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邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚


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1◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:14:19.56
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1638186223/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:16:02.83
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:16:35.65
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:17:06.73
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:17:38.44
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:18:10.15
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:18:49.08
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:19:22.10
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:19:56.37
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:20:29.36
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:21:01.67
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:21:33.97
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:22:04.04
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:22:36.90
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:23:37.41
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:24:08.98
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17日本@名無史さん2021/12/05(日) 22:24:10.60
邪馬台国は北部九州地域で結論が出ている、これを見て勉強してね
【ゆっくり解説】邪馬台国その1

@YouTube



【ゆっくり解説】邪馬台国 その2

@YouTube

;t=64s

【ゆっくり解説】邪馬台国 その3

@YouTube

;t=335s

【ゆっくり解説】邪馬台国その 4

@YouTube

;t=32s

【ゆっくり解説】邪馬台国 その5

@YouTube

;t=508s

18◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:24:40.99
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

19◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:25:13.43
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

20◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:25:46.56
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

21◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:26:17.55
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。

22◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:26:50.13
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

23◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:27:22.49
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

24◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:27:53.84
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

25◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:28:23.46
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

26◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:28:54.41
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

27◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:29:24.52
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

28◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:29:54.64
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

29◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:30:24.78
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

30◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:30:55.48
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

31◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:31:27.68
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

32◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:31:58.37
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

33◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:32:29.70
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

34◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:33:00.43
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

35◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:33:32.59
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

36◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:34:03.85
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

37◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:34:35.84
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚

38◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:35:06.71
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

39◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:35:37.75
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

40◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:36:09.25
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

41◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:36:40.37
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

42◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:37:11.45
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

43◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:37:43.00
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

44◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:38:17.11
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

45◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:38:48.57
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

46◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:39:19.61
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

47◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:39:52.28
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

48◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:40:23.69
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

49日本@名無史さん2021/12/05(日) 22:40:54.47
>>991
>不彌國の次に来るのは斯馬國だよ
奴国、不彌國、斯馬國・・・奴国
周旋5000里なんだ

これも間違い。
周旋5000里は、「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連」と書かれているように、
倭地の陸路部分の参問地の記載里数合計であり、
400余×2+302=2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)、
とぴったり計算が合うから。
つまり、對海國と一大國は二辺の海岸沿いを陸行している事になり、
奴國へは、伊都國からの移動の文言がないから移動しておらず、側副傍線國説明になっている、
という事とも一致している。

50◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:40:55.20
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

51◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:41:25.72
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

52◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:41:56.94
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

53◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:42:38.63
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

54◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:43:09.60
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

55◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:43:39.57
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

56◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:44:09.58
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

57◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:44:41.09
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

58◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:45:12.78
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

59◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:45:42.49
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

60◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:46:13.50
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

61日本@名無史さん2021/12/05(日) 22:46:41.39
>>998
どうやら。
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説は、
もう倭人伝を完全に無視のようだね

62◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:46:45.82
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

63◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:47:16.71
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

64◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:47:47.74
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

65◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:48:18.82
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

66◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:48:49.68
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

67日本@名無史さん2021/12/05(日) 22:48:57.65
>>1000
>大阪説の俺はそれで正しいと思ってるぞ
今日50個くらい書き込みしたな

「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説と同じく、
「大阪」説も
バツね。

68◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:49:23.90
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

69◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:49:55.16
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

70◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:50:26.71
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
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◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

71◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:50:58.63
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚

72◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:51:30.06
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

73◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:52:02.59
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

74◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:52:34.29
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

75◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:53:05.93
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

76◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:53:37.25
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有栫B崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

77◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:54:09.45
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
同空撮 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
建物B空撮 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
Dより西を望む 邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚

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78◆n7jxAxKCBhb6 2021/12/05(日) 22:54:42.47
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

79日本@名無史さん2021/12/05(日) 23:18:41.63
新唐書に日本は古の倭の奴国なりって書いてるから奴国が東遷したのかもな

80日本@名無史さん2021/12/06(月) 00:26:34.19
日本人は昔の倭人と書いてるんだよ

81日本@名無史さん2021/12/06(月) 00:28:02.81
日本書記でのヤマト政権の鏡の入手方法

・天岩戸にこもった天照を引き出す儀式のために鏡を作った
・垂仁天皇に新羅の王子が鏡を献上した
・仲哀天皇に筑紫の人が鏡を献上した
・神功皇后に百済から鏡が献上された

換言すると神代を除けば、
神功皇后が三韓征服するまでは
北九州人・朝鮮人がもたらす鏡頼りだったらしい

日本書記では三韓征服は3世紀のことだが
最低でも100年は古く誇張するのが
日本書記なので4世紀のことだろう

誇張を除けば「3世紀の鏡の入手は
北九州人・朝鮮人に頼っていた」が
ヤマト政権の認識らしい

自ら帯方郡にホイホイ行けた邪馬台国のような
大陸アクセス力はなかったらしい

82日本@名無史さん2021/12/06(月) 00:35:12.73
>>81
銅鐸どうやって作るんだよ

83日本@名無史さん2021/12/06(月) 00:38:59.66
神代を除いたら天照が天岩戸から出て来ない

84日本@名無史さん2021/12/06(月) 00:43:30.25
東遷が仮にあったとして九州と畿内はどういう関係だったの?
顔も知らない奴の所に九州からいきなり攻め込んだりしないだろ

85日本@名無史さん2021/12/06(月) 00:44:46.94
「辰韓者古之辰國也」「古之亡人 避秦役來適韓國 馬韓割其東界地與之」
「辰王治月支國」「其言語不與馬韓同」

辰國の王統が継続しているわけではない

86日本@名無史さん2021/12/06(月) 04:15:44.99
おそらく住の江とか難波津ら辺に九州系の本拠地があって、奈良にも本家的なのがあって、兄弟とか叔父甥でそれぞれ王権を主張してた的な感じなのかな
献上品の魚を奈良と大阪にどっちに持っていくかで揉めて腐らせた逸話の辺はそんな感じじゃないのかな〜

87日本@名無史さん2021/12/06(月) 06:14:34.30
>>82
日本書記には銅鐸の話がない
ヤマト政権は銅鐸を作ったことがないらしい

88日本@名無史さん2021/12/06(月) 06:26:34.72
>>83
日本書記「天皇が不老不死だったのは神代のことだけで
人代は普通に寿命があります」

つまり「神代は現実に適用できない例外」とするのが
日本書記の基本ポジションやろ

89日本@名無史さん2021/12/06(月) 06:26:50.38
>>84
攻め込んでたのかねー
平和的に制覇したと思うよ。
戦おうにも、畿内には鉄が少ないし武器の類も少ない。戦闘能力は格段に九州。
戦わずして勝つ

90日本@名無史さん2021/12/06(月) 06:34:55.96
>>88
その通り
記紀からの東遷は参考程度で良い。
しかし、西から来た、倭人と渡来人の連合体が畿内を制圧してヤマト王権を樹立した思うよ。

91日本@名無史さん2021/12/06(月) 06:41:06.92
>>77
建て替え、建て替えで、柱穴が増えてるのかもね。柱穴が同年代に掘られた証拠あるのかな
柱穴も小さいし、深さも無いし、基礎もやぐい。建て替え、建て替えで柱穴が多いだけかもな

92日本@名無史さん2021/12/06(月) 06:41:45.61
>>79
>新唐書に日本は古の倭の奴国なりって書いてるから奴国が東遷したのかもな

いえ、やはりちょっと違うでしょうね。
やはり倭人は、元は周代には燕の南にいて、周朝に暢草を献じるような部族であったのであり、
それが中国の戦国期にやはり戦乱から逃れて、半島南岸部から海峡付近に流浪して来て、
その中心部族の「氏」が「阿毎(≒アマ、天、海族のイ、伊)氏」で、
出雲王朝のNo.2であったが、天照らの「国譲り戦争」に勝利して独立し、
孫のニニギが能古島から姪浜やクシフルに天孫降臨して、
在地の縄文毛人蝦夷系の(奴人系の)猿田彦を味方にして、
怡土郡地域(後の伊都国と奴國地域≒委奴の地)に倭奴國を建国して、
後漢に遣使したんでしょうね。
つまり、倭奴國(委奴國)は、
天孫族の倭(≒委)人と在地の奴人(≒毛人蝦夷の猿田彦ら)の合同国であり、
しかし、2世紀末の倭國亂の時に、小国で強国の(糸島の)伊都国と、
大国の(日向峠西麓から早良平野及びその周辺丘陵地の)奴國に分裂したんだろう、
という事になるんですよ。
ちなみに、呉王夫差の遺民の姫氏(後の松野氏)は、その系図に拠れば、
火の国山門に上陸後、北部九州全域に広がって、
一部は委奴の地の阿毎氏らとも合同して、更にまた一部が大野の地に別れて、
倭奴王や倭国王帥升らも出て、更に卑弥呼(刀良という名前)が出て、
弟氏や熊襲部族や難升米や伊聲耆や掖邪狗の名前まであり、
壹與や倭の五王らの名前もあり、
また、倭奴の地の阿毎氏からは、記紀に拠れば、ニニギの子らの海彦山彦らは日向の地を征服して、
更にウガヤフキアエズの次の五瀬命やナルタ姫や神武らは、
一旦糸島の委奴(怡土)の地に戻ったが、余りうまくいかず、「猶東に行かむ」として、
(ナルタ姫を残して)岡田宮や宇佐から、「東征毛人」に出立して行って、
生き残った神武らがかろうじて大和の磐余の地を占拠して、
九州倭國から「地方の市を監督する大倭職」を拝命して、
紀元前91年頃に、分家倭種の別種の旧小国を建国した。

93日本@名無史さん2021/12/06(月) 06:42:06.37
>>89
>戦おうにも、畿内には鉄が少ないし武器の類も少ない。

九州の鉄器は、鉄器王国「阿波」から下賜されたもの。 九州での鉄器製作、ほとんど無し。

戦闘能力は格段に「阿波」。  戦わずして勝つ。  @阿波

94日本@名無史さん2021/12/06(月) 07:27:13.35
>>91
>建て替え、建て替えで、柱穴が増えてるのかもね。柱穴が同年代に掘られた証拠あるのかな
>柱穴も小さいし、深さも無いし、基礎もやぐい。建て替え、建て替えで柱穴が多いだけかもな

そんなこというのは九州説に頭が凝り固まった何も知らない妄想素人老人だけだから
何も異議を受ける事なく歴史教科書に載り
全国の学校で子供達が勉強している

95日本@名無史さん2021/12/06(月) 07:35:02.61
>>94
>何も異議を受ける事なく歴史教科書に載り
>全国の学校で子供達が勉強している

畿内の鉄器は、鉄器王国「阿波」から下賜されたもの。 畿内での鉄器製作、ほとんど無し。

戦闘能力は格段に「阿波」。  戦わずして勝つ。  @阿波

96日本@名無史さん2021/12/06(月) 08:15:24.49
>>91
脳キウス人間に特にお勧めします

1.投稿する人は裏どりしてから
2.その投稿に疑問を抱く人は調査してから、、

97日本@名無史さん2021/12/06(月) 08:27:45.52
邪馬台国九州説のスレはなんで無いの?

98日本@名無史さん2021/12/06(月) 08:33:56.49
>>97
邪馬台国論争は終結しているんだ
気付いてない人が邪馬台国畿内説スレを建て続けている
解説はユーチューブにある

【ゆっくり解説】邪馬台国その1

@YouTube



【ゆっくり解説】邪馬台国 その2

@YouTube

;;t=64s

【ゆっくり解説】邪馬台国 その3

@YouTube

;;t=335s

【ゆっくり解説】邪馬台国その 4

@YouTube

;;t=32s

【ゆっくり解説】邪馬台国 その5

@YouTube

;;t=508s

99日本@名無史さん2021/12/06(月) 08:55:21.68
歴史教科書に載り
全国の学校で子供達が勉強している「纒向の掘っ立て宮殿」へようこそ!

100日本@名無史さん2021/12/06(月) 08:59:01.24
>>97
説としてはもう亡んでるから

101日本@名無史さん2021/12/06(月) 09:21:25.78
【第5回 邪馬台国は阿波だった!?】
藤井 榮(ふじい さかえ) NPO法人「阿波国古代研究所」
『畿内説、九州説は頭が悪いんです ぷぷぅ〜w』


@YouTube


102日本@名無史さん2021/12/06(月) 09:29:30.84
千葉の古墳からユダヤ人のハニワが見つかる
http://2chb.net/r/news/1638749489/

103日本@名無史さん2021/12/06(月) 09:37:40.30
>>81
>日本書記でのヤマト政権の鏡の入手方法
・天岩戸にこもった天照を引き出す儀式のために鏡を作った
・垂仁天皇に新羅の王子が鏡を献上した
・仲哀天皇に筑紫の人が鏡を献上した
・神功皇后に百済から鏡が献上された
換言すると神代を除けば、神功皇后が三韓征服するまでは北九州人・朝鮮人がもたらす鏡頼りだったらしい
日本書記では三韓征服は3世紀のことだが最低でも100年は古く誇張するのが
日本書記なので4世紀のことだろう
誇張を除けば「3世紀の鏡の入手は北九州人・朝鮮人に頼っていた」がヤマト政権の認識らしい
自ら帯方郡にホイホイ行けた邪馬台国のような大陸アクセス力はなかったらしい

成程。

104日本@名無史さん2021/12/06(月) 09:42:21.69
>>84
>東遷が仮にあったとして九州と畿内はどういう関係だったの?
顔も知らない奴の所に九州からいきなり攻め込んだりしないだろ

畿内なんて存在もしなかった(オレオレ詐欺の)嘘つき騙し文言であり、
大和は、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」で征服された別種の倭種の旧小国であり、
地方の市を監督する大倭職だった国。

105日本@名無史さん2021/12/06(月) 09:44:56.72
>>85
>「辰韓者古之辰國也」「古之亡人 避秦役來適韓國 馬韓割其東界地與之」
「辰王治月支國」「其言語不與馬韓同」

ふーん。

106日本@名無史さん2021/12/06(月) 09:48:09.68
>>86
>おそらく住の江とか難波津ら辺に九州系の本拠地があって、
奈良にも本家的なのがあって、
兄弟とか叔父甥でそれぞれ王権を主張してた的な感じなのかな
献上品の魚を奈良と大阪にどっちに持っていくかで揉めて腐らせた逸話の辺は、
そんな感じじゃないのかな

ふーん、そんな記録もあったのでしたか。

107日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:05:15.32
>>93
嘘つき
証拠が何も無い

108日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:11:25.68
>>94
>>建て替え、建て替えで、柱穴が増えてるのかもね。柱穴が同年代に掘られた証拠あるのかな
>柱穴も小さいし、深さも無いし、基礎もやぐい。建て替え、建て替えで柱穴が多いだけかもな

>そんなこというのは九州説に頭が凝り固まった何も知らない妄想素人老人だけだから
何も異議を受ける事なく歴史教科書に載り
全国の学校で子供達が勉強している

そうか。今の子供らが一番可哀そうなんだな。
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説を教え続けられて、
成人したら、殺し合い戦争極右思想の皇国史観宗教人間になって死んで行く事になるんだから。

109日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:19:29.67
>>108
定説をいくら罵っても、あなたの作った偽日本史を信じてくれる人はいないよ

110日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:21:34.45
>>97
>邪馬台国九州説のスレはなんで無いの?

私の投稿も、Yahoo掲示板時代から2chでも5chになってからも、
長期投稿拒否を何度も食らったし、現在もしょっちゅう警告されているし、
他の九州説の方のスレも、
かなり「管理者からの警告や拒否」を食らっているようだったから、
なんでしょ?。

111日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:26:17.06
全国の学校で子供達が勉強している、「纒向の掘っ立て宮殿」へようこそ!

112日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:27:17.13
九州の鉄器は、鉄器王国「阿波」から下賜されたもの。 九州での鉄器製作、ほとんど無し。

戦闘能力は格段に「阿波」。  戦わずして勝つ。  @阿波

113日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:34:58.93
>>110
ここはいくら書き込んでもエラーは出ないだろ

114日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:37:32.31
>>88

了解、天照が関わる神武東征まで無しで
考古学的に畿内と関係があるのは、3世紀では筑前だけだな

115日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:53:58.23
>>114
日向もあるよ

116日本@名無史さん2021/12/06(月) 10:58:32.89
>>115

どんな?

117日本@名無史さん2021/12/06(月) 11:04:58.03
>>116
西都原81号

118日本@名無史さん2021/12/06(月) 11:28:02.02

119日本@名無史さん2021/12/06(月) 11:34:18.51
>>118
調査団長の意見が庄内の新しいところで3世紀半ばから後半
もっと新しいと考える調査メンバーと意見が割れたが
新聞発表は団長の意見

120日本@名無史さん2021/12/06(月) 11:35:04.46
>>102
>千葉の古墳からユダヤ人のハニワが見つかる
http://2chb.net/r/news/1638749489/

貴重な情報、有難う御座います。

121日本@名無史さん2021/12/06(月) 11:41:22.04
>>113
>ここはいくら書き込んでもエラーは出ないだろ

そうか。
大和説者は「いくら書き込んでもエラーは出ない」のかい?。
私など、もう数え切れない位、拒否されたし、
最近も、どうやら危ない。




122日本@名無史さん2021/12/06(月) 11:55:47.13
>>121
内容に問題が有るのだろう

123日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:06:55.88
基本的に首都は敵国に近いエリアにある
アフリカの玄関付近にエジプトやイスラエル
ロンドンとパリも比較的近く、ベルリンもポーランド寄り
朝鮮半島の入口に平壌、ソウルも北朝鮮寄り
ワシントンの位置もユーラシア大陸からの玄関に値する

倭国(日本)の首都は伊都国や奴国であり、朝鮮半島に近い現在の福岡県である
臨時的に女王を起用し邪馬台国を首都とした時期があるのであれば
その位置は福岡県付近以外は現実的ではない

124日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:06:56.42
昨日このスレに50くらい書き込みしたけどエラー全く出ないし今まで出た事ない
このスレの住人に出て行けとは2回ほど言われたけど

125日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:24:48.10
>>123
それのどこが理由になるんや?

126日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:47:13.05
>>119

2005年8〜9月の発掘調査で、多量の土器片が出土しました。
調査の結果、「葬送儀礼に使われた土器片は布留1式と判明し、
81号墳は4世紀初頭前後の築造と推定される。」と訂正されました。
https://blog.goo.ne.jp/noda2601/e/74c95cf31d282f7bc0730c248d750d63

みたいだけど?

127日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:50:29.28
九州の鉄器は、鉄器王国「阿波」から下賜されたもの。 九州での鉄器製作、ほとんど無し。

戦闘能力は格段に「阿波」。  戦わずして勝つ。  @阿波

128日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:52:49.80

129日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:54:03.35
畿内に首都を置くメリットが無いって事でしょ
置くとしても大陸との関係が良好になってからじゃないとデメリットでしかない

130日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:57:42.89
>>126
その報告書は見てないな
話を聞いた北郷さんは布留1だろって意見だったから
まあ今日び布留1も270年くらいからって話になってるけどね

131日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:58:04.55
>>129
伊都国ならあるのか?
逆だろ

132日本@名無史さん2021/12/06(月) 12:58:26.30
中央集権にはなってないのでどこかに首都を置くということは無理

133日本@名無史さん2021/12/06(月) 13:03:04.69
古墳の築造技術(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を目の当たりにして、

関東の土民も、朝鮮半島の土民も、九州の土民も、畿内の土民も、

「倭人(阿波勢力)」の超先進文化の移入を喜び受け入れ、尊敬し、「倭人(阿波勢力)」を王と仰いだことだろう。   @阿波

134日本@名無史さん2021/12/06(月) 13:04:46.02
大和朝廷はどうやって出来たか?
戦って天下統一したんじゃ無いよな
元々権力機構があって徐々に強めていった

135日本@名無史さん2021/12/06(月) 13:07:43.77
>>134
>大和朝廷はどうやって出来たか?

倭国(阿波)から遷都(避難疎開)して出来た。   @阿波

136日本@名無史さん2021/12/06(月) 13:15:59.68
庭石国のは小っちゃいから人が少なくていい

137日本@名無史さん2021/12/06(月) 13:16:12.87
>>126
西都原81号墳墓が布留1式ならおもしろい。

ちょうど景行天皇の九州遠征の諸県君泉媛の歓待時期と合う。
4世紀初頭なら景行天皇の時期より若干古いとなろうが、
泉媛を歓待させたのはその父親であろうから、時代は合う。

また西都原が5世紀の仁徳の妃・髪長媛と父親の諸県君牛諸井の時期に、
男狭穂塚・女狭穂塚という最盛期を迎えている。
九州最大墓の男狭穂塚・女狭穂塚は髪長姫と牛諸井であろう。

西都原古墳群とは大和朝廷の地方外戚である諸県君一族の墳墓群で間違いないであろう。
他に被葬者候補は全くいない。

138日本@名無史さん2021/12/06(月) 13:19:03.40
牛飼ってたんだろうな

139日本@名無史さん2021/12/06(月) 13:25:31.90
>>134
>大和朝廷はどうやって出来たか?

元々は葛城に王権があった。
それは神武以降、6代孝安までの宮が奈良県御所市に集中してることでも分かる。
ただし彼らは大王ではない、この時代の王は、崇神の時代まで続いていた大物主。

その最後の大物主を、三輪山の麓で崇神が殺した。
だから大神神社の摂社の狭井神社は大物主の荒魂を祀る。
荒魂は大往生した普通の死に方では発生しない、殺されたからこそ発生する。

以降、現代まで、神殺しの崇神の末裔が「天皇」となっている。
また崇神は山陰出雲で振根という国主を殺している。

これらのことを総じて「出雲の国譲り」というわけだ。

140日本@名無史さん2021/12/06(月) 13:30:03.87
>>139
組織の中の権力争いの暗殺は大いにあり得る話しだと思うのよ
でも東遷とか現実的じゃない

141日本@名無史さん2021/12/06(月) 14:15:25.08
>>140
地方に赴いた分家が上洛ってパターンはあるけどね

142日本@名無史さん2021/12/06(月) 15:16:00.08
>>94
境界知能は黙ってろよ
恥かくぞ

143日本@名無史さん2021/12/06(月) 15:19:52.22
>>109
畿内説互助会の定説だろ!畿内説の学者でも箸墓が卑弥呼の墓としない人もいるし、、

144日本@名無史さん2021/12/06(月) 15:21:02.42
>>142    ↑
罵るだけでなんにも反論できない人が
境界以下の知能で恥をかいている事実

145日本@名無史さん2021/12/06(月) 15:26:48.23
三世紀の遺跡や発掘物から
九州と畿内が戦ったら、九州の圧勝だな^_^

146日本@名無史さん2021/12/06(月) 15:28:26.63
全国の学校で、子供達が勉強している「纒向の掘っ立て宮殿」へようこそ!

147日本@名無史さん2021/12/06(月) 16:14:43.07
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
★邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸★

148日本@名無史さん2021/12/06(月) 16:18:07.55
>>147の模式図だyo!【倭人伝の「女王之所都≒東冶」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」

149日本@名無史さん2021/12/06(月) 16:18:17.95
3世紀の倭の範囲に関西は入っていない
3世紀の倭の範囲は朝鮮半島南部地域と九州地方
中国地方でも倭種

150日本@名無史さん2021/12/06(月) 16:21:24.82
>>147
「南水行二十日」「南水行十日陸行一月」は帯方郡からのもの
12000里行くのに掛かる時間が「水行二十日」「水行十日陸行一月」なんだよ
目的地は伊都国、奴国を含む女王国

151日本@名無史さん2021/12/06(月) 16:21:31.92
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)

152日本@名無史さん2021/12/06(月) 16:25:59.31
>>150
読者にそんな事わかんね

153日本@名無史さん2021/12/06(月) 16:27:17.14
>>151
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
>>148
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が「中国大陸側の行程」を倭国に転用した忖度(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで、拍子抜けですね( *´艸`)

154日本@名無史さん2021/12/06(月) 16:43:25.44
>>150
>「南水行二十日」「南水行十日陸行一月」は帯方郡からのもの

それでよいとおもう。
ただ、陳寿の文章にしては、いささか荒い気がする。三世紀原文にはもう少し丁寧な説明が有ったのではないか。
なのに、講談調に編曲した12世紀写本では、エイヤッと削って、講談師が喋りやすいようにしちゃったのではないかと・・・、
(推定復元例)
「南有投馬国、自郡至水行二十日」「南有邪馬台国女王之所都、自郡至水行十日陸行一月」

155日本@名無史さん2021/12/06(月) 16:45:16.21
>>148
陳寿の蛇足(忖度)…中国大陸沿岸の行程日数を倭国の地理として描写→目的は「その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」

156日本@名無史さん2021/12/06(月) 17:38:32.70
卑弥呼の冢=祇園山古墳
台与の墓=那珂八幡古墳2号主体(1号主体は父「男弟」)
神武の墓=箸墓(台与から倭王譲位→吉備東征後)

157日本@名無史さん2021/12/06(月) 17:41:37.24
>>156
おいおい、お墓ばかりかよww  わびしい説じゃのうww  わははははは   @阿波

158日本@名無史さん2021/12/06(月) 17:42:19.52
>>156
台与から倭王を譲位された投馬国王(神武)東征後、倭迹迹日百襲姫が追葬された箸墓の断面図(北側から)
……………………….______
5 段目……………-/神武+百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

159日本@名無史さん2021/12/06(月) 17:44:24.54
神武東征後に誕生したヤマト纏向王権は、その後国内統一を果たすと、
神功皇后によって倭王権は再び筑紫甘木朝倉に西遷し、倭の五王や阿毎多利思比孤らは九州に留まって半島派兵を推し進めた。
しかし天智の代になって唐と新羅が同盟を結び、百済を滅ぼしてしまったため、白村江で完敗し、再び大和に東遷した。

まとめると、

筑紫邪馬台国→神武東征(東遷)ヤマト纏向王権…国内統一
筑紫甘木朝倉←神功三韓征伐(西遷)倭の五王・阿毎多利思比孤in阿蘇
筑紫太宰府→天智白村江完敗(東遷)…畿内中心の歴史のはじまり

160日本@名無史さん2021/12/06(月) 17:50:11.18
>>159
もしかしたら記紀は、神武東征(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→摂津→大和)が、その狗奴国を降伏させた台与の命令ではなく、張政(魏帝)の命令だったことを隠そうとしているのかも!

