2017/7/23(日)12:00
Game*Spark
アトラスの手がけたRPGシリーズ最新作『ペルソナ5(Persona 5)』が海外でも評価を高めています。様々なサイトのレビューをスコア形式でまとめるサイトMetacriticでは、「マスターピース」「PS4で最高のRPG」といった賛辞の言葉とともに、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』と肩を並べる2017年のトップスコアをたたき出しています。
PS4のオールタイム・ランキングでも『メタルギアソリッドV』や『アンチャーテッド4』と並ぶ高いポジション。『ペルソナ2 罰』(83)、『ペルソナ3』(86)、『ペルソナ4』(90)、そして『ペルソナ5』(93)と、シリーズを重ねるごとにきれいにスコアが上がっているのも特徴です。
海外メディアGameSpotによるレビュー
すでに海外発売から数ヶ月が経過し、レビューらしいレビューは国内外にたくさんあるので、ここでは少し違うことを書いてみたいと思います。ちなみに筆者も100時間以上プレイし、すばらしい作品だと思っています。本稿は長文の内容となりますが、ネタバレはありません。
■『ペルソナ5』の“自然主義的”リアル
アトラスの新作RPG企画『PROJECT Re FANTASY』のコンセプトビデオでも触れられていますが、ペルソナは『真・女神転生』と併せ、「画一的王道」への対抗として生まれた作品でした。
ファンタジーと呼ばれる世界観においては、わたしたちが生きている「現実」に近いことは、リアリティの担保となりません。何が起こってもとりあえず成立する(したことになる)ファンタジー世界では、世界観の積み重ねによる既視感、それをとりいれる類型化によって、物語として成立するだけの説得力を持つことができます。要するに、どこかで見たことがあるような世界観によって、特定の世界観の自立は保たれるということです。
<UL>物語が成立しない、あるいはあまりにもたやすく成立してしまう環境において、物語は現実から離れ、自らを支える環境を再帰的に構築することでかろうじて生き残るのである。その環境においては、物語は現実に直面しないし、またする必要もない。
『ゲーム的リアリズムの誕生』(東浩紀著、講談社現代新書、2007年)73ページより引用</UL>
データベースから拾い上げ加工した要素の集積で、現実感を表現する「溢れかえる幻想世界」のRPG。スマホに“RPG”があふれる現在においても状況は変わっていませんが、今はここに「憧憬と追憶」―つまり「あの頃のRPGに似ていることへの正当化」が加わり、複雑な様相を呈しています。
そんな中でペルソナシリーズは、現代を舞台にした物語で異彩を放ってきました。『ペルソナ5』においても同様に、プレイヤーが生きている東京と同じ世界で、プレイヤーが経験した、あるいは経験している高校生活を舞台にした物語が展開されていきます。
『ペルソナ5』の強みは、異世界に対して「こんなのありえない」という違和感を堂々と表現できることにあります。ペルソナの力を発揮できる異世界は、実際に主人公たちが生きている現実とは異なる世界だという事実を、プレイヤーとゲームのキャラクターが共有できる。王道ファンタジーの異世界は、そこにいるキャラクターにとって現実ですが、ペルソナの異世界は異世界として存在します。
異世界があることで、対比的に現実のリアリティが強化されるというのも強みです。彼らが生活する世界にいるのは、ちょっと不良で正義の熱血漢、変人アーティスト、自分のイメージに悩む優等生、ひきこもりのオタク天才ハッカーといった仲間、インモラル教師やペテンの巨匠画家、悪徳政治家といった“彼らの正義に対する”敵。彼らのキャラクター造形は、よく見ればテンプレで既視感あふれるものです。
にもかかわらず、それに対しリアリティを感じるのは、とてつもない時間をかけて背景を描くことで、「キャラ」ではなく「キャラクター」として物語にとどまっていることがひとつの理由です。そしてもうひとつが、「ありえない」異世界との対比により、現実世界の「あるあるネタ=既視感」を「データベース」ではなく、「自分の経験」に近いものと錯誤する、つまり、ペルソナの物語を自然主義的な物語だと認識してしまうからだと思います。
自然主義的な物語は、ゲームやアニメといった枠とは異なるところで強固に存在しています。一般的な小説といえば自然主義的なものであり、ライトノベルと呼ばれる小説群はそれとは相容れないものとしてジャンル化していきました。文学は現代の社会を写すリアルなものであり、ラノベはそうではない、といった分断はより一層大きくなっています。
http://www.gamespark.jp/article/img/2017/07/23/74764/194686.html