿パーただのウソつき野郎だからね
少なくとも唐会要には邪馬台国は九州だと書いてあるしね
アメノタリシヒコ(西暦600年)がアマテラス
つまりそれ以前は全くわからん
>>553 神武天皇が実在した扱いになってる時点で、読む気うせた
神武天皇は実在したという前提だな?
>>448 五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡
今からおよそ1,800~1,900年前の弥生時代後期に鉄器づくりを行っていたとされる、丘の上につくられた村の跡です。平成24年9月には国史跡に指定されました。
発掘調査では23棟の竪穴建物跡が見つかり、その内の12棟が鉄器づくりを行っていた鍛冶工房であったことがわかりました。100点を超える鉄製品をはじめ、多数の石製工具類なども発見されています。当時貴重であった鉄器をつくり続けた村として周辺の地域にも大きな影響力をもっていたのではないかと考えられています。鉄が貴重であった時代にこれほど多くの鍛冶工房が発見された遺跡は少なく、しかも同じ場所で100年以上も続いており、当時の社会の様子を知ることができる貴重な遺跡だとされています。
遺跡は国の史跡に指定されており、出土品は県の有形文化財に指定されています。
https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=757 >>556 何があのようだバカの猿
『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と近接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相見える。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。
>>555 結局、日本書記をやっかむ朝鮮人が九州説なんだよな
>>559 実際だね
紛れもなく
記紀は事績の捏造は好き放題やるが
人物の捏造はやらない
九州と近畿の間をとって
邪馬台国は岡山ということにすればいい
>>559 書いた通り
中国は日本の地理を正確に聞いており諸州の場所も理解している
その事も史書に詳しく列記してる
その上で裴世清が実際に行った記録を元に大和であると書いている
神武天皇の伝説の如何に関わらずに中国が大和が使節を往来させた場所である事が分かる
>>558 イミフ
アメタリシヒコは奴国王
天(邪馬台国)が任命して地上に垂らした(降ろした)彦(王)
つまり古代の大統領制のこと
邪馬台国の王が大統領で奴国王が宰相の関係
>>566 事実だね
紛れもなく
記紀は事績の捏造は好き放題やるが
人物の捏造はやらない
>>552 調べてみたら
バカの事をパーブ?パブとあったけど
>>565 なんで唐書が神武を語るんだよ
ナメてんのか
>>561 『隋書』は誰が書いたのか
唐です
唐の時代の倭国の都はどこですか
大和です
つまり
倭国の都大和は、すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。
>>567 アマテラスオオミカミは卑弥呼+トヨ
これは例外
だって神話上は卑弥呼は死んで無いから
隠れてまた出て来た設定になってる
>>573 こらこら猿w w
『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と近接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相見える。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。
>>574 神功皇后やモモソヒメでも怪しいのに、百億歩ゆずってアマテラスが実在したとしても、はるか昔の女だ
>>547 日本書紀での天皇即位年をグラフ化すると履中天皇以前が明らかにおかしい
1代12年で計算するとフィットする
それで計算すると崇神は西暦300年前後、神武は200年前後、
少なくとも唐会要には邪馬台国は近畿ではなく九州だと書いてあるんだからな
お前ら良く覚えとけよ
そもそも知らなかっただろ?w
スレを見た人が珍説ばかり見てると混乱するからな
史書と考古学を元にしたまともな話を教えておかないといけない
そういう人のために書いてる
リンクも入れておく
>>499考古学的な九州の実態
>>554「中国の史書における邪馬台国=大和であると言う記載」
邪馬台国論争など最初から存在してない
今の研究はいかにして大和の邪馬台国がどの様な物だったのかと言う詳細の研究がされている
>>576 百済、新羅、高句麗
3分の計と思う。仲たがいするので
任那を置く。妄想だな
>>580 アメノタリシヒコ(西暦600年)だっつってんだろうが
日本の歴史はここから始まる
>>588 自己レス
あ、みっともない
リンク間違えてる
>>553「中国の史書における邪馬台国=大和であると言う記載」
>>590 近畿パーはガチで精神病だよ
煽りじゃ無くて真性の精神病
>>592 違う
近畿日本の歴史は崇神から始まる
神武はなんちゃってだから
>>584 北宋(960年 - 1127年)時代に書かれたことより
唐(618年 - 907年)時代に書かれた正史のほうが正しい
邪馬台国って言えば卑弥呼だよな
卑弥呼の資料とか残ってたら面白いんだけどな
アマテラスとかヤマトタケルとかの資料がどこかに見つかったらめちゃ面白くなるのになかなかないよね
>>586 アマテラスという女神様に興味津々なんだよなw
邪馬台国なんか266年以降消息が途絶える国なのに
それが畿内ヤマトだったらなんでいきなり朝貢やめたんだ?
アメノタリシヒコ(西暦600年)がアマテラスなら伊勢神宮の創建時期と合致するだろ
>>597 当然、ありえない。
もうちょい後と思う
仮にあったとしてもアマテラスも神武も紀元前のエピソードですで終了
>>496 淡路島なんて書いてねえよ
淤能碁呂島だよ
>>606 その通り
その辺から歴史は始まったんだろ
卑弥呼は日御子・日神子
奈良の山大国王族の王子で九州に派遣されたのだ
めでたしめでたし
>>616 そもそも近畿日本は白村江の戦いに参戦してない
記紀の記述は前提から嘘松なわけで
参考にはならない
>>604 「魏」が滅ぼした「漢」の末裔に、「西晋」が滅ぼされちゃったから
「漢」を滅ぼした「魏」から親魏倭王に任じられたヤマト政権は逆賊になっちゃったのよ
漢字を発明したのは殷王朝
殷王朝を作ったのは日本人
>>617 邪馬台国の某系が妻国(投馬国)だよ
そこの王子が神武
>>626 居ないものを居る事にするのやめて
存在しない神社を根拠にするのやめて
>>612 国産みの前に産まれた島がオノコロ島な
最初はアワヂノホノサワケノシマ、つまり淡路
聖徳太子は実在
聖徳太子の住んでた斑鳩宮は今は法隆寺の東寺になってるけど
敷地から奈良時代の焼けた瓦などの建物焼亡跡が見つかってる
聖徳太子には山背大兄王という子がいて住んでた斑鳩宮を蘇我入鹿に焼き討ちされたと日本書紀にある
その通り斑鳩宮跡地からは焼亡跡が見つかってるので
日本書紀に書かれてる聖徳太子は実在だった
>>631 厩戸王は疑われてないよ
聖徳太子は限りなく怪しい
>>631 遺跡は信じてるよ
確実に何かあったし何か居た
>>571 パーの元はクルクルパー昭和30年代に流行った言葉なんだって。
想像
吉野ヶ里で発掘してる当事者は別に卑弥呼とは思っていないが、つい知事に対して卑弥呼かもしれないですよと言ってしまった
知事は喜んで記者会見で夢いっぱいなこと言った
まさか2ちゃんにスレ建って注目されるとは思わなかった
あまり騒いであげるな
>>636 静岡県高尾山遺跡も発掘させる理由付けに「こりゃ卑弥呼子かも」と言ったのが一人歩きしてるね
甘樫丘から焼け跡が見つかってるしその辺の時代だと
さすがに全否定するわけじゃない
でも500年前の事なんて誰も憶えてないわ
阿度部、大彦、意富
日本書紀では裴世清を歓迎したのが阿倍と阿倍難波吉師。中国では俀王阿毎多利思北孤号阿輩雞彌が、小徳阿輩壺に出迎えさせた。
プーチンに駆け寄る安倍ちゃんしか想像できないよ。
ただの集落を有り難がるとか日本の文明レベルひっくいなー
>>583 在位期間60年の卑弥呼がいるのに、何言ってのさ?
>>634 最初はグーまたまたグー
いかりやちょうすけ頭はパー
で団塊ジュニアまでジャンケンに使ってた
>>647 何言ってんだが?
共立だぜ。アジアで初では?
今は
お手々はグー、頭がパー、舌がチョキ
これなーんだ?w
>>632 聖徳太子は厩戸王の諡号だから
厩戸王がいて聖徳太子が居ないとはならないよ
>>634 最初はグーまたまたグー
いかりやちょうすけ頭はパー
いかりやちょうすけ?の有名度によるんじゃないかな?