倭人伝
(3代皇帝曹芳)正始8(247)年、王頎(おうき)が帯方郡の太守となった。親魏倭王の卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼が従わないため、載斯烏越らを帯方郡に遣わして、互いに攻擊しあう状況を説明した。
そこで王頎(おうき)は塞曹掾史の張政らを遣わして、皇帝詔書・黃幢(曹魏の皇帝旗)を齎し、難升米に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、どうすべきかを解り易く説明した。
張政が倭に到着した時、卑弥呼が死んだので大いに冢をつくった。径は百歩あまり、殉死した奴婢は百人あまり。男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺し合い、千人あまりが殺された。
その後、卑弥呼の宗女で13歳の台与を立てて王とすると、国中が従った。政(張政)らは檄(ふれぶみ)の内容を13歳の台与に解り易く、具体的に説明した。
新女王台与は大夫の善中郎将・掖邪狗ら20人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。
彼らはそのまま台(洛陽)まで行き、男女生口30人、白珠5000孔、青大勾珠2枚、異文雑錦20匹を皇帝陛下(3代曹芳)に献上した。

倭人伝には「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南。去女王(之所都)四千里」とあるから、王頎(おうき)が渡した檄(ふれぶみ)の内容とは、

「朕の忠実な僕である親魏倭王・卑弥呼よ、本州や四国を第2第3の狗奴国としないために、朕の後ろ盾がある今のうちに武勇に優れた将軍を立て、急ぎ征服し平定しておきなさい(魏の皇帝曹芳より)」

161日本@名無史さん2021/12/06(月) 18:12:41.58
卑弥呼と卑弥弓呼は個人的に大嫌いだっただけで卑弥呼が死んでしまえば問題も無くなったって感じだろ

162日本@名無史さん2021/12/06(月) 18:15:37.53
>>161
その通り!  「壹與」の時代には、元の鞘に収まる。   @阿波

163日本@名無史さん2021/12/06(月) 18:19:56.16
戸数は奴国2万戸とか里数で書いてある方は信用してない
集落で2万戸なんて有り得ない
でも投馬国5万戸と邪馬台国7万戸は信用してる
投馬国は朝鮮半島南部の倭人国家だし邪馬台国は日本だから

164日本@名無史さん2021/12/06(月) 18:34:21.65
卑弥呼と卑弥弓呼は王様候補の二人とか近しい人物だと思うんだよね
張政が来たのは魏が倭王として認めてるのは卑弥呼の方だよって事をはっきりさせる為

165日本@名無史さん2021/12/06(月) 18:37:13.43
>>164
>近しい人物だと思うんだよね

「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3姉弟。  
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。   @阿波

166日本@名無史さん2021/12/06(月) 20:02:20.55
>>145
>三世紀の遺跡や発掘物から
九州と畿内が戦ったら、九州の圧勝だな

その通り
九州北部が倭国に属する事に異論を唱える学者はいないであろう。
同じ倭国で、なぜ畿内が文明的に劣っていたのか。
それは、畿内は倭国に属さない別の文化圏だからだ。

また、山陰地方や山口、広島、四国地方を外して、いきなり畿内に邪馬台国は無い。邪馬台国が畿内なら魏使は北部九州同様にこれらの地域を記述したであろう。

167日本@名無史さん2021/12/06(月) 20:03:05.65
>>145
>三世紀の遺跡や発掘物から
九州と畿内が戦ったら、九州の圧勝だな

その通り
九州北部が倭国に属する事に異論を唱える学者はいないであろう。
同じ倭国で、なぜ畿内が文明的に劣っていたのか。
それは、畿内は倭国に属さない別の文化圏だからだ。

また、山陰地方や山口、広島、四国地方を外して、いきなり畿内に邪馬台国は無い。邪馬台国が畿内なら魏使は北部九州同様にこれらの地域を記述したであろう。

168日本@名無史さん2021/12/06(月) 20:03:27.31
>>122
笑わすなw

169日本@名無史さん2021/12/06(月) 20:17:29.28
>>140
>でも東遷とか現実的じゃない

神武の東征を証明してみろと言われたら、それを証明するものはほとんどない。
しかし一つだけあるといえばある。
日本書紀には神武が東征時に和歌山で名草姫を殺していることが記されている。
地元の伝承では頭、胴体、足を切り離される残忍な方法だったようだ。
この話は事実だと思われる。
なぜなら崇神の娘、豊鍬入姫命が巡歴したいわゆる元伊勢に、和歌山の奈久佐浜宮がある。
これは豊鍬入姫命が祖先の神武の蛮行により惨殺された名草姫の怨霊の慰霊に行ったとしか考えられない。
他に唐突に和歌山に行く理由が見当たらない。

つまり神武東征は史実であった。

170日本@名無史さん2021/12/06(月) 20:24:37.70
北部九州の倭人を舐めすぎw

ぶつ斬りにしたったぜwww

汚物は消毒だぁあ!!!

ひゃっはーーーwww

171日本@名無史さん2021/12/06(月) 20:25:28.85
>>169
>日本書紀には神武が東征時に和歌山で名草姫を殺していることが記されている。


日本書紀のどこにも、和歌山などと書かれていない。

結局、筑紫も出雲も日向も阿蘇も隼人も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。

その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。  わははははは   @阿波

172日本@名無史さん2021/12/06(月) 20:36:48.38
>>171
はいはい、名草姫も阿波にいたんだね。

そろそろ徳島県を日本から切り離し、太平洋に放逐すべきだと思う。
どこにでも好きなところにいけ、徳島県民よ!みたいな。

だいたい近畿の天気予報で徳島が入ってくることが嫌だ。
大阪府民全員がそう思っている。
徳島だけ画面にボカシを入れるべきだと思う。

173日本@名無史さん2021/12/06(月) 20:39:46.64
>>172
>はいはい、名草姫も阿波にいたんだね。

だろうな。

お前もその後付け地名に踊らされている、あほ。  わははははは   @阿波

174日本@名無史さん2021/12/06(月) 20:45:20.91
パナソニックが発売する新しいテレビは画面の左下だけ切り取った変則5角形だ。
名付けて「Exclusion(除外) 徳島」

徳島の天気予報なんか知りたくないという近畿の住民の圧倒的な声に押され、
パナソニックの技術者が作ったものだ。

パナソニックのHPにも載ってるが今はメンテナンス中なので見れない。

175日本@名無史さん2021/12/06(月) 21:28:20.59
>>145

九州という纏まりがないからな

176日本@名無史さん2021/12/06(月) 21:34:59.81
>>166


>>166

筑後南部や唐津以外の肥前は倭国には属してない
畿内と親密な博多湾沿岸と交流がないから

177日本@名無史さん2021/12/06(月) 21:51:38.38
根こそぎ生口にしたったぜw

178日本@名無史さん2021/12/06(月) 21:55:57.64
北部九州倭国に逆らった者には

降伏すら許さん!!

179日本@名無史さん2021/12/06(月) 22:08:22.39
p@おぽ

180日本@名無史さん2021/12/06(月) 22:31:30.78
>>920 
http://zeusmatsuri.gajira.com/46215

エ口ボディwwwwwwwwvvvvvwwwwwwwwwwwwww

181日本@名無史さん2021/12/06(月) 22:54:34.15
一人一九州作り話の特に肥人国や筑紫後(つくしのみちのしり)国は「支配」という語をよく使うが
博多湾沿岸が後(しり)に支配されてる考古学的根拠や
佐賀平野が熊本平野や高千穂の勢力に支配されてる考古学的根拠というのを出してみたらいい

182日本@名無史さん2021/12/06(月) 23:22:08.06
平原女王が突出していて同時代にそれに並ぶものがいない

183日本@名無史さん2021/12/06(月) 23:35:42.09
平原1号墓は200年頃の築造

184日本@名無史さん2021/12/06(月) 23:37:11.17
それはお前の迷言

185日本@名無史さん2021/12/06(月) 23:40:49.95
これは学者の推定年代
おまえはただのど素人

186日本@名無史さん2021/12/06(月) 23:42:08.11
ほう、どの学者がどの論文で述べておるのだ?

187日本@名無史さん2021/12/06(月) 23:43:02.67
柳田と久住

188日本@名無史さん2021/12/06(月) 23:47:24.83
で、その論文のどこでどのように200年頃の築造と証明されている?

189日本@名無史さん2021/12/06(月) 23:54:26.74
柳田は著書でも講演でも200年頃というのは言っている
久住はTA期の終わりごろ

190日本@名無史さん2021/12/06(月) 23:58:14.15
>>189
で、論文のどこでどのように200年頃の築造と証明されている?

191日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:00:06.75
>TA期の終わりごろ

平原1号墓では、土器が出土していないのになぜわかる?

192日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:00:42.53
いくつかの論文で平原1号の年代には書いてるから全部読んだらいい

193日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:01:46.66
平原1号は周溝底

194日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:02:09.19
>>192
逃げたね〜♪

195日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:03:45.11
平原女王墓なら、超大型内行花文鏡が出てる。
畿内の大型内行花文鏡が4世紀だから、
4世紀後半だろう。

196日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:04:49.56
いつまでもど素人年代を言い張るな

197日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:07:01.81
>>196
だから学術的に証明してみなよw

みーんな見てるよ〜♪

198日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:10:23.75
遺跡を調査した学者や出土遺物を実見して学者が推定した年代が学術的築造年代
ど素人の出る幕はない

199日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:10:58.83
>>198
だから学術的に証明してみなよw

みーんな見てるよ〜♪

200日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:12:44.34
妙だな。

ここぞとばかりに遺物の解析結果や

他の遺跡との比較検討結果を持ち出して、

全力で年代鑑定をまくしたててくるのかと思いきや・・・

あれ???

201日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:13:09.71
学者ではない俺が証明することじゃない

202日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:14:40.30
証明できない。

お返事いただきましたーーー。

203日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:16:12.95
耳トウで2世紀中旬以降ってわかってんだろ。

204日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:17:14.68
だからなんだ?w

205日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:20:00.88
八葉の内行花文鏡が他に無いから比較のしようもない。

206日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:22:56.61
まあ卑弥呼だろうな。

207日本@名無史さん2021/12/07(火) 00:30:49.31
200年頃の平原1号に錆色塗装偽物漢鏡が埋められたころから
博多湾中東部の遺跡に山陰、瀬戸内、畿内第X様式、東海系の土器の搬入が増える

208日本@名無史さん2021/12/07(火) 01:20:43.03
平原は女性で鏡が一緒に埋葬されてたから可能性があるって事だろうが
鏡自体は珍しくもないしまあ違うでしょ

209日本@名無史さん2021/12/07(火) 01:38:38.68
耳璫は非漢民族の風習で女性だけのものではない

210日本@名無史さん2021/12/07(火) 02:41:41.49
男の人のお墓にあんまり装身具は入れないんじゃないかな

211日本@名無史さん2021/12/07(火) 03:24:50.45
なぜか日本の考古学では
謎の土器の編年ばかりが横行してるけど
放射炭素年代測定で検証されてない年代は信用できないな

212日本@名無史さん2021/12/07(火) 04:00:21.31
>>208
国宝

213日本@名無史さん2021/12/07(火) 04:06:52.16
>>211
土器じゃ無く、付着物でしょ。
炭素年代が正しいとして、それ以前にその土器はあったと言う事であろう。
また、その土器の付着物から分かる事は当時、人が居たと言う証拠だけである。
日本で唯一土器で煮炊きしてたのはその地域だけでは無いので、ただ人が居た程度の事。
発掘状況にもよるが後世で持ち込まれた可能性もある。

214日本@名無史さん2021/12/07(火) 05:25:27.70
>>200
テンプレに書いてあるからだよ
くり返さないだけ

215日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:03:51.66
>>214
テンプレ作る阿呆に信ずる阿保
畿内説は阿保ばっかり

216日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:15:33.78
>>187
>柳田と久住

平原1号に関する柳田の年代比定は、確か、
「耳あて?」での中国での編年(200年頃)か?が根拠であった筈であり、
そんな「装身具の個人的なお好みのお宝」では、
明帝の詔書や印鑑や鏡などのような公的な文物ではなく、私的に伝来したものになるのであり、
という事は、中国での流行よりもある程度の時間が経っており、
それがその使用女性が亡くなってから副葬された事になるから、
50年位は後の年代根拠にしかならないもの。
そして、そんなものを根拠にして、平原1号の墓形態や「大量の玉と鏡の存在」という、
同時代的な絶対的証拠を隠蔽した柳田らは、まあ、
「半分詐欺学者だ」と言われても仕方がないだろうなあ。
中国での流行よりも

217日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:19:57.63
年代測定は考古学者が言ってるのをど素人が否定できるものは無い
ただ可能性があると言ってるのを鵜呑みにするのも難しい
だからどっちの立場でも絶対的な根拠にはならない
大阪の古墳みたいに周辺に比較出来るのがたくさんあれば信憑性も高まるんだろうが

218日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:28:25.58
>>213
まったく知識がないなら九州説は黙っていれば良いのに
恥をかかなくて済む

219日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:29:01.98
>>198
>遺跡を調査した学者や出土遺物を実見して学者が推定した年代が学術的築造年代
ど素人の出る幕はない

耳あて装身具のような、伝来での使用装身具の副葬を年代根拠にして、
墓形態や「大量の玉と鏡の副葬」という年代比定の論拠をこっそり隠す、という、
オレオレ詐欺のようなインチキ年代比定をした柳田や久住らの、
半分詐欺大和説学者らの出る幕はない。

220日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:29:21.32
>>217
日本の考古学者は専門家だが
だからといって信用できるかというと別

英語版ウィキペディアの「放射性炭素年代測定」の記事によると
海外では「放射性炭素年代測定の開発は、考古学に大きな影響を与えました
しばしば「放射性炭素革命」と呼ばれます」というほどの影響があったのに、
日本の邪馬台国議論ではほとんど影響がない

日本の考古学者は炭素年代測定を避けている

今までの土器の編年が崩されるのを恐れて、
そうしてるなら信用できんわ

221日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:31:21.31
>>216は完全にデマ

222日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:31:26.11
>>216の小訂正
>柳田と久住

平原1号に関する柳田の年代比定は、確か、
「耳あて?」での中国での編年(200年頃)か?が根拠であった筈であり、
そんな「装身具の個人的なお好みのお宝」では、
明帝の詔書や印鑑や鏡などのような公的な文物ではなく、私的に伝来したものになるのであり、
という事は、中国での流行よりもある程度の時間が経っており、
それがその使用女性が亡くなってから副葬された事になるから、
50年位は後の年代根拠にしかならないもの。
そして、そんなものを根拠にして、平原1号の墓形態や「大量の玉と鏡の存在」という、
同時代的な絶対的証拠を隠蔽した柳田らは、まあ、
「半分詐欺学者だ」と言われても仕方がないだろうなあ。

223日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:52:21.43
>>220
総論だけの各論なし
具体的内容なし
九州説の恨み節が信用されない理由は、これ

224日本@名無史さん2021/12/07(火) 06:57:05.60
>>222
だから、そういうデマを連呼するのが
全部詐欺師と言われても仕方がない

225日本@名無史さん2021/12/07(火) 07:06:33.56
>>223
一応、畿内説では纒向の炭素年代測定をしてるが
畿内説も北九州を畿内が支配してるか
どうかの判断の必要があるので
九州関連の炭素年代測定を避けてる限り
畿内説・九州説ともに正確性を欠いた議論のままやろ

226日本@名無史さん2021/12/07(火) 07:12:08.68
>>225
纒向も卑弥呼の時代と合致する可能性があるでしょ
それで確定してるかのように言うのは違うでしょ

227日本@名無史さん2021/12/07(火) 07:21:49.86
>>176
>筑後南部や唐津以外の肥前は倭国には属してない
>畿内と親密な博多湾沿岸と交流がないから

これは、現代人が現代社会を前提に古代を論評して生ずる、典型的な錯覚だ、
倭国大乱が示すように、共立以前は部族社会/種族社会・・、つまり周りは全て敵であった。
簡単に言えば、他国支配も他国交流も多国間連携もなく、単に同種族の国邑のみが連携し、暴力を以て周囲と対立していただけ。
あえて現代でいえば、アフガンとか半島の彼の国のような姿に近い。

228日本@名無史さん2021/12/07(火) 07:21:53.55
>>213
その通り
巫女千人と兵および住民の数に匹敵する、土器の付着物が見つかれば、少しは考えてもいいよな!
たった一つや二つで大騒ぎするのが畿内説

229日本@名無史さん2021/12/07(火) 07:24:54.26
>>225
避けてると言う根拠は?
畿内説みたいに花火を打ち上げて、税金を掻っ払う詐欺のマネはしたくないけどなwww.

230日本@名無史さん2021/12/07(火) 07:33:23.19
>>215
>テンプレ作る阿呆に信ずる阿保
>畿内説は阿保ばっかり

ひとことも反論しないで悪口言うだけって
それ、九州説が敗北したって告白だよ

231日本@名無史さん2021/12/07(火) 07:34:21.17
>>223
あんた畿内説の学者のレベル低いの知ってる?三流大学出ばかりじゃん。寺澤なんか同志社だぞ。早稲田に行きたかったらしいが。関東からわざわざ関西に行くかよ、、学力がなかったのだよ

232日本@名無史さん2021/12/07(火) 07:45:44.91
>>209日本@
>耳璫は非漢民族の風習で女性だけのものではない

これは倭国大乱当時の時代を理解するうえで、極めて重要なこと。
遺物・出土物が三世紀前期なら、何でもかんでも卑弥呼だと言い張るのは、現代考古学者の錯覚だ。

倭人伝が描くのは、帯方郡傘下にあって、当時倭国に進出撃破していた漢民族の活躍ぶりだ。
現地筆頭指揮官は張政らで、
それを支援していた部隊は、帯方郡の地元の馬韓族(前の漢民族系箕子朝鮮族、後の百済族)だったのだろう。
つまり、漢民族文化かそれにルーツを持つ同類文化であったかどうかが、自女王国以北の卑弥呼族かどうかを決める、、、

233日本@名無史さん2021/12/07(火) 07:46:21.11
>>231
うーん それ纏向を王都と言う学者だけだよ

234日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:06:03.28
>>207
>200年頃の平原1号に錆色塗装偽物漢鏡が埋められたころから
博多湾中東部の遺跡に山陰、瀬戸内、畿内第X様式、東海系の土器の搬入が増える

「200年頃の平原1号」というのが、間違い。
平原1号は、卑弥呼の「冢」の形状では全くなく、
266年頃に西晋武帝から学んだ天円地方の形態であり、
大量の玉と鏡の副葬も壹與の墓にぴったりであり、
鏡の中の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡群は、
明帝の銅鏡百枚にしか当てはまるものはなく、
だから、卑弥呼の宗女の壹與の墓にほぼぴったりであり、
266年以後の墓である。

235日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:17:50.26
>>226
無論、炭素年代測定だからなんでも正しいという話ではない

論文「歴博「古墳出現期の炭素14年代測定」は誤り」によると
今の日本の炭素年代測定は
640年以前の結果は実際より
100年は古くでる傾向があるという

しかしそれでもやらないよりはやった方が良いという話だな

236日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:19:48.84
>>231
>あんた畿内説の学者のレベル低いの知ってる?三流大学出ばかりじゃん。寺澤なんか同志社だぞ。早稲田に行きたかったらしいが。関東からわざわざ関西に行くかよ、、学力がなかったのだよ

またも九州説は、まったく内容なしの中傷オンリーだね
具体的内容なし
九州説の恨み節が信用されない理由は、これ

237日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:26:44.71
>>230
ヨコ
あなたの記憶が飛んでるだけですよ。

238日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:28:10.03
>>236
えー寺澤は同志社じやなかったっけ?

239日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:30:19.86
>>211
>なぜか日本の考古学では
謎の土器の編年ばかりが横行してるけど
放射炭素年代測定で検証されてない年代は信用できないな

残念ながら、大和説学者らの「放射炭素年代測定」自体も、
AMS法でのプラズマ化の時間帯の間に、外周電子が失われて、
炭素原子核の裸状態の「場の不安定化」を造ってしまって、
だから、原子核内での、失われた電子分に相当する電子を放出(ベータ崩壊)をして、
電磁場的安定状態にしよう、とする相互作用反応が起き、
そのために、本来その原子が持っていたベータ崩壊よりも沢山のベータ崩壊を計測してしまって、
本来の年代よりもずっと古い年次を計測してしまう事になる欠陥計測であったんですよ。
どれくらい古い年代を計測してしまったのか?は、その計測装置の能力にもよりますが、
大体、1700年位前のものなら、50〜100年位古く出る、
というバラつきの範囲位のようです。

240日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:38:20.63
>>235
金があればね

241日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:42:01.29
「炭素14年代:国際較正曲線 INTCAL20 と日本産樹木較正曲線 JCAL
」によると
2020年に炭素年代測定法が改定されて
2011年に出た箸墓を240-260年とする年代測定値も
新方法だと4世紀前半になるらしい

畿内説は、これにどう反論するの?

242日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:42:16.54
前方後円墳の前方部は、吉備楯築弥生墳丘墓の双方部のように、柄鏡型といって直線に近い物から、両脇から補強する撥型へと、時代が進むにつれて先端部が広がり、地震台風列島における中期巨大古墳を可能にした。
さらに後円部に石室が導入された今城塚(後期)古墳では、三角に近く広がった。

そこで、箸墓を観察すると、明らかに前期初頭の柄鏡型Ωではなく、撥型といって前方部先端を両脇から補強する工夫が加わっており◢▢◣、前方部と後円部がほぼ同じ幅となる中期古墳に近いデザインとなっており、明らかに4世紀以降のデザインである。

よって、3世紀中葉の「卑弥呼の冢」とするには無理があり、神武・崇神朝によるヤマト王権の王墓である可能性が高いのである。

243日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:43:30.95
畿内説って土器や墓の話ばかりだね。
直接邪馬台国とは関係無い話ばっかで
全然説得力が無い。

専門バカの世界

244日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:44:59.28
>>158
台与から倭王を譲位された投馬国王(神武)東征後、倭迹迹日百襲姫が追葬された箸墓の断面図(北側から)
……………………….______
5 段目……………-/神武+百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

245日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:46:09.24
>>243
説得力があるのは、「阿波」だけ。   @阿波

246日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:46:36.44
>>156
>>242
殉葬のないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓・西殿塚は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人?

247日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:49:42.16
>>217
>年代測定は考古学者が言ってるのをど素人が否定できるものは無い
ただ可能性があると言ってるのを鵜呑みにするのも難しい・・・

いえ、プラズマ化に拠る放射性ベータ崩壊計測による年代測定の誤差は、
物理学科の大学院での「(アインシュタインの)場の相互作用」論理を、
よく理解出来ている学者以外では、理解出来る人や学者が殆どおらず、
一般考古学者が言ってる位では、信用できるものは無い
一般の学者では、ただ可能性があると言ってるのを鵜呑みにする位しか出来ない。

248日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:54:13.07
>>242
確かに!
箸墓の前方部先端はストーンとした柄鏡長方形▢じゃなく、両脇から土留め◢▢◣で挟み込んだバチ型に広がってるよ!
仮に前方部先端の横幅をそのまま直線で後円部に繫いでしまえば、5世紀の中期古墳のデザインになる。
明らかに3世紀の王墓じゃないね!
そもそも、卑弥呼が曹操高陵より巨大な箸墓なんか造るわけないっしょ!w

249日本@名無史さん2021/12/07(火) 08:55:39.86
どうやら畿内説が炭素年代測定を
避けてる理由が見えてきたな

INTCAL20を適用すると畿内説が
崩壊する結果しか出てこないらしい

250日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:05:36.48
>>247
邪馬台国論争は主に文献の検証をやって考古学は参考程度で良いよ

251日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:08:37.39
畿内の年代測定が間違ってるからって九州が正しいって事にはならんから不毛だ

252日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:09:03.41
日本の学者が信用できないなら
すべての考古資料は使えない

253日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:10:46.94
>>250

それで満足できる人はここには来る意味は無い

254日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:12:37.54
>>253
可能性があるなんて言ってるのを信じろってのは無理

255日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:14:06.13
>>247
河内の中期巨大古墳を可能にした、箸墓前方部の土留め補強(撥型)は、明らかに4世紀の技術革新。
4世紀中期(350年〜400年)以降の築造と見るのが至当であり、3世紀ではあり得ないことはもはや疑いようがない。
仮に3世紀の築造とすると、一旦バチ型から柄鏡型へ退化し、その後突如として中期巨大古墳が出現したという机上の空論になる。

256日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:18:04.22
>>235
論文の題名にできるような品格がないな

257日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:19:20.51
そもそも箸墓以降、西殿塚や崇神陵が、どんどん小さくなっていくっていうのも変だよなw
やはり、箸墓は前期後半・中期直前の4世紀築造と見るのが妥当。3世紀中の築造ではない。

258日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:24:35.14
俺は箸墓の築造年代を疑ってるけど学者が言ってるんだからしようがねえわなって
書き込みをしたことがあるだけどそうとしか言いようが無いのよね
俺に対して学者が言ってるんだから信じろと言っても無理だよ

259日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:25:32.74
>>232
>>耳璫は非漢民族の風習で女性だけのものではない
これは倭国大乱当時の時代を理解するうえで、極めて重要なこと。
遺物・出土物が三世紀前期なら、何でもかんでも卑弥呼だと言い張るのは、現代考古学者の錯覚だ

ふーん。成程。

260日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:27:27.92
もうみんな、信じましょうよ〜。なんでそんなに疑うんですか??
邪馬台国=大和国、箸墓=卑弥呼の冢でいいじゃないですか?
それが間違ってても世の中何にも変わりませんよ。
考古学界の偉い先生方を信じましょう。

261日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:32:22.44
>>235
>今の日本の炭素年代測定は、640年以前の結果は実際より100年は古くでる傾向があるという
>>255
>河内の中期巨大古墳を可能にした、箸墓前方部の土留め補強(撥型)は、明らかに4世紀の技術革新。
>4世紀中期(350年〜400年)以降の築造と見るのが至当であり、3世紀ではあり得ないことはもはや疑いようがない。

なるほど!

262日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:40:57.25
>>241
>020年に炭素年代測定法が改定されて
>2011年に出た箸墓を240-260年とする年代測定値も
>新方法だと4世紀前半になるらしい
>畿内説は、これにどう反論するの?

ただのデマなので、なんの影響もない
と反論する
それで簡単に決着

263日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:43:19.05
>>252
>>261
やはり畿内説は「箸墓オレオレ詐欺」だったわけかw

264日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:43:44.34
学者が言ってるんだし俺みたいなど素人が頭ごなしに嘘だと決め付ける訳にもいかないのよ

265日本@名無史さん2021/12/07(火) 09:50:12.02
>>255
✕バチ型◢▢◣→柄鏡型▢→中期巨大古墳…畿内説
○柄鏡型▢→バチ型◢▢◣→中期巨大古墳…非畿内説
 

266日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:00:31.19
バチ型◢▢◣・・・ではなくて、

バツ型だったわけだwww

267日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:03:26.66
>>265
前方部が崩壊しないように、土留め補強を施したバチ型◢▢◣の箸墓が、前期柄鏡型▢→中期巨大古墳への過渡期に位置付けられることは、土木関係者でなくとも誰でも解ることなのにね。

268日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:05:46.15
>>258
>俺に対して学者が言ってるんだから信じろと言っても無理だよ

学者の結論だけ紹介されたわけじゃないんだから
学者の言ってることが理解できないのは
君の恥だよ

269日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:09:49.95
>>268
学者も可能性があると言ってるだけでしょ

270日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:11:26.55
>>267
箸墓と履中陵を画像検索してみな
箸墓の前方部先端部から後円部を直線で繫げば、もしくは履中陵の前方部の側面を削ってバチ型にすれば、両者ほぼ同じ型になるからwww

271日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:19:04.84
卑弥呼の墓なら3世紀半ばで5世紀以降とされる大阪の巨大古墳群とは開きがあって
不自然さを感じるんだけど学者が可能性はあると言ってるんだし否定しようがない

272日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:23:42.23
「皇紀二千六百八十一年十二月八日、大本営発表、大本営発表。魏志倭人伝ノ(南)ハ(東)ト読ミ替ルベシ。邪馬台国ハ大和国ナリ。箸墓ハ三世紀中頃ノ築造ニシテ、女王卑弥呼ノ冢ナリ。隣組ヲ通ジ全臣民に周知徹底スベシ。大本営発表、大本営発表」

273日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:26:43.90
もし、奈良盆地の古墳が天皇陵だったら、あんなに、てんでんばらばらにはせんよ。

少なくとも、規律を持って造るはず。 アホの学者はだれもそれを言わん。   @阿波

274日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:28:40.18
>>273
バラバラであっても、いずれも前方後円墳なんだがなw

275日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:28:45.94
>>250
>畿内の年代測定が間違ってるからって九州が正しいって事にはならんから不毛だ

いや、確率の高低の問題だ。
「畿内」などのような、存在もしなかった嘘つき騙し文言を使ったり、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをする大和説は、
確率が低く、殆ど間違っており、
史料事実やそれからの帰納的高確率的な推論をした九州説の確率は高い。

それだけの事だ。

276日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:28:46.10
>>250
>畿内の年代測定が間違ってるからって九州が正しいって事にはならんから不毛だ

いや、確率の高低の問題だ。
「畿内」などのような、存在もしなかった嘘つき騙し文言を使ったり、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをする大和説は、
確率が低く、殆ど間違っており、
史料事実やそれからの帰納的高確率的な推論をした九州説の確率は高い。

それだけの事だ。

277日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:33:58.48
>>267
学者の言うことを素直に信じてしまう畿内説のお爺ちゃんたちは、砂場で遊んだことがないんだろうなw

278日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:36:33.66
>>252
>日本の学者が信用できないなら すべての考古資料は使えない

いや、「日本の学者」というのではなく、
「日本の大和説学者の人間性が信用出来ない」や、
「日本の大和説学者の文献考古の史料事実の解釈は半分バツである」という意味である。

279日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:38:10.89
>>274
>バラバラであっても、いずれも前方後円墳なんだがなw

向きもバラバラ、大きさもバラバラ。 円墳もあれば方墳もある。  ごった煮のごとく。  

これのどこが天皇陵じゃ!  アホ学者よ。  わははははは   @阿波

280日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:39:03.23
>>257
>そもそも箸墓以降、西殿塚や崇神陵が、どんどん小さくなっていくっていうのも変だよなw
>やはり、箸墓は前期後半・中期直前の4世紀築造と見るのが妥当。3世紀中の築造ではない。

そう思ってるんだったら、そういうデータを出せば良いこと
印象論や精神論で独り確信してても
他人には通用しないよ

281日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:41:52.60
>>256
>論文の題名にできるような品格がないな

日本の大和説学者らの論文の内容は、
大和説という「結論先にありき」の論文である事が多く、
史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論である場合が少なく、
オレオレ詐欺的であり、品格がないな。

282日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:42:11.63
結局、箸墓オレオレ詐欺って印象操作に過ぎないんだよねw

283日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:42:39.05
学者が意図して嘘を言ってるとは思わないし後になってすまんかったと言わなきゃ
いけないかも知れんけど現状信じろと言っても難しい

284日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:42:45.83
>>269
学者の書いた論文を読んだことがないの?

285日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:43:36.96
>>284
ない

286日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:46:07.68
>>267
>>270
3方向を風雨に晒される前方部がストーンとした柄鏡型だと、地震や台風による前方部先端の崩壊が目立ったため、改善策(創意工夫)としてバチ型(箸墓)が生まれ、中期巨大古墳に繋がったと考えるだろう、普通。
バチ型→柄鏡型への退化はない訳だからw

287日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:46:23.13
>>260
もうみんな、九州説を信じましょうよ〜。
なんで「史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論の九州説」を、
そんなに疑うんですか??
邪馬壹國女王之首都=筑紫、卑弥呼の冢≒祇園山でいいじゃないですか?
それでほぼ正しいんですから、世の中何にも変わりませんよ。
考古学界の偉い先生方を信じましょう。

288日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:49:04.50
>>153
「親魏倭王」の金印は高良大社の地下に眠る

289日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:51:33.74
>>283
なんで難しいの?

290日本@名無史さん2021/12/07(火) 10:54:18.43
>>153
筑紫平野が一望できる高良大社は、卑弥呼の「居處宮室楼観城柵厳設」跡地に、阿毎多利思比孤が建てた(昨日の敵は今日の友)高句麗の大使公邸だったんジャマイカ?

291日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:01:48.94
学問にど素人は不要なので
学者の見解をど素人全員が絶対に信じなければならないということはない
大和民族には日本列島の自然(=神)が創った大和民族の歴史が、
アイヌ民族には貴重な歴史が、
肥人(コマビト)には異人の歴史が、
反日には不要な歴史がある

292日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:01:50.47
>>288
大和説「正直、今まですまんかった…orz」
筑紫説「良いんだよw」

いつか、こんな日が来るんだろうなぁ〜(^。^)y-.。o○

293日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:02:28.91
>>289
疑念の方が強いから

294日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:05:13.96
筑前は畿内の首長ネットワーク
筑紫の後(しり)は外

295日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:10:05.44
結局、箸墓オレオレ詐欺が言葉遊び(印象操作)ってことが良く判るw

296日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:17:59.83
>>153
麓に祇園山古墳を従えた筑後国一之宮・高良大社は、筑前国一之宮・筥崎(はこざき)宮を凌ぐ、九州最大の社殿を持つ。
なんでだろう?よ〜く考えてみようw

297日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:27:04.56
>>293
>疑念の方が強いから

なんで強いの?
信じられない、信じられないじゃ
子供のダダと一緒だよ

298日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:28:59.04
>>296
名前は大っぴらにできねぇが、偉〜い女王様の家と冢があったんで、畿内首長ネットワークから「祟らないで下さいよ」ってんで、九州で一番でっかい神社を建てて差し上げた、ってことじゃあないかな?

299日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:31:43.82
>>227

>共立以前は

我々大和民族は卑弥呼が共立された後の時代の倭国について
学術研究成果を元に考察している

300日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:32:21.70
>>286
九州説さん
それ、なんか根拠あるの?
それとも、また妄想?

301日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:36:29.54
>>298
その畿内首長ネットワークが編纂した正史が消した九州王朝(漢委奴国王・帥升・卑弥呼・台与・讃珍興斎武・阿毎多利思比孤)の10王のうちの誰かかもなw

302日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:39:49.05
>>300
妄想も何も、砂場でやってみてよ。
柄鏡型と撥型、どちらが先で、どちらが後か判るからw

303日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:42:51.05
>>296

筑前は式内社19(名神大社16)
筑紫の後(しり)は式内社4(名神大社2)
だから後(しり)の高麗人のためにひっくるめて記紀に登場しない神を祀って1つ造った神社
麓に高句麗、朝鮮の墓の形の集団墓地がある

304日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:44:20.54
>>290
なるほど

305日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:45:35.69
>>302
>妄想も何も、砂場でやってみてよ。

つまり、まったく証明できないってことね?
ならば妄想だよ

306日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:49:03.03
>>267
>>270
自動車で喩えると、
柄鏡型のMC(マイナーチェンジ)モデルが、次期モデル(5世紀巨大古墳)を可能にした撥型(箸墓)ってことだね

卑弥呼の冢であるわけがないねw

307日本@名無史さん2021/12/07(火) 11:53:36.53
>>303
古墳時代は倭百済新羅vs高句麗で戦争していたわけだから、高句麗系の遺跡は、同盟国になった飛鳥時代以降の遺跡と言うことだね
卑弥呼の王宮があったことも消せるわけだし、推古にしてみれば一石二鳥だったんだろうね

308日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:01:04.91
>>278
同意
名誉欲と金銭欲の固まりが畿内説の学者。成果が欲しくて直ぐに花火を立ち上げる。思慮深さがまるっきり無い

309日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:04:24.47
>>291
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な自然や歴史の学問には、
宗教や皇国史観思想の「100%結論先にありき」に狂った人間は不要なのであり、
学者の見解をど素人全員が絶対に信じなければならない、ということもない
日本列島でも、出雲古代王朝や、九州倭人や、列島毛人蝦夷やアイヌや、
越や秋田美人の鮮卑や、日高見國や後で独立した大和などの歴史があるし、
九州にも肥人(コマビト)がおり、足摺にも侏儒國などの異人?の歴史があり、
宗教や皇国史観思想者には不要な歴史がある

310日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:05:37.24
>>274
>バラバラであっても、いずれも前方後円墳なんだがなw

向きもバラバラ、大きさもバラバラ。 円墳もあれば方墳もある。  ごった煮のごとく。  

これのどこが天皇陵じゃ!  アホ学者よ。  わははははは   @阿波

311日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:08:04.39
>>306
>>307
なんか箸墓オレオレ詐欺集団って、味噌もくそも一緒くた煮って感じだね・・・

312日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:10:00.37
>>294
大和は、九州倭國の別種の大倭職の旧小国の首長群のネットワーク
出雲や越や侏儒國や毛人蝦夷や秋田美人の鮮卑や東日流や日高見國やアイヌは、蚊帳の外。

313日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:12:28.34
>>311
新旧の区別が付かないんだよ
だから畿内説なんて似非学問を簡単に信じてしまう

314日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:13:52.49
>>297
だったら可能性じゃなくはっきり言い切れよ

315日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:16:18.15
>>313
「畿内」説の畿内って、何世紀の畿内?w

316日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:17:26.41
>>314
なんで疑念の方が強いという理由が言えないの?
やっぱりヤダーヤダーとダダこねてる子供ですか?

317日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:37:52.55
>>307

つまり根拠が無いことを根拠にしている

318日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:42:42.78
>>307
須恵器が出土するとか、共同墓地だったっていうのは、6世紀以降だとすると、話が合うな
味噌も糞も一緒くたのオレオレ詐欺とは偉い違いだw

319日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:43:50.78
>>315
定義を調べてね

320日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:54:57.81
>>318

北部九州では甕棺墓は6世紀までは続かない

321日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:58:25.09

322日本@名無史さん2021/12/07(火) 12:58:35.64
九州説は歴史学の常識を無視しすぎだね

323日本@名無史さん2021/12/07(火) 13:04:13.91
>>294
>麓に祇園山古墳を従えた筑後国一之宮・高良大社は、筑前国一之宮・筥崎(はこざき)宮を凌ぐ、九州最大の社殿を持つ。
なんでだろう?よ〜く考えてみよう

ふーん、成程。

324日本@名無史さん2021/12/07(火) 13:08:26.24
関西の反日有害穢れ鮮人は徴用工が居残った炭鉱地区に大きな期待を寄せている

325日本@名無史さん2021/12/07(火) 13:10:55.75
>>299
我々日本国民は、
卑弥呼が共立された後の時代の姫氏倭國の後の、
別種分家の大倭職の旧小国の大和について
学術研究成果を元に、
どのようにして倭國から権力を奪ったのか?、を考察している

326日本@名無史さん2021/12/07(火) 13:13:15.03
>>325

この加古川の反日有害穢れ鮮人は朝鮮起源将軍様東征工作員

327日本@名無史さん2021/12/07(火) 13:21:11.89
>>322
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺の大和説者は、
歴史学の常識を無視しすぎだね

328日本@名無史さん2021/12/07(火) 13:23:10.80
オウムかよ

329日本@名無史さん2021/12/07(火) 13:25:37.66
畿内説は学問
小説のブームから始まった一人一九州作り話は
邪馬台国がどこにあったかを決めるのは作り話爺さんではない
お客様だ

330日本@名無史さん2021/12/07(火) 14:35:43.91
>>308
>名誉欲と金銭欲の固まりが畿内説の学者。成果が欲しくて直ぐに花火を立ち上げる。思慮深さがまるっきり無い

なんの証拠もなくこんな中傷ばっかりしてる九州説の人の神経がわからない

331日本@名無史さん2021/12/07(火) 15:44:00.66
>>274
>バラバラであっても、いずれも前方後円墳なんだがなw

向きもバラバラ、大きさもバラバラ。 円墳もあれば方墳もある。  ごった煮のごとく。  

これのどこが天皇陵じゃ!  アホ学者よ。  わははははは   @阿波

332日本@名無史さん2021/12/07(火) 16:34:51.20
>>322
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
人類の常識や、自然科学や、歴史学の常識を、
無視しすぎだね

333日本@名無史さん2021/12/07(火) 16:49:56.10
>>329
九州説は、史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論の学問
「畿内」や「邪馬台国」などの、皇国史観宗教的支配思想から始まった大和説は、
倭國(≒女王國)が大和にあったと決めつける造り話。
オレオレ詐欺師だな。

334日本@名無史さん2021/12/07(火) 16:55:06.68
>>330
名誉欲と金銭欲の固まりが大和説の学者ら。
成果が欲しくて直ぐに花火を立ち上げる。
思慮深さがまるっきり無い
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態に関して、
なんの証拠もなく曲解捏造や否定ばっかりしてる大和説の人の、
神経がわからない

335日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:04:52.17
>>322
ノーベル賞受賞した中村修二さんら多くの学者さんが
常識を疑えと言ってるね
常識に囚われたら学問としてはおわりだね

336日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:11:00.71
>>335
それも疑えよ

337日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:12:27.91
>>333
事実は、九州説が皇国史観から始まった

338日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:25:04.88
>常識を疑えと言ってるね

その通り。
卑弥呼もトヨも記紀に出てこないという常識を疑うことが大事。

卑弥呼もトヨも記紀に出てくる。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊
トヨ津媛          E孝安 D孝昭
トヨ津媛      (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武

邪馬台国の王都は葛城=奈良県御所市であり、纏向でも九州でもない。

男らしくスパッと認めようねw

339日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:26:46.05
多分、魏志倭人伝は最初から作り話、キツネとタヌキの化かし合いだよ。
伊都国女王へのレクイエム。
3世紀後半から博多湾岸へ通商の窓口は移動するけど、背景に纏向がいて、帯方郡もそれを知っていただろうから。

340日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:33:14.68
>>336
「教科書に書いてあることを信じないこと  常に疑いを持って自分の目でものを見ること」

ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授)   @阿波

341日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:36:54.98
>>340
信じる信じない以前に、教科書に載ってることを知らない九州説老人が問題

342日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:42:22.33
>>341
その教科書を、そのまんま丸暗記してしまう畿内説老人がもっと危険。

343日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:42:26.04
>>340
それって、無視しろって意味じゃないから

344日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:45:00.79
>>343
それって、盲信しろって意味じゃないから。   @阿波

345日本@名無史さん2021/12/07(火) 17:48:56.54
>>343
教えられた事を鵜呑みにして思考を停止したら進歩はないからな
常に疑う事が学問なんだよな

346日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:04:08.34
>>344
畿内説には盲信してる人はいない
九州説の人は全員盲信人間
その証拠に、自分の主張してることの根拠を聞いてみな
答えられないのが盲信人間

347日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:04:54.18
>>345
無視は思考停止なんだよ

348日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:09:51.19
>>345
>教えられた事を鵜呑みにして思考を停止したら進歩はないからな
>常に疑う事が学問なんだよな

ただ「疑わしい」と言うだけで否定出来てる気になっちまうのは
思考停止だな
つまり九州説は学問じゃない

349日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:12:10.37
>>342
>その教科書を、そのまんま丸暗記してしまう畿内説老人がもっと危険。

暗記は妄信じゃないよ
危険はない

350日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:12:48.41
>>346
九州説には盲信してる人はいない
大和説の人は全員、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や隠蔽の嘘吐き騙しの、
「大和説教科書」や「大和説学者」盲信人間
その証拠に、自分の主張してることの根拠を聞いてみな
答えられないのが盲信人間

351日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:14:42.95
九州説はみんな盲信だね
根拠が答えられないんだもの

352日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:15:44.39
>>350
オウム返しは典型的な思考停止なので盲信の一種

353日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:16:23.47
>>348
ただ、「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や隠蔽の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺や、
「疑わしい」と言うだけで否定出来てる気になっちまうのは
思考停止だな
つまり大和説は学問じゃない

354日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:17:19.21
>>339
卑弥呼はともかく台与なんて本当に居たのか疑ってはいるけど

355日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:17:29.33
>>353
じゃなくて根拠がないと指摘してる
これで否定できる

356日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:18:30.81
>>353は典型的な思考停止ね

357日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:18:43.86
>>351
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や隠蔽の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺の大和説者らは、
みんな盲信だね
根拠が答えられないんだもの

358日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:21:43.92
>>452
「オウム返しされる」のは、
典型的な「思考停止」の「自己矛盾」の指摘なので。
「大和説者らの盲信」の証拠の一種

359日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:24:15.74
>>352
じゃなくて、「大和説者らは、史料事実や史料実態の根拠が殆どない」
と指摘してる
これで、大和説は否定できる

360日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:26:03.60
>>358
正直何言ってんのかわかんねえ

361日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:30:38.09
>>359
その証拠は?

362日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:33:03.73
>>358
なぜ「オウム返し」すると
「思考停止」とか「自己矛盾」が指摘できるの?

363日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:48:26.79
>>362
>なぜ「オウム返し」すると
「思考停止」とか「自己矛盾」が指摘できるの?

相手の投稿に対して「オウム返しが直ぐ出来た」という事が、
相手が、「オウム返しを直ぐされるようなアホな事を書いてしまった」、
という事の、証拠なんですよ。

364日本@名無史さん2021/12/07(火) 18:50:48.00
>>363
つまりおまえの書き込みもオウム返ししたらその書き込みは「思考停止」と「自己矛盾」で成り立ってるって事か?

365日本@名無史さん2021/12/07(火) 19:11:47.44
>>363
どんな投稿だって即座にオウム返しできるんだよ
だって、鳥の脳だって出来る事だろ?
オウム返しをするのは鳥並みの知能ってことだ
思考してないだろ

366日本@名無史さん2021/12/07(火) 19:14:33.63
>>364
自己矛盾を指摘される鳥脳九州説

367日本@名無史さん2021/12/07(火) 20:45:23.64
CIAの教科書に議論を壊すためには永遠に混ぜっ返せと書いてある

368日本@名無史さん2021/12/07(火) 20:47:12.33
日本史の先生とかも、
畿内説で決まりと言っていたな。

369日本@名無史さん2021/12/07(火) 21:01:49.77
どこの先生やねん

370日本@名無史さん2021/12/07(火) 21:56:16.03
「原料の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡」
「若杉山遺跡 国史跡に」                 令和元年 6月22日(土) 徳島新聞朝刊

「辰砂採掘法の解明評価」
弥生時代後期から古墳時代前期に赤色顔料「水銀朱」の原料となった辰砂の採掘が行われた
阿南市水井町の若杉山辰砂採掘遺跡が、国史跡に指定される。
国の文化審議会が21日、柴山昌彦文部科学相に答申した。
水銀朱は葬送儀礼などに用いられ、古代の西日本地域で重用された。
文化審は、原料の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡として、歴史的価値が高いと評価している。
県内の国史跡は12か所になる。
指定されるのは、那賀川支流の若杉谷川の西側山腹斜面約1.2ヘクタール。
横穴状に岩盤を掘り進めた採掘抗跡と露天掘り跡の2か所の採掘場所が確認されている。
採掘抗跡は弥生時代後期に採掘が始まり、国内最古とされている。
採掘時に出た排石のほか、原石を砕いた石杵などの石器も見つかり、
遺跡内で不要鉱物を取り除いて粉末にしていたことが分かっている。
また、石杵に香川県東部で産出する硬質の石が含まれることなどから、
広範囲から辰砂を求めて人々が来ていた可能性が指摘されている。
遺跡は第2次世界大戦中に行われた水銀探索の最中に発見され、1969年に市史跡に指定。
市と県教委が2017〜18年度に行った発掘調査で2か所の採掘場所跡などを確認し、古代の採掘方法を解明した。
国史跡指定に当たり、遺跡の名称は従来の若杉山遺跡から若杉山辰砂採掘遺跡に変更される。   @阿波

371日本@名無史さん2021/12/07(火) 21:57:01.65
「加茂宮ノ前遺跡」(縄文時代)     令和2年6月12日 徳島新聞朝刊

「加茂宮ノ前遺跡」を特徴付ける水銀朱関連の遺物については、今回の縄文時代中期の層からの出土はなかった。

ここで水銀朱が使われ始めた時期が、縄文後期だと裏付けられた。   @阿波

372日本@名無史さん2021/12/07(火) 22:00:33.22
動かぬ、倭国(阿波)の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」   @阿波

373日本@名無史さん2021/12/07(火) 22:43:12.45
>>366
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、矛盾を指摘される鳥脳の大和説学者ら。

374日本@名無史さん2021/12/07(火) 22:48:21.44
>>351
根拠は説明してるけど
見たくないんだねw

【ゆっくり解説】邪馬台国その1

@YouTube



【ゆっくり解説】邪馬台国 その2

@YouTube

;;t=64s

【ゆっくり解説】邪馬台国 その3

@YouTube

;;t=335s

【ゆっくり解説】邪馬台国その 4

@YouTube

;;t=32s

【ゆっくり解説】邪馬台国 その5

@YouTube

;;t=508s

375日本@名無史さん2021/12/07(火) 22:48:55.05
>>268
>日本史の先生とかも、畿内説で決まりと言っていたな

その日本史の先生も、大和説学者らと同じく、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使い、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺師だな。
その先生に教わった生徒が可哀そうだな。
オレオレ詐欺師である事ばバレているから、

376日本@名無史さん2021/12/07(火) 22:53:07.23
阿波作り話では「其山有丹」は狗奴國で倭国は庭石国

377日本@名無史さん2021/12/07(火) 23:29:47.42
>>374
だって、それトンデモでしょ?
最初の30秒でわかるよ

378日本@名無史さん2021/12/08(水) 00:22:30.72
>>374
なんて説明してる?

379日本@名無史さん2021/12/08(水) 00:26:27.73
今はネットの発達ですぐ検証されちゃうから
明らかなトンデモ説は生き残れない

畿内説も今や風前の灯

380日本@名無史さん2021/12/08(水) 05:40:22.37
>>379
>畿内説も今や風前の灯

九州説もおなじ。   @阿波

381日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:31:33.24
>>337
記紀神話頼みは畿内説じゃん。

382日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:36:51.52
>>355
まず、南→東の明快な答えが畿内説には必要。
誤認、誤写なんで言い出したら、各説は都合の悪い部分は誤認、誤写と言い出し、収拾がつかない。

383日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:39:07.29
>>361
南を、東とする大和説の頭

384日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:40:12.72
>>347
ちゃう
くだらん妄想は無視で良い

385日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:42:03.97
>>366
個人的な矛盾は仕方ないよ。
畿内説総がかりで南は東と言うほうがおかしな話

386日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:42:47.47
>>368
どこの学校?

387日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:44:19.19
>>378
日本語知らないのかねー

388日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:44:42.26
100年此の方、畿内説と九州説の両トンデモデタラメ説が無駄な論争を繰り広げてきた。 

真実の日本古代史にとって、実に不毛な時間であった。   @阿波

389日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:45:24.92
旧説の畿内説や九州説には、コミック刊行やYouTube発信する熱意も消え失せた死に体。

今や、目覚ましい「阿波」の時代到来。   @阿波

390日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:45:45.46
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。   

記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。

旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。   @阿波

391日本@名無史さん2021/12/08(水) 06:46:20.57
>>337
馬鹿だね、纏向が王都、纏向はヤマト王権誕生の地なんて皇国史観そのものじゃねーの、

392日本@名無史さん2021/12/08(水) 07:24:38.50
>>377
だって、大和説者や阿波説者らの本や投稿は、
「邪馬台国」とか「畿内」とかの存在もしなかった嘘つき騙し文言を使ったり、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定や、
「道のり距離→全部直線距離」に解釈したり、
都合の悪い史料やそれからの帰納的確率的な史料実態や推論論理を全部無視したり、
街宣車のような皇国史観礼賛や人種差別殺戮のオレオレ詐欺宣伝をしていたりで、
それって、トンデモでしょ?
最初の30秒でわかる>

393日本@名無史さん2021/12/08(水) 07:34:36.80
>>379
>今はネットの発達ですぐ検証されちゃうから
>明らかなトンデモ説は生き残れない
>畿内説も今や風前の灯

というトンデモを、実際は畿内説圧倒的優勢だとすぐ検証されちゃって
九州説が生き残れずに、もう消えちゃったってわけだ

394日本@名無史さん2021/12/08(水) 07:49:10.59
>>390
5ちゃんで騒いでも無駄
阿波はマイナー

395日本@名無史さん2021/12/08(水) 07:53:07.84
>>393
何言いたいの?愚痴?

396日本@名無史さん2021/12/08(水) 07:58:27.96
>>394
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。   

記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。

旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。   @阿波

397日本@名無史さん2021/12/08(水) 08:06:32.67
>>384
>くだらん妄想は無視で良い

それが逃避
負け犬の遠吠えともいう
だって、何も反論できないで逃げてるんだから

398日本@名無史さん2021/12/08(水) 08:31:17.47
>>393
今はネットの発達ですぐ検証されちゃうから明らかなトンデモ説は生き残れない
大和説も今や風前の灯
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定、
などというトンデモも、実際は九州説圧倒的優勢だとすぐ検証されちゃって
大和説が生き残れずに、もう5chから消えちゃったってわけだ

399日本@名無史さん2021/12/08(水) 08:35:09.14
>>397
それが、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態からの逃避
負け犬の遠吠えともいう
だって、大和説者らは、何も反論できないで逃げてるんだから

400日本@名無史さん2021/12/08(水) 09:08:05.00
>>377
最後まで見る勇気が無いんだすねw

401日本@名無史さん2021/12/08(水) 09:19:08.06
>>395
いや、現実を見せてあげただけ
畿内説って圧倒的に優勢でしょ?
今や専門の学者はみんな畿内説なんだから

402日本@名無史さん2021/12/08(水) 09:20:10.67
「都」
名詞だと都市の意味
動詞だと統べるの意味
形容詞だと全ての意味
魏志倭人伝の場合は名詞ではなく
動詞か形容詞だから邪馬台国は都市ではなく
女王の治める範囲のことを指してる
この後に邪馬台国のことを「女王」と表現している所があるのは
「女王之所都」を省略して「女王」と書いているんだ
「此女王境界所盡」や「不屬女王」「去女王四千餘里」
「女王国」は伊都国、奴国等の邪馬台国の首都圏のことで「女王」と「女王国」は違う意味なんだ
「女王」=邪馬台国
「女王国」=伊都国、奴国等

403日本@名無史さん2021/12/08(水) 09:35:43.84
>「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。

「菊池氏」の起こりは、1070年に大宰府の藤原の孫が下野し、古い地名の久々知にちなんで菊池と名乗ったのが始まり。

古代の久々知族は、記紀では新羅系?のククノチの神(木=木造建築をつかさどる神)とされる。
故に「久々知」を以て「(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」と判断するのは早計。
なお近畿における久々知族の本拠地は西尼崎にある。

久々知族は木造建築を業とする工人集団で、7世紀末、唐・新羅軍の襲来に備えて久々知山城(麴池城)の建築に従事した。
だが、三世紀にどこにいたか/いなかったかは不明。

404日本@名無史さん2021/12/08(水) 09:36:28.16
>>399
ウソだな
いくら要求されても、そんな実態があるって立証しないだろ
いくら反論されても九州説は逃げたまま
逃げるなよ

405日本@名無史さん2021/12/08(水) 09:41:01.20
隼人族呉人説という本を久々知武という人が2006年にすでに出してるね
そう言ってる人が複数いるんだな

406日本@名無史さん2021/12/08(水) 09:45:14.59
>>402
>動詞か形容詞だから邪馬台国は都市ではなく
>女王の治める範囲のことを指してる

その珍解釈で
「周自穆王以下都於西鄭」を訳してみな
無理だから

407日本@名無史さん2021/12/08(水) 10:15:31.62
>続日本書紀には、「大宰府をして、大野(おおの)、基肄(きい)、鞠智(くくち・久々知)の三城を繕治せしむ」、
>と、書かれているとおり、

三城の修復は698年頃で、続日本書紀は800年頃の完成であるから、両者は時代的にさほど離れていたわけではない。
この記事との関連で注目されるのは、博多や糸島を敵に回したかのような水城の構えである。

というのは、水城は大宰府の下流にあって水を湛える施設であるから、夏、水門を絞れば下流の博多は稲作が出来ない。
また、いざという時に水門を放てば、下流の博多は大洪水で大きな被害を被るからである。
水城と大野城・基肄城は、北の唐・新羅系の博多ー糸島を監視脅迫し、
また南の鞠智城は、呉系の熊本南部の狗奴国残党を押さえ込むために、
両種族の間にくさびを打ち込む形で、百済系渡来人によって築かれたのではないか?