で団塊ジュニアまでジャンケンに使ってた
>>652 だからそれが諸説ある
聖徳太子=厩戸と決めつけられてたのは20年30年前の教科書の時代で知識が古すぎる
封印された妖怪が解き放たれて大地震が起きるとかないだろうな
>>654 まあ別人なら別人でいいけど
けど聖徳太子が存在した事に変わりはないよ
>>1114 これ
邪馬台国が続いてたならずっと途切れず魏と関係が続いてるわな
邪馬台国は滅びてる
箸墓に眠る女王は邪馬台国などと言う田舎豪族と一緒にすんなと言ってらっしゃいます
>>598 宮内庁比定崇神天皇陵は当たってる可能性が高い
つーのはほぼ定説
聖徳太子
発言内容が後世の知識ないと無理だから遡って作られたとされたであってる?
徳川家康の言葉を後に脚色して残してあったとしてもだから家康は存在しないとはならないと思うけど違うのか?
完全にいなかったと思える理由教えて
>>429 出雲倒したとは神武東征神話には出てない
大国主が服属したのは天孫降臨前
>>200 神武天皇の母も祖母も海神の娘やん
めちゃめちゃ海洋民
>>659 魏もすぐ滅んで建前上禅定で晋が起こっている。
大陸もゴタゴタしていたので、敢えて積極的に交流を持つ意味が無いと判断した可能性は否定できない。
>>663 聖徳太子の発言で
後世の知識ないと無理なものなんてあったか?
>>632 怪しくない
墓所の立派さを見れば相当な重要人物だったことがわかる
聖徳太子非実在説論者は現場見てない
>>663 厩戸王が実在したのは間違いないし聖徳と諡号されたのも間違いはない
でも日本書紀に聖徳太子の功績、と書かれてる功績は複数人の功績の統合だろうと言われてる
産まれた時の逸話からして仏陀+キリストの統合だし
歴史資料や考古学を突き合せると邪馬台国は畿内の大和国
九州を掘ったって何も出ないよ
>>640 1世紀から3世紀の3百年で、
魏が存在してたのは、220年から265年までの、たったの45年間だけだからねぇ
25年 から220年まで、95年間存在していた後漢関連のモノが出てくる確率のほうが高いんじゃないかな
www.furutasigaku.jp/jfuruta/siryo/kudarahi.png
>>671 十七条憲法のことかな
その頃にはなかったはずの国司などの用語が出てくる
www.furutasigaku.jp/jfuruta/siryo/kudarahi.png
2011年の7月、中国の西安で発見された唐の右威将軍上柱國の地位にあった禰軍の墓誌の拓本。
禰軍は日本書紀の天智天皇4年九月条の注に「右戎衛郎将上柱国百済禰軍」として出現する人物。
白村江戦の戦後処理、対倭交渉で重要な役割を担っていた。
この拓本の右から10行目の真ん中辺りに
日本餘噍拠扶桑以逋誅
とある。「餘噍」は逃亡、「扶桑」は日本列島、「逋」は逃れるの意。
日本は白村江の戦いに参加せず日本列島に閉じこもったきりだったので、唐からの責めを免れた、の意味。
(またこれは日本の名前が出てくるもっとも古い文献でもある。)
>>640 1世紀から3世紀の3百年で、
魏が存在してたのは、220年から265年までの、たったの45年間だけだからねぇ
25年 から220年まで、95年間存在していた後漢関連のモノが出てくる確率のほうが高いんじゃないかな
ちなみに後漢関連の人たちは
魏にとっては逆賊で、親魏倭王では無いよ
>>676 キリスト持ち出さなくても馬は神獣だけどね
白村江は九州倭国と唐との戦いで
近畿日本は参戦していない
この戦いの敗北で九州倭国は滅亡した
ユネスコ 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産への登録を決定
http://2chb.net/r/newsplus/1627434729/ 登録が決まったのは北海道、青森、岩手、秋田の4道県に点在する17遺跡
1万年以上にもわたる縄文人の定住文化全体をたどれる点などが評価された。
邪馬台国はエジプトにあったんだよ
ムーに書いてあった
記紀より昔の歴史書は燃やされた
『続紀』
元明天皇の和銅元年(708年)正月
元号の制定を祝って全国に大赦を行う詔が出され
その中に「山沢に逃げ、禁書をしまい隠している者は、百日以内に自首しなければ罰する」という内容のものがある
崇神の墓は箸墓な
因みに色んな人間が言っているけど
箸墓は四世紀の増築ね
ウソばっかだからな学会や宮内庁が言うことは
卑弥呼の時代には本州に本拠地置いとかないと治めるの大変だから邪馬台国は島根にあったことにしよう
>>687 なんなら厩戸が本名かすら怪しいんだがな
中国人が日本こそがアジアで最強の運の持ち主だと感じる理由
https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20210314005/ 錦鯉は中国では「強運の持ち主」という意味で使用されている。
中国人が自国に対しては強運を否定。
中国には何千年もの歴史があり、古代から文明が発展しているので
運が良いと感じるらしいが、実際には努力のたまものであり、
むしろ「本物の錦鯉は日本」だという。
まず、唐の時代の中国は極めて強大だったが、日本のことを「ただの小さな島」と考えており、
戦略上は朝鮮半島の方を重視していた。白村江の戦いもあったが、唐は日本に興味がなかった。
また、朝鮮半島は軍事面で強くなったことがないため、島国である日本には天敵がいないという
幸運に恵まれた。
その後、「元」の時代には元寇があったものの「神風が撃退」し、「明」王朝は内政で精一杯で
日本まで手が回らず「日本は200年安泰だった。清は、中国史上最弱といえるまで弱体化し、
逆に「日本は清を撃破するほど強くなった。西洋諸国がこぞって清を叩いている間に明治維新を進め、
軍事強国になり、第2次世界大戦では敗戦したが、何かとタイミングが良く、戦後の急激な復興と
先進国への成長いう奇跡を達成することができた。やはり日本はアジア一の錦鯉だと締めくくった。
日本の「強運」も努力と無関係とはいえないだろう。
明治維新は「西洋から謙虚に学んだ」おかげで成功した。
今の日本がここまで発展できたのは、タイミングの良さもさることながら
努力も不可欠であり、ただの「錦鯉」ではないと言えそうだ。
日本と中国は、これまでに何回戦ったことがあるのか
https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20210125005/ 日本と中国との間では歴史上5回の戦争が起きた
まず最初の戦争として、663年に日本が百済とともに唐に反抗した白村江の戦いを挙げた。
日本と百済の連合軍の兵力4万2000人に対して唐は1万3000人と少なく、艦船の数も
唐が圧倒的に少なかったものの、先進的な装備を持つ唐の前に日本と百済の連合軍は敗走し、
以後日本は唐に頭を下げ、遣唐使を派遣して唐の文化を学ぶようになったと伝えた。
2回目の戦争は明の時代に中国南東部の沿岸に出没した日本の海賊、すなわち倭寇との戦いだった。
3回目は16世紀末の豊臣秀吉による2度の朝鮮出兵における戦いであるとし、
中国大陸侵攻を目指して20万の兵力を朝鮮半島に投じ、一時は朝鮮の首都・漢城も征服した日本に対し、
明が援軍を出したことで戦いが膠着、最終的には豊臣秀吉の死により日本軍が撤退して終結した
4回目は日清戦争で、政治が腐敗していた清国は、明治維新で近代化を実現した日本軍の相手にはならず、
清国が大規模な損害を出したうえで敗北し、「近代史上もっとも屈辱的」な下関条約を締結するに至った。
www.furutasigaku.jp/jfuruta/siryo/kudarahi.png
2011年の7月、中国の西安で発見された唐の右威将軍上柱國の地位にあった禰軍の墓誌の拓本。
禰軍は日本書紀の天智天皇4年九月条の注に「右戎衛郎将上柱国百済禰軍」として出現する人物。
白村江戦の戦後処理、対倭交渉で重要な役割を担っていた。
この拓本の右から10行目の真ん中辺りに
日本餘噍拠扶桑以逋誅
とある。「餘噍」は逃亡、「扶桑」は日本列島、「逋」は逃れるの意。
日本は白村江の戦いに参加せず日本列島に閉じこもったきりだったので、唐からの責めを免れた、の意味。
(またこれは日本の名前が出てくるもっとも古い文献でもある。)
纏向=邪馬台国説は纏向研究センター主導の説だからポジショントーク臭くて
聖徳太子の業績は蘇我親子の業績がかなりあると思われる
暗殺した手前蘇我一族の業績はほぼ奪われたはず