そして実は、その百済族の二〜三世紀渡来初期の根拠地が、末盧国東南500里の佐賀平野の伊都国(佐賀川上)と、
その東100里の不彌国(吉野ヶ里)と、支惟國(基肄)だったのではないか。
そう考えれば、北方備えの水城の役割も、南方抑えの鞠智(くくち・久々知)の築城ないし修復も納得できる。
(なお、その古代百済系種族が、四世紀ごろに東遷しヤマト王権を打ち立てたのであろう)

408日本@名無史さん2021/12/08(水) 10:32:10.89
>>153
>>160
FA出ちゃったw

409日本@名無史さん2021/12/08(水) 11:00:29.34
>>404
ウソだないくら要求されても、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態などの、そんな実態があるって事に反論出来ないだろ
いくら再反論されても大和説は、逃げたまま
逃げてもいいよ、
大和説者らがオレオレ詐欺師である事がバレるだけだから。

410日本@名無史さん2021/12/08(水) 11:00:36.27
>>401
おまえが適任だ
南→東の明快な答えをしなさい。

誤認、誤写なんで言い出したら、各説は都合の悪い部分は誤認、誤写と言い出し、収拾がつかない。

411日本@名無史さん2021/12/08(水) 11:02:43.86
>>403
だからやめらない邪馬台国論争

412日本@名無史さん2021/12/08(水) 11:03:53.52
>>404
おまえも適任だ
南→東の明快な答えをしなさい。

誤認、誤写なんで言い出したら、各説は都合の悪い部分は誤認、誤写と言い出し、収拾がつかない。

413日本@名無史さん2021/12/08(水) 11:06:51.04
>>410
>誤認、誤写なんで言い出したら、各説は都合の悪い部分は誤認、誤写と言い出し、収拾がつかない。

誤認も誤写もあって当然だ
そんなこと言い出したら無謬主義に陥ってオシマイだ
都合いい、悪いじゃなくて倭人伝が間違ってそうな箇所は是々非々で文献批判しなきゃ歴史学にならない

414日本@名無史さん2021/12/08(水) 11:16:37.61
>>413
かといって、つまみ食いはよろしくないぞ。
京大学閥が云うように南が東の誤写なら、一か所だけでなく方角全部が誤写と批判できるのか。
叉倭人伝だけでなく、魏略も、廣志も南と言ってるが、それら三誌共に誤写した途いえるのか。
まず、そこからだ・・、

415日本@名無史さん2021/12/08(水) 11:17:41.39
>>160
台与から筑紫で倭王位を譲位された神武東征後に、誕生したヤマト纏向王権は、その後国内統一を果たすと、
神功皇后によって倭王権は再び筑紫甘木朝倉に西遷し、倭の五王や阿毎多利思比孤らは九州に留まって半島派兵を推し進めた。
しかし、天智の代になって唐と新羅が同盟を結び、百済を滅ぼしてしまったため、白村江で完敗し、再び大和に東遷した。

まとめると、

奴国(漢委奴国王・帥升)…外交デビュー
筑紫邪馬台国→神武東征(東遷)ヤマト纏向王権…国内統一
筑紫甘木朝倉←神功三韓征伐(西遷)「倭の五王」in筑前一之宮筥崎宮・宇佐八幡宮→「阿毎多利思比孤」in阿蘇
筑紫太宰府→天智白村江完敗(東遷)…畿内中心の歴史のはじまり

416日本@名無史さん2021/12/08(水) 11:21:53.21

417日本@名無史さん2021/12/08(水) 11:57:02.98
>>414
>京大学閥が云うように南が東の誤写なら、一か所だけでなく方角全部が誤写と批判できるのか。

京大学閥の誰が「南が東の誤写」と言ってんの?
東と南と相兼ねるとか方向の混雑とかは言ってるけど
そもそも一箇所間違ったら他の全部が間違うとは限らない
間違いって、そういうもんでしょ

>叉倭人伝だけでなく、魏略も、廣志も南と言ってるが、それら三誌共に誤写した途いえるのか。

廣志は倭人伝を写しただけ
魏略が南と言ってるって、どこ?

418日本@名無史さん2021/12/08(水) 12:00:50.01
>>413
>誤認も誤写もあって当然だ
そんなこと言い出したら無謬主義に陥ってオシマイだ
都合いい、悪いじゃなくて倭人伝が間違ってそうな箇所は是々非々で文献批判しなきゃ歴史学にならない

いや、要は信頼性の確率の問題だ。
魏志倭人伝などは、同時代の魏の役人らに拠る実地での見聞計測の記録が元になっており、
信頼性も確率も非常に高い史料だ。
実際に、宋明清代の諸写本版本の校勘でも、校勘対象になった文字は1%以下位であり、
勿論、「邪馬壹國」という文字は校勘対象にはなっていないが、
後代の史書や文献での魏志倭人伝の引用では、大量の「自己解釈に拠る書き変え」例があり、
それらは信頼性は殆どない。

いずれにしても、「確率の高さ」を比較すべきであり、
100%の無謬性を要求して議論しようとする大和説学者らの議論方法の方が、
オレオレ詐欺の犯罪者になるだろう。

419日本@名無史さん2021/12/08(水) 12:44:44.35
>>413
阿保か、経百歩は誤認や誤写と言っても良いのか?

420日本@名無史さん2021/12/08(水) 12:46:38.20
>>413
それで、南が東の解説はお手上げでいいのだな

421日本@名無史さん2021/12/08(水) 12:48:41.14

422日本@名無史さん2021/12/08(水) 12:54:46.51
>>413
>都合いい、悪いじゃなくて倭人伝が間違ってそうな箇所は是々非々で文献批判しなきゃ歴史学にならない

典型的な畿内説
畿内に邪馬台国ありきから、倭人伝を曲げる卑怯もの。だからアンケートでも支持者が少ないのだよ

423日本@名無史さん2021/12/08(水) 12:56:30.26
学会では、九州説は絶滅危惧種。
しかし、未だに在野では、九州説のほうが人気があったりする。

424日本@名無史さん2021/12/08(水) 12:57:17.48
>>417
>京大学閥の誰が「南が東の誤写」と言ってんの?

ま、そうパックれるなよ
そもそも(晩年の)新井白石も、本居宣長も、東京帝国大学の白鳥庫吉も、九州説だった。
それを明治43年、京都帝国大学教授の内藤虎次郎が、南は東の誤写(誤り)だーーー、
と叫んだことで、京大は誤写説に陥ったまま、今に至っているだろ。

>魏略が南と言ってるって、どこ?

魏略は末盧国東南の伊都国といっている。その「南」が東の誤写なら、東南は東東になるだろう・・、

425日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:02:36.93
>>419
>阿保か、経百歩は誤認や誤写と言っても良いのか?

文献批判せずに誤認や誤写と言う奴はゴミ

426日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:05:33.19
>>424
>それを明治43年、京都帝国大学教授の内藤虎次郎が、南は東の誤写(誤り)だーーー、
>と叫んだことで、京大は誤写説に陥ったまま、今に至っているだろ。

内藤コナンがそんなこと言った証拠は?
九州説さんまたデマですか?

427日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:11:19.01
>>426
アホか、そんな初歩的なことを知らぬとは、、
オメは偽者学者で、ピックルの類だな・・、

428日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:12:54.66
>>423
>学会では、九州説は絶滅危惧種。

根拠では、畿内説も絶滅危惧種。

429日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:17:37.16
>>423
どこが、絶望的か指摘せよ!
畿内説みたいに誤認、誤写で逃げてもいいけどね。

430日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:19:03.31
>>425
だろう、畿内説みたいになりたく無いよな^_^

431日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:21:23.90
間違えようの無い方位を誤認と言うのだから、径百歩も誤認でいいんでねーの。

432日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:21:38.13
>>424
>魏略は末盧国東南の伊都国といっている。その「南」が東の誤写なら、東南は東東になるだろう・・、

魏略のどこに、伊都国のその「南」だと書いてあるの?

433日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:23:00.14
>>430
畿内説は文献批判して「南が間違いだ」と言ってるから
九州ゴミとは違うよ

434日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:24:12.57
>>431
>間違えようの無い方位を誤認と言うのだから、径百歩も誤認でいいんでねーの。

誰が誤認と言ったの?

435日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:25:07.87
>>429
>どこが、絶望的か指摘せよ!

三世紀の北部九州はもう古墳文化の中だから

436日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:26:41.16
>>420
>それで、南が東の解説はお手上げでいいのだな

テンプレで解説されてるから俺は特に付け加えることは無いよ

437日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:28:32.88
>>427
>アホか、そんな初歩的なことを知らぬとは、、
>オメは偽者学者で、ピックルの類だな・・、

証拠も出せず
反論を諦めて
罵るだけになったってことは
>それを明治43年、京都帝国大学教授の内藤虎次郎が、南は東の誤写(誤り)だーーー、
>と叫んだことで、京大は誤写説に陥ったまま、今に至っているだろ。

はデマってことでいいね?

438日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:30:18.99
>>148
>>151

439日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:31:06.47
>>424

本居宣長は倭人伝に対して疑義が多いという前提での熊襲偽僭説

440日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:31:55.28
なーんだ、
ついに畿内説は、金を積んでどこぞのピックルに頼ることになったのか・・、

441日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:38:43.21
>>440
あなたの九州説、また簡単に論破されたね

442日本@名無史さん2021/12/08(水) 13:39:12.94
隋書は矛盾を認識しながら、北九州から舟で東に行ってヤマトに入り、ここが魏志の言う邪馬台国だと解釈してるね。
確認のため、琉球国にも行って持ち帰った布甲が倭の物でないことを遣隋使に確認してる。

443日本@名無史さん2021/12/08(水) 14:01:35.84
きうすぅ説さんに特にお勧めします

1.投稿する人は裏どりしてから
2.その投稿に疑問を抱く人は調査してから、、

444日本@名無史さん2021/12/08(水) 14:18:11.55
>>443
それを絶対やらないから九州説はいつも論破される

445日本@名無史さん2021/12/08(水) 14:23:34.10
ピックルに関わり合っても、実りはない。
畿内纒向説も、業者の小僧に頼るまでに落ちぶれたか・・、

446日本@名無史さん2021/12/08(水) 14:43:18.54
>>445
逃げ回ってみっともない九州説

447日本@名無史さん2021/12/08(水) 14:57:01.99
>>406
周、穆王から以下は西鄭に於て統べる

448日本@名無史さん2021/12/08(水) 15:04:28.68
>>447
したがって
>動詞か形容詞だから邪馬台国は都市ではなく
>女王の治める範囲のことを指してる
は間違いでした

449日本@名無史さん2021/12/08(水) 15:53:10.96
>>423
>学会では、九州説は絶滅危惧種。
しかし、未だに在野では、九州説のほうが人気があったりする。

いや、大和説学者らやマスコミや教育委員会や教科書会社や文科省らの、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説は、
当然、絶滅危惧種。

450日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:02:05.62
>>424
>>魏略が南と言ってるって、どこ?

>魏略は末盧国東南の伊都国といっている。
その「南」が東の誤写なら、東南は東東になるだろう・・・

魏略は、後代史書での「魏略逸文」としての紹介しか存在せず、
しかも、その解釈や説明が、
3世紀の同時代の魏の役人らの実地の見聞計測の記録と、かなりの差異が発生しており、
3世紀の倭地に関する証拠にはなり難い半分偽書。

451日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:27:23.70
>>433
>畿内説は文献批判して「南が間違いだ」と言ってるから
九州ゴミとは違うよ

ダメだ。3世紀の魏の役人らは、当然、
周髀算経や礼記が記載した「太陽の日内移動や北極星などに拠る東西南北の決める方法」
を知っているから、「東西南北」はほぼ間違える事はないもの。
また、倭人も、周代には中国にいたし、呉王夫差の遺民も来ていたし、
魏の役人らの東西南北の決めるのを学習していた可能性が高いから、
東西南北を間違える事は殆どないもの。
だから、間違えるのは、「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使い、
「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの現代大和説人種の、
意図的なオレオレ詐欺師位なもの。

452日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:31:02.98
>>451
>東西南北を間違える事は殆どないもの。

「間違えた」と「間違いだ」は違うんだよ
日本語を勉強してくれ

453日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:36:45.44
>>435
>三世紀の北部九州はもう古墳文化の中だから

ダメだ。
卑弥呼の冢の3世紀第2四半世紀頃の時期を、
「3世紀」という範囲拡大解釈の詐術をして、
「冢」を「古墳」と拡大解釈をして、
3世紀末以後の大和の前方後円墳と同時期であるか、のような言い方をした、
この大和説男は、
やはりまた、オレオレ詐欺をした事になる。

454日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:44:22.45
>>436
>>それで、(大和説者は)南が東の解説はお手上げでいいのだな

>テンプレで解説されてるから俺は特に付け加えることは無いよ

おや?、この大和説者は、また、私が以前に論破しておいた、
テンプレが「中国文献での方向間違いの例」として挙げた舊唐書の話の紹介を、
避けて、逃げたようだな。

455日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:50:03.76
>>454
論破したとか錯覚でしょ
もしくは妄想
だってあなたは理由が言えない人だから

456日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:50:21.65
女王国の北には邪馬台国に従う国々があり、伊都国には一大率が諸国を検察していた
女王国の南には女王国に従わない狗奴国があった
女王国の東には海を隔てて倭種の国々があった

方角に関しては整合性があって誤記はないと思う

457日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:51:12.82
>>437
>証拠も出せず反論を諦めて罵るだけになったってことは
>それを明治43年、京都帝国大学教授の内藤虎次郎が、南は東の誤写(誤り)だーーー、
と叫んだことで、京大は誤写説に陥ったまま、今に至っているだろ。
はデマってことでいいね?

勿論、内藤が大和説を唱えた時点で、
「南→東」の嘘吐き騙しをしている、
という事になるのは、当然の事であり、
この大和説男も、その事を伏せて隠して、言葉尻を捉えた誹謗をしている事になるのも、
当然の事だな。

458日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:53:30.43
>>441
「南→東」などの史料事実の否定曲解のあなたの大和説、
また簡単に論破されたね

459日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:55:15.47
むしろヤマト王権の強大化に恐れをなした北・中部九州連合の邪馬台国が、
魏に倭王に任じてもらうことで、ヤマトを牽制しようとしたのではないか?
ただ倭王に任じてもらうためには、
邪馬台国よりも強大な国がいることを魏に知られないようにしないといけない。
だから魏の使者には東の海千里を隔てると倭種の国があると言いつつ、
内実は明かさずに隠蔽したのではないか?

460日本@名無史さん2021/12/08(水) 16:59:40.06
当時は漢字が日本に定着していないので魏からの詔書の写しを各国に配ってもピンと来ない
だから当時は高級品であった魏から賜った鏡を各国にもヤマト傘下の国々にも配って、
邪馬台国女王は倭王であるという権威を誇示しようとした

461日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:02:49.12
>>459
日々ヤマト王権が強大化の道をたどっていたのなら、
なぜヤマト王権自らが「倭王」に任じてもらい、中部九州の邪馬台国を蹴散らさなかったのか?
実は、邪馬台国が怖かったのだろうww

462日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:03:46.81
>>448
「周自穆王以下都於西鄭」周、穆王から以下は西鄭に於て統べる
だから穆王等が西鄭(都市)に居て国を治めているって意味で
「邪馬壹國女王之所都」の場合は邪馬壹國は女王の統べる所
つまり女王の支配地域全体のことで女王の治める範囲のことを指してる
都市ではないね

463日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:06:20.94
>>461
海を隔てた遠征は地続きの遠征とは違った難しさがあるよ
源平合戦の時ですら鎌倉軍は船で九州へ遠征することに難儀した
もしくは当時は三国志の時代だが、赤壁の戦いで不慣れな舟戦に敗れた曹操のように、
ヤマト王権の将軍たちも舟戦が不慣れだったから遠征しにくかったかも

464日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:09:50.67
ヤマトの存在を魏に隠蔽できるのかという疑問もあろうが、
後の明王朝も九州を制覇しただけの懐良親王を日本国王良懐にしたぐらいだからね

465日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:22:57.19
>>462
めちゃくちゃだね

皇甫謐曰「舜所都,或言蒲阪,或言平陽,或言潘。」

陳寿が相してた平陽国だろ
舜所は中国の帝王で、平陽国王じゃないよ
都が平陽国の中にあっただけ

466日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:29:36.52
>>442
>隋書は矛盾を認識しながら、北九州から舟で東に行ってヤマトに入り、

これもバツ。隋使の裴清は、別に「矛盾を認識」などしておらず、
「北九州から舟で東に行ってヤマトに入」ってもいないから、
この大和説男はまたオレオレ詐欺をした。

>ここが魏志の言う邪馬台国だと解釈してるね。

隋書の筆者の魏徴らの「・・・都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」の
「則魏志所謂邪馬臺者也」の記載は、
魏志には「邪馬臺」ではなく「邪馬壹國」と書かれているのだから、
明らかに始めから、魏徴らが、(魏志の)「邪馬壹國」を、
後漢書の「邪馬臺」に書き変えた」嘘つき騙しのインチキをした事になり、
また、この大和説男は、
「邪馬台国」という存在もしなかった嘘つき騙し文言も使っているから、
この大和説男は、またオレオレ詐欺をした事になる。

467日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:35:55.93
>>443
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説さんに、
特にお勧めします
1.投稿する人は、
史料事実や史料実態の「信頼性や確率の史料批判」や「裏どり」してから
2.その投稿に疑問を抱く人は、特に何故そのような記述があったのか?を調査してから、、

468日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:39:02.26
>>444
そのような「史料事実やそれからの帰納的高確率的な史料実態の推論」を、
ほぼ絶対やらないから、
大和説学者らやオレオレ詐欺師の大和説仲間らは、
いつも論破される

469日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:43:03.61
戦国時代に北九州の大友宗麟は中国地方の毛利の北九州侵略に対抗するために、
京都の足利将軍家に工作して九州探題や左衛門督に任じてもらった

北九州邪馬台国も同じだろう
周防長門に勢力を伸ばしたヤマト王権に対抗するために、魏から倭王に任じてもらった

470日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:49:06.06
畿内説の疑問点

・ヤマト王権=邪馬台国とすると、卑弥呼はヤマト王権で「初めて」中国の皇帝から倭王に任命してもらったことになるが、
ヤマト王権に卑弥呼に比定される人物がいない。
・ヤマト王権=邪馬台国とすると、北九州については詳細に記述しながら、
関門海峡、瀬戸内海もしくは日本海を通過したとみられる記述がない。
・邪馬台国に隣接する南の狗奴国が敵国として紹介されているが、
畿内から北九州迄広範囲に支配する国の敵がヤマトのすぐ隣国にあるというのも奇妙

471日本@名無史さん2021/12/08(水) 17:55:04.37
>>446
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」などの、
史料事実や史料実態から逃げ回って、
みっともない大和説

472日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:01:57.50
>>471
俺も単純な誤写ってのは納得し難いけどそんなもん読む人が判断すれば良いじゃん
おまえが書き込みするなとか言うこっちゃないわな

473日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:16:30.34
>>459
>むしろヤマト王権の強大化に恐れをなした北・中部九州連合の邪馬台国が、
魏に倭王に任じてもらうことで、ヤマトを牽制しようとしたのではないか?

「〜ではないか?」というような匂わせレベルでは、
史料事実やそれからの帰納的高確率的な推論になっておらず、
単なる「オレオレ詐欺の妄想」レベルにしかならないから、バツ。
勿論大和は、九州倭國の、
「自昔・・・東征毛人五十五國」で征服されて地方の市を監督する大倭職の、
別種倭種の旧小国であったから。

>ただ倭王に任じてもらうためには、
邪馬台国よりも強大な国がいることを魏に知られないようにしないといけない。
だから魏の使者には東の海千里を隔てると倭種の国があると言いつつ、
内実は明かさずに隠蔽したのではないか?

まるで、分裂幻覚の妄想小説のようなお話だね。

474日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:16:40.20
>>465
皇甫謐曰「舜所都或言蒲阪或言平陽或言潘。」
この文章は皇甫謐曰「舜都或言蒲坂或言平陽或言潘。」
とも書かれたものがあるな

475太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 18:22:23.87
>>471
ほぼ同意。
倭人伝は女王国へ行く案内書的文面。
南下するのに東行する盲象を犯している。

阿波なんぞ長い東行のあとちょこっと南下を誇張してここのみ強調して
晦まそうとしている。完全な電波説。

476日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:22:44.55
>>433
単純に倭人伝批判と何故言わないのかねー

477日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:24:11.34
>>446
お前が適任だ
南→東のなぞをとけ

478日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:26:40.73
>>475 太国
>阿波なんぞ長い東行のあとちょこっと南下を誇張してここのみ強調して

瀬戸内海なんぞ通らんわい! ボケ!   @阿波

479日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:27:52.33
>>466
隋書は、都は邪靡堆にある、これは魏志の言う所の邪馬臺である、 であることはそのとおり。

都に入るのに以下のルートをとったが、竹斯國から都まで、東に行く以外にどういうルートを取ったと考えるの? (東の文字しかなく、そのまま行ったと読める)

明年上遣文林郎裴清使於俀國度百濟行至竹島南望𨈭羅國經都斯麻國逈在大海中又東至一支國又至竹斯國
又東至秦王國其人同於華夏以爲夷洲疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都

480日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:28:11.16
>>434
スレ主
朝鮮通信使まで出して、誤認の可能性に言及してるよ。

481日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:28:40.59
>>475 太国
>阿波なんぞ長い東行のあとちょこっと南下を誇張してここのみ強調して

瀬戸内海なんぞ通らんわい! ボケ!   @阿波

482太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 18:28:59.29
>>475
今書店で手に入る旅行案内書を買って読んでも、南に行くとあれば旅行客が
東に行くまぬけはいないだろう。もし書の指示の南でなく東に目的地の
観光場所があったら全国からその出版社に多々苦情が来る。w
倭人伝もそんなドジは踏んでない。

483日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:29:23.12
>>435
それどの学者の説?

484太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 18:29:49.48
阿電波よ
じゃあどこを通ったのか?ww

485日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:30:05.54
>>475 太国
>阿波なんぞ長い東行のあとちょこっと南下を誇張してここのみ強調して

瀬戸内海なんぞ通らんわい! ボケ!   @阿波

486日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:31:49.66
>>484
前に、「阿波」までの行程を示しただろうがよ。 読み返せ!どあほのボンクラ!   @阿波

487日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:33:08.86
>>472
逃げとるだけじゃん

488日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:34:55.51
>>460
>当時は漢字が日本に定着していないので魏からの詔書の写しを各国に配ってもピンと来ない

詔書は、明帝から卑弥呼への文書であり、「各国」に配る必要もないから、
これもこの大和説男の分裂幻覚の妄想。

>だから当時は高級品であった魏から賜った鏡を各国にもヤマト傘下の国々にも配って、
邪馬台国女王は倭王であるという権威を誇示しようとした

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この大和説男?もバツであるが、
明帝は詔書で、
「・・・皆裝封付難升米牛利還到錄受。悉可以示汝國中人。使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也」
と書かれているから、九州倭國(≒女王国)の各国に配る事はあり得た。

489日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:35:37.03
>>436
お前はキナイコシだろ
自画自賛はだれもついていかない。
矛盾だらけのテンプレだよ

490日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:37:48.01
>>487
逃げとるとはどういう事かな
読む人が判断すれば良いんであって堂々と書けばいい

491日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:37:52.85
>>475
天皇陛下万歳野郎はすっこんでろ

492日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:38:35.27
>>490
健忘症かい、既に書いてある、

493太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 18:38:49.20
阿電波よ
通行路が言えねえんじゃあオマエの負け。コチラはオマエに三勝。wwww
また阿電波を折伏完了。

494日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:40:32.76
>>476
彼は都合が悪いんだろう。

495日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:40:42.21
>>492
堂々と誤写だと書けば良いじゃん

496太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 18:41:20.14
各々方

やつは稀代のデンパです。

497日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:41:55.00
>>492
なんと書いたの?

498日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:42:46.91
>>475
阿波説を良く読んだ方が良いよ。
急に現れるなら、基礎知識ぐらい持った方が良いよ。

499日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:43:28.13
>>493 太国
どあほ! 何回も世話かけさすな!  瀬戸内海なんぞ通らんわい! ボケ!   @阿波

帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町  出航地 厳原町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町  出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里 紀伊水道渡海→奈良周辺)   @阿波

500日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:43:29.77
俺は単純な誤写は納得し難いけどそう思うなら堂々と書けば良いじゃん

501日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:45:05.92
>>497
健忘症くん
ほらよ
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」

502日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:45:22.93
>>475
>ほぼ同意。倭人伝は女王国へ行く案内書的文面。
南下するのに東行する盲象を犯している。
阿波なんぞ長い東行のあとちょこっと南下を誇張してここのみ強調して
晦まそうとしている。完全な電波説。

有難う、御座います。

503日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:47:11.45
>>502
どあほ! 何回も世話かけさすな!  瀬戸内海なんぞ通らんわい! ボケ!   @阿波

帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町  出航地 厳原町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町  出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里 紀伊水道渡海→奈良周辺)   @阿波

504日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:48:13.66
帯方郡→投馬国→九州→大阪
里数の不弥国までの行程は全く関係なし

505日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:50:07.32
>>501
>「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」

そんなお経唱えると何か御利益あるの?

506日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:50:35.42
>>1
畿内説の言う文献批判とは倭人伝批判の事ですな。
畿内説で倭人伝の批判するところを箇条書きにしてくれないかな。

507日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:52:06.99
>>506
身長三、四尺の人々は居ない

508日本@名無史さん2021/12/08(水) 18:57:15.67
>>505
お経に映るあんたの脳が不思議。
事実からめを背けてはダメ
背けて無いなら反論しないと
ザラコクさんが何度も投稿するよWw

509日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:02:53.01
>>479
>隋書は、都は邪靡堆にある、これは魏志の言う所の邪馬臺である、 であることはそのとおり。

魏志は「邪馬壹國」であって、邪馬臺ではないから、キミはバツ。

>都に入るのに以下のルートをとったが、竹斯國から都まで、東に行く以外にどういうルートを取ったと考えるの? 
(東の文字しかなく、そのまま行ったと読める)

東へ行って、「又東至秦王國,其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」と書いておいて、
その後を「又經十餘國達於海岸」というように、国名を書かずに、
「海岸」というような、「地理的説明」しか書かないような(隋帝への)報告書は、
あり得ない。
これは、裴清らは、秦王國まで東へ進んだ後、その後は「東」へは進まず、
東の方は「地理的説明だけ」をした事になり、
北は海であるから、秦王國の次は南の内陸方面に行った、という事を示す文である。

510日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:03:00.35
径百歩の卑弥呼の墓はいずれかだろう
1.まだ見つかってない
2.既に消滅している
3.径百歩が間違っている
4.1歩の長さが違う
5.円形が間違っている

511日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:09:51.88
>>510
6.箸墓である

512日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:12:27.00
箸墓は卑弥呼の墓と思わない理由
1,前方後円墳である。
2.女性の墓と断定する根拠が無い、、三輪山伝説を持ち出すのかねー
3.年代比定が曖昧てこれと言った根拠が無い
4.まず南を東としなきゃたどり着け無い

513日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:13:14.35
>>509

だから、隋書は「魏志は邪馬臺だと言っている」と言っている訳で、そういう認識だったと。(版による違いもあるのでは)
魏志が邪馬壹と邪馬臺を使い分けて別の国と書いてある訳でもないし。

南に行ったという記述がない限り、無理な主張はやめよう。

514日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:19:21.75
>>512
つまり一つも理由ないってこと?

515日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:24:35.59
>>512
年代は三世紀中葉で確定したのでは?

516日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:26:30.06
数年前は箸墓と平原を項目別に比較した点数表なんて出してたのに
そんな余裕もなくなったねー

517日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:26:36.63
>>493 太国
どあほ! 何回も世話かけさすな!  瀬戸内海なんぞ通らんわい! ボケ!   @阿波

あほの太国、逃げたんか?  わははははは   @阿波

518日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:28:21.15
見直されるべ畿内説の学者、(新妻利久)

論文で新妻氏は、不彌国は豊前であり、投馬国は日向とし、その証左として西都原古墳群を挙げている。投馬国から邪馬台国へ南水行十日陸行一月について、日向を出発し、豊後水道から方向を東南に取り、土佐を回って紀伊半島に上陸、大和に陸行したとする。

519日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:30:58.66
>>474
皇甫謐曰「舜所都或言蒲阪或言平陽或言潘。」
だと意味が変だから皇甫謐曰「舜都或言蒲坂或言平陽或言潘。」の方が正しい文章だね

520日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:32:10.64
>>515
根拠は?

521日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:32:46.77
>>518
>論文で新妻氏は、不彌国は豊前であり、投馬国は日向とし、その証左として西都原古墳群を挙げている。

その証左がお墓かいww  学者なら、「投馬国」に見合う集落遺跡を挙げろよ、情けない。   @阿波

522日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:34:24.38
>>510
>径百歩の卑弥呼の墓はいずれかだろう
1.まだ見つかってない

見つかっている。99%位祇園山古墳。

>2.既に消滅している

消滅していない。

>3.径百歩が間違っている
4.1歩の長さが違う

張政ら魏の役人らは、卑弥呼の冢を実見した、という記載状況であり、
ほぼ間違っておらず、
「1歩の長さ」もほぼ違っていない。

>5.円形が間違っている

この男は、卑弥呼の冢を「円形」だ、と断定しているようだが、
「冢」とは、(始皇帝冢のような)「錐体」や「錐体台」的な形状を示す文言であり、
「円形」などとは、どこにも断定していないから、バツね。

523日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:38:07.83
>>517
阿波さんよ。
太國のスレ名「天皇制なんてイラねーよ」への投稿みると笑えるよ。
皇国史観そのもの。爪弾きに遭いまくり。

524日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:48:04.66
>続日本書紀には、「大宰府をして、大野(おおの)、基肄(きい)、鞠智(くくち・久々知)の三城を繕治せしむ」、と書かれているとおり・・、

三城の修復は698年頃で、続日本書紀の完成は800年頃であるから、両者は時代的にさほど離れていたわけではない。
この記事との関連で注目されるのは、博多や糸島を敵に回したかのような水城・大野城・基肄城の構えである。

というのは、水城は大宰府の下流にあって水を湛える施設であるから、夏、水門を絞れば下流の博多は稲作が出来ない。
また、いざという時に水門を放てば、下流の博多は大洪水で計り知れない被害を被るからである。
つまり、水城・大野城・基肄城は、唐・新羅系の北側の博多ー糸島を監視/脅迫するものであった。、
また南の肥後鞠智城は、熊本南部の呉系狗奴国の残党を押さえ込むために設けられたと思われる。、
則ち三城は、北と南の異
そして実は、その百済族の二〜三世紀渡来初期の根拠地が、末盧国東南500里の佐賀平野の伊都国(佐賀川上)と、
その東の不彌国(吉野ヶ里)及び支惟國(基肄)だったのではないか。
そう考えれば、大宰府の北方備えの水城の役割も、南方抑えの鞠智(くくち・久々知)城の位置も納得できる。
(なお、この古代百済系種族が四世紀ごろに東遷し、ヤマト王権を打ち立てたのであろう。このように考えると、倭人伝の描く俯瞰図がより良く納得できる)

525日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:48:11.70
>>520
土器編年

526日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:49:35.56
>>518
>論文で新妻氏は、不彌国は豊前であり、投馬国は日向とし、その証左として西都原古墳群を挙げている。

その証左がお墓かいww  学者なら、「投馬国」に見合う集落遺跡を挙げろよ、情けない。   @阿波

527日本@名無史さん2021/12/08(水) 19:52:08.73
>>519
九州説さん、勝手に史料改竄したらダメ

528日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:12:33.88
>>473
断定できないから想像するしかないじゃん
古墳だってそう

529日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:14:10.27
>>507
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

この部分は魏使が実際に訪問していないので定かでは無いでしょう。
その他は?

530日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:14:49.22
>>482
東南なのに、北東の博多湾も同じだな。
苦情がくる。

531日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:18:18.33
>>528
それで良いですよ。
想像も良いですよ。
核心には至らないけど5ちゃんだから

532日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:20:00.31
>>530
東南陸行は既に解決してるよ。
とやかく言う学者も減ったようだし。

533太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 20:21:34.44
>>517 阿電波よ 
いつでも相手になってやろう。
オマエのどう通ったのか無説明がねえ。アハハハ・・・・・
虚勢は最高だな。pp
どうやって南下したのかねえ? 三猿の口か?
頑張ったって阿波に女王国はねえ。
尾補欠のブービー賞の地に女王国はねえ。w
アホ踊りに励んでお。bububu

534太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 20:22:39.27
各々方
奴は稀代のデンパです。

535日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:24:28.85
太伯の子孫を否定してるヤマトが神功紀に邪馬臺、女王卑弥呼の引用を許してることが異常なんだよ。

536日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:28:54.40
>>522
祇園山古墳は方墳、
方墳で径をつかうかねー

537日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:29:35.79
>>532
見放された

538日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:31:41.94
>>525
三世紀以降の、土器も見つかってるよ

539日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:37:50.04
>>533 太国
どあほ! 何回も世話かけさすな!  瀬戸内海なんぞ通らんわい! ボケ!   @阿波

540日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:38:29.89
>>525
研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。広瀬和雄はその時期を3世紀中期ないし後期としている[16]。白石太一郎は3世紀中葉過ぎとし[17]、「3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、その後継者である台与の時代である。」とも主張している[18]。寺沢薫は260〜280年頃[11]、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとする[19]。

541日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:40:15.41
>>537
イミフ
北東陸行は無理、海に落ちる。

542日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:41:05.00
>>540
研究者の世代を見れば疑問なし

543日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:43:30.64
>>518
>見直されるべ畿内説の学者、(新妻利久)
論文で新妻氏は、不彌国は豊前であり、投馬国は日向とし、
その証左として西都原古墳群を挙げている。

根本的に、新妻は、倭人伝の行程説明が全く読めていないし、
方向や里数や「原則は道のり説明」である、という事も分かっておらず、
奴國と投馬國が「途中移動があった事を示す文言がない」から側副傍線國説明である、
という事も分かっておらず、
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の計算が陸路参問里数の合計であり、
「400余×2+300×2+500+100+(4000余-1000余)=5000(里)
という計算が成立するから、對海國と一大國は海岸沿い二辺の陸行をしている事や、
不彌國と邪馬壹國女王之所都で、萬二千余里がほぼ終わってしまう説明である事も分かっていないし、
「畿内」や「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っているし、
最終的にも、大和に比定しているから「南≠東〜東北東」になってしまう、という点でバツである。

>投馬国から邪馬台国へ南水行十日陸行一月について、日向を出発し、豊後水道から方向を東南に取り、土佐を回って紀伊半島に上陸、大和に陸行したとする。見直されるべ畿内説の学者、(新妻利久)

漢文では、数量説明文言は説明対象のすぐ後に書く、という原則があるから、
「水行十日陸行一月」の説明対象は、
(郡からの目的地である)女王之所都の説明文言である事になり、これもバツである。

544日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:45:45.57
>>543
>漢文では、数量説明文言は説明対象のすぐ後に書く、という原則があるから、

ないな

545太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 20:47:56.77
>>539
そうだろう、瀬戸内海航行だとオマエの論は成立しねえ。ww
だから関所破り的方法で南下したよう熱象をアドリブで工作脳を
強行で働かさにゃあならんのだ。ウハハハ・・・・・
即興で考え出したか? まだどう航行したか、書きこみがねえのさ。ppbb
アホ踊りでウソ・アホと叫んでろ。

546日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:54:23.05
>>543
對海國と一大國は海岸沿い二辺の陸行をしていいないし
記載もない。

プルタぺーテン。

547日本@名無史さん2021/12/08(水) 20:59:30.65
海岸沿い二辺の水行だろボケ

548日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:06:55.50
この当時の人ですら、↓この認識だよw

卑弥呼は九州確定だって、壹與は畿内ね

完璧でーーーすw

991 日本@名無史さん 2021/09/10(金) 18:50:49.17
記紀編纂した奴らは
三国志呼んで「ん? 邪馬台国? 卑弥呼? 女王国?」と思って
神功皇后のところでチラ載せしてる程度にとどめてる

が、明らかに、わかってないことは事実だな

「邪馬台国はヤマト王権のこととして、九州の方の話? 女の王?」
で無理やりピースを埋めてる

手元にある記録からは
欠史八代の実績はともかく、系譜からも読み取れなかった

少なくとも畿内で起こった話ではない
と解釈してる

549日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:07:07.77
>>525
>土器編年

大和説学者らの「土器編年」の絶対年代計測では、
年輪年代法は、基準木と検体木の生育時の気候や日照時間や降水量などの、
同一性の「絶対的な保証」がない、という欠陥などがあり、
AMS法でのベータ崩壊計測でも、
(外周電子を無くしてしまう)プラズマ化をした計測をしているが、
プラズマ化をした時点で原子核は、
ベータ崩壊が促進されてしまって、古い年代が計測されてしまう、という欠陥を持っており、
更に計測器械によって、プラズマ化の持続時間の違いがあれば、
長くプラズマ化をした方が更に古い年代を計測してしまう事になり、
結局50〜100位古い年代になっているようであり、
これも欠陥計測法である。

550日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:07:49.77
>>527
資料によって違うみたいだけど

551日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:08:29.83
>>545 太国
>即興で考え出したか? まだどう航行したか、書きこみがねえのさ。ppbb

どあほ! お前は眼くらか! >>503が見えんのか! 何回も世話かけさすな!  瀬戸内海なんぞ通らんわい! ボケ!   @阿波

552日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:12:00.93
>司馬懿は曹叡に対し「往路で100日、戦闘に100日、復路に100日、
>休息に60日の計1年で平定できる」と宣言。

>結果237年12月に出陣し7月に公孫淵一族を討伐。
>宣言どおり一年後の12月に洛陽に帰還している。

帯方軍から洛陽まで100日ってわかるねw

553日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:12:08.14
>>532
呼子付近に上陸して東松浦半島内を南下
唐津市街地付近から東へ五百里(40km)
丁度糸島市に付くね

554日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:14:17.82
>>542
三世紀後半と言う事?

555日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:15:19.94
>>546
對海國と一大國の北岸に着き南岸へ沿岸を船で回ったんだね
次に東松浦半島の北岸へ

556日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:15:45.19
>>529
>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
この部分は魏使が実際に訪問していないので定かでは無いでしょう。その他は?

勿論、魏使自身は、女王之所都にまでしか行っていなかったかも知れないが、
魏の役人たちは、「人長三四尺」という目撃記述があるし、
「又有侏儒國在其南」と「有」と断定しているし、
里数も方向も計測記録しているから、侏儒國付近までは、行っている。

557太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 21:15:48.61
阿電波よ
こんなんではオマエのイカサマを隠匿してる記述だ。
北九州から南下じゃあオメエん所につくわけがねえ。
抽象的は晦ましのゴマが効くから、もっと具体的に書くんだな。
長距離東行が目立たねえようにして南下だとぬかしても騙されねえよ。ww

558日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:17:46.43
>>532
していないな。

559日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:20:43.14
>>555
そういう事だよ。
古田インチキはもはや古典詐欺である。

560日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:28:55.40
>>530
>東南なのに、北東の博多湾も同じだな。苦情がくる

魏使らは、詔書や金印や大量の下賜のお宝を卑弥呼に渡す事が主業務であり、
危険な山越えや川沿いのいばら道や大河の渡河や水行は最小限であり、
「東南」は、出発時点での出発方向説明であり、
「陸行五百里」は海岸沿いの陸行を選択するもの。
そして、伊都国は「皆臨津搜露」が出来る地であるから、前原〜糸島水道付近である。

561日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:35:49.43
>>560
古田詐欺の典型である。
ちゃんと、記載する。当然、使者を出迎えもある。
ということは、
「皆臨津搜露」できる場所である。

562日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:36:59.76
>>536
>祇園山古墳は方墳、方墳で径をつかうかねー

祇園山は、不定形の基盤台の上の「四隅円弧の類錐体台」的な形状の「不定形」であり、
「径」は、(完全方形ではない)不定形の大きさの「長径表現」であるから、
祇園山の「径」表記は、非常に適切な表記。

563日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:44:23.46
>>540
>研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。広瀬和雄はその時期を3世紀中期ないし後期としている[16]。白石太一郎は3世紀中葉過ぎとし[17]、「3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、その後継者である台与の時代である。」とも主張している[18]。寺沢薫は260〜280年頃[11]、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとする[19]

大和説学者だ、という点で既に「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、史料事実や史料実態の曲解や否定の、
嘘つき騙しのオレオレ詐欺師である事は確定だが、
その中でも、広瀬や白石や寺澤らのインチキオレオレ詐欺が、酷い、
という事らしいなあ。

564日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:49:52.80
>>548
>この当時の人ですら、↓この認識だよw
卑弥呼は九州確定だって、壹與は畿内ね
完璧でーーーすw・・・

壹與は卑弥呼の宗女であり、卑弥呼が九州なら、壹與も九州になります。
完璧です。

565日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:51:26.88
>>557 太国
瀬戸内海なんぞ通らんわい! ボケ!   

豊後水道を南下、太平洋航路だ。  分かったか?ボンクラよ。   @阿波

566日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:57:19.42
>>564
結論だけ勇ましく唱える九州説
理由はなし
それが宗教

567日本@名無史さん2021/12/08(水) 21:59:32.95
>>555
>對海國と一大國の北岸に着き南岸へ沿岸を船で回ったんだね

いや、
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の計算が陸路参問里数の合計であり、
400余×2+300×2+500+100+(4000余-1000余)=5000(里)
という計算が成立するから、
對海國と一大國は海岸沿い二辺の陸行をしている、という事になる。

568日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:02:09.52
>>567
陸行していないよ。
記載もない。インチキはいけないな。

569日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:04:16.11
>>566
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、結論は九州。
口先でのオレオレ詐欺だけ勇ましく唱える大和説
理由はなし
それが宗教

570日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:05:10.31
>>556
目撃?

571日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:07:52.69
>>569
プルタぺーテン教

572日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:13:41.79
>>567
古田史学はまさに死学と化した。
ズルコクよ、おまいは古他に輪をかけたペーーテン死になっとるんだぞ

573日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:16:35.67
>>529
行ってないのにそんな奴おらんやろって記述を書いたのか

574日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:26:47.78
>>566
史料事実や史料実態などには関係なく、
嘘つき騙しのオレオレ詐欺の結論だけ勇ましく唱える大和説者
理由はなし
それが宗教

575太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 22:28:44.28
南下のところ東行ではもう死論。

90°も方角が違うわけがない。

576日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:29:40.66
身長三、四尺の人々なんて居ないよ
居たんなら遺骨を出せって話し

577日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:31:57.92
陳寿は知らないのにいい加減な事を書いた
だから誤写ではない

578日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:32:27.15
>>572
東大理系博士号自称男やスレ主らのオレオレ詐欺の大和は、
まさに死学と化した。
東大理系博士号自称男よ、
おまいらは、自他共に、大和説学者らに輪をかけた死にぞこないになっとるんだぞ

579日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:36:01.27
>>577
陳寿は、倭地には来たが事ないから、
魏の役人らの実地での見聞計測の記録から、
魏志倭人伝を書いた。

580日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:40:53.32
東も倭種の国と書いたがこれは陳寿の無知によるもの
東の倭種の国も中国と交易はしてただろうし資料はあったはず

581日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:51:07.20
>>560
「皆臨津搜露」は末盧国の港(呼子)に伊都国から卑弥呼の家臣団が出かけてるんですよ

582日本@名無史さん2021/12/08(水) 22:56:07.75
>>519
皇甫謐曰「舜所都或言蒲阪或言平陽或言潘。」
良く見たらこの文では「所都」だから都の所だね
だから「所」を省略しても意味は同じなんだ
「都所」じゃないから意味が全然違うな
漢文は語順が違うと意味が全く違ってくるんだよな

583日本@名無史さん2021/12/08(水) 23:07:03.79
卑弥呼と台与は同一人物じゃないかと疑ってる
この二人経歴がよく似てるし役職の卑弥呼と名前の台与の別々の資料を
陳寿は二人だと勘違いして辻褄合わせをした
まあこれは今言っても意味無いけど

584太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 23:09:20.43
別人だ。

585日本@名無史さん2021/12/08(水) 23:18:19.31
もう時効かな?
かなり昔、広島で邪馬台国じゃね?レベルの古墳が見つかったけど工事優先で埋めちゃったみたい
かなり詳しい該当地名まで伺ってたけど昔の話なので忘れちゃったわ
たぶん、備後地区…だったような?違うかも
宅建の登録実務講習のときに講師(実務者)から聞いたので間違いない情報かと
以上で書き逃げ

586太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/08(水) 23:25:13.97
阿電波よ 逃げたんかあ〜。ww
オマエの説が太平洋周りの太平洋行進曲では、80年前の今日同然に
オマエの論は敗戦の敗論だ。阿波に女王国はねえ。


@YouTube


587日本@名無史さん2021/12/08(水) 23:39:29.19
>>582
>「都所」じゃないから意味が全然違うな

「都所」なんて倭人伝に書いてないな

588日本@名無史さん2021/12/09(木) 06:34:08.57
>>575 太国
「投馬国」の宿毛を「南」へ出て、「邪馬臺国」へ到着だ。  めでたしめでたし。  わははははは   @阿波

589日本@名無史さん2021/12/09(木) 06:45:45.42
>>588
「東南」は、出発時点での出発方向説明であり
と同じだよ。
南行は、出発時点での出発方向説明てこと。

590日本@名無史さん2021/12/09(木) 07:11:32.94
>>589
ただし、出発地の比定が正しい場合に限る。  「末盧国」は、福津市(万津浦)辺り。   @阿波

591日本@名無史さん2021/12/09(木) 07:25:02.21
九州説者「南を東に間違えるわけがない」

畿内説者「ならば志賀島の金印は偽造という事でいいね。
     福岡が倭国の極南界であるはずがないから」

九州説者「それは方角を間違えていたんだ」

592日本@名無史さん2021/12/09(木) 07:56:15.31
>>591
時代考証めちゃくちゃ
金印は福岡県で発見された事に意味かある

593日本@名無史さん2021/12/09(木) 07:56:57.43
>>591
時代考証めちゃくちゃ
金印は福岡県で発見された事に意味かある

594日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:04:58.04
仮説として、伊都国は確かに「邪馬壹國」と言ったのかもね。
実在したかは別として。
後の歴史書は、本物の一大率の正体に気づいて修正したとか。

595日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:12:27.39
>>592
時代考証は関係ない。
倭国の極南界にふくおかけんがあるというのはおかしい。
よって金印は偽造である。

596日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:19:12.35
>>595
>よって金印は偽造である。

その通り!  黒田藩による偽造である。   @阿波

597日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:32:28.57
>>580
>東も倭種の国と書いたがこれは陳寿の無知によるもの

陳寿の倭人伝での主記載対象は、当然同時代の魏使や郡役人らが、
実地の見聞計測記録した「女王国(≒倭國)」であり、
東渡海千余里の倭種の文字の存在は見ていたが、それ以上の記録もなく、
記載対象にならなかった。

>東の倭種の国も中国と交易はしてただろうし資料はあったはず

東の倭種の諸国は、「自昔・・・東征毛人五十五國」の国であり、
半島とはたまに交渉があったとしても、
中国との交渉は母国の九州倭國経由した起こり得ず、
記録もほぼ全くなかった。

598日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:35:48.01
>>581
>「皆臨津搜露」は末盧国の港(呼子)に伊都国から卑弥呼の家臣団が出かけてるんですよ

これも「ない」な。
倭人伝を普通に読めば、「皆臨津搜露」をした場所は、伊都国の海岸部。

599日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:42:59.02
>>148
>>151
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は『狗奴国の位置』であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種
〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。

600日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:47:08.97
>>582
>皇甫謐曰「舜所都或言蒲阪或言平陽或言潘。」良く見たらこの文では「所都」だから都の所だね
だから「所」を省略しても意味は同じなんだ
「都所」じゃないから意味が全然違うな 漢文は語順が違うと意味が全く違ってくるんだよな

邪馬壹國女王之所都であるから、「邪馬壹國なり、女王これ都を置く所なり」でよく、
その邪馬壹國の説明に、「官」や「可7万余戸」などの説明があるから、
女王之所都と区別されている事になり、
邪馬壹國の中の不彌國に近い所に女王之所都がある、という事になる。

601日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:49:53.92
>>599
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

602日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:51:16.68
>>591
解説が田舎クサい
× 九州福岡説者「南を東に間違えるわけがない」
× 畿内説者「ならば志賀島の金印は偽造という事でいいね。
      福岡が倭国の極南界であるはずがないから」
× 九州福岡説者「それは方角を間違えていたんだ
九州肥後説者 「南を東に間違えるわけがない」
畿内纒向説者 「ならば志賀島の金印は偽造という事でいい?」       
九州肥後説者 「福岡が倭国の極南界と読むのは、極道読みだ」
          「極南界は(九州島の)南界までをも極む」と読む。
           金印の福岡奴国は「傍国の最後に出てくる奴国」だ。
           末盧国からは、指示通り東南の佐賀平野へ行け。   

603日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:51:29.74
>>599
卑弥呼と卑弥弓呼は同じ国同じ組織の中での権力争い
これも陳寿の勘違いであり狗奴国の位置は関係ない

604日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:52:19.36
邪馬台国は九州やろね。日田に鉄鏡でたし

605日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:53:14.63
>>583
>卑弥呼と台与は同一人物じゃないかと疑ってる

この一連の投稿の人間は、必死で、
「同時代の魏の役人らの実地での見聞計測の記録」を「陳寿の間違いだ」と匂わせ否定する、という、
一種の「・・・・オレオレ詐欺的投稿」を続けているが、
おそらく、魏志倭人伝の記載が都合が悪い大和説者なんだろうなあ。

606日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:54:27.91
そもそも末盧国の場所が松浦じゃなくて糸島なら全てが辻褄が合うと思うんだけど?

607日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:55:21.84
>>598
>倭人伝を普通に読めば、「皆臨津搜露」をした場所は、伊都国の海岸部。

なんの理由も言わず、自分の判断を普通だとだけ言うのは
それが単なる先入観だということを表す

608日本@名無史さん2021/12/09(木) 08:55:55.71
>>585
>もう時効かな?
かなり昔、広島で邪馬台国じゃね?レベルの古墳が見つかったけど工事優先で埋めちゃったみたい
かなり詳しい該当地名まで伺ってたけど昔の話なので忘れちゃったわ
たぶん、備後地区…だったような?違うかも
宅建の登録実務講習のときに講師(実務者)から聞いたので間違いない情報かと

これも「・・・・オレオレ詐欺の大和説者」の書き逃げ。

609日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:03:47.14
>>605
その通りだ
陳寿が想像でいい加減に書いた部分がかなりあると考える

610日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:04:09.18
>>601
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

611日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:11:37.81
>>595
偽造する理由は?

612日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:12:34.45
>>610
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(来年は皇紀2682年w)。

613日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:13:16.00
>>609
阿保が策をめぐらしてもダメ

614日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:15:26.77
>>591
>九州説者「南を東に間違えるわけがない」
畿内説者「ならば志賀島の金印は偽造という事でいいね。
     福岡が倭国の極南界であるはずがないから」

この「畿内」なんて存在もしなかった文言を使用した大和説者がオレオレ詐欺師であり、
「極南界」の解釈も、本来は「(倭人が)南界を極むるや・・・」であるから、
この大和説男が「偽訳」者である。
大和説者の「それは方角を間違えていたんだ」も、嘘つき騙しの詐欺師。

615日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:16:10.19
膨大な資料があったはずなのに陳寿は比較検証せずに自分の載せたいものを優先し辻褄合わせをした
だから後の記紀ではちゃんと検証して修正しあやしい部分は省いてる

616日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:18:41.95
>>612
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書

617日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:21:35.51
>>594
>仮説として、伊都国は確かに「邪馬壹國」と言ったのかもね。
実在したかは別として。
後の歴史書は、本物の一大率の正体に気づいて修正したとか

おばあちゃん、気を付けましょうね。
このような「・・・かもね」とか「・・・とか」とかの「優しそうな口先での騙し」が、
オレオレ詐欺師の常套手段なんですよね。
うっかり信用したら、それこそ財産身ぐるみを剝がされますよ。

618日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:22:54.02
>>591
倭人伝で狗邪韓国が「倭」の領域に含まれてるんだから
中国側が「倭国の領域は朝鮮半島南岸・北九州」と考えていたら
北九州が倭国の極南界でおかしくない

619日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:25:00.83
>>596
>>よって金印は偽造である。
>その通り!  黒田藩による偽造である。   @阿波

よって、「@阿波」も、オレオレ詐欺師の仲間である事が確定した。

620日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:29:57.12
>>603
>卑弥呼と卑弥弓呼は同じ国同じ組織の中での権力争い
これも陳寿の勘違いであり狗奴国の位置は関係ない

お祖母ちゃん、気を付けて下さいね。
この「陳寿の勘違い」論の男が、オレオレ詐欺の大和説者なんですよ。

621日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:30:23.29
>>616
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

622日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:32:56.63
いくら邪馬台国時代に畿内に大きな古墳があろうと
大陸産品が出土していようと
倭人伝にあるように朝鮮半島南岸・対馬・壱岐を
支配していないと邪馬台国とは言えない

ところが畿内がこれらの地域を支配していた証拠がない

北九州人のもたらす大陸産品のおこぼれを
畿内が貰っていただけではないか?

なんで畿内説が有力視されてるのか理解できない

623日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:36:17.93
>>620

「お婆ちゃん、俺だよオレオレ、893と事故っちゃったんだよ。これから言う口座番号に1,000万円振り込んでくれよ」

624日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:45:00.05
>>622
古墳時代の大和は、九州王朝(卑弥呼・台与・讃珍興斎武・阿毎多利思比孤)倭王の奥津城(王家の谷)

625日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:45:00.70
>>615
あほらしい

626日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:45:27.13
>>604
>邪馬台国は九州やろね。日田に鉄鏡でたし

大局的に見てその通りと思う
女王の邪馬台国は、肥後平野の山鹿・菊池一帯(但し、女王の所都は阿蘇)。
女王以北の主要国としては、佐賀川上の伊都国が帯方郡の現地指揮・連絡場所で、
吉野ヶ里が女王軍の練兵集合/出撃基地。ここで将に破鏡(軍票)を与えて、部隊を東へ送った。

つまり女王の主力は「肥前+肥後」だったのだ。
兵は、筑後川沿いに東へ進んで日田に至り、ここで北東に進路を変え、
豊国の山国川(邪馬国川)から、耶馬渓を抜けて中津へ到着し、女王の東海岸の兵站とした。記紀に云う中つ国である。

627日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:46:56.11
>>603
>卑弥呼と卑弥弓呼は同じ国同じ組織の中での権力争い
これも陳寿の勘違いであり狗奴国の位置は関係ない

「陳寿の勘違い」説を書いた男は、おそらくオレオレ詐欺の大和説男。

628日本@名無史さん2021/12/09(木) 09:55:28.21
>>606
>そもそも末盧国の場所が松浦じゃなくて糸島なら全てが辻褄が合うと思うんだけど?

明帝の詔書ちゃ親魏倭王印や大量の下賜のお宝を運ぶ事が絶対的業務である魏使らは、
危険な山越え道や渡河や水行や渡海は、
出来るだけ避けるという「安全行程が第1選択」になり、
一大國の壱岐からも、島伝いで最も近い「東松浦半島上陸」が選択されるものであり、
「糸島半島」上陸などは、バツ。

629日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:01:12.83
>>609
>その通りだ
陳寿が想像でいい加減に書いた部分がかなりあると考える

いや、陳寿は、
同時代の魏の役人らの「実地での見聞計測の記録」を元にして書いただけであり、
「想像でいい加減に書いた部分がかなりある」と言って、
倭人伝の「大和説者にとっては都合の悪い記載」を抹殺しようとしたこの大和説男?は、
国民を騙そうとするオレオレ詐欺師仲間。

630日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:02:52.69
>>153
>>160
FA出ちゃってるじゃんw

631日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:16:54.97
>日田に鉄鏡でたし

志賀島の金印、日田の鉄鏡、串間の王壁、全部考古遺物ではない。
発見状況が曖昧。
もっと言えば捏造。

志賀島、日田、串間を結ぶと邪馬台国南九州説になる。
金印のあの時代、熊襲の女王が卑弥呼に成りすましたとか言ってた男が本居宣長。

つまり本居による捏造であろう。

632日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:21:23.45
>>615
>膨大な資料があったはずなのに
陳寿は比較検証せずに自分の載せたいものを優先し辻褄合わせをした

いや、陳寿は、
魏の役人らの実地での見聞計測の記録の全部を書き写す事は不可能であるから、
倭地の説明に必要な事を選択して、それまでの記録や自分の知識との一致部分を示して、
倭人伝を書いた。

>だから後の記紀ではちゃんと検証して修正しあやしい部分は省いてる

記紀は、あれほど著明であった卑弥呼の名前を一切伏せて隠して、
隠蔽盗用造作をしている半分偽書であり、
証拠には殆どならない代物であり、
だからこの投稿子も、おそらくオレオレ詐欺の大和説者。
おばちゃん、騙されないように、気を付けて下さいね。

633日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:21:32.93
>>611
>偽造する理由は?

簡単じゃないか、中国に朝貢していたのは大和朝廷ではない、
大和朝廷はそんな屈辱的な事はしていない、
朝貢してたのは九州の小国だという事を事実化したいため。

だから金印が国宝になったのも、昭和6年の満州事変の後。
当時の軍部も、古代に天皇が中国に朝貢していたなどあってはならんという同じ考え、だから国宝にした。

634日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:23:42.41
卑弥呼がもらった? 曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に...

卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操高陵の発掘責任者が見解

「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘調査した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌・珠龍文・鉄鏡(きんぎんさくがん・しゅりゅうもん・てっきょう)」を、
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工芸技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。

>>148
奴国(志賀島の金印)・不弥国(日田の鉄鏡)・投馬国(串間の玉壁)すべてがピタリと符合!