纏向は少なくとも現時点では邪馬台国や卑弥呼に関連するような出土品ゼロで全く関係ないでいい
>>682 まあ日本書紀は原文を翻訳して書いてるから
書かれた当時の言葉が使われたとも考えられるけど
>>706 聖徳太子は系図もちゃんとあって
これを捏造とは考えにくいね
まぁ九州だろうな
そして大勢が決した頃に「邪馬台国とかホンマは無かったんやで全部デマや」とか言い出すのが関西土人
>>708 纏向は王宮跡だから
畿内の古墳からは魏鏡など邪馬台国関連のものが見つかっている
魏志倭人伝に記載のある鏡と鉄鏃出土の多さから見れば統計的には福岡か佐賀か熊本
魏志倭人伝をどう読もうが畿内には着かない
考古学ではまた別なんだろうけど統計学的には既に決着済み
最近データサイエンスの論文で発音と言語学と地名読みから邪馬台国を推定する、という研究でも九州説だった
そもそもこの国は本当は日本ではなく倭国なんだよな。1000年続いた太宰府を首都とした国家があり、日本は関西の単なる
小国だった。それが7世紀白村江の戦いで破れた倭国は援軍を送るという日本に騙され水城を開けてしまった。そこに日本兵が
なだれ込み滅ぼされてしまった。これは中国の歴史書唐書にはっきり書いてある
日本と倭国は別種である。当時日本から遣唐使が来ていたので唐の役人が、君達さ~突然
日本って名乗ってるけどは倭国じゃなかったの?倭国と日本国てどう違うの?って質問したらしい。そしたら遣唐使が
はっきり答えたそうだ。倭国と日本国は別の国です。日本国が倭国を滅ぼしましたってね。
しかし明治維新後これを軍部が歴史学者に
圧力をかけて倭国を歴史から抹消したんだよ。日本書紀も古事記も出鱈目だよ。
>>720 畿内の古墳からは画文体神獣鏡など魏の鏡が見つかるよ
>>717 銅鏡も鉄鏃も畿内の方が圧倒的に多い
古墳一つから鉄鏃が50や100は出てる
>>718 いや倭国は日本に負けたから今は日本だよ
>>718 まさにそれよ
白村江の敗北すら日本の策略の可能性がある
安曇水軍は壊滅し、これ以後航海技術は大きく後退することとなる
>>726 倭国が負けたのは唐
近畿日本はむしろ捉えられていた倭国王を助けるのに尽力していた
>>725 魏の年号で二四〇年ころに当たる景初三年や正始元年と彫ってあるよ
これは卑弥呼のいた時代で魏志倭人伝には卑弥呼が魏に使いを送った年とある
>>730 無い
全然無い
近畿日本はおそらく止めただろうな
白村江の戦いをやるのを
>>716 そう言うこと??
だから新羅を避けて(Szilágyi)
渤海と文化交流した?
>>729 おかしいなこんなデータもあるよ
畿内で見つかっている鉄器
○ホケノ山古墳 畿内 3世紀中期
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後期
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後期
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
>>735 画文帯神獣鏡にも入ってるのがあるんだよ
世界最古の国と言っても4世紀以前のことはよく分かってないってことでおk?
バカがまたおかしな妄想垂れ流してるんだが
そんな変な陰謀で倭国を滅ぼすくらいなら
磐井の乱のときに一気に滅ぼしてるだろが
そんなことすら分からないのかよ
猿だなお前らはしかし
入鹿には別の名前を授けようと思います
考えうる最上級の高貴な名前を授け、記録に残すのです
その高貴な名前のお方は、位高き皇族でありながら蘇我に縁のある人物としましょう
そうして生前の入鹿の行いを、そのお方に重ねて讃えてゆくのです
開明的で大陸文化・学問に精通し、仏教を広めたこと
それらを基に、争いのない国造りを目指したこと……
実際、入鹿は皇極天皇の代わりをしていた訳ですから、この分身も天皇の代わりに善政を行った高潔な皇子――ということにしたいと思います
名前は付けるのではなく、贈るのです
漢風諡号でございます
生前の行いに基づいて死後贈られる名で、名誉とされています
唐では偉人や英雄にこれを贈るそうですが、我が国ではまだ一人もおりませぬ
聖徳太子
蘇我入鹿に贈る、これ以上無い究極最高の誉れのある名前にございます
>>718 抹消したのなら、なんでお前が知ってんだよ?
>>717 紀年銘鏡の出土は数が少なく、その中で魏の年号が刻まれた物は10枚、
その中で九州で出土は1枚
もし吉野ヶ里の石棺墓から紀年銘鏡が出たら、新し発見になるね。
https://www.aki104.com/entry/2018/11/14/143117 3世紀中葉の纏向にヤマト王権のベースになる巨大な国家連合の中心都市があったの事までは確定
この勢力のもと前方後円墳体制が日本を統合して行った
この連合に北九州が既に加わっていたかどうか、そこが論点
>>736 おかしくないぞ
卑弥呼は240年代まで生きてた人物、古墳なら50年違えば全く別の時代
ついでにホケノ山古墳の建造年代諸説ある
>>729 それ元のデータが、川越哲志編『弥生時代鉄器総覧』で2000年の出版物、データがいささか古い。
>>747 五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡
今からおよそ1,800~1,900年前の弥生時代後期に鉄器づくりを行っていたとされる、丘の上につくられた村の跡です。平成24年9月には国史跡に指定されました。
発掘調査では23棟の竪穴建物跡が見つかり、その内の12棟が鉄器づくりを行っていた鍛冶工房であったことがわかりました。100点を超える鉄製品をはじめ、多数の石製工具類なども発見されています。当時貴重であった鉄器をつくり続けた村として周辺の地域にも大きな影響力をもっていたのではないかと考えられています。鉄が貴重であった時代にこれほど多くの鍛冶工房が発見された遺跡は少なく、しかも同じ場所で100年以上も続いており、当時の社会の様子を知ることができる貴重な遺跡だとされています。
遺跡は国の史跡に指定されており、出土品は県の有形文化財に指定されています。
https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=757 >>747 卑弥呼のあとに台与の時代もあるから
後の時代でも畿内に鉄器がたくさんあっても何も不思議じゃあないね
近畿日本って九州倭国の猿真似沢山やってるから
多分九州倭国が受けた鏡が羨ましくて贋作作っただけなんじゃね?
>>688 白村江(663年)
の直後
白鳳地震(684年) ←記録に残る最古の南海トラフ地震
九州系が記録を付けると南海トラフは遠い。畿内が記録を始めると南海トラフは近い
>>749 九州で出土の一枚が景初四年。
景初四年は他にもう一枚出土してますね。
>>275 玄人は銅鏡と桃の種でドヤってんだっけ?
>>755 隨なんか100年も経たずに滅亡してるだろ
>>716 従属するって意味しか無いんだけどな
この漢字w
>>724 議論はあくまでも弥生時代
古墳時代の中期になると奈良が大発展するからその時点では奈良も増えるってことでは?
>>752 言ってる意味が良く分からないが
近畿パーが良くやる論理のすり替えは
時代をちょっとズラすってやつ
卑弥呼の死後、トヨの時代に九州倭国は急速に勢力を失い
代わって近畿日本が一気に朝鮮半島まで勢力を伸ばしてくる
恐らく崇神の功績なんだろうが
ちょっと時代何十年かズラすだけで出来るから
よく嘘つき近畿パーが使う手口なんだよねこれ
>>762 4世紀以降の遺跡や出土品を3世紀にしてんじゃねーかと思えてならんわ
纏向から馬具って何だよw
>>761 卑弥呼は弥生時代ではなくて古墳時代の人
>>688 日本書紀に
滅亡した九州倭国の歴史(南海トラフは出てこない)が正式に採用され、
それ以後は畿内視点の歴史(南海トラフ出てくる)ということは
滅んだじゃなくて中心地を移したんじゃないの?
>>762 出土物からは卑弥呼の時代からすでに九州が衰退していた事が示されてるよ
九州から魏の紀年銘鏡が一枚しか出てない(景初四年銘)以上、1:9で現状では九州以外の地が魏との交流が盛んだったという推測が成り立つ。
今後の出土状況で逆転もあるかもしれないが、現状はそういう事。
>>764 卑弥呼が死んだ年がギリギリ古墳時代 生きてた頃は弥生時代
>>766 卑弥呼時代は繁栄していないからそれでいいんだよ?馬鹿?
>>766 ソースちょうだいそれも
お前単に適当こいてるだけだろ
>>768 まあ卑弥呼も70や80才だったらしいからな
もっと行ってたかも
ただ畿内の石塚古墳は3世紀初頭と見られてるから
半分くらいは古墳時代に生きた事になる
【日数】帯方郡 → 投馬国(対馬)→ 邪馬台国
【里数】帯方郡 → 省略 → 邪馬台国
今度から投馬国と對馬国は同じもの説を推すことにするかな
里数と戸数は盛ってあるというのが前提ですが
やっば決着つけるには天皇陵全部掘るしかないでしょ
証拠が出なくてもここまで調べてわからなかったです結論が付く
>>770 「紀年銘鏡」で調べてみてください、個人のブログを2回貼ってますが、やや古いブログなので、状況は変化しているかもしれません。
>>769 それなら鉄器が少ない方が邪馬台国という事でいいの?
>>764 とりあえず卑弥呼は2世紀から王なのと
あと
2020年に放射性年代測定が改訂されて纏向遺跡などが卑弥呼の死にすら間に合わなくなくなる「前に」
箸墓という前方後円墳をその時代にしなければいけないので、年代を目一杯無理に遡らせて「卑弥呼は古墳時代」というデマが形成された
それもすでに述べた改訂で無理になった
とりあえず景初四年は存在しないってのは一般的な理解のはずだろ
そんなイケシャーシャーと嘘松言うのかよ近畿パーは
やっぱり精神病だなこいつらは
>>760 アヴァールに植民地にされてたんじゃないの?
前唐って
そのあと武則天ウーマンが王様になった
ううまん?!ヤバ過ぎwwww
>>763 思えてならんってかモロそうなんじゃね?
近畿パーって病的なウソつき野郎だぜ
>>766 倭国大乱で衰退するんだから卑弥呼が共立される時にはボロボロの地域で共立されるのよ
なんか嘘を拡散している人がいるけど基本的に卑弥呼時代は受難の時代です
~ 中国史書に記された邪馬台国時代 ~
卑弥呼とは、倭国大乱で疲れ切った国々が共立した民衆をまとめる事に長けた女王である。
その女王に属する国々が女王国=邪馬台国連合である。
しかし女王国の南にはまだ反対派の狗奴国があり、卑弥呼の晩期に戦争が勃発していた。
海を挟んで東には他にも倭人の国がたくさんあった。
少なくとも卑弥呼時代においては、全国統一には至っていない。
なお三国史記にも卑弥呼時代が記録されており、卑弥呼が女王となったのは2世紀後半と推測できる。
AD173年:倭の女王卑弥呼が使者を送った
AD193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
248年、卑弥呼が死に、次の王として男王が立ったが、国中が納得せず内乱となり、1000人以上の死者を出す始末。
そこで卑弥呼の親戚でまだ幼かった臺与を女王とすることで、ようやく平和が訪れた。
しかし臺与時代AD266年の朝貢を最後に、女王の記録は途絶える。
>>772 晋書天文志
『景初元年七月、公孫文懿叛。二年正月、遣宣帝討之。三年正月、天子崩。四年三月己巳、太白与月?加景昼見、月犯太白。占同上。』
とにかくウソがヘーキなんだよ近畿パーって
精神病だよこいつら間違い無く
>>780 バカと言われる覚えは無いですよw
ちゃんとお調べください。
>>773 古墳から鏡の出土が少なくなる
畿内は増える
>>788 それ単にソースが民間説話らしいな
根拠にならないそうな
>>793 データを集める能力の無い人にバカと言われてもねぇ、「紀年銘鏡」で調べるだけで良いんですよ、やってみては?
卑弥呼が貰った鏡は計101枚ですね
倭国は100国あったそうなので各国から1枚ずつ出る鏡がそれに該当します
それ以上に存在するとすればおそらくコピー品でしょう
この
>>765 質問にレスないが
九州王朝があったときの畿内も九州系のはず
とりあえず物部氏の祖先が福岡(ニギハヤヒ)。他の豪族も多くが九州出自になっている
つまり東遷は何度もあった
少なくとも白村江よりだいぶ前に台与が畿内へ進出していてもおかしくない(森浩一)
>>796 それ、元となるデータが古いですから貼らないほうが良いですよ。
鉄については川越哲志編『弥生時代鉄器総覧』に示されたデータによる。
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA46471519 >>799 ?
逸話として晋書に載せてある文書だよそれ
>>797 妄想を集めるのはデータを集めるとは言わないんだよバカ
>>1 渡来人が日本に来たら、同化するかコロニー作るかの二択だ
コロニー作ったら滅ぼすしかないだろ
つまり、それが邪馬台
で、例外なく神話は滅ぼされた側を祀る
つまり滅ぼしたのは畿内ヤマト
高天原で邪馬台を滅ぼした(天孫降臨)
その後に畿内を発つ時に邪馬台国を滅ぼしたものがヤマトの王となる約束(国譲り)
その約束のもと各地に寄りながら味方を募り、敵対勢力を滅ぼした(神武東征)
邪馬台国は近畿にあったと定義されておる
したがってこの墓は邪馬台国と無関係である
ハイ論破完了
一般的に景初四年は存在しないと言うのが定説なんであって
それを覆すのに晋書に逸話だとして載せてある文書を根拠にするのはムリって話しな
継体天皇の背後には熊本の倭人(有明の倭人)がいる
熊本の倭人が有明航路で半島南部に渡り(関係は不明だけど前方後円墳あるね)そこから日本海側にやってくる
つまり当時の渡来系は韓国人じゃなくて熊本人
(水谷千秋『継体天皇の謎』)
>>723 突厥碑文に滅んでるはずの高句麗が出てくる。
だって高麗はモンゴル帝国と一緒に滅んでるじゃん
>>804 だから御自分で調べてみればと提案している訳です。
簡単な話でしょ。
調べて私の主張が違うというなら指摘してくださいな。
●魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年~) 上狛古墳 京都府山城町?
ウィキペディアによると紀年銘鏡は以下の通り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1#%E7%B4%80%E5%B9%B4%E9%8A%98%E9%8F%A1 紀年銘鏡
この時代の銅鏡の中には、銘文中に中国大陸の年号を有する紀年銘鏡が10数面含まれており、出土した古墳やその他の副葬品が製造された年代を推定するための参考資料とされている。
平縁神獣鏡 景初三年はおそらく西晋時代に作られた物でしょう
高天原のある日向、それ以南の熊襲がいる地域が手付かずだったのはこう言うこと
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離
所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴←ここは絶島
中略
東南至奴國 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸←さらにさらに旅をしてたどり着いたところが奴国
でも奴国って福岡確定してるんだぞ
畿内に行くわけないだろアホタレ
>>818 景初四年は実際にあったから
三角縁神獣鏡にも彫ってあるんだよ
三角縁神獣鏡は調査によって魏で作られた鏡である事がわかってるからな
>>823 そんな誤読が根拠とか畿内説の人ですら賛同できないのでは……
>>823 どうして息をするように嘘を言うのですか?
>>823 三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡では無いみたいですが。
奈良に行くなら水行だけでok
陸路の時点で奈良には向かってない
>>783
ビシッビシッ
>>823 いや無理があるだろ
間違ったまま作っちゃいました、しかも2枚もってライン工じゃないんだか
さて誰でしょう?