宮崎県串間市で出土したとされる円盤状の器「玉璧(ぎょくへき)」。
古代中国で権威の象徴とされた品が、どのような経緯で串間の地にもたらされたのか。
直径33・3センチ、重さ1・6キロの円盤状。「軟玉」と呼ばれる鉱石でできており、真ん中に穴が開いている。
動植物がモチーフの文様が施され、ほぼ同じ大きさ・文様構成のものが、中国南部の「南越王墓」から出土しており、紀元前2世紀ごろに中国で作製されたものと推定されるという。

635日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:27:34.27
>>632
都合の悪いことは全て「捏造」、畿内説!w

636日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:29:39.93
>>618
>倭人伝で狗邪韓国が「倭」の領域に含まれてるんだから
中国側が「倭国の領域は朝鮮半島南岸・北九州」と考えていたら
北九州が倭国の極南界でおかしくない

元々、5世紀の范曄の後漢書は、
「自己解釈に拠る前史の書き変えが多い半分バツ書」であり、証拠にはなり難いが、
「極南界」も、前史にはない文言であり、魏志の、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。
又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。
又有裸國、K齒國復在其東南,船行一年可至」
の「裸國、K齒國」の記載の事を、「南界を極める」と書いた可能性が十分にある。

637日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:30:33.73
>>602
> 「極南界は(九州島の)南界までをも極む」と読む。

金印は九州島の北限から出てるのにそんな屁理屈成り立つかよ。


>金印の福岡奴国は「傍国の最後に出てくる奴国」だ。

違うね。
斯馬国=伊勢志摩
女王の境界の尽きる奴国=ナコ野が語源の名古屋
狗奴国=久努国=浜松・磐田

日本地図を右下45度に傾ければすべて解決。
夏には北東から太陽が昇るからね。

638日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:33:08.60
>>637の現代語訳

「叔父さん、オレだよ、オレオレ!893と事故っちゃって困ってるんだよ。今から言う口座に1000万円振り込んでくれよ!」

639日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:35:26.59
倭國之極南界

志賀海神社の緯度は北緯 33°40'04.8"なので
本州最南端の串本町あたり以外は志賀島よりも北になる
倭の五王時代の5世紀の後漢書では倭国が北東に拡がる国であることを認識している

640日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:41:04.20
>>639
という事は倭国は福岡よりも北にある、つまり倭国王や女王国は畿内か中部あたりになるね。

641日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:41:45.90
佐賀市教育委員会は、大和町川上の七ヶ瀬遺跡で弥生時代後期(1〜2世紀)の集団墓地251基が見つかり、中国製の青銅鏡4面が出土したと発表した。
うち1面は鉄刀、勾玉と共に埋葬されており、「三種の神器」がセットで出土したのは佐賀県内では初めて。佐賀平野の中央部から西部にかけて有力な首長が存在したとみている。
鏡4面が一度に見つかったのは、二塚山遺跡(神埼郡吉野ヶ里町、三養基郡上峰町)と同数で、佐賀県内最多となった。
鏡は前漢製と後漢製で直径9.5p〜17p。いずれも意図的に割られた状態だった。同じデザインの鏡は佐賀県内の他の遺跡からも見つかっている。
蛇や亀をあしらった後漢鏡「流雲文縁方格規矩禽獣鏡」(直径14cm)は木棺墓の近くから出土した。
素環頭鉄刀、鉄製短剣、翡翠の勾玉も見つかり、副葬品の充実ぶりから集落内で最も地位が高い首長の墓と見られるという。

県立佐賀コロニー跡地の工業団地造成工事を進める中で遺構が見つかり、2019年9月〜2021年3月に発掘調査を実施した。
弥生後期としては大規模な墓群で、墓域は長さ61m×幅25m。墓道を軸に、甕棺、石棺墓など251基が並んでいることが確認されており、さらに広がる可能性もあるという。

佐賀女子短大・名誉教授の高島忠平さん(81)は「1〜2世紀のクニの王権を示す発見。吉野ケ里遺跡の西に隣接して“佐賀のクニ”が姿を現した点も興味深い」と話し、邪馬台国が3世紀に束ねた30のクニの一つである可能性があるとみる。

642日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:51:09.04
>>624
>古墳時代の大和は、九州王朝(卑弥呼・台与・讃珍興斎武・阿毎多利思比孤)倭王の奥津城(王家の谷)

大和は、九州倭王の「王家の谷」にもなっていない。
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍らの「別種分家の倭種の旧小国」の、
地方の市を監督する大倭職の国であり、
征服した出雲系銅鐸祭祀部族や毛人を生口や守墓人にして、巨大墓を造っただけ、
大和が九州倭國の王家に参加出来て、将軍や執政や太宰や秦王になれたのは、
大和のヲホド継体が、九州倭國の磐井や皇太子や皇子らを倒して、
糟屋の屯倉や那の津を確保出来た後であり、
日本國を称したのも、小野妹子が隋文帝に日本國を名乗って失敗し、
唐の武徳中になって初めて「日本」國号を認められ、
大和日本國が母国の九州倭國を併合吸収出来たのが、白村江で九州倭國が唐に大敗して、
郭務ソウらが来て亡国の運命に晒された後、九州倭國を併合吸収継承して、
701年の大宝元年の建元で西日本の盟主になった事を宣言した。

643日本@名無史さん2021/12/09(木) 10:58:28.37
>>633
こういう陰謀史観ってトンデモの専売特許だよね
どうせ九州説だろうけど

644日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:12:03.83
>>637
>金印は九州島の北限から出てるのにそんな屁理屈成り立つかよ。
>>639
>倭の五王時代の5世紀の後漢書では倭国が北東に拡がる国であることを認識している

オメらは二人とも、読めないおとこだねえ・・

「極南界は(九州島の)南界までをも極む」の意味は、
「倭の奴国(博多那国)は、九州島の南の海岸までの諸国を全て極めている(支配下に治めている」、則ち「九州島の王者である・・」、という意味なんだよ。

645日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:13:49.89
>>643

畿内説だよ。

「金印は極南界ではない志賀島で見つかる、また発見状況が曖昧など偽造である」
ならば「偽造する理由は?」というから答えたら陰謀史観だって。

馬鹿じゃないのか。

志賀島がなぜ倭国の極南界なの?という質問にあたふたしてるくせに。

646日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:16:39.33
>>644
>「極南界は(九州島の)南界までをも極む」

そんな解釈はありません、アホの古田しかしません。

普通に倭国の極南界という意味。

647日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:21:06.67
女王の境界の尽きる奴国=57年に印綬された極南界の奴国

福岡ではない、ナコ野が語源の名古屋。
だからウマシマジや天香山が攻めに行って、以降、天香山の末裔の尾張氏が治めたので尾張国と言われる。
またウマシマジを祀る味鋺神社も現存する。

648日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:21:13.87
>>646
>普通に倭国の極南界という意味。

その通り、
普通に読んでも難しく読んでも、「倭国(九州島)の南の果てまで・・」だ。

649日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:26:55.19
倭国の南の果てまで極めたという事ではない、
奴国は倭国の極南界に「ある」という意味。

650日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:30:01.03
>>64
>>「極南界は(九州島の)南界までをも極む」
>そんな解釈はありません、アホの古田しかしません。

アホの古田は、そんな上品な解釈はしなかったぞ。
倭奴国は、倭国の最南端で、つまり倭国は半島南岸〜九州北岸までの海峡国家だったと大声で叫んだ。
キミと同じだ・・、

651日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:31:06.13
>>631
>志賀島の金印、日田の鉄鏡、串間の王壁、全部考古遺物ではない。
発見状況が曖昧。もっと言えば捏造。
志賀島、日田、串間を結ぶと邪馬台国南九州説になる。
金印のあの時代、熊襲の女王が卑弥呼に成りすましたとか言ってた男が本居宣長。
つまり本居による捏造であろう。

志賀島の金印、日田の鉄鏡、串間の王壁を、誰が何の必要や利益があって、
捏造するんだい?。
普通の精神構造の人間なら、そんなものを捏造する筈がないし、捏造する必要もない。
「捏造だろう」と言い放つこの大和説男の方が、オレオレ詐欺の・・・・犯罪者。

652日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:42:07.72
>>634
>偽造する理由は?
簡単じゃないか、中国に朝貢していたのは大和朝廷ではない、

九州説を応援して頂いて、有難う。

653日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:48:14.38
国宝保存法は昭和4年に制定された
昭和6年に金印を国宝に指定したのは、
金印が金歯にされてしまうことを防ぐため
金歯にされた後に回収しても「何これ?歯クソがついてんじゃねーかよ」となってしまうから

654日本@名無史さん2021/12/09(木) 11:56:30.79
>>638
>・・・日本地図を右下45度に傾ければすべて解決。
夏には北東から太陽が昇るからね。

周髀算経や礼記の「太陽の日内移動位置に拠って東西を決める」事を知っている魏の役人らが、
東西南北を間違える筈もなく、
中国大陸出身である倭人も半分以上は東西南北を間違える筈もなく、
この男は、バツ。

655日本@名無史さん2021/12/09(木) 12:02:46.84
畿内説が、「箸墓オレオレ詐欺」であることがこれほどハッキリしたことは、いまだかつてなかったことだ。

656日本@名無史さん2021/12/09(木) 12:03:29.98
東西南北を間違えないのであれば
唐津から糸島には行かない

657日本@名無史さん2021/12/09(木) 12:09:44.93
>>652
畿内説とプルタぺテン説以外
ならおkですね。

658日本@名無史さん2021/12/09(木) 12:12:43.29
>>654
>国宝保存法は昭和4年に制定された
昭和6年に金印を国宝に指定したのは、
金印が金歯にされてしまうことを防ぐため
金歯にされた後に回収しても「何これ?歯クソがついてんじゃねーかよ」となってしまうから

ふーん、成程。

659日本@名無史さん2021/12/09(木) 12:37:01.22
>>651
>志賀島の金印、日田の鉄鏡、串間の王壁を、誰が何の必要や利益があって、
捏造するんだい?。

上にも書いてるだろ。
古代天皇が朝貢していたなど決して認めたくないからだ。
本居宣長の発言などにはそれが顕著だ。
だから新井白石は邪馬台国九州説を唱え、本居宣長は熊襲の女酋長が卑弥呼に成りすましたなどと言ったんだ。

大和朝廷御世に古代天皇が朝貢していたことを知ってたから、そういう発言をしたのだ。
また倭面土国王帥升が来たという『翰苑』の事も知ってただろう。
倭面土国ってヤマト国以外に読めない。

660日本@名無史さん2021/12/09(木) 12:51:25.22
>>650
>キミと同じだ・・、

俺はそんなこと言ってない、倭国の極南界にある奴国はナコ野が語源の名古屋であるという説だ。
夏には太陽が北東から登ることから、東海はおおよそ南となる。
倭国の南の極限は名古屋、その南が狗奴国(浜松・磐田)だ。

661日本@名無史さん2021/12/09(木) 13:07:05.47
>>859
>上にも書いてるだろ。
古代天皇が朝貢していたなど決して認めたくないからだ。

大和には、古代には「天皇」なんていなかったから、この大和説男の脳の方がおかしいのだ。

>本居宣長の発言などにはそれが顕著だ。だから新井白石は邪馬台国九州説を唱え、
本居宣長は熊襲の女酋長が卑弥呼に成りすましたなどと言ったんだ。

(オレオレ詐欺の)大和説者が、九州説に賛成してくれて、有難う。

>大和朝廷御世に古代天皇が朝貢していたことを知ってたから、そういう発言をしたのだ。

古代においては大和に朝廷もなかったし、古代天皇もいなかったから、バツだ。

>また倭面土国王帥升が来たという『翰苑』の事も知ってただろう。
倭面土国ってヤマト国以外に読めない

翰苑も、自己解釈に拠る「倭人伝などの書き換えが非常に多い後代史書」であるから×であるし、
倭面土国も、後代史書の記載自体が論拠にならないから、バツだ。

662日本@名無史さん2021/12/09(木) 13:37:46.21
>>661
北朝鮮並みの歴史改ざんだな

663日本@名無史さん2021/12/09(木) 14:21:05.34
>>662

全くです。
もはや自分の好きなように歴史を改竄してるだけ。
多分人間の死ぬ前ってこんな感じなんでしょうね。
意識が半分あの世に行ってるのでしょう。

664太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/09(木) 14:33:49.03
>>661
九州説はいいとして、こいつのはデンパ説。

西皇帝より東天皇のほうが上。西横綱より東横綱のほうが格上だ。

朝貢するほうが必ずしも格下とはいえない。大陸と友好にする手段で
あって、格上格下とは無関係。

中国の五惑星の国旗より太陽の旭日旗のほうが格上だ。ww


@YouTube


665日本@名無史さん2021/12/09(木) 14:40:55.68
分かりやすく言うと、新井白石も本居宣長も、
邪馬台国が九州にあったなんてこれっぽっちも思っていない九州説者。
邪馬台国はヤマトである、しかしそんなことは口が裂けても言えない、だから九州だと言ったんだ。

『翰苑』「倭面土国王帥升が来たという」

古代日本の王で海を渡った人物が神功皇后を除けばスサノオしかいない。
彼らは帥升shuài/shuò shēng=スサノオが分っていた。
日本の歴史のアケボノが安帝への謁見要請、つまり土下座から始まる。
だから邪馬台国は九州だと心にもない事をわざと言いごまかしたんだ。

666太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/09(木) 14:44:59.22
>>665
オマエはあの在日デンパ野郎だろ?w
いつから九州説になったのか?

帥升がいつ草薙剣を入手したというのか? ならどこかの古文献に載って
るはずだ。なけりゃぁもうデンパ説で、ハイ、オシマイ。pp

667太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/09(木) 14:53:02.61
>>665
オマエの故国の中国が土下座するからオマエの国は土台人の流れ。w

土俵で茶色い土付きのことでチャンコ料理お料理されるのがチャンコロ人
なわけだ。チャイナとは茶色の土色の土下座を意味しチャイロだとロスケ
になるから判別式でチャイナとナ(7位)の字がつくわけだ。ww

シナ(4〜7)の国名で4よりなおも格下数字が7だ。ロ(6)は7より一段
格上数字だからな。pp

668太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/09(木) 14:58:02.19
>>665
スサノオは即位してねえから王ではないし、牛頭天王だとしても
他教的信仰神の言い回しであり、天王といっても天皇ではない。
つまり草薙剣を八俣の大蛇から入手もしてない無即位の帥升をスサノオ
とは言えない。つまり稀代のデンパ説。bbb

669日本@名無史さん2021/12/09(木) 15:13:12.27
>>607
当時の伊都国の海岸部は遠浅で中国の大型船は近づけないからな
港は名護屋浦、呼子付近だよな

670日本@名無史さん2021/12/09(木) 15:24:25.34
>>637
末盧国は唐津市から糸島市二丈まで
伊都国は糸島市南東部
奴国は福岡市早良区南部、那珂川市、春日市等
不弥国は福岡市早良区北部、城南区
斯馬国は糸島市北部
日本地図を右下45度も傾ける必要なし

671日本@名無史さん2021/12/09(木) 15:28:22.17
畿内説は破れかぶれの投稿が目立つ
手応えのある奴来ないかなぁー

672日本@名無史さん2021/12/09(木) 16:23:32.98
>>642
大和の継体が筑紫の倭王磐井を下剋上したとして、その後、継体が筑紫に西遷していないとすると、結局、阿毎多利思比孤が説明できないでしょう?
>>415

673日本@名無史さん2021/12/09(木) 16:25:21.57
>>663
全くです。
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者や大和説学者らは、
もはや自分の好きなように歴史を改竄してるだけ。
多分人間の死ぬ前ってこんな感じなんでしょうね。
意識が半分あの世に行ってるのでしょう。

674太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/09(木) 16:45:06.04
南下なのに東にハンドルを切るのは最もまずい仕業。

675日本@名無史さん2021/12/09(木) 16:50:07.07
>>669
>港は名護屋浦、呼子付近だよな

古代にそんなところに港のあった形跡なし

676日本@名無史さん2021/12/09(木) 16:55:19.07
>>675
名護屋浦、呼子付近は天然の良港だから
特に何か作る必要ないよ

677日本@名無史さん2021/12/09(木) 17:03:00.28
>>676
港湾施設という意味ではなく、集落という意味ね。
重要な港には人や物資が集積するから、当然発展する。
壱岐の原の辻遺跡
伊都の潤地頭給遺跡
奴国の那珂遺跡
いずれも同時代に突出した遺跡。
そういう痕跡が名護屋浦、呼子にはないから。

678日本@名無史さん2021/12/09(木) 17:23:44.96
>>670
>日本地図を右下45度も傾ける必要なし

東南とあるのが本当は北東なのだから
90度でしょう

679日本@名無史さん2021/12/09(木) 17:26:45.51
楼観なし、城柵なし、ただの板塀は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人?

680日本@名無史さん2021/12/09(木) 17:42:35.89
>>679
あなたは馬鹿と思う人

681日本@名無史さん2021/12/09(木) 17:42:58.51
>>153
>>160
ファイナルアンサー出ちゃってるw

682日本@名無史さん2021/12/09(木) 17:51:37.68
続日本書紀には、「大宰府をして、大野(おおの)、基肄(きい)、鞠智(くくち・久々知)の三城を繕治せしむ」、と書かれている・・、
これら三城の修復は698年頃で、続日本書紀の完成は800年頃であるから、両者は時代的にさほど離れていたわけではない。

この記事との関連で注目されるのは、博多や糸島を敵に回したかのような水城・大野城・基肄城の構えである。
というのは、(出土物からして、起源が三世紀の遡るとされる)水城は、大宰府の下流にあって水を湛える施設である。
だから夏、水門を絞れば下流の博多は稲作が出来ない。
また、いざという時に水門を放てば、下流の博多は大洪水で計り知れない災害を被るからである。

つまり、水城・大野城・基肄城は、唐・新羅系の北側の博多ー糸島を監視/脅迫するものであった。
また南の肥後・鞠智城は、熊本南部の呉系狗奴国の残党を押さえ込むために設けられたと思われる。
則ち三城は、大宰府ー甘木朝倉ー久留米ー八女地区から見て、北と南の異種族を睨んだ防御施設として百済種族が設けたのであったのであろう。

そして実は、その百済族の二〜三世紀渡来時の根拠地が、末盧国東南500里の佐賀平野の伊都国(佐賀川上)と、
その東の不彌国(吉野ヶ里)及び支惟國(基肄)並びに邪馬国(八女)だったのではないか。
このように考えれば、大宰府の北方備えの水城の役割も、南方抑えの鞠智(くくち・久々知)城も納得できる。

なお、この三世紀百済種族が、四世紀ごろに東遷し、やがてヤマト王権を打ち立てたのであろう。
このように考えると、倭人伝の描く三世紀の倭国俯瞰図が、いっそう良く理解されるのである。

683日本@名無史さん2021/12/09(木) 17:57:29.48
>>160
神武東征は、三国志外伝(スピンオフ)だったのか。。。

三国志の権威・渡邊義浩先生に教えてあげなよ。。。

684日本@名無史さん2021/12/09(木) 18:27:21.97
>>604 (再掲)
>邪馬台国は九州やろね。日田に鉄鏡でたし

大局的に見てその通りと思う
女王の邪馬台国は、肥後の山鹿・菊池平野一帯(但し、女王の所都は阿蘇高千穂)。
また、女王国以北の主要国としては、帯方郡の現地指揮・連絡場所として佐賀川上の伊都国があり、、
女王軍の練兵施設・集合出撃基地として吉野ヶ里があった。特にここでは、将官に破鏡(軍票)を与えてから、部隊を東へ送った。

つまり女王の主力は「肥前+肥後」だったのだ。
将兵は、筑後川に沿って上流へ東へと進んで日田に至り、ここで北東に進路を変え、
豊国の山国川(邪馬国川)から、耶馬渓を抜けて中津へ到着し、女王の東海岸の兵站とした。記紀に云う中つ国である。

685日本@名無史さん2021/12/09(木) 18:47:21.91
そろそろなんでも朝鮮半島由来ってウソのニュース流すのはやめた方がいいよね
ミスリーディングだから

686日本@名無史さん2021/12/09(木) 18:48:50.36
>>684
卑弥呼は日の巫女じゃなく火の巫女だと。
だから阿蘇周辺が邪馬台国だと思う。近くに山都や高千穂もあるしね

687日本@名無史さん2021/12/09(木) 18:50:55.47
九州説が馬鹿すぎる

688日本@名無史さん2021/12/09(木) 19:13:02.25
>>687
>九州説が馬鹿すぎる

倭人伝を解くカギを一字で表せば、奇しくも、馬鹿にゆかりの「馬」である。

が、本来の「馬」とは、帯方郡の地元勢力で、何かにつけ郡を助けた馬韓種族の「馬」であった。
馬韓種族は大挙して倭に渡来し、対馬国や斯馬国や邪馬国や邪馬台国や投馬国などの馬系植民地を開き、これらの国々が、倭人伝の主たる舞台になったのである・・。

689日本@名無史さん2021/12/09(木) 19:15:27.37
>>680
>>楼観なし、城柵なし、ただの板塀は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人?

>あなたは馬鹿と思う人

あなたは、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺の大和説者だろう、と思う。

690日本@名無史さん2021/12/09(木) 19:18:14.00
>>688
半島南部は倭だから

691日本@名無史さん2021/12/09(木) 19:21:50.46
>>687
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説者や大和説学者らが、
馬鹿すぎる

692日本@名無史さん2021/12/09(木) 19:24:39.42
>>688
パワーバランスからすると邪馬台国の植民地が各地の〇馬国じゃねーの?

693日本@名無史さん2021/12/09(木) 19:27:53.52
韓伝に卑彌国があるし

卑弥弓呼もあるし

卑弥 + 呼 と推測すれば

卑弥 = 姫

卑弥弓呼が魏略で
>女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也

姫姓なら、女男子為王も納得だしょw

答えここまで出てますw

694日本@名無史さん2021/12/09(木) 19:35:31.10
>>690
ま、そうも言えるかもしれぬな
半島南部の一国は狗邪韓国だったそうだが、これは馬韓の「韓」である。
それに対して倭地の主要国は「馬」であった。

種族的には「馬韓」で、同一だったのかもしれないが、
倭人伝の建前として、半島側は「韓の国」(後の百済系)、九州倭の側は「馬の国」(後の百済系)だったのであろう。
がしかし、そこをごちゃまぜにして、ちゃぶ台返しするのは良くない。

695日本@名無史さん2021/12/09(木) 19:42:26.47
>>692
>パワーバランスからすると邪馬台国の植民地が各地の〇馬国じゃねーの?

倭人伝が云うには、共立前は、各国は半独立国だった(州に相当)。
がしかし、女王共立後は、実態として卑弥呼を輩出した邪馬台国が最強で、30倭国を牛耳っていたようであるから、
「邪馬台国の植民地が各地の〇馬国」であった、ともいえよう。、

696日本@名無史さん2021/12/09(木) 19:48:01.13
>>690
>半島南部は倭だから

そんなこと言ってるから九州説は学問の世界から落ちこぼれた

697日本@名無史さん2021/12/09(木) 20:12:07.89
>>696
曲解や自分に都合がよすぎる解釈する畿内説や阿波説よりまともじゃんw

698日本@名無史さん2021/12/09(木) 20:15:28.47
>>693
中国の姓の姫は「ひめ」ではなく「き」と読みます
彌は音読みで「み」と「び」、訓読みで「や」や「ゆ」なので
「め」と読むのは現実的ではないですね

699日本@名無史さん2021/12/09(木) 20:16:17.93
>>696
>>半島南部は倭だから

>そんなこと言ってるから九州説は学問の世界から落ちこぼれた

「韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接」と書いてあるんだから、
韓の南は「以海為限」になっておらず、「南は陸続きで倭と接す」という事である。
だから、大和説者は、学問の世界から落ちこぼれた。

700日本@名無史さん2021/12/09(木) 20:17:57.83
大和説者っつーより、韓の回し者だろ

701日本@名無史さん2021/12/09(木) 20:45:25.85
>>699
>韓の南は「以海為限」になっておらず、「南は陸続きで倭と接す」という事である。

それは素人考えで、「接」を密接、密着、陸続きである・・、と極く限定的に理解してるからだよ。
「接」の意味を辞書で詳しく調べるがよい。
簡単に言えば「近い、近くにある、接近している」という程度の意味で、
対馬や壱岐や五島列島や九州島のように、間隔を置いて飛び石的に連らなっているのが本来の「接」なんだよ。

702日本@名無史さん2021/12/09(木) 20:50:08.11
狗邪韓国は魏志韓伝には出てこないが、韓は東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す、とあるのでこの倭が狗邪韓国かな。
馬韓はこの時代は魏の直轄領だったので、北九州に積極的に出ていくのは考えにくい。(自称王の箕氏は246年に滅ぼされた)
農耕民族で城郭もなく、礼には通じているが囚人や奴隷のようだと魏志に書かれている。

703日本@名無史さん2021/12/09(木) 20:58:10.21
>>688, 690

このように九州作り話は朝鮮起源工作活動

704日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:01:29.11
「南→東」どうように
「東南→北東」
古田ぺテンと畿内説は同等だな。

705日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:03:01.46
>>693

通訳を挟んでるから発音が似てしまっただけ

706日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:06:44.90
>>705
固有名詞の区別ができなかったら通訳挟む意味ないでしょw
記録残す意味も
紀行文じゃないんだよ

707日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:07:48.91
>馬韓はこの時代は魏の直轄領だったので、北九州に積極的に出ていくのは考えにくい。

論理になってない。

708日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:09:01.46
>>706

卑弥呼は漢人が音に漢字を当てただけだから

709日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:09:55.11
>>708
言い訳になってない

710日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:13:03.51
>>709

卑弥呼が自分で卑弥呼の漢字を使ってたとでもいうのか?
奴国の官が自分で奴国を使ってたのか?

711日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:20:02.49
>>701
>>(3世紀では)「韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接」だから、
韓の南は「以海為限」になっておらず、「南は陸続きで倭と接す」という事である。

>それは素人考えで、「接」を密接、密着、陸続きである・・、と極く限定的に理解してるからだよ。
「接」の意味を辞書で詳しく調べるがよい。
簡単に言えば「近い、近くにある、接近している」という程度の意味で、
対馬や壱岐や五島列島や九州島のように、間隔を置いて飛び石的に連らなっているのが本来の「接」なんだよ。

それは、「接」の使用状況の変化をよく調べなかった解釈である。
「接」は、唐会要では、(魏志での使用法とは違って)、
「倭國古倭奴國也在新羅東南居大海之中」とした上で、
「宗降書慰撫之仍云。王國與新羅接近」とし、更に、
「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、西南與越州相接」としているから、
明らかに「接」を「地理的に接する」場合と「国交的な関係が密接な」場合の、
両方の使用法に使っており、
「接」の使用意味が、時代を経るにつれて、「地理的に接する」だけの意味から、
「地理的にも友好関係的にも近接である」という意味に変化している、
という事である。

712日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:20:04.37
>>701
東西は海で南は倭と接してるんだよ

713日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:26:12.71
>>712

東西の海はどこの国にも属してないから
南は倭国の対馬国の領海と接している

714日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:26:43.43
>馬韓はこの時代は魏の直轄領だったので、北九州に積極的に出ていくのは考えにくい。

直轄領だったということは、
帯方郡役人の下請け仕事や護衛兵や船の漕ぎ手や建築人夫や物流人足や農耕民や養蚕民や鉄鍛冶工や奴婢などの重要な働き手として、
大ぜいが倭に渡ってきたと考えるほうが自然だろ。
その人たちが、後世において百済人・百済種族と呼ばれたわけさ。記紀には、それらしい渡来の神々の記述がある。

715日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:30:33.36
>>708
>卑弥呼は漢人が音に漢字を当てただけだから

いや、卑弥呼は「返事の上表」文を書いているから、漢字を使えており、
その上表文での自署名は、帝紀に書かれた「俾彌呼」であった可能性もあり、
「漢人が音に漢字を当てただけ」という事にはならない。

716日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:30:41.46
>>713
なんでそこまでして半島南部が倭だったことに抵抗してるの?

717日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:31:23.77
魏の直轄領は楽浪郡と帯方郡だろが
なんで馬韓だよアホか

718日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:32:32.86
>>710

>>705で、
「通訳を挟んでるから発音が似てしまっただけ」
とアナタが言ってるんでしょ?

なんで論点ずらすのよ?
荒らしでしょあなた。

719日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:32:36.07
帯方郡が行ったのであれば、史書に書かれないはずない。

720日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:35:18.34
>>710
>卑弥呼が自分で卑弥呼の漢字を使ってたとでもいうのか?
奴国の官が自分で奴国を使ってたのか?