維新を怒らせたのは
橋下氏は「日本の人文系の学者の酷さが次から次へと出てくる。
こやつらは『自分は賢い!一般国民はバカ』という認識が骨の髄まで染みている」と批判した。
「税金もらって自分の好きなことができる時間を与えてもらって勉強させてもらっていることについての謙虚さが微塵もない」
「しかも社会に対して何の貢献をしているのかわからん仕事でも学問の自由の名目で許される。もう少し謙虚になれ」
と記した。
一方同じ年の新しい元号の正始元年銘
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
古事記や日本書紀の歴史は嘘だらけだから本当の歴史は
大陸の書物からしか得られない
九州にいて日本すべてを支配することは不可能
卑弥呼は九州の北半分から関東まで支配していたんだ
畿内あたりじゃないとムリ、これだけで九州説はない
鏡といえば
日田で発見された曹操の鉄鏡のほうが気になる
銅鏡なんぞ適当に増やせるじゃん
>>625 降霊術派だからレスしちゃる
ツマ国はミヅマ・コウヅマ・シモヅマの3郡な
矢部川を水行して南にすぐ山門郡
その神武説だと日向神ダムが天孫降臨w
>>834 ヤマト王権が奈良でできるより前に関東まで支配してたのかw
>>1 渡来人が日本に来たら、同化するかコロニー作るかの二択だ
コロニー作ったら滅ぼすしかないだろ
つまり、それが邪馬台
で、例外なく神話は滅ぼされた側を祀る
つまり滅ぼしたのは畿内ヤマト
高天原で邪馬台を滅ぼした(天孫降臨)
その後に畿内を発つ時に邪馬台国を滅ぼしたものがヤマトの王となる約束(国譲り)
その約束のもと各地に寄りながら味方を募り、敵対勢力を滅ぼした(神武東征)
>>824 それ以外に説明はつかないよ
まあ当時は踰年(ゆねん)改元といって皇帝が亡くなってから1年は同じ年号を使い続ける習慣があった
魏の明帝は景初三年の元旦一月一日に死んだことになってるけど
これは後世の改暦をしやすくするための創作と見れる
明帝は実際には景初三年の六月くらいまでは生きていて
そのあたりに亡くなって踰年改元によって年号が一年使われたとすれば
景初四年は半年くらい使われていた事になる
青龍から景初への年号変更の時も同じことがあった
>>834 九州の人たちが本州を平定するために畿内に拠点を作ったんじゃね?
>>835 まあ卑弥呼が居たのはそこやろね
肝心の発掘現場は工事で全部潰してしまったが…
>>834 渡来人が日本に来たら、同化するかコロニー作るかの二択だ
コロニー作ったら滅ぼすしかないだろ
つまり、それが邪馬台
で、例外なく神話は滅ぼされた側を祀る
つまり滅ぼしたのは畿内ヤマト
高天原で邪馬台を滅ぼした(天孫降臨)
その後に畿内を発つ時に邪馬台国を滅ぼしたものがヤマトの王となる約束(国譲り)
その約束のもと各地に寄りながら味方を募り、敵対勢力を滅ぼした(神武東征)
恐ろしいことに現代日本でも2023年は平成35年として動いてるシステム腐るほどあるんだぜ
1800年前なんての暦運用なんて適当やろ
..
>>837 内容が出鱈目
ユダヤやマケドニアの話が混ぜて造られたような
ものばかりだ
>>807 ちょっといいのが見つからなかった
ここには違う論旨が書いてある
誤読なんだそうな
青龍四年なんだと
「景初四年」はあったか?その3
では、もう少し誤読の状況を原文に即して見てみよう。
『晋書』「天文志 中」
月奄犯五緯
魏明帝太和五年十二月甲辰,月犯填星。青龍二年十月乙丑,月又犯填星。占同上。戊寅,月犯太白。占曰:「人君死,又為兵。」景初元年七月,公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子崩。四年三月己巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。景初元年十月丁未,月犯熒惑。占曰:「貴人死。」二年四月,司徒韓暨薨。
上掲分を箇条書きにしてみる。
1.魏明帝太和五年十二月甲辰,月犯填星
2.青龍二年十月乙丑,月又犯填星。占同上。戊寅,月犯太白。
3.占曰:「人君死,又為兵。」
4.景初元年七月,公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子崩。
5.四年三月己巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。
6.景初元年十月丁未,月犯熒惑。
7.占曰:「貴人死。」
8.二年四月,司徒韓暨薨。
この文の読み方は、1,2が天文上の異変。3が占いに曰くという預言。4がその結果起きた事象。以下も同様で、5,6が天文上の異変。7が占いに曰くという預言。8がその結果起きた事象。
すなわち、5の「四年」は2の「青龍二年」に続くものであるから、当然「青龍四年」である。6の「景初元年」が5に続く天文上の異変であるから、5は当然、「景初元年」より前でなくてはならない。つまり「青龍四年」ということになる。
このことが明確に分かるのは、先にも述べた『宋書』「天文志一」による。
青龍三年十月壬申,太白晝見在尾,歷二百餘日恒見。占曰:「尾為燕,燕臣強,有兵。」青龍四年三月己巳,太白與月俱加丙,晝見。月犯太白。景初元年七月辛卯,太白又晝見,積二百八十餘日。占悉同上。是時公孫淵自立為燕王,署置百官,發兵距守,遣司馬懿討滅之。
『晋書』にみえる【四年三月己巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白】が、「青龍四年」であると『宋書』は明確に記す。
4の【景初元年七月,公孫文懿叛。二年正月,遣宣帝討之。三年正月,天子崩】に続けて【四年三月己巳】とあれば、これを「景初四年」と読んでしまうことはありがちなことかも知れないが、史料批判の常道である他典籍との突合という手続きを怠ると、このような誤読に陥ってしまう。
>>840 いや普通に誤読だからそこは誰が読んでも青龍四年にしかならん
>>744 前方後円墳は吉備と北九州の墓制が合体したものなので巻向に都がおかれた時点では加わっている。
その後、西都原の神武がマキムクを乗っ取った。大和王権の神話には南方系の要素が入っている。
島生み神話とか。これはハワイなどポリネシア系の神話でもある。
>>807 そもそも
景初三年に皇帝崩御って書いてあるのに
その直ぐ次に景初四年がうんたらかんたらって
あるわけが無いよな?
単なる誤読らしいぞそれ
>>846 誤読じゃなかったら?
景初四年が存在した証拠は魏鏡に彫ってある他色々あるよ
揚子江文明を作ったのは日本人
揚子=燕=日本人
揚子江の上流はチベット
日本人のDNAが1番近いのはチベット人
>>834 関東は黒潮が届くので南九州文化
だから南九州を起源地とする朝廷(ヤマト王権)と元々親密
北九州の邪馬台国とは無縁バター
>>851 お前はイミフだ猿
魏鏡は偽物ってことだよアホ
もっかい載せるけど
当時は踰年(ゆねん)改元といって皇帝が亡くなってから1年は同じ年号を使い続ける習慣があった
魏の明帝は景初三年の元旦一月一日に死んだことになってるけど
これは後世の改暦をしやすくするための創作と見れる
明帝は実際には景初三年の六月くらいまでは生きていて
そのあたりに亡くなって踰年改元によって年号が一年使われたとすれば
景初四年は半年くらい使われていた事になる
青龍から景初への年号変更の時も同じことがあった
魏鏡にも彫ってあるし景初四年は存在していたとしか考えられないね
何で九州南部の平定がかなりの年月放置して後回しになったのか
それは後回しになったのではなく、ヤマトから遠かったから
蝦夷と熊襲は遠いから遅かった
つまり、畿内ヤマトが邪馬台国を滅ぼしに高天原まだ追討したのであって
天孫降臨は正統な王としての権利を獲得した地という意味で高天原なのである
>>854 科学分析で魏の鏡と同じ銅素材で作られてると分析結果が出てるよ
紋様や形式も魏の鏡と一致
景初四年はあった
邪馬台国論争が分からなくても『三国志』や諸葛孔明は有名だろう
孔明が死ぬ。孔明の相手してた司馬懿が帯方郡へいき公孫氏を打つ。大虐殺を行う
↓
大虐殺が倭国に伝わる。卑弥呼ビビる。慌てて魏に朝貢する。準備不足で小規模。帯方郡は使者を派遣。金印もらう。3年後に2回目の朝貢
↓
2回目の朝貢の4年後に帯方郡の太守が交代。倭から使者を派遣。このとき「狗奴国の王と卑弥呼が平素から仲が悪く互いに攻撃しあっている状態」と報告。これを受けて武官の張政を倭に派遣
↓
「卑弥呼、以って死す」以っての解釈に色々ある。病死、自殺、狗奴国との戦死、クーデター的な暗殺など
歴史学者の総意として「司馬懿大虐殺と無関係なわけがない」
これが2回にわたる朝貢
狗奴国との交戦を報告したのはそのさらに4年後
つまり「狗奴国に勝ちたいので魏の権威が必要だった」は違う。「司馬懿が怖かった」が正解
>>860 スプリング8 三角縁神獣鏡とでも検索すれば出てくるよ
>>845 メソポタミアな
大体の神話はこれが元になってると言われている
>>197 神功皇后が遠征したのは新羅のみ。高句麗近くまでいってない。主な相手は熊襲。魏志倭人伝と矛盾しない。
一般的に言って景初四年は存在しないと言うのが定説だ
お前ら近畿パーの妄想は当然根拠にはならん
>>866 でも魏鏡とわかってる鏡に彫られてるしな
お前な
普通考えて景初三年に皇帝が崩御してるのに
景初四年があるわけが無いだろが
>>864 なんだよあなたはクレクレ君かよ、60回以上書き込んでるみたいだけど、ほぼ意味のないにぎやかしやね。
魏にしか文献なかったのかよ
呉も日本と交流しておけよ
>>870 こらこら
分かり易い敗北宣言だな猿w w
>>858 あんたら2人のやりとり読んでないけど多分、三角縁なんとか鏡?
あれは出始めたときは良かったが、たくさん出過ぎた
数が多すぎて卑弥呼の鏡の候補からまず外れた
その後、中国の学者と森浩一が共同研究し、呉の職人の手による偽作となった。何でそんなことしたのか知らないが
>>845 旧約聖書とギリシャ神話は共に古代オリエントの系統の神話要素を取り込んでいるが
ユーラシア北部のステップ地帯を通る遊牧民が
黒海沿岸から満洲までオリエント系神話の要素をもたらした
と考えられている
天上他界や太陽女神モチーフは
シベリアのシャーマニズムとも通じており
大地女神信仰と共に
縄文時代に起源が求められる
お前な
普通考えて景初三年正月に皇帝が崩御してるのに
景初四年があるわけが無いだろが
みんなもそう思ってる
こんな明白な事実をひっくり返すのに
お前ら精神病近畿パーの妄想が根拠になるかキチガイw w
>>877 こらこら
分かり易い敗北宣言だな猿w w
>>875 魏に使いは4回は送ってるし
三角縁神獣鏡は国内のコピー品もあるよ
>>869 踰年(ゆねん)改元といって皇帝が亡くなってから1年は同じ年号を使い続ける習慣があった
近畿パーの精神病伝説がまた一つ増えた
別に要らないのにw
>>875 日本の弥生時代に相当する時代、まだ国産の銅はほぼ産出してないので、銅鏡は大陸のどこかの銅を使ってるというのは当たり前、
日本国内で改鋳していても原料は大陸産。
景初四年ばかり言ってるけど
景初三年や正始元年と魏で使われてた事がはっきりわかってる彫ってある鏡も畿内から出てるよ
これは本物という事でいいの?
三角縁神獣鏡に関しては全部国産でええやろ
ここまでは脳死でおっけー
トヨウケは摂津の飯盛山にいたと摂津国風土記にあるね
その後は丹後に戻ったとある
さらにその後は天の原の富士山なんだろうか
丹後の天女伝説の最後がよくわからないんだよな
>>886 森浩一「ラーメン屋の器を地面に埋めて未来人が掘り起こす。そこに何ちゃら何年と書かれていようが信じたらいけない」
『朝日新聞は、原材料が中国製の鏡と同じであることを理由にして、三角縁神獣鏡を中国製だと思わせるようなコメントを載せている。
銅鐸には、材料の銅に含まれる鉛同位体の分析によって中国の原材料が使用されたと考えられている。
しかし、日本でしか出土しない銅鐸を中国製という人はいない。三角縁神獣鏡に中国の原料が使われていても、
それだけで三角縁神獣鏡を中国製と判断するのはおかしな話である。』
これが正始元年に貰った最後の一枚なのでしょうか
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操陵の発掘責任者が見解
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520 富士や甲斐、伊豆辺りは聖徳太子に縁がある地だな
聖徳太子は甲斐の黒馬に乗り河内のシナガの地に降臨したという
伊豆は聖徳太子の領地があったところで楠と軽船の話が風土記に残っている
聖徳太子廟のある叡福寺の伝承には、
聖徳太子の母の棺の轅を植えたら楠が生えた
御廟は無数の結界石で守られている
とある
>>891 台湾と中国から材料仕入れて亀山工場でテレビ作ってもそれは日本製だわな
格がちがうのは鉄鏡で銅鏡がどこから何枚出ようが同じだよ
>>897 鉱物の価値は銅のほうが上でしょ、上から金・銀・銅・・・で鉄自体は実用品、まあ曹操のお墓で出土した鉄鏡は装飾が綺麗だけど。
シナガ鳥は猪名の枕詞で神奈川の箱根の麓はシナガの地だな
神奈川の寒川神社の御神体が猪の頭
関東の歴史も畿内の歴史も密接に関係しているようだ
>>861の真ん中あたり
卑弥呼と狗奴国は近い距離にいる印象
畿内説の場合、狗奴国は東海らしいが戦った形跡があるのかね。知らんけど
纏向遺跡の土器が東海系が多いんだっけ?
中国人も本州があることは知ってるし、九州よりデカいことも知っていたはず
それなのに九州にいるだけのヤツを日本の支配者と思うわけはない
デカい場所の真ん中あたりにいるヤツが支配者だろうと思うはず
邪馬台国九州説は荒唐無稽、デタラメ、あたまおかしいレベルでーす
>>882 魏の第三代皇帝曹芳の即位は景初3年1月1日だから
それなり立たんな
239年に即位(景3年)
240年が正始元年
景初四年は存在しませんw w
いずれにせよ奈良は論外でしょうね
(2011/11/27)
・石野
確かに、奈良から邪馬台国関係の遺物が出ないのは事実。
土器からみても福岡県を中心に伽耶系、楽浪系の朝鮮半島の土器が出ており、2~3世紀は九州の方が、朝鮮半島との交流の密度が高い。
その時代の土器が出てくるのは大阪、京都の地域である。奈良からは出て来ない。
>>882 魏の第三代皇帝曹芳の即位は景初3年1月1日だから
それなり立たんな
239年に即位(景初3年)
240年が正始元年
景初四年は存在しませんw w
>>902 シナ人買いかぶり過ぎです
瀬戸内海を川だと思ってた連中ですよ
>>882 つまり景初3年こそが
その皇帝が居なくなったのに同じ年号を使い続けたって年なわけな
景初4年は存在しませんw w w w
何か新しい発見あったらいいね、楽しみだねーで終わる話だと思ったら荒れてんだなぁ
>>895 富士山に初めて登頂したのは聖徳太子と言われてますね
>>902 「本州」って意味わからんな
ヤマト王朝より前なんて九州も四国も別の島で別の国やで
>>902 隋の時代まではよく知らない
理由はそのとき畿内政権の使者が言う国の範囲が大きすぎて詐欺師扱いしている
また「九州が畿内を併合したのか」「畿内が九州を併合したのか」が倭人本人にさえもうよく分からなくなっていると書かれている
魏志の時代はどうかと言うと
「倭国の東に海があり、その向こうに別の倭種の国がある」という位置関係
別の倭種は吉備という説が強い
古墳時代の中期嫌いまでは奈良より吉備が大きかったので
>>894 邪馬台国は明らかに創作や
全部が全部ファンタジーじゃなく、年代も場所も違う断片的な事実を繋ぎ合わせたらこうなったって話
後の世で書き足されたりもしとる可能性がある
>>895 静岡には天皇原って土地もあるし草薙の剣伝承は焼津市
あながち荒唐無稽とも言えない
甲斐信濃には大蛇伝説もあるしな
>>911 >「倭国の東に海があり、その向こうに別の倭種の国がある」という位置関係
こんなんないで
>>907 皇帝が景初3年の6月まで生きていたとしたら
1年使い続ければ景初4年6月
景初四年と魏鏡に彫ってあるほか晋書天文志の記述など
状況的な証拠は色々ある
>>834 >卑弥呼は九州の北半分から関東まで支配していたんだ
それ明治維新の頃の日本政府。東北は従わない。薩摩は独立国やってる
>>911 九州から本州は目と鼻の先に有る、それを1000里渡海と表現するものかね?