一般庶民は知らんが、
倭國政府や、各国の王や、「官」の上層部らは、漢字を使えていた可能性はある。

721日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:36:51.95
>>716

半島南部が倭だった根拠が無い

722日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:38:39.89
>>718

自ら卑字を使うはずがない
通訳の発音に漢字を当てただけ

723日本@名無史さん2021/12/09(木) 21:44:28.06
>>714
>直轄領だったということは、
帯方郡役人の下請け仕事や護衛兵や船の漕ぎ手や建築人夫や物流人足や農耕民や養蚕民や鉄鍛冶工や奴婢などの重要な働き手として、
大ぜいが倭に渡ってきたと考えるほうが自然だろ。
その人たちが、後世において百済人・百済種族と呼ばれたわけさ。記紀には、それらしい渡来の神々の記述がある

例えば、(百済にも同名の国はある)不彌國の西新町には、
楽浪的な「土のかまど?」があり、楽浪土器も出土している。

724日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:02:27.39
もう倭が半島に領土を持ってたんじゃなくて
逆だと主張するのに必死だなw

725日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:03:10.68
>>715
>いや、卑弥呼は「返事の上表」文を書いているから、漢字を使えており、

別に卑弥呼が書いたとか
そんなこと倭人伝に書いてないから

726日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:05:09.91
>>721
>半島南部が倭だった根拠が無い

というか半島南部が倭じゃなった根拠がある

727日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:10:59.64
魏志韓伝に

韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。

とあるから、
半島内部で両国は接していたんだろうな

728日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:11:54.05
三国志には倭と書いてあって、朝鮮半島がどうだろうが、日本人としては

正直どーーーでもいいんだが

なんでそんなに必死なのかw

729日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:11:59.41
アフリカから人類が派生してるんだから
起源が中国だとか朝鮮だとかって話じゃないだろw

730日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:13:25.34
そりゃ竹島でぎゃーぎゃーやってんのに自国領すら倭のもんだと宗主国様が認めていたら夜も眠れんだろうよw

731日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:18:49.03
重要な事は任那日本府よりずっと以前から半島南部は倭つまり日本だと認識されてたって事

732日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:54:18.27
>>668
お前が電波だドアホ

733日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:54:36.22
>>731

重要な事は、こう言ってる奴の主張は本州は倭国じゃなかったと言ってること

734日本@名無史さん2021/12/09(木) 22:58:00.07
>>666
おまえはただのウンコ漏らしじゃないか、失せろ邪魔。

735日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:00:04.09
>>727
>魏志韓伝に

>韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。

>とあるから、
>半島内部で両国は接していたんだろうな

なるほど

736日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:01:33.61
>>734

この下品なレスは、あのよっちゃんだな

737日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:03:31.24
「倭人在帶方東南大海之中」

朝鮮半島に倭人の国は無い

738日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:04:05.88
>>733
何ってんだ?
倭=ヤマト=日本に決まってるだろ

739太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/09(木) 23:04:47.80
>>734 >732
オメエ、いつから九州説に鞍替えしたのか?ww

どの古文献に帥升に日神と月神の姉弟が載ってるというのか?pp
いつころ帥升が越の国に行って八俣の大蛇を退治して草薙剣をみつけたと
の記述がどこに載ってるのかね?ハハハ・・・・・

なけりゃあ稀代のデンパ説でハイ、決まりだ。

740日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:05:34.07
>>737
中国から見たら朝鮮半島も大海の中

741太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/09(木) 23:06:32.70
>>736
やつは在日デンパの与太郎。ppppp

742日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:09:42.26
>>741

太国爺、元気でなにより

743日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:10:03.73
>>740

帯方郡は大海の中にはない

744太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/09(木) 23:13:41.23
>>742
奴は稀代のデンパ。w

745日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:14:59.75
>>740
>中国から見たら朝鮮半島も大海の中

倭人在帶方東南大海之中、依山島為国邑。
半島上じゃありません

746日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:17:07.87
倭人の「本領土」は九州など日本列島ということだな。

その他はやはり、植民地であるのだな。

747日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:18:12.15
>>744
妙なタイミングで割り込んできたから、いちお聞かせて。
あんたは狗邪韓国など朝鮮半島は何人の領土だったと思ってるの?

748日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:21:58.70
いろんな人種の人が流れ込んで主権や王権を主張していたと思う

749日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:23:43.95
>>748
後の任那日本府があるから倭の領土でしょ

750日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:25:33.90
倭国
三十カ国の連合体

751日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:26:12.28
>>746
飛躍しすぎ

752日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:27:45.13
>>751
なにが?

中国は中国の国家で、楽浪郡帯方郡がその突出した領土。

倭は九州の島国国家で、半島南部がその突出した領土。

逆転しようと狙ってたのに墓穴を掘って焦ってるのか?w

753日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:30:04.22
もう
「朝鮮半島の内部に倭国の一部が存在した時期が長かったのは、魏志韓伝及び記紀の木角宿禰のくだり等の文字資料より明らか」で良くない?

754日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:35:08.60
半島南部が倭の領土って話題がヒートアップしたところで、

太国とやらに「突然」話題がふられて、太国とやらが「即」反応。
ごにょごにょやり取りして、スレを流した。

その太国とやらに、元の話題の、
半島南部が倭の領土について質問されるとダンマリ。

ニャるほど

755日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:37:27.22
朝鮮半島南部は日本の領土だと口を酸っぱくして言ってたのにまだわかってない奴が居るのな

756日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:44:59.51
朝鮮と無関係にしたいネトウヨと朝鮮が本拠地で日本列島は植民地ということにしたいパヨクが入り乱れるから永遠にまとまらんよ

757日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:46:38.42
半島南部が倭の領土というのは、
倭国の約3分の1の投馬國5万戸が半島南部だと言い張ってるんだろ

758日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:48:20.53
>>757
苦し紛れの迷彩だろうが、
馬韓五万戸にも率善が領土を持っていたかもしれんとな

759日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:48:30.43
文字資料と出土物から大体のことは決まっちゃうから
見る人の思想に関係なく

760日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:49:56.67
あんまり言うと出土物をどうこうされるかもね

761日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:50:35.71
>>758

どこに書いてあるんだそんなことw

762日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:53:10.25
半島南部が倭の領土って話題がヒートアップしたところで、

太国とやらに「突然」話題がふられて、太国とやらが「即」反応。
ごにょごにょやり取りして、スレを流した。

その太国とやらに、元の話題の、
半島南部が倭の領土について質問されるとダンマリ。

ニャるほど

763日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:53:17.21
>>755
そんな世迷いごと何度言っても無駄だから

764日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:57:03.08
>>763
日本人の俺からしたら半島南部とかどうでもいいんだが、
なんでそんなに必死なのスレ主さん?w

765日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:58:07.70
×漢倭奴国王 ○漢委奴国王

つまり漢に委ねる奴国王という意味である
奴国の正式名称は倭奴国だが、倭を省略して奴国と記載した
倭人伝を参考にした場合、漢委奴国王となる

766日本@名無史さん2021/12/09(木) 23:58:17.67
要するに半島南部から来た在日や帰化鮮人は倭人の末裔だと言い張りたいんだろ
どさくさに紛れて竹島を盗む手口と同じ

767日本@名無史さん2021/12/10(金) 00:02:52.29
>>766
必死だねぇ

その論法だと、半島南部に居たのは倭人ではなかった、と言いたいのだねぇ

姑息だねぇ


半島南部にいたのは倭人だから、
半島南部から来た人がいたとしてもそれは倭人だったのだよ

768日本@名無史さん2021/12/10(金) 00:05:52.58
>>767

それがお前だなw

769日本@名無史さん2021/12/10(金) 00:08:06.71
スレ主は

 今日も 半島防衛

  全力で

770日本@名無史さん2021/12/10(金) 03:29:50.97
ようわからんが陸続きで接してたのか、海を挟んで接してたのか不明?
間に倭国以外の国が無かったのは読み取れるが、、

771日本@名無史さん2021/12/10(金) 03:40:26.23
いや、昨日の過去スレ読み返したら
半島の南部も倭国と見なされていたみたい
魏志韓伝によると。

772日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:21:23.89
>>739
>どの古文献に帥升に日神と月神の姉弟が載ってるというのか?pp

中国側は楽浪に来た一人の倭国王しか目の前にいないのだからそれを記すのは当たり前。
その倭国王に姉がいようがいまいが関係ないし、そんなこと記すわけなかろう。

アホ。

773日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:23:59.08
>>771
それは妄想

774日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:30:05.73
>>725
>>いや、卑弥呼は「返事の上表」文を書いているから、漢字を使えており、

>別に卑弥呼が書いたとか
そんなこと倭人伝に書いてないから

勿論、そんなことは、倭人伝に書いておく事ではない。
そして、難升米や都市牛利らは、通訳(や重訳)を付けた、
という記録がないから、当然漢字が使えており、
(松野氏)姫氏系図にも、卑弥呼らは本名も称号も漢字表記で書かれているし、
室見川の銘板やホウ製の記銘鏡もある。

775日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:30:29.31
>>771
弁辰與辰韓雜居,亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似,祠祭鬼神有異,施灶皆在戶西。其瀆盧國與倭接界。
十二國亦有王,其人形皆大。衣服巨エ,長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。

其瀆盧國與倭接界とあるが規模が5万戸あるなら記載するよ。
小規模なもんがあったと同時に姻族関係も推測。
十二國亦有王からその後の百済建国
倭国が関連したかもしれない。

776日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:33:34.21
>>774
(松野氏)姫氏系図???
古田ぺテンと畿内説は同じだな。

777日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:45:35.98
硯が大量に見つかっているから、卑弥呼の時代には漢字が使えたのだろう。
ただ何に書いたのだろうか、その痕跡がない。

778日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:46:25.55
>>745
>倭人在帶方東南大海之中、依山島為国邑。
半島上じゃありません

倭人は周代には燕の南にいたのだから、当然、
陸路で燕や遼東を通って半島を南下して行って、渡海して九州に上陸した事になり、
一部は半島南岸や狗邪韓国地域に存続していても、ちっともおかしくない。
呉王夫差の遺民の姫氏は、「海に入りて」という記録が残っているようだから、
山東半島の東端から長串岬に渡海して半島から九州に達した可能性もある。

779日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:48:21.65
>>771
從郡至倭 循海岸水行歷韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

魏志倭人伝でもそうだよ。
狗邪韓國に到着=倭に至ってるから。

その北岸だから倭の北岸。其れが韓だと南岸。

780日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:57:06.40
>>776
鈴木真年の系図集を否定すると日本の名家のほとんどが系図学上の根拠を失うことになるけどOK?

781日本@名無史さん2021/12/10(金) 06:59:54.34
>>780
偽文書のひとつ
全てを否定するもんではない。

782日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:02:37.89
そもそも、人種・種族の分布と、クニの広がりは、一致しない、
半島に倭人が住んでいたからと言って、そこまで倭国が広がっていた根拠にはならない

曰く、地球大陸において人種種族は東西に広がり、クニは南北に広がる(傾向にある)・・と。

783日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:04:52.69
>>781
あんたが系図学の何がわかって鈴木真年の研究の当否を判断できる素養があるのよ?
文句つけているだけですよね?根拠もないのに。


ただケチつけてるだけでも文字数分バイト料もらえるとはいい商売だね。

784日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:07:09.70
>>780
証拠とか照合性があるもんは否定しないよ。

785日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:09:46.72
>>782
逆逆。
三国志には倭だったと書かれていて、誰が住んでいたからは書かれていない。
倭国だったことだけが確実。

786日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:10:17.96
どうでも良いけど

半島南部に倭国の一国で無く倭国の特区みたいなのがあったんでねーの。
邪馬臺国論叢に何か影響があるのかねー

787日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:11:26.01
>>784
そうではなくて、鈴木真年の研究した個々の系図について、または系図集について、あなたが信頼度を評価できるという根拠をお示しください。
それができなければあなたは根拠なく学術的な常識を無視・否定する荒らしということになります。

788日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:16:27.08
>>786
賛同
半島南部と大風呂敷広げて、かも南部に広域な倭国の領地があったかのように理解するのはあかん

789日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:17:03.95
>>787
根拠を示すのがないもんが信用しない
だけ。鵜呑みはしない。

790日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:21:21.42
>>776
>古田ぺテンと畿内説は同じだな。

そいつはザラコクだろ
畿内説?
何を間違えてるんだ

791日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:21:32.74
いにしえの系図なんて曖昧
良い例が
天皇を神格化して国を支配した捏造系図が記紀だよ。

792日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:26:54.22
スレ違いでごめん
誰か教えてください。
古来天皇は神はわかるけど、
皇族も神さん?
それとも天皇になった途端に神になるの?

793日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:30:03.65
痴呆老人の巣窟

794日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:57:31.01
>>793
九州説が居着いた結果だが

795日本@名無史さん2021/12/10(金) 07:58:16.86
>>785
>逆逆。
>三国志には倭だったと書かれていて、

で、どこにどのように書かれているのか、その部分をコピペしてくれ

796日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:03:28.18
>>792
アホやなあ、
死んだ人には名前の下に「神」をつけて、もう過去の人ではありますが・・、と尊称したんだよ

797日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:06:23.83
>>792
ま、楽しみにしとれ
近いうちに、オメの名前の下にも「神」を付けてもらえるからな・・、

798日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:12:45.48
>>793
その通り
一番がスレ主
二番がお前

799日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:14:12.06
>>797
仏教徒なのですけど、、

800日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:16:42.72
>>792
古代は皇族という呼び名も王族(おうぞく)という呼び名もない。
あったのは王(きみ)や大王(おおきみ)
その語源は神。
だから王族は神々。
卑弥呼もトヨも神々、住んだのは高天原。
高天原は古代は今の奈良県御所市高天しかなかった。

だから卑弥呼の墓も高天にある。
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚
魏志倭人伝の記述通り、となりに奴婢(土蜘蛛)が眠っている。

801日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:16:51.46
>>796
ふーん
帝国憲法もいい加減だな

802日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:17:43.16
>>765
>×漢倭奴国王 ○漢委奴国王
つまり漢に委ねる奴国王という意味である
奴国の正式名称は倭奴国だが、倭を省略して奴国と記載した
倭人伝を参考にした場合、漢委奴国王となる

中国が直接的支配地外の國王に印を与える場合は、
古田説が言ったように、「AのBのC國王」印という三段国名ではなく、
「AのC國王」印のように、二段国名である。
また、(松野氏)姫氏系図でも、
卑弥呼の直接的祖先は、呉王夫差の遺民(の一部?)が、渡来して来た火の国山門から、
「委奴」の地に移り、その後またその一部が「大野」に移り、
その大野の地で卑弥呼が居た、という事になる説明であり、
という事は「委奴」という文言は実在地名であった可能性が高い。

803日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:23:10.19
>>796
いい加減な事言うなよ
新道では天皇は現人神な

804日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:26:24.78
>>802
(松野氏)姫氏系図???

古田ぺーテン

805日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:31:30.47
>>792
天皇以外の皇室は神では無い。
天皇は即位して初めて神になる。

806日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:32:27.40
>>246
箸墓オレオレ詐欺、畿内説!w

807日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:32:36.60
>>804
畿内説のスレで何遊んでるの
畿内説に火がついてるぞ

808日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:34:16.31
>>776
>(松野氏)姫氏系図???
古田ぺテンと畿内説は同じだな。

古田派の中には。
何人か?松野氏姫氏系図を論拠に使っておられた方もいたが、
古田さんらは、松野氏姫氏系図には全くタッチしていなかったんだよ。

809日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:35:02.79
(松野氏)姫氏系図???

古田ぺーテン

810太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/10(金) 08:36:52.88
>>747
>>762
簡単だ。天帝の本音を知ればわかる。
尖閣も竹島も各々中国と韓国は自国の領土だと抜かしてるが、
これも含めて全世界の領土は本来全部日本の天皇の領土だ。

中国の場合は記紀にあろう。

 葦原(アジア)の中国は吾が皇孫の統治すべき国。

ハイ、これで決まり。

記紀が捏造だとかぬかすゴロツキがいるようだが、捏造なら雄略武烈の
大悪を隠匿するはずだが記紀に載っている。これは捏造してねえということだな。

811日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:37:40.56
さん 付け?
ペテン師だな。

812日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:38:38.75
狗邪韓國は後漢書にも出てるけど、ここにも詳細の説明はない。
倭のテリトリーだとしても、港湾施設などの狭い地域だったかもね。

倭が本格的に半島に出て行ったのは、4世紀初めに帯方郡が無くなって、秩序維持が難しくなったから。
弁辰の鉄の商圏の確保などのために、軍も送った可能性はある。
伽耶の王族の墓の多くから、畿内との結びつきを示すものが出てきている。
百済が国家として機能したのも4世紀から、で倭には7支刀を送ったし、高句麗が攻めてきたときは倭が助けた。

813日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:39:48.29
>>777
>硯が大量に見つかっているから、卑弥呼の時代には漢字が使えたのだろう。
ただ何に書いたのだろうか、その痕跡がない。

紙や竹簡では残っていないかも知れないが、
室見川の銘盤や、ホウ性銅鏡の記銘文なら、残っている。

814日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:44:49.86
>>679
畿内説?箸墓オレオレ詐欺の似非学問だな

815日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:56:19.57
ちょっと今、陸行の考察してるんだが魏の使者って倭に来た時は船から降りたら目的地に歩きか馬か輿どれで来たんだろう?
当時の倭の道はほぼ整備されておらず良くて獣道に毛が生えた程度で悪くて倭人伝みたいに前が見えないほど草木が生えてた状態で乗り物次第で変わってくると思ってる。
重い下賜品を持つと考えて徒歩で早くて時速2km程度、馬で3〜4km程度、輿で早くて1〜2kmくらいで1日5〜8時間陸行と考えてる。

816日本@名無史さん2021/12/10(金) 08:59:37.93
資料に使者が何に乗ってるかとか記載あるかな?

817日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:02:59.60
>>155
えっ!?「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」って倭国内の水行日数じゃないの??

中国の読者に解り易くするために、中国大陸沿岸の水行日数で代替描写して「(女王之所都)その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」って嘘を書いたわけ??

これじゃ投馬国の南(会稽東冶之東=嘘)と北(奴国2回書きで念押し=本当)の2箇所に邪馬台国・女王之所都があることになるよ!

道理で九州内にも本州にも、どこにも比定できないわけだ…むりやり日本地図に当てはめようと、九章算術や十倍報告習慣とか持ち出して引っ込みがつかなくなったヌレ主、奥山氏、狗古智卑狗(菊地彦)の熊本北部説を唱えざるをえなくなった宮崎康平さん、森村伊作が、気の毒すぎる… orz

818日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:04:42.85
>>803
>新道(神道)では天皇は現人神な

元は死んでから神を付けた。だからこの新表現では、敢えて「現人」を付けて補なってるんだよ、
ま、どのみち明治維新以後の軍国主義の影響だろ・・。

819日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:07:19.41
貨泉(王莽の時代の銅銭)が出土している→当時貨泉という文字を読める人がいた

820日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:07:56.82
>>802
>古田説が言ったように、「AのBのC國王」印という三段国名ではなく、
>「AのC國王」印のように、二段国名である。

ま、古田の説は、信用できない代表作な・・

821日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:09:42.80
>>798
テンプレにまったく反論もできないで悪口ばっか言ってる>>798がガチ地方でしょ

822日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:12:06.35
>>599
九州説と畿内説を図解&比較してみた

末盧国・伊都国・奴国・不弥国(玄界灘沿岸)→投馬国(出雲)→→★邪馬台国(大和)狗奴国(東海)…「南=東」畿内説×
☆邪馬台国(筑紫平野)___↓「南水行二十日」(帯方郡→建業)
狗奴国(菊池・熊本・八代)投馬国(宮崎平野)
熊襲(薩摩)〜〜〜〜〜〜〜〜↓「南水行十日」(建業→東治)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓「南陸行一月」(東治→東冶580q)
東冶の東〜〜〜〜〜〜〜〜〜邪馬台国(陳寿の嘘)

823日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:12:40.30
>>789
わからないなら黙っておいて
無能バイトおじいちゃん

824日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:16:04.89
今のヤングは古田なんて知らんでしょw
だれと戦っているのおじいちゃんたちは

825日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:19:36.12
>>156
台与から倭王を譲位された投馬国王(神武)東征後、倭迹迹日百襲姫が追葬された箸墓の断面図(北側から)
……………………….______
5 段目……………-/神武+百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

826日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:27:46.56
前方後円墳の前方部は、吉備楯築弥生墳丘墓の双方部のように、柄鏡型Ωといってストーンとした直線に近い物から、両脇から補強する撥型へと、時代が進むにつれて先端部が広がり、中期の河内巨大古墳を可能にした。
さらに後円部に石室が導入された今城塚(後期)古墳では、三角に近く広がった。

そこで、箸墓を観察すると、明らかに前期初頭の柄鏡型Ωではなく、撥(バチ)型といって前方部先端を両脇から補強する工夫が加わっており◢▢◣、前方部と後円部がほぼ同じ幅となる中期古墳に近いデザインとなっており、明らかに4世紀以降のデザインである。

よって、3世紀中葉の「卑弥呼の冢」とするには無理があり、神武・崇神朝によるヤマト王権の王墓である可能性が高いのである。

827日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:28:13.92
>>824
老害と

828日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:34:27.35
>>826
無知だな
常識じゃバチ型が古いんだよ

829日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:35:22.20
>>826
卑弥呼の冢ならホケノ山の土橋から発展した柄鏡型のはずだもんなw

土を削った法(のり)面補強という技術革新が加わった撥型◢▢◣であるはずがないし、その先端と後円部を直線で結べば、中期古墳の履中陵(4世紀末〜5世紀初頭)に近いプロポーションを実現している。
4世紀後半(350年〜400年)の築造と見るのが妥当

830日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:36:24.20
>>828
箸墓オレオレ詐欺=似非学問の常識ですねw

831日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:40:34.49
>>828

意訳「おじいちゃん、オレだよ、オレオレ。893と事故って困ってるんだよ。今から言う口座番号に100万円振り込んでくれよ」

832日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:46:04.28
古田というのは変人で、とにかく人と一緒はイヤだった。
だからあらゆるところで他と違う説を唱え、それがまた商業的にも成功してきた。

ところが不思議なことに、唐津から糸島・博多へ向かう行程だけは、
白鳥や、内藤や、原田や、ついには大天敵の安本とも歩調を合わせて仲良く北東へ向かった。
最大の岐路なのに、どうやらここだけは勇気がなかったんだろうね。

本当はここでも、「東南と書いてあるんだから、断じてオレは東南の佐賀平野へ向かうぞ、、、」
そして「短里だから、東南500里の伊都国は「佐賀市大和町の川上であーる」とのたまえば、
今頃は、正真正銘の「神」におなり遊ばされていたことであろう。
ま、肝心かなめの所で腰が引けてそう主張できなかったところが、ただの変人であった・・、ということだろう、南無!

833日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:48:23.06
>>829
ホケノ山の後、いきなり280mっていうのも変だよねw
「常識」を疑えってやつよw

834日本@名無史さん2021/12/10(金) 09:51:33.12
>>812
>狗邪韓國は後漢書にも出てるけど、ここにも詳細の説明はない。
倭のテリトリーだとしても、港湾施設などの狭い地域だったかもね。
倭が本格的に半島に出て行ったのは、4世紀初めに帯方郡が無くなって、秩序維持が難しくなったから。
弁辰の鉄の商圏の確保などのために、軍も送った可能性はある。
伽耶の王族の墓の多くから、畿内との結びつきを示すものが出てきている。
百済が国家として機能したのも4世紀から、で倭には7支刀を送ったし、高句麗が攻めてきたときは倭が助けた

成程。倭王武の上表文にも「自昔・・・渡平海北九十五國」と書いている。

835日本@名無史さん2021/12/10(金) 10:00:53.99
>>818
神じゃん

836日本@名無史さん2021/12/10(金) 10:02:31.98
>>817
同意
くだらないテンプレ

837日本@名無史さん2021/12/10(金) 10:40:01.68
>>829
>土を削った法(のり)面補強という技術革新が加わった撥型

そんな変な主張してる人って他にいないし
科学的根拠もゼロだ
そして結論は世間常識と逆
九州説さん、それって誰が信じるの?

838日本@名無史さん2021/12/10(金) 10:46:40.37
双方向なネットの普及によって、畿内説(箸墓オレオレ詐欺)の正体が暴かれていくな

839日本@名無史さん2021/12/10(金) 10:48:05.77
>>829
>卑弥呼の冢ならホケノ山の土橋から発展した柄鏡型のはずだもんなw

無知なんだな九州説信者って
邪馬台国畿内説 Part741 YouTube動画>8本 ->画像>27枚

840日本@名無史さん2021/12/10(金) 10:50:51.08
>>829
殉葬のないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓・西殿塚は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人?

841日本@名無史さん2021/12/10(金) 11:57:12.60
>>840
つまり知恵遅れ?

842日本@名無史さん2021/12/10(金) 12:02:39.54
うん、ネットの普及はすごく大きい。
長年の学者たちだけの暗い森が、白日のもとに晒されていく・・、

843日本@名無史さん2021/12/10(金) 12:08:55.59
>>815
>ちょっと今、陸行の考察してるんだが魏の使者って倭に来た時は船から降りたら目的地に歩きか馬か輿どれで来たんだろう?

倭人伝では「其地無牛馬虎豹羊鵲」であるから、馬は(原則として)いなかった。
しかし、中国では、記里車が後漢代?には発明使用されていたし、
晋代には「車駕」の使用が記録されているから、倭にも運び込まれた可能性は否定しない。

>当時の倭の道はほぼ整備されておらず、良くて獣道に毛が生えた程度で悪くて、
倭人伝みたいに前が見えないほど草木が生えてた状態で、
乗り物次第で変わってくると思ってる。

車駕は、牛か馬かが必要だから、列島ではなかったんだろうが、
記里車は、サイズが小さいものもあったから、魏の役人らが使用した、
という可能性は考えている。

>重い下賜品を持つと考えて徒歩で早くて時速2km程度、
馬で3〜4km程度、輿で早くて1〜2kmくらいで1日5〜8時間陸行と考えてる

古田第1書には、魏晋朝期での「陸行一日」の里程として、
魏志六と魏志七への裴松之注所引としての「貴人の車駕などでの陸行」として、
「昼夜三百里来たる」や「駑牛一日三百里を行く」の記述があり、
「歩行」についても、呉志の裴松之注所引として、
「翻、能く歩行す。一日二百里なる可べし」との記述がある。
いずれも短里である。

844日本@名無史さん2021/12/10(金) 12:14:21.17
伊都国が糸島であるなら何故水行しないんだ

845日本@名無史さん2021/12/10(金) 12:52:09.48
>>844
普通はしたんじゃないの?
ただ、地続きだと解る説明のために陸行の距離を書いた

846日本@名無史さん2021/12/10(金) 12:52:50.61
>>842
基礎知識のないものが馬鹿読みをして恥晒してるだけだよ

847日本@名無史さん2021/12/10(金) 12:57:02.43
>>845
生え茂る草で前が見えず、官もいないドイナカの末盧国を、
なんでわざわざ字数を割いて、詳しく説明しなきゃならなかったの。

848日本@名無史さん2021/12/10(金) 13:05:48.29
>>843
それって、ひとつも短里じゃないことが確定してるんだけど
だって魏晋朝の短里だっていう古田説が自己矛盾しちゃってるでしょ

849日本@名無史さん2021/12/10(金) 13:14:20.76
>>847
現実に詳しく説明してあるが?

850日本@名無史さん2021/12/10(金) 13:59:54.97
>>849
なぜ現実に詳しく説明しておかなきゃならなかったの?

851日本@名無史さん2021/12/10(金) 14:07:11.78
>>850
理由は想像するしかない
どんな説明しても、結局想像でしかない
我々に確認できるのは
現実に詳しく説明してあるって事実

852日本@名無史さん2021/12/10(金) 14:50:42.42
奴国が伊都国の東南にあるのも不思議だな
女王国の北限が奴国だというのも、伊都国は女王国に含まれてないのか

853日本@名無史さん2021/12/10(金) 15:14:05.61
>>851
現実に詳しく説明してあるのは、末盧国からは東南へって事実
なぜ北東の糸島へ行かなきゃならんの?