いくら何でも盛りすぎでしょ。
銅鏡なんてコピーしまくりだろ
それより日田から出土した曹操の鉄鏡のほうはいいのかw
>>902 千年後でも
護良親王とか
大友や大内氏を日本国王だと思ってますが
>>921 サンプル数が少ないので現状は評価不能って事でしょう。
>>923 銅鏡みたいにサンプルが多すぎるほうが怪しいわw
>>915 >>863 >メソポタミアな
倭国がエジプトだとしたら
エジプトの東に海(紅海)があり、その向こうにメッカがある
>>915 ハッキリ書いてある。わかっただろう、認めなよw
>>919 >「女王国の東、海を渡って千余里で、また国が有り、皆、倭種である。」
多分これのことやな
海を隔ててるわけじゃなく渡っとるだけや
それでも意見は分かれるやろけどな
>>916 ↑
これ見ろよ
現実に起こったことを
自分の妄想で否定しようとする
これが精神病近畿パーw
>>902 倭国は対馬海峡の北側・朝鮮半島南部と
対馬海峡の南側に九州にも領土が有り
古代の大国だよ。
奈良盆地湖の畿内とは比べものならない。
聖徳太子と縁があるシナガの地名
シナ照るという枕詞があり、片岡にかかる枕詞だ
聖徳太子の片岡の聖伝説
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
旅人の親は亡くなっていない
旅人の親のことを刺竹の君と言い直している
かなり興味深い歌
聖徳太子の時代に生を受けた人物がいる
諱が軽の孝徳天皇
孝徳天皇の父は茅渟王で記紀では事績が丸々消されている
親亡き幼子を聖徳太子が庇護していたのかと想像が膨らむ
纏向説だとすると、海人族の特徴を持って入墨文化を持つ国が何故か山の中にあったことになる
畿内説が全部おかしいとは言わんけど、纏向説だけはどう考えてもおかしいwこれを信じる奴はどうかしているw
>>908 いやー阿波がしゃしゃり出てる時よりはよっぽどいい感じのスレの流れかと思ってるw
>>914 黒潮が北上して九州に至る
鹿児島の錦江湾から見えるのが天孫降臨神話のある霧島連山
瀬戸内海に流入して今も海洋神の居ます琴平(古代は島
国生み神話の淡路島を経て
古代には海だった大阪から奈良湖行きどまりシンボルとして三輪山
日本海に流入した対馬暖流は出雲で海を照らして寄り来
黒潮奔流は四国を経て紀伊半島の熊野の霊地
関東に至って鹿島・香取の両神宮
古代ヤマト王権の神話と覇権は見事に黒潮に即してる
猪名県の摂津国に残る伝説に和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)の話がある
菟原処女の伝説
>>933 安曇が長野北アルプスまで行って拠点作ってるしそんな変な話でもないような
海人族は舟を確保するために川を上って木を調達する必要があったっていう話もどっかで読んだ
>>933 万葉集に天香久山から海原を見下ろすって歌がある
奈良湖なんてものの存在も示唆されてるし
纏向が栄えた頃は海が近かった
山辺の道?当時は海辺の道だったんじゃない?w
>>933 纒向には2つの説があります
【纒向は市場説】
魏志倭人伝によると、女王国に市場の監視役として使われていた「大倭」という組織が居たそうです
日本書紀には、纒向はかつて大市と呼ばれた市場であったと書いてあります
纒向遺跡の大型建物が何度も建て替えられていた事や周囲に住居が無い事から、ここが収穫祭などで市が開催される時だけ臨時に設営される会場であったと考えられます
纒向の建物を建てたのが大倭たちである可能性も考えられます
【纒向は古墳造営基地局説】
纒向調査結果
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種
・大型建物(古墳完成までの遺族向け宿泊所?)
・木製の土木用具一式
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の炸裂の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
広開土王碑に関しては雄略天皇(倭の五王)の時代の話。ここから遡っても日本書紀の神功皇后の年代は魏志倭人伝と一致する。
>>938
カモメが飛んでいたという詩ですね
■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
『倭』 19首(1)
『山跡』 18首
『日本』 14首
『夜麻登』 5首
『八間跡』 1首(1)
『也麻等』 1首
『夜萬等』 1首
『夜未等』 1首
例)
大倭には 群山あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
可怜し国ぞ。
あきづしま大倭の国は。 そもそも精神病近畿パーは
踰年改元と言うものを意図的に誤解して
自分の妄想の根拠に役立てようとする
踰年改元ってのは必ず行われるわけでは無くて
昔は日本でもやってたそうだが現在の日本ではやらない
昭和64年1月7日午前6時33分に昭和天皇が崩御したので
「元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)」が7日中に公布され
翌8日に施行されて、平成と改元
つまり日本では今は踰年改元は行われない
一つの年に二つの元号がガッチンコする年がある
中国でも踰年改元は必ず行われるわけではない
先帝と関係あるものが即位する場合は先帝に心遣いして
年の途中に死んだら、新皇帝が即位してもその元号は使い続けて
翌年に改元して新しい元号にする
これが踰年改元
精神病近畿パーは意図的に誤解して景初四年が踰年改元であるかのように言うわけだが
ただのウソw
曹操が死んだ景初三年(西暦239年)に新皇帝は即位してるのだから、景初3年に改元して新しい元号ぶつけちゃうか、
それとも先帝に敬意を表して翌年西暦240年から新元号にするか
(つまり踰年改元)って話しね
景初4年なんか存在するわけがない。踰年改元関係ねーw w
240年は一月一日から正始元年
もう改元されてるよアホ
>>933 鯨面の埴輪出土してます
>>943 そうですね
■卑弥呼の時代にもそこに存在していたクスノキ
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町 老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年あたり
・未確認
>>944 畿内の人はよほどビックリしたんでしょうね
記紀に書いてありますよね
昔勉強した俺から言わせたら邪馬台国は宇佐です
今でもほぼ確信している
邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
>>950 ↑
こんなもん一発で反論不能、大破轟沈するんだぜ畿内説って
これがまともな学説に見えるなら
お前も精神病w w
>>946
景初四年
(非実在年紀) 240年 斜縁盤龍鏡 2面 (伝)持田古墳群 宮崎県西都市 辰馬考古資料館 卑弥呼のの宮殿は警備厳重だったと書いてありますね
纏向の宮殿
吉野ヶ里の宮殿
>>938 大和の三輪山の麓の海石榴市(つばいち)は椿が多く群生してたから付けられたと言われているが
椿(海石榴)は日本原産で分布は海岸沿いに多い
つまり古代には海石榴市当たりが海岸だった時代がある
奈良湖が干上がって奈良盆地になっていく過程が
豊葦原の秋津洲の描写に残る
まあ私は朝廷と邪馬台国は別だと思ってはいるんだけど
他の人間は魏志倭人伝では名前で記録されてるのになあ
卑弥呼も日本側の名前で紹介してたら後世にんな混乱は起きなかったのになあ
なんで卑弥呼だけ官名というか愛称というか
都合悪い事情でもあったんやろか
これ作った方いらっしゃいますか?
①外交交易の要所伊都国から殆ど大和の土器は見つからない。
②纒向かの外来土器には北部九州の土器は殆ど無い。
③北部九州の弥生は甕棺墓全盛。
④纒向は槨墓の文化圏
⑤祇園山古墳からは100人規模の殉死が認められる。
⑥纒向に殉死の例は皆無
⑦帯方郡から7000里が狗耶韓国ならば、12000里は山門八女
⑧6世紀に北部九州を支配していたのは山門八女の勢力であり、
福岡の糟屋に屯倉を持っていた構図が一大卒を置いて北部九州を支配していた邪馬台国と重なる。
⑨⑥狗奴国の狗古智碑狗はククチ彦=菊池彦であり、
菊池に隣接する山門八女が邪馬台国として狗奴国と争っていた事が地図上に再現できる。
⑩当時の鉄器の発掘状況から、山門八女vs熊本び戦いが再現できる。
⑪女王国から1000里海を渡ると倭種の国
⑫箸墓古墳は出土物から見て4世紀前期~中期の築造時期。
>>886 残念ですが全て国産のコピー品だと判明しています
型取りすることでいくらでもコピーが作れるんだよ
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra > 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
宇佐の近くに黒曜石の産地イワイの姫島がある
アカルヒメ縁の地だな
宇佐の姫の可能性はあるんじゃないか
アカルヒメは摂津風土記によるとその後摂津の姫島に逃れたようだ
今でも住吉の神さまと一緒にやり直しの神さまとして大切に祀られている
住吉大社の神使はウサギ
アカルヒメは明じゃないか
明は聖徳太子の時代の漢風諡号によく使われている
これも
畿内説がいくら嘘を並べても無駄
後の時代にまとめて作ったことが既に判明している
729 :名無しさん@1周年 :2018/12/14(金) 07:07:46.83 ID:KIkBsuQN0
畿内説が心の拠り所にしている紀年銘鏡も、銅の成分を測定すると異なる年号の鏡で同一ロットの銅が使われており
後の時代にまとめて作成したことが判明w
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ronnrinomichibiki/1hpkouennshuu-arai-hi-gikyousetsu2016-1-17.pdf
> (5)複製鏡の存在(紀年鏡の場合)
> 国内出土の「魏の紀年鏡」で鉛同位体比が判明しているものが、5種9面ある。表4には相互間の鉛同位体比の類似係数の関係を示す。
> これを見ると,同笵鏡でも鉛同位体比が大きく異なり、同時に鋳造したとは考えられないものがある
> 反面、年号の異なる鏡に鉛同位体比が一致していて、同時に鋳造した可能性を示すものがある。
> すなわち、
> Aグループ(正始元年森尾鏡、景初4年辰馬鏡、青龍3年大田南鏡、青龍3年個人蔵鏡)
> Bグループ(正始元年柴崎鏡、景初3年広峯鏡)
> であり、年号鏡を後の時代に纏めて製造していたことを示唆している
>>953 ぴーみーほ
卑弥呼
比売大
無いとは言わないけど比売大神信仰についてもう少しなにかがわかってればな……
ホケノ山古墳は前方後円墳のプロトタイプだと聞いたのですが。。。
ホケノの小枝
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」
「ホケノ山古墳の中心埋葬施設から出土した小枝は3世紀~5世紀の樹木の小枝であり、
南西添え柱材は紀元前3世紀~同1世紀に該当する木材が使用されていた可能性が考えられる。」
>>950 というか狗奴国こそが近畿勢だよ
邪馬台国は熊襲の一族
魏志倭人伝はなんか南北おかしいから方角は気にするな
当時、邪馬台国は九州ほぼ全土を女王の政治力で支配していたんだ、プーチンだな
で、近畿を植民地化しようとしたが近畿勢はタッグ組むことで対抗
緩い連合とは言っても軍事的にはそれなりに協力し合ってたんだよ、まさにNATOだ!
卑弥呼死亡後も続いてたが、荒れてる間に近畿勢に徐々に押され九州北部は奪われた
で、トヨになって纏まりは良くはなったものの現状は変わらず中国に媚売ってた
ヤマトもそれに負けじと中華に媚売ったり半島と同盟組んだりした
この時の勢力図が百済ーヤマト勢、高句麗ー邪馬台国
要するにずっと続いてたんだよ、熊襲がハヤトに名前変えるまではな
>>954 知らんねそんなもの
大体前方後円墳自体が近畿から持ち込まれたもの
九州由来のものではない
おおかたその偽物魏鏡も近畿から持ち込まれたんだろ
妻国は神武の故郷だからそのよしみで近畿から下賜されたんじゃね
例えば
>>964 もうそんなネタ要らんわ猿
狗奴国は球磨国だ
>>957 貴人の名前は書かんのよ
「君」「上」「東宮」と言えば当代の固有人物のことだからわざわざ書く必要がない
>>954 それは単に卑弥呼が魏鏡を与えられた時期に
どこか他の勢力が羨ましくて真似して魏鏡を作って
贋作がバレたって話しでしかない
>>958 そんなこといわずに書いて欲しかったな
後世に残す歴史なんだから
ワカタケル大王は剣に刻まれてるだろ
>>954 因みに吉野ヶ里遺跡から
九州関係ないのに銅鐸が出土している
単なるサンプルとして近畿から一個だけ輸入したとか
そんなものかも知れない
>>967 >>959紀年名鏡に限らず畿内の古墳から出土する鏡一般の話
残念でした
スプリング8の結果は専門家に酷評されてるよ
> 650 :名無しさん@1周年 :2019/06/08(土) 14:37:02.32 ID:vlUn2Ajg0
>
>>618 > >そもそも黒塚古墳の三角縁神獣鏡は成分分析の結果、後漢鏡と同じ成分だと判明している
>
> あいにくだが、それは完全な誤りだと金属分析の専門家からとっくの昔に指摘されてるんだ
> しかも平成十六年には既に指摘されていたのに平成三十年になって同じ過ちを繰り返している悪質なゴッドハンド
>
>
http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/100.pdf > > 平成十六年五月、マスコミが一斉に泉屋博古館の発表をもとにして「卑弥呼の鏡、中国鏡と成分一致、製作地論争に新展開」と報じた。
> > 興味ある内容であり、さっそく関連する詳細な報告書「Spring-8を利用した古代青銅鏡の放射光蛍光分析」1)を入手し一読して驚いた。
> > すくなくとも、金属考古学を多少でも知る者にとっては、とても容認しがたい議論が展開されていた。
> > すなわち、微量成分のアンチモンが錫原料からもたらされたと言う前提そのものが完全に間違っており、
> > 当然のことながら、その前提から導かれた「三角縁神獣鏡は魏鏡」との結論も無意味のものであった。
> 中略
> > たまたま、泉屋博古館の続報論文について、金属製錬史分野の第一人者である植田晃一氏とお話する機会があったが、
> > 植田氏も泉屋博古館の主張について「実際を知らない愚論で、……こんな幼稚な論文が罷り通ったのでは、日本考古学の将来は真っ暗」
> > とまで述べておられた。
畿内説派が白旗を上げればもっと重要な研究にパワーを割けるのにこれだから文系脳は困る
>>973 まあウソつき近畿パーが言うことなんだから
そんなもんでしょね実態は
近畿パーはとにかくウソがヘーキな連中だからね
精神病だよこいつらガチで
>>962 ポジショントークだろうけど宇佐神宮がこの内容の公演主催するぐらいには否定しきれないって事
対馬から海で南に行く→北九州に上陸する→南に行く これはもう宇佐か熊襲しか残らんでしょ
>>972 銅鐸の鋳型が九州からも出土しています。九州にも銅鐸工房が有ったのかも。
>>975 江戸時代に諸国の人の性格などを記した「人国記」でも
大和国は嘘つきばかりと書いてありますね
>>978 いや単なるサンプルだろね
他で全く出ないんだし
>>961 あーこれが現実か
こんなのとっくにバレてるのに
延々と嘘松を垂れ流すのが
みなさんご存知精神病近畿パーなのであった
>>961 わろたw
案の定コピーだらけか
魏から101枚贈られたはずなのに何百枚もあるから怪しいと思ってたけど
倭国大乱前は大和国風土記にある、石津神と天津神の三都のまぐわい、婚姻による国作りの時代だろう
九州も近畿も東国も皆協力して国作りに励んでいたんじゃないか
倭国大乱の時代はミニ氷河期の時代
突然食糧難になったのかもな
日本書紀によると、神功皇后が、かつて「山門(やまと)」と呼ばれたこの地の土蜘蛛・田油津媛(タブラツヒメ)を討ったとのことです。また、その兄である夏羽(ナツハ)が軍勢を従えてやって来たのですが、妹が討たれたと知り、逃げ去りました。こちらに詳しく書いてあります。
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_trip_chikugo_0101.html 弟がいた卑弥呼、兄がいたタブラツ。
これが台与かその後継の邪馬台国だね。
タブラツはおそらく油津。
まだやってるのかよw
卑弥呼は天皇の先祖だよw
女系だとヤバいから大正になって神攻皇后を女帝から外したなw
邪馬台国の位置を示す具体的な回答を発見しました
日本人の解釈
中国人の解釈
>>994 関係あるかわかりませんが、馬韓の国の一つに「不彌国」とありました
魏志韓伝【馬韓】
馬韓在西 其民土著種植 知?桑作緜布
各有長帥 大者自名爲臣智 其次為邑借 散在山海間 無城郭
有爰襄国 牟水国 桑外国 小石索国 大石索国 優休牟?国 臣濆沽国 伯済国 速盧不斯国 日華国 古誕者国 古離国
怒藍国 月支国 咨離牟盧国 素謂乾国 古爰国 莫盧国 卑離国 占離卑国 臣釁国 支侵国 狗盧国 卑彌国
監奚卑離国 古蒲国 致利鞠国 冉路国 兒林国 駟盧国 内卑離国 感奚国 萬盧国 辟卑離国 臼斯烏旦国
一離国 不彌国 支半国 狗素国 捷盧国 牟盧卑離国 臣蘇塗国 莫盧国 古臘国 臨素半国 臣雲新国
如来卑離国 楚山塗卑離国 一難国 狗奚国 不雲国 不斯濆邪国 爰池国 乾馬国 楚離国。
凡五十餘国。
lud20250923125447ncaこのスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/newsplus/1685595727/
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