854日本@名無史さん2021/12/10(金) 15:19:18.17
>>853
糸島が伊都国でもう決まりだからだよ
抵抗するなら世間を納得させられる根拠を出せばいい
無理だけど

855日本@名無史さん2021/12/10(金) 15:21:35.81
>>852
>伊都国は女王国に含まれてないのか

そりゃ当然含まれてない
除王国に統属してる下級の国だもの

856日本@名無史さん2021/12/10(金) 15:41:11.17
>>854
>糸島が伊都国でもう決まりだからだよ

中国王朝が刊行した三つの歴史書(三国志、魏略、廣志)では、
千数百年も前に伊都国は東南で確定だよ。

857日本@名無史さん2021/12/10(金) 15:56:23.16
投馬国も倭人の国だけど、女王国に含まれないかな。
90度回転の放射説がスッキリするんだが。。。

858日本@名無史さん2021/12/10(金) 15:56:54.60
>>845
合格
その説明で良い

859日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:06:11.53
>>857
そのまま読めば女王国より北側は属してるんだから当然含まれるだろ
帯方郡に戻る理由がわからん
そんな書き方で読者に理解できるか

860日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:17:51.82
>>856
>中国王朝が刊行した三つの歴史書(三国志、魏略、廣志)では、
>千数百年も前に伊都国は東南で確定だよ。

それ、無意味
魏略と魏志はソースが同じ、広志はそこからのコピーなので独立事象ではない

861日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:34:26.10
>>821
反論してるが、主が逃げてるのだよ
主の手口
どこで?、、、主なら過去レスぐらい覚えてろ

862日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:35:50.07
>>832
このスレの畿内説は終わったな
他説批判で成り立とうとしている畿内説は哀れよのー

863日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:37:18.36
>>861
反論とか、実在してないでしょ?
実在してるんなろ、どんな反論か言えるはずだけど
あなた言わないしw

違う意見を述べるのって反論じゃないの、知ってる?

864日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:38:24.54
>>859
北への道中、女王国北限の奴国までの国名に投馬国の名前がないので、不思議に思っただけです。
投馬国とか伊都国には官をおいてるが、扱いが同じかどうか。

865日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:39:51.54
>>844
倭国の国々の様子をなるべく報告したかったからだよ。多分克明に報告したであろう。鎮守はそれを簡潔にに纏めた。

866日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:41:09.01
>>855
畿内説では倭国の一国に入る

867日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:42:43.07
>>865
だからその説明で良いって

868日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:43:05.61
>>850
報告だから

869日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:45:20.36
>>863
あんたがスレ主なら答えてやるよ。
スレ主のコテ付けて再度投稿しないさい。

870日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:49:02.96
>>869
第三者なら答えられないって言うなら
あんたが嘘をついていて
反論は実在しないって証明だ

871日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:50:55.59
俺は測量してたと思うけど倭国を詳しく知る為に歩いたって事で良いんじゃないの
勿論これが必ず正しいと言い切れる訳もなく伊都国の場所自体間違ってるかも知れんけど

872日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:52:20.65
>>860
>魏略と魏志はソースが同じ、広志はそこからのコピーなので独立事象ではない

夫々に王朝の科挙監修者が居て、厳重に確認したうえで、王朝の責任で発刊するのだから大いに有効。
さらに、後世においても修正・校勘は入っていない。
千数百年の歴史の検閲を潜り抜けたからこその貴重な古典三書。

5チャンネルのオメのちり紙投稿と一緒くたにするな。、

873日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:53:15.31
>>864
>北への道中、女王国北限の奴国までの国名に投馬国の名前がないので、不思議に思っただけです。

「女王国北限の奴国」という説明がないので、あなたの答えが不思議です

874日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:55:48.84
>>872
>夫々に王朝の科挙監修者が居て、厳重に確認したうえで、王朝の責任で発刊するのだから大いに有効。

だから魏略とか廣志とか、そういう私的な著作物のどこに王朝の責任があるの?

875日本@名無史さん2021/12/10(金) 16:59:47.89
>>861
>反論してるが、主が逃げてるのだよ
>主の手口
>どこで?、、、主なら過去レスぐらい覚えてろ

こちとら昔から見てるわけでもないし毎日読んでるわけでも無い
どんな反論したのか頑として言わないなら、そんな反論して無かったとみなすだけなのよ
あるある詐欺はごめんだから

876日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:00:07.01
>>873
自女王國以北 .... 次有奴國 此女王境界所盡 これ、そう読めない?

877日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:00:32.82
>>872
魏略には伊都国は戸万余と書いてあるが

878日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:06:35.31
>>877
誤字だらけの本にな

879日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:06:35.88
>>853
>現実に詳しく説明してあるのは、末盧国からは東南へって事実
なぜ北東の糸島へ行かなきゃならんの?

現実に詳しく説明してあるのは、
「魏使らのルート選択」は安全が第1条件であり、
危険な山越えや水行などは出来るだけ避けた陸行を選択する、という人類の常識や、
「移動説明」は、出発説明+途中説明+到着説明の順次式記載、という人類の常識や、
伊都国は皆臨津搜露が出来る海岸沿い付近である、という史料実態のため。

>末盧国からは東南へって事実

いや、東南は出発時点での出発方向であり、目的地の伊都国方向を指す文言ではない。

>なぜ北東の糸島へ行かなきゃならんの?

史料事実の「人類や魏使らの常識の沿った解釈」をしなければならないから。

880日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:07:48.50
>>876
>自女王國以北 .... 次有奴國 此女王境界所盡 これ、そう読めない?

普通読みません

881日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:10:04.18
>>878
で、千と万の字を間違えたのか?

882日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:19:21.11
>>879
人類の常識は「方角を間違うかボケ」かな

883日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:20:13.81
>>870
ほらね、名無しだと馬鹿さがバレないと思ってるんでしょ。
以前スレ主が主コテ以外を付けてきたがその後音沙汰無し。
暇があったら張り付けてやるよ。

884日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:21:57.73
キウスイン

885日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:29:04.19
>>870
張り付けてもいいが、
あんた算数できるかな?
例えば次の式は合ってるかどうか⚪︎✖で答えてね!

10mー7m=3cm

886日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:38:00.48
>>855
>>伊都国は女王国に含まれてないのか

>そりゃ当然含まれてない 除王国に統属してる下級の国だもの

いや、陳寿は女王国(≒倭國であり、ほぼ九州島付近)と、
「邪馬壹國女王之所都」とを、明確に区別した記載をしている。
そして伊都國は、「統屬女王國」であり、「邪馬壹國女王之所都」ではない。

887日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:47:47.11
>>856
>中国王朝が刊行した三つの歴史書(三国志、魏略、廣志)では、
千数百年も前に伊都国は東南で確定だよ。

魏略の史料実態は、
「自己解釈に拠る書き変えが多い半分偽記載」の魏略逸文での記載であり、
廣志も、後代史書での引用の形であり、いずれも、
3世紀の同時代の「魏の役人らに拠る実地での見聞計測の記録」になっている魏志よりも、
史料価値や信頼性が落ちる文書である。

888日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:50:44.35
>>885
バツ
で?

貼り付けてみて

889日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:52:18.40
>>885
キウスだろ。馬鹿テンプレ読む奴いないからどうでもいいじゃん。

890日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:52:45.48
>>857
>投馬国も倭人の国だけど、女王国に含まれないかな。

投馬國も、女王国に含まれる、とする記載である。

>90度回転の放射説がスッキリするんだが。。。

魏の役人らの記載は順次式の記録であり、突然の90度回転説も放射説もバツである。

891日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:53:09.87
>>887
オメの虚偽満載レスより、万倍も億倍も信頼できるわ。

892日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:57:02.65
>>889
>キウスだろ。馬鹿テンプレ読む奴いないからどうでもいいじゃん。

逃げてたら九州説が負け

893日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:57:50.36
>>888
そうですね。単位が揃ってませんからハツですね、
それがわかればFAQ58の解答が可笑しいのに気付きますよ。
気付かなければ、類スレ主ですよ。

894日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:58:46.21
>>866
>畿内説では倭国の一国に入る

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
大和説も、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。

895日本@名無史さん2021/12/10(金) 17:59:56.33
>>892
馬鹿テンプレ。肝心の南→東を根拠も無く誤認で投げてるじゃん。

896日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:00:16.32
>>893
>それがわかればFAQ58の解答が可笑しいのに気付きますよ。

FAQ58の解答の、どこが可笑しいの?

897日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:00:23.52
名無しでも馬鹿さが十二分にバレている>>883

898日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:01:09.92
>>895
>馬鹿テンプレ。肝心の南→東を根拠も無く誤認で投げてるじゃん。

という証拠は?

899日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:02:03.38
古田というのは変人で、とにかく人と一緒はイヤだった。
だからあらゆるところで他と違う説を唱え、それがまた商業的にも成功してきた。

ところが不思議なことに、唐津から糸島・博多へ向かう行程だけは、
白鳥や、内藤や、原田や、ついには大天敵の安本とも歩調を合わせて仲良く北東へ向かった。
最大の岐路なのに、どうやらここだけは勇気がなかったんだろうね。

本当はここでも、「東南と書いてあるんだから、独りになってもオレは東南の佐賀平野へ向かうぞ、、、」
そして「短里だから、東南500里の伊都国は佐賀市大和町の川上であーる・・・」とのたまえば、
今頃は、正真正銘の「神」におなり遊ばされていたことであろう。
しかし、肝心要めの所で腰が引けて、
結局は大勢の行くほうへ引きずられてしまったところが、つまりは、ただの変人であったということだろう、南無!

900太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/10(金) 18:06:36.11
古田氏はいい線いってたな。1の数字は数学の基本で間違いはないな。
よくないのはあの津軽文書を擁護したことか?
同書に対してはアンポン氏のほうが正解じゃないかな。

901日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:07:16.17
もう昭和の人に頼るのはやめなさい
他のスレにもあったがビッグデータの時代だ

902日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:08:23.30
三国志でも東南だな。
老害「東南≠北東」でバツ

903日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:08:48.30
偽書とかそうでないという議論も
歪んだ史観で行われている場合が多いから信用できないので全て再調査の必要があるよね

904日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:08:57.98
>>900
人間一事が万事
姿勢の問題だから、いい線行ってたというのが錯覚だ

905日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:13:30.45
>>877
>>魏略と魏志はソースが同じ、広志はそこからのコピーなので独立事象ではない

>夫々に王朝の科挙監修者が居て、厳重に確認したうえで、王朝の責任で発刊するのだから大いに有効。
さらに、後世においても修正・校勘は入っていない。
千数百年の歴史の検閲を潜り抜けたからこその貴重な古典三書。
5チャンネルのオメのちり紙投稿と一緒くたにするな。

「夫々の後代王朝の科挙監修者」の監修や史料選択があった時点で、
それは「後代監修者の考えでの書き変え」文書になってしまうのであり、
魏志と100%同じものかどうか?は不明になってしまうもの。

906日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:15:56.97
>>892
テンプレなんか誰も読まないと言ってるんだから逃げるも何もないだろ

907日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:16:20.39
>>896
万二千里から万里引いたら二千里でしょ。残の二千里だけに魏里を使ったら可笑しいでしょ。
計算式も魏里で統一しないといけないよね。
すると北部九州から桜井市までの倭人伝の記述は答えの2千里だけ魏里を使ったらダメですよね。
つまり、スレ主の計算では1万里も魏里で統一すべきですよね。よって彼の計算では郡から北部九州州まで万里✖魏里で約4千キロも容認しなければいけなくなる。
北部九州から桜井市まで魏里を使ったらダメダメと言う事。

10mー7m=3cmはバツならわかるでしょう

908太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/10(金) 18:16:22.15
漢字のご本家の中国人がそんな所は間違いはない。
1元だって中国のコンビニで不足すれば客に店員が不足だと言ってくるぜ。
伝は女王国へ旅した話の直接に近い同国の話であって、重要な国名を
間違えるほど陳寿はまぬけでねえよ。w
いまも国名を間違えたらその国から相当抗議が来るぜ。
古田氏はまことに重要なところをつついたわけだ。

909日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:16:41.29
>>898
テンプレ

910日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:17:01.39
>>906
それが逃げ

911日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:18:11.25
>>910
あんなめんどくさいもん読むと思うのか?
現実が見えて無いな

912日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:18:59.95
>>907
>つまり、スレ主の計算では1万里も魏里で統一すべきですよね。よって彼の計算では郡から北部九州州まで万里✖魏里で約4千キロも容認しなければいけなくなる。

統一してて容認してるからテンプレ何も問題ないのです

913日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:20:27.12
>>908
氏?
ペテンだな。

914日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:20:59.99
>>874
>>夫々に王朝の科挙監修者が居て、厳重に確認したうえで、王朝の責任で発刊するのだから大いに有効。

>だから魏略とか廣志とか、そういう私的な著作物のどこに王朝の責任があるの?

そうなんですよね。
だから、後代学者らによる引用や監修本よりも、
99%以上の正確性を持っている写本版本の方が、信頼性や確率がはるかに高い。

915日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:21:49.40
ザラコクというのは変人で、とにかく人と一緒はイヤだった。
だからあらゆるところで他と違う説を唱え、それで小銭を稼いで、なんとか糊口をしのいできた。

ところが不思議なことに、唐津から糸島・博多へ向かう行程だけは、
白鳥や、内藤や、原田や、ついには大天敵の安本とも歩調を合わせて仲良く北東へ向かった。
最大の岐路なのに、どうやらここだけは勇気がなかったんだろうね。

本当はここでも、「東南と書いてあるんだから、オレ様ザラコクは独りになっても東南の佐賀平野へ向かうぞ、、、」
そして「短里だから、東南500里の伊都国は佐賀市大和町の川上であーる・・・」とのたまえば、
今頃は、正真正銘の「神」におなり遊ばされていたことであろう。
しかし、肝心要めの所で腰が引けて、
結局は大勢の行くほうへ引きずられてしまったザラコクは、つまりは、ただの変人だったということだろう、南無!

916日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:22:00.49
>>898
お忙しいようでWw

917日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:26:18.57
>>907
キウスさん
( 1万2千里ー1万里=2千里 )✖魏里と言う事だろ。テンプレは誰も相手にしてないよ。あんたが相手する分には構わないがね

918日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:28:28.33
>>911
それが逃げ

919日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:31:25.92
>>915
うーんそうかな
ザラコク氏の説明は最初東南に向かって後は草木深く前が見えないから案内人に従って糸島じゃなかったけ?
これなら賛成だけど、、、

920日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:32:12.73
>>916
テンプレに反論は無かったということ

921日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:33:04.86
>>918
読んで貰えなくて悔しいか。
強要しても無駄。個人の勝手。

922日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:33:32.70
キウスは反論って何だか知らなかったんだな
w

923日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:35:01.94
>>919
バツだな。
記載などないし、数回行っているから
聞くなり、確認はする。
まして、使者なんだから、迎えに行く。
老害だよ。

924日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:37:48.33
>>921
つまり九州説支持者が
「畿内説はこれを説明できない」と言ったら
ウソつきと決まるわけ
だって、相手の主張を見ないと宣言したんだから

925日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:38:43.62
>>912
そりゃー無理筋だよ、

926日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:38:46.64
毎度かんたんに論破されるキウス

927日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:39:21.06
>>876
>自女王國以北 .... 次有奴國 此女王境界所盡 これ、そう読めない?

伊都國の東南百里の奴國と、
「自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳」の中の奴國とは、
はっきり書き分けた形だから、別國。
しかし同名だから、おそらく同じ奴國人の、分離國の関係。

928日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:39:39.90
>>922
希薄が読めない人だから仕方ない

929日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:41:10.99
>>922

反論の定義の範疇ですよ。
相手の論に対して間違いを指摘すのも反論ですよ。

930日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:42:28.94
>>928
バレバレ奥山さん
名無しで一人ぼっちですよ。

931日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:43:14.06
>>877
>魏略には伊都国は戸万余と書いてあるが

魏略自体が、後代史書での逸文としての紹介であり、
「自己解釈に拠る書き変え」文である可能性が高いので、
信頼性も確率も低い。

932日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:45:06.44
その確率の根拠言えないでしょ?
そこがあなたの頭の悪いところ

933太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/10(金) 18:45:08.08
>>901
陳寿は昭和よりもっと前代だぜ。

934日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:45:25.66
>>917
その通りです。どう考えても可笑しいでしょ。わからないのは奥山さんだけ。

935日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:49:31.33
>>929
>反論の定義の範疇ですよ。

どういう定義?


>相手の論に対して間違いを指摘すのも反論ですよ。

相手の論だと証明できないものの間違いを指摘しても反論にはならない
例えば
「コロンブスは卵が立たないと主張したが、卵は立つ。だからコロンブスは間違ってる」
と言ったら、これは反論じゃないよね?
ただの中傷だ

936日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:50:48.24
>>934
>その通りです。どう考えても可笑しいでしょ。わからないのは奥山さんだけ。

でも、どこが可笑しいのか指摘できない
だから全員わからない

937日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:51:47.94
>>930
あんたが病気
病名は全1病

938日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:52:46.95
>>919
東南へ進めなんだから、
案内人に任せれば、当然のことながら正しき東南へ行くさ・・、

939日本@名無史さん2021/12/10(金) 18:54:03.18
>>934
>その通りです。どう考えても可笑しいでしょ。わからないのは奥山さんだけ。

どこが可笑しいの?

940日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:01:12.03
>>900
>古田氏はいい線いってたな。

有難う。

>1の数字は数学の基本で間違いはないな。
よくないのはあの津軽文書を擁護したことか?
同書に対してはアンポン氏のほうが正解じゃないかな

キミは、
安本らの筆跡鑑定対象が「娘の章子さんの清書の筆跡」であって、
喜八郎さんの筆跡ではなかった、という事も知らないようであり、
また、藤本原稿への「喜八郎さんの追記文」の筆跡が、
見るも無残な乱筆で下手な「跳ね字」であり、
末吉さんや長作さんらの筆跡とは全く違った筆跡であったから、
安本らの筆跡鑑定が完全に間違いであり、破綻していた、
という事も知らなかったようですね。

941日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:01:33.63
>>934
>その通りです。どう考えても可笑しいでしょ。わからないのは奥山さんだけ。

あんたは1のどんな主張が可笑しいと言ってるんだ?
1の言った言葉を書けよ
それが可笑しいと言うんだろ?

942日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:04:08.65
>>940
>安本らの筆跡鑑定対象が「娘の章子さんの清書の筆跡」であって、
>喜八郎さんの筆跡ではなかった、という事も知らないようであり、

そんな鑑定出てる?


>また、藤本原稿への「喜八郎さんの追記文」の筆跡が、
>見るも無残な乱筆で下手な「跳ね字」であり、
>末吉さんや長作さんらの筆跡とは全く違った筆跡であったから、

そんな鑑定出てる?

943日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:04:58.50
キウスまた自滅

944日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:07:32.57
偽書論は大体右翼がつけている難癖だから信用ができない

945日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:11:29.63
>>933
太国さん、他人の土俵で闘うと負けるよ、あんたの得意は記紀でしょ。
記紀で勝負した方が良いよ!

946日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:11:43.04
>>944
という言い訳が信用できない

947日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:13:52.14
>>946石見助

あんたのパロディーだから真似しなくてもいいよ

948日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:14:02.00
>>924
>つまり九州説支持者が「畿内説はこれを説明できない」と言ったら
ウソつきと決まるわけ
だって、相手の主張を見ないと宣言したんだから

つまり大和説支持者が
「畿内説はこれを説明できる」と言ったら、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
大和説者がウソつきと決まるわけ
だって、史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しを宣言したんだから

949日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:14:43.05
>>941
1のどんな主張?
ハア!
1テンプレの事なんですけど、、
読み返す癖をつけないと置いてきぼりにあうよ。
もしくは、黙っているかしないと、、

950日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:17:40.61
>>943
捨て台詞で終わる、奥山さんのいつものパターン
テンプレ親しい方2、3人にに見てもらった方が良いですよ。

友達いないのかな??

951日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:18:08.08
どうでもいい書き込みでまぜっ返すだけのお仕事

空き缶拾いより虚しいでしょもういいおじいちゃんなのに

952日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:21:12.09
>>949
>1のどんな主張?
>ハア!
>1テンプレの事なんですけど、、

1テンプレのどの主張に反論したのかな?

953日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:24:45.39
>>950
>捨て台詞で終わる、奥山さんのいつものパターン
>テンプレ親しい方2、3人にに見てもらった方が良いですよ。

またキウス逃げ回っちゃってる
どれが捨て台詞?
日本語の意味を知ってます?


あなたは1のどういう主張に反論してるの?

なんで言えないの?

954日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:27:08.93
1のどの主張に反論してるのか口が裂けても言えないってことは
キウスは1に何も反論してないってことだな
結論出たね

955日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:28:29.53
あのテンプレ 大概論破されちゃったでしょ?
誰が貼り付けてんの?無駄じゃんw

956日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:29:41.14
>>955
いつ、誰が何と言って?

957日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:30:40.67
>>955
何も反論しないと論破は出来ないぞ

958日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:33:27.71
論破って真実の発見のためには意味ないよ

暇つぶしか小遣い稼ぎにはいいかもな

959日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:34:30.03
>>958
何も言わないのはもっとダメ
そしてウソつくと即敗北

960日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:38:15.84
>>958
>論破って真実の発見のためには意味ないよ

それは嘘
消去法で真実に近づく

961日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:40:10.95
目の前の人を言い負かしても意味ないの
論争を聞いている人たちに納得させないと

だから混ぜっ返すだけのアホおじいちゃんは読み飛ばされるだけw

962日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:42:39.66
>>960

おじいちゃん向けに史談会みたいのやって目先を取り繕ってみても
ビッグデータの前に全てが顕現しちゃう時代がそこまで来てるんだよね

963日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:43:54.60
>>961
つまり、またキウスが論破されたことは衆目に明らか
ご愁傷様

964日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:46:29.43
>>962
もう来てて九州説が負けて死んでた

965日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:48:08.62
>>961
九州説の負け犬が遠吠えた

966日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:54:01.64
キウスは論破されると黙り込むから分かりやすい
そして往々にしてそのタイミングで無名の荒らしが入る

967日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:58:04.55
>>961
>だから混ぜっ返すだけのアホおじいちゃんは読み飛ばされるだけw

その典型がザラコク

968日本@名無史さん2021/12/10(金) 19:59:20.72
九州ってって末路が悲惨だな

969日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:17:50.76
>>931
何の為に書き換えるのよ
無茶苦茶だな

970日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:19:31.11
>>941
あんなの読まないし勝手に無視して進めますから

971日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:22:05.30
>>970
それは逃げ

972日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:22:56.02
>>944
>偽書論は大体右翼がつけている難癖だから信用ができない

有難うございます。

973日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:23:33.40
スレ主も九州説の連中も変な奴らだな
ここに居ると阿波が真面に見えるわ

974日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:24:46.97
>>972
反論出来なくなると逃げて見ないフリする敗者パターン

975日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:25:20.66
>>973
>スレ主も九州説の連中も変な奴らだな
>ここに居ると阿波が真面に見えるわ

何が変?

976日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:26:38.02
>>971
あんな長いの読まないって
しかも個人の想像や憶測なんだし読んでも退屈だ

977日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:26:40.25
>>964
もう来てて、大和説が負けて、死んでた

978日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:27:23.78
>>970
>あんなの読まないし勝手に無視して進めますから

結局キウスが1を論破したと吹聴してたのは
すべて嘘だった訳だが

979日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:28:28.48
>>977

これが
>だから混ぜっ返すだけのアホおじいちゃんは読み飛ばされるだけw

の典型

980日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:28:55.54
>>975
まずスレ主はあんなテンプレを読んでもらえると思う方がおかしい
九州説の連中もスレ主なんか構ってないで勝手に話し進めりゃ良いじゃん

981日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:29:36.06
>>965
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺の大和説の負け犬が、
遠吠えた

982日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:32:07.74
>>968
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
オレオレ詐欺の大和説者らって、
末路が悲惨だな

983日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:33:39.86
>>976
>あんな長いの読まないって
>しかも個人の想像や憶測なんだし読んでも退屈だ

つまり
読んでもいないで
「個人の想像や憶測なんだ」
と嘘の中傷をして皆に読まないよう呼びかけるのは
テンプレに論破されてグウの音も出ないと
認めているということ

984日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:34:24.29
>>983
わかってるんだったら卑弥呼の遺骨掘り起こして来い

985日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:35:22.01
>>974
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの議論で、
反論出来なくなると、逃げて見ないフリする敗者大和説者らのパターン

986太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/10(金) 20:35:42.98
>>982
ほぼ同意。
南下を東行にハンドル切る者は盲象につき進む。

987日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:39:23.36
>>979
これが
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの議論に負けて、
だから、混ぜっ返すだけのアホ大和説学者らが、
読み飛ばされるだけの典型

988日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:42:20.60
>>987
それ、あなただから
何も具体的な反論してないでしょ?

989日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:45:29.13
>>988みたいなのはレスしても養分与えるようなものだからスルーしてもいいよ

990日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:48:41.17
>>983
>>あんな長いの読まないって しかも個人の想像や憶測なんだし読んでも退屈だ

>つまり読んでもいないで「個人の想像や憶測なんだ」と嘘の中傷をして
皆に読まないよう呼びかけるのは テンプレに論破されてグウの音も出ないと
認めているということ

2ch時代に、初めてこのスレを見た頃の、Part175〜Part200頃に、
2回余り、全テンプレに逐一反論を書いたけど、
スレ主からは、論破されてグウの音も出なかったのか?、
何の反応も反論もなかったよ。

991日本@名無史さん2021/12/10(金) 20:52:34.16
テンプレはほとんど論破されてるでしょ

よく見ると全部 という可能性もありうるで
蓋然性が低すぎて論とも言えない物ばかりでしょ

3年くらい前は大阪のアホ郷土史家が強力な論理性とか言って騙されてたけど
もうそんな人もいない

992日本@名無史さん2021/12/10(金) 21:01:39.28
>>989
>>988みたいなのはレスしても養分与えるようなものだからスルーしてもいいよ

賛成です。
>>988は、
スレ主であるのか?は知らんけど、おそらく東大理系博士号自称男であり、
仏教学校?での「何故?理由は?根拠は?」の、無限応酬のオレオレ詐欺議論男であり、
少し、皇国史観の狂暴な極右の街宣車のような人物であり、
身の危険がありますから、出来るだけ放置しておいた方がいいでしょう。

993日本@名無史さん2021/12/10(金) 21:24:06.81
>>991
>テンプレはほとんど論破されてるでしょ

どの主張を
なんと言って論破した?
嘘ついてもバレるよ

994日本@名無史さん2021/12/10(金) 21:29:42.73
ウルトラ低知能キウスの必敗パターン

1 能力的に無理で。テンプレに全く反論できない
2 そこで一計を案じて、1が全く主張してないニセ畿内説を自作する
   ex.着ない説は短里も使う
3 「1を論破したぞー」と叫ぶ
4 1の何を論破したかは必死で隠す
5 追求されて仕方なく2で作ったニセ畿内説を唱える
6 「それって1が言ってるの?」と聞かれる
7 言ってないので沈黙して逃げる
8 悔しくて無名で荒らす

馬鹿ですねー

995日本@名無史さん2021/12/10(金) 21:30:58.38
二年くらい前は騙されて「畿内説の強力な論理性」とか言ってた人までいたw

996日本@名無史さん2021/12/10(金) 21:34:57.96
あんまり文献とか読んでない人がこじつけたように見えるけど
一応反論つぶしとかも考えた上で破綻してるから
あれが畿内説の限界でしょう
箸墓古墳は近畿説瓦解ののモニュメントとも言える

997日本@名無史さん2021/12/10(金) 21:52:02.43
>>996
また具体的な指摘が一切できてない事実によって
九州説の崩壊ぶりが良くわかる

998日本@名無史さん2021/12/10(金) 21:56:02.26
>>990
>2回余り、全テンプレに逐一反論を書いたけど、
>スレ主からは、論破されてグウの音も出なかったのか?、

このように
証拠の出せないことばかり主張するのが九州説
滅びるはずだよ

999日本@名無史さん2021/12/10(金) 22:12:59.03
>>997
また「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の指摘に対して、
具体的な反論が一切できてない事実によって
大和説の崩壊ぶりが良くわかる

1000太国 ◆ZgyHKik.H2 2021/12/10(金) 22:19:24.58
阿蘇噴火で古墳等は無に帰すから、九州説はおかしくない。
東ハンドル切りが最もイカレタ選択。


lud20211219181951ca
